【孝明天皇考】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、孝明天皇の履歴について確認しておく。 2006.2.14日 れんだいこ拝 |
【孝明(こうめい)天皇概略履歴】 | |||||||||||||
「孝明天皇陛下の遺志(真面目にこの遺志を受け継いでいる人は、今、現在いるだろうか」その他を参照する。 | |||||||||||||
1831(天保2).6.14(7.22)日〜1866(慶応2).12.25(67.1.30)日。第121代天皇。在位は、1846(弘化3).2.13日(3.10日)−1866(慶応2).12.25日。諱は統仁(おさひと)。幼称は煕宮(ひろのみや)。在位中の将軍は、12代徳川家慶、13代徳川家定、14代徳川家茂、15代徳川慶喜。 | |||||||||||||
1831(天保2).6.14(7.22)日、仁孝天皇の第4皇子として誕生する。 幼称は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)親王)、雅号は花春、此春。母は、新待賢門院正親町(権典侍)藤原雅子。1840年、10歳の時、立太子。傳役(養育係)は近衛家27代当主/近衛忠煕(このえただひろ)が就いている。 1835(天保6)年、親王宣下により統仁親王となり、1840(天保10)年、立太子の儀が行われ皇太子となる。 1846(弘化3).2.13(3.10)日、父・仁孝天皇の崩御により第123代目の皇位につく。1847(弘化4)年、即位(16歳)。在位中の元号は、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応。皇后は、九条夙子。皇妃として中山慶子、藤原伸子、藤原紀子。皇子女: 順子内親王、皇子某、睦仁親王(明治天皇)、皇女某。 父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の子弟の教育機関ないしは公家の学問所である学習院を創立した。 内治外交の多難な時期で難問題が続発した。米・英・仏・露の艦隊が相次いで来航し、西欧諸国が虎視眈々と我が国をうかがっているさなか、この天皇は迫り来る外国の脅威に 対して強い怖れと拒絶反応を示した。徳川幕府に海防と軍艦築造を勅命し、終始攘夷を主張した。 1853(嘉永6).6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる四隻の黒船が、浦賀に来航し、対日戦争をも辞さずとの恫喝的言辞を以て幕府に開国要求を付き付けた。この瞬間から、日本は、「西欧列強による植民地化問題」に直面させられていくことになった。この未曾有の国難に対して、攘夷論が全国に澎湃(ほうはい)として沸き起った。 幕府は前年に、「ペリーが来日し、開国要求を突きつける」旨の、オランダからの秘密報告書を受け取っており、ペリー来航は承知のことであった。いざ現実となるも為すすべをもたなかった。幕府から朝廷にはこの動きは報告されなかったが、水戸藩主・徳川斉昭から、関白・鷹司政通(開国派)に情報が伝達されていた。 孝明天皇は、1854年に改元して「安政元年」とし、自ら神社に「国家安泰」を祈り、全国の寺社に使者を派遣して祈祷させた。次のように記されている。
吉田松陰は、次のように書き残している。
翌1854年、ペリーが軍艦7隻を率いて神奈川沖にやってくる。これらの外交交渉を通じて、幕府はアメリカの国旗に倣い、日の丸を国旗として掲揚した。幕府は3.3日、日米和親条約(神奈川条約)に調印し、5月には下田で和親条約の付録(下田条約)に調印し、その後相次いでイギリス、ロシアと和親条約を締結する。 この時も朝廷は、幕府の判断を事後承認し、天皇は伊勢神宮以下畿内22社と伊雑(いさわ)宮以下畿外11社、東照宮、賀茂社、石清水八幡宮など「神々を総動員」して祈願した。 この年の7月、ロシア使節プチャーチンの乗る軍艦が、大坂に突然姿を現した。 「天皇制 (NO.208,1999/8/1) 」は次のように記している。
時局御軫念の勅書いわゆる文久二年五月十一日付けの「時局御軫念の御述懐一帖」、将軍徳川家茂に下された元治元年正月二十一日付けの「徳川家茂に賜はれる勅書」が残されており、検証すると「時局御軫念の御述懐一帖」は次のような文面であった。
1857年、イギリスがイン ドのムガール帝国を滅亡させ、中国が広州を占領して半植民地化した。アメリカ総領事のハリスは、これら海外の情報を元に圧力をかけ、アメリカ有利の条約締結を迫った。これに対して幕府は腰くだけとなってしまうが、孝明天皇は断固拒否を主張し 幕府にもそれを求める。「私の代で異人が我が国土へ足を踏み入れる事は皇祖に対して申し訳が立たぬ」との立場から、幕府の申し出を却下した。朝廷の強硬な対応に苦慮した幕府は、諸大名合議という形式を取り付け、勅許を得ぬままの日米修好通商条約締結の断を下した。 1858(安政5)年、大老の井伊直弼が日米修好通商条約に調印する。孝明天皇は激怒し、日本通商条約の勅許を拒み、これに反対して2度にわたって譲位を表明した。幕府側の「アメリカとの条約締結は、武備を整えいずれ外国を追い払うまでの一時的措置」との釈明により、結局思い留まり、幕府へ攘夷を促し続けていくことになった。 この頃、14代将軍の座を廻って、紀州の慶福(後の家茂)と水戸の慶喜が争う形となった。これを将軍継嗣問題と云う。井伊大老は、紀州の慶福を推した。これらが重なり、安政の大獄が始まった。井伊大老はその後、桜田門外で暗殺された。 一方、安藤信正の公武合体論を容れて公武合体論者に転換し、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王との縁談が決まっていた皇妹和宮の将軍家茂への降嫁に同意した。孝明天皇と第14代将軍家茂とは皇女和宮を通して、「義兄弟」となった。この頃から、過激な尊攘運動にを警戒する立場をとるようになった。 他方、尊王攘夷論はますます台頭し始め、長州が朝廷を巻き込む形で連携し始めた。朝廷内の公卿は孝明天皇派と三条実美、岩倉具視ら倒幕派の公卿が対立し始めた。この間、将軍家茂は、孝明天皇の身命を擲った驚くべき御覚悟に打たれ、幕藩体制のパラダイム(旧枠)を乗り越えて、天皇と直結する新結束を打ち出していった。これは、「上からの幕末維新」として着目されるべきであろう。 1862(文久2).5.11日、「時局御軫念御述懷の勅書」を発布している。これについては「孝明天皇御文考」に記す。 同10月から12月にかけて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、天皇に忠誠を誓った(「孝明天皇紀」)。大政奉還の5年前のことであり、天皇親政の先駆けとなった。 同12月、将軍家茂は書を孝明天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪した。 同12月、孝明天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問した。 1862(文久2)年から翌年にかけての尊攘運動が高まる。文久3.2月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。「非蔵人日記」には次のやうにある(書き下し文に改めた)。
孝明天皇は、驚くべき指導力を発揮し、上は将軍から下は民間志士に至るまで、日本への外国勢力浸透を阻止せんとその第一線に立ち続けた。文久3.3月、家茂が、實に230年ぶりに上洛(入京)し、君臣の名分を正して天皇に帰順した。上下両加茂神社、石清水八幡宮への攘夷祈願幸行が執り行われる。朝廷の攘夷派は、この行幸を機会に、「攘夷決行は5.10日」と将軍家茂に期限を定める言質をとり、これにより西国で馬関戦争や薩英戦争が勃発した。 この間、孝明天皇は、京都守護職であった会津藩主松平容保を深く信任し始め、尊皇佐幕姿勢を強めていった。 当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていた。彼らは長州と 結び、外国に門戸を開けてしまった幕府を倒して天皇の親政を実現すべきだと企図していた。 1863(文久3).8月の大和行幸を機とする討幕挙兵の計画が漏洩した。孝明天皇はこれに苦慮し、中川宮に密かに指令を出してクーデターを決行した。8.18日深夜1時、中川宮、近衛忠熈、二条斉敬、松平容保、稲葉正邦らが密かに参内、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護された。御前会議が開かれ、攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決された。異変に気づいた三条実美らが駆けつけたが中に入ることはできず、長州兵も堺町門へ急いだが会津藩の兵とにらみ合いになったまま近寄ることができなかった。 攘夷急進派はやむを得ずいったん長州へ退いて再起を期すことになった。8.19日、三条実美ら七人の公家が長州へと下った(七卿都落ち)。このあと朝廷には徳川慶喜・松平春嶽・島津久光・山内豊重・伊達宗城・松平容保が集まって参頂会議を開き、公武合体派が朝廷の支配権を確立した。こうして、孝明天皇は、薩摩・会津藩の後押しを得て「8.18日の政変」で朝廷内の尊攘倒幕派を追放し、これにより一時、公武合体派が盛り返した。 1864年の長州藩の京都出兵を薩摩・会津の兵を用いて斥け(「禁門の変」)、公武合体派の面目を保った。「天皇制 (NO.208,1999/8/1) 」は次のように記している。
1865年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た英米仏蘭の四国代表団を乗せた連合艦隊が大坂湾に来航し、天皇に条約の勅許を要求する。孝明天皇は、強烈な軍事威嚇のデモンストレーションを目の当たりにするにおよび天皇も事態の深刻さを悟り、「万人仰天」といわれた幕府の通商条約を承認してしまう。こうして、安政条約の勅許が出される事となった。だが、この年には西洋医学の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかった。この一連の政治過程により、天皇が幕末政治史に持っていた主導性が、孝明天皇と朝廷の権威は急速に崩落した。 1866.1月、坂本龍馬、中岡慎太郎らの斡旋で抗幕の「薩長同盟」の密約がかわされ、江戸時代の政治体制を変革しようとする倒幕の動きはいや増していた。 1866.8月、「公武合体」により幕府との協調を深めていった孝明天皇に、朝廷内部から「御立派に御孤立の要求」がだされ、岩倉具視を黒幕とする「公家の一揆」が決行される。孝明天皇は、これを処罰した。 1866年(慶応1)12.5日、徳川慶喜に第15代将軍を宣下。その1週間後の12.10日頃より疱瘡を発病し、快方にむかっているときの12.25日(新暦1.30日)、急逝崩御した(享年36歳)。天皇は幕末維新のまっただ中を生きて死んだ。 孝明天皇の死の直後から「毒殺説」が囁かれた。あまりにも急な且つ快方にむかっているときの崩御のため倒幕派による毒殺の嫌疑もかけられた。公武合体論の天皇の急逝後、岩倉具視らの討幕派の公卿勢力が急速に高まったために、岩倉具視派により毒殺が噂されることになった。これについては、「孝明天皇暗殺考」で確認する。 平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮祭神。陵墓は東山区、泉涌寺の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ:京都府京都市東山区今熊野泉山町)。 死後、孝明天皇と漢風諡号が贈られた。 次のような御製が遺されている。
|
|||||||||||||
参考HP 「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?- |
太田龍・氏の「時事寸評」の2003.9.2日付「孝明天皇の攘夷の詔勅の精神の復活」( http://www.pavc.ne.jp/~ryu/)は次のように記している。これを転載しておく。
|
【孝明天皇の系譜】 |
「系譜」参照ないし転載。孝明天皇の父は、第120代.仁孝天皇。母は、藤原(正親町)正子。(後に藤原(鷹司) 祺子皇太后の養子となった。) |
【孝明天皇の兄弟姉妹】 |
孝明天皇には異母兄弟が多数いたが、夭折した方々が多く、皇女和宮が将軍家に輿入れする時には、和宮を入れて、わずか3名(孝明天皇、淑子内親王、親子内親王=和宮)になっていた。 1866(慶応2).7.20日、第14代将軍家茂が20歳の若さで死亡したため、和宮には子供はいない。(その後、和宮は薙髪(ちはつ)して静観院宮と称した。) 淑子内親王は、第五代閑院宮愛仁親王と婚約していたが、婚約者が死去。記録では、その後、結婚し子供をもうけた記述は見当らない(猶子を除く)。 第13代徳川家定の妻は、薩摩藩藩主・島津斉彬の叔父の娘で、斉彬の養女として家定に嫁がされた天璋院篤子(1835〜1883)である。14代将軍の正室和宮とは10歳しか違わない。結婚後、わずか1年7ヶ月で家定は、35歳の若さで病死している。嫁となった、和宮とは10歳しか違わない。暗愚といわれた家定と違い、篤子はしっかりものであったという。ちなみに篤子は、一橋慶喜を嫌っていたとも言われているが、幕府が薩長軍によって敗北色が濃くなると、実家である島津家と徳川家のパイプ役になったそうだ。 |
(以下、転載しておく) 母 <皇后>:藤原(鷹司) 繁子 →安仁親王(1820〜1821)).皇女(1823翌日夭折) <皇后>:藤原(鷹司) 祺子 →皇女.女二宮(1829〜1831).孝明天皇(養子) <女院>:藤原(正親町) 雅子 →皇子鎔宮.のりみや(1825〜1827).統仁(孝明天皇;在位(1846〜1866).皇子幹宮.もとみや(1833〜1836).皇女恭宮ゆきみや(1837〜1838).(猶子)浩宮・喜久宮 <典侍>:藤原(甘露寺) 妍子 →皇女成宮(1825〜1826).淑子内親王(1829〜1881).皇子三宮(1830〜1831).皇女総宮(1832〜1833)皇女経宮(1836〜1836).(猶子)尊応入道親王(後の久邇宮朝彦親王) <典侍>:藤原(橋本) 経子 →皇子胤宮(1844〜1845).親子内親王(和宮、江戸14代将軍・徳川家茂室.1846〜1877) <典侍>:藤原(中山) 績子 →(猶子) 純仁入道親王(後の小松宮彰仁親王)・公現入道親王(後の北白川宮能久親王) <掌侍>:藤原(今城) たつ子 →皇子(1832.即日夭折) 【孝明天皇の皇子】 母 <皇太后>:九条 夙子 →順子内親王(1850〜1852).皇女≪富貴宮≫(1858〜1859).「実子」としての養子)明治天皇 (生母・中山慶子) <典侍>:中山 慶子 →睦仁(1852〜1912:明治天皇;在位1867〜1912) <典侍>:坊城 伸子 →皇子(1850即日夭折) <掌侍>:堀河 紀子 →皇女寿万宮(1859〜1861).皇女理宮(1861〜1862) <掌侍>:今城 重子 →子供なし |
【孝明天皇の妻、側室】 |
【中山慶子:1835〜1907】 父:中山忠能 母:園愛子 1851年(17歳)孝明天皇に入侍 1852年(18歳)中山邸で祐宮(明治天皇)を出産 1866年(32歳)孝明天皇、36歳で没、明治天皇即位 1868年(34歳)従三位.三位局の称と食禄500石と屋敷地を賜る 1870年(36歳)東京に転居、従二位を賜る 1979年(45歳)嘉仁親王(大正天皇)の養育係となる 1907年(73歳)青山の屋敷にて死去 【堀河紀子:1837〜1910】 父:権中納言 堀河康親 母:さじ 異母兄弟:岩倉具視 1852年(16歳)孝明天皇に入侍 1862年(26歳)宮中を退下 1863年(27歳)束髪を命じられ、霊鑑寺に退去 1866年(32歳)孝明天皇没、明治天皇即位 1968年(34歳)処分を解かれ、掌侍隠居に復帰 1910年(74歳)死去 ※公武合体派として攘夷派から排斥を受けた。今城重子・岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直とともに四奸二嬪と呼ばれた。 |
【孝明天皇のお子達(皇子、皇女)】 | ||||||||||||
「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」は、孝明天皇のお子達(皇子、皇女)について次のように記している。これによると、祐宮(睦仁親王)の同胞は次に見るようにすべて夭折している。
|