【孝明天皇考】



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).6.14日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、孝明天皇の履歴について確認しておく。

 2006.2.14日 れんだいこ拝


【孝明(こうめい)天皇概略履歴】
 「孝明天皇陛下の遺志(真面目にこの遺志を受け継いでいる人は、今、現在いるだろうか」その他を参照する。
 1831(天保2).6.14(7.22)日〜1866(慶応2).12.25(67.1.30)日。第121代天皇。在位は、1846(弘化3).2.13日(3.10日)−1866(慶応2).12.25日。諱は統仁(おさひと)。幼称は煕宮(ひろのみや)。在位中の将軍は、12代徳川家慶、13代徳川家定、14代徳川家茂、15代徳川慶喜。

 1831(天保2).6.14(7.22)日、仁孝天皇の第4皇子として誕生する。 幼称は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)親王)、雅号は花春、此春。母は、新待賢門院正親町(権典侍)藤原雅子。1840年、10歳の時、立太子。傳役(養育係)は近衛家27代当主/近衛忠煕(このえただひろ)が就いている。

 1835(天保6)年、親王宣下により統仁親王となり、1840(天保10)年、立太子の儀が行われ皇太子となる。

 1846(弘化3).2.13(3.10)日、父・仁孝天皇の崩御により第123代目の皇位につく。1847(弘化4)年、即位(16歳)。在位中の元号は、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応。皇后は、九条夙子。皇妃として中山慶子、藤原伸子、藤原紀子。皇子女: 順子内親王、皇子某、睦仁親王(明治天皇)、皇女某。

 父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の子弟の教育機関ないしは公家の学問所である学習院を創立した。

 内治外交の多難な時期で難問題が続発した。米・英・仏・露の艦隊が相次いで来航し、西欧諸国が虎視眈々と我が国をうかがっているさなか、この天皇は迫り来る外国の脅威に 対して強い怖れと拒絶反応を示した。徳川幕府に海防と軍艦築造を勅命し、終始攘夷を主張した。

 1853(嘉永6).6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる四隻の黒船が、浦賀に来航し、対日戦争をも辞さずとの恫喝的言辞を以て幕府に開国要求を付き付けた。この瞬間から、日本は、「西欧列強による植民地化問題」に直面させられていくことになった。この未曾有の国難に対して、攘夷論が全国に澎湃(ほうはい)として沸き起った。

 幕府は前年に、「ペリーが来日し、開国要求を突きつける」旨の、オランダからの秘密報告書を受け取っており、ペリー来航は承知のことであった。いざ現実となるも為すすべをもたなかった。幕府から朝廷にはこの動きは報告されなかったが、水戸藩主・徳川斉昭から、関白・鷹司政通(開国派)に情報が伝達されていた。

 孝明天皇は、1854年に改元して「安政元年」とし、自ら神社に「国家安泰」を祈り、全国の寺社に使者を派遣して祈祷させた。次のように記されている。
 「孝明天皇は、インドの運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きた。幕末政局の中心にあって一意専心、肝胆これ砕かれた」。

 吉田松陰は、次のように書き残している。
 「墨夷(ぼくい、ペリーのこと)来航以来は、毎朝寅の刻(午前4時)より斎戒ましまし、敵国せっ伏(恐れ従わす)、万民安穏御祈願遊ばされ、かつ供御(くご、食事のこと)も両度のほか、召し上がられず候」。

 翌1854年、ペリーが軍艦7隻を率いて神奈川沖にやってくる。これらの外交交渉を通じて、幕府はアメリカの国旗に倣い、日の丸を国旗として掲揚した。幕府は3.3日、日米和親条約(神奈川条約)に調印し、5月には下田で和親条約の付録(下田条約)に調印し、その後相次いでイギリス、ロシアと和親条約を締結する。

 この時も朝廷は、幕府の判断を事後承認し、天皇は伊勢神宮以下畿内22社と伊雑(いさわ)宮以下畿外11社、東照宮、賀茂社、石清水八幡宮など「神々を総動員」して祈願した。

 この年の7月、ロシア使節プチャーチンの乗る軍艦が、大坂に突然姿を現した。 「天皇制 (NO.208,1999/8/1) 」は次のように記している。

 「朝廷内は大騒動になり、密かに彦根城への「遷都」の用意をすすめた。実際には「遷都」にはいたらなかったが、ここから先、政治情勢は急速に流動化していく。朝廷勢力は「鎖国」すなわち「攘夷」を主張しながら、倒幕のエネルギーを吸収していった。一方、幕府勢力は欧米列強との軍事的衝突回避のためには「開国やむなし」と主張し、幕藩体制の建て直しに懸命になる。しかし、それぞれの側の内部も常に流動的であった」。

 時局御軫念の勅書いわゆる文久二年五月十一日付けの「時局御軫念の御述懐一帖」、将軍徳川家茂に下された元治元年正月二十一日付けの「徳川家茂に賜はれる勅書」が残されており、検証すると「時局御軫念の御述懐一帖」は次のような文面であった。

 「惟(思う)に因循姑息、旧套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内(国内)疲弊の極(結果)、卒(つい)には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度(インド)の覆轍(二の舞)を踏まば、朕実に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従い、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕実に断然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ」(「歴代詔勅全集」第4巻所収)。
 「…然りと雖も無謀の征夷は、実に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は万民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり」(「歴代詔勅全集」第4巻所収)。

 1857年、イギリスがイン ドのムガール帝国を滅亡させ、中国が広州を占領して半植民地化した。アメリカ総領事のハリスは、これら海外の情報を元に圧力をかけ、アメリカ有利の条約締結を迫った。これに対して幕府は腰くだけとなってしまうが、孝明天皇は断固拒否を主張し 幕府にもそれを求める。「私の代で異人が我が国土へ足を踏み入れる事は皇祖に対して申し訳が立たぬ」との立場から、幕府の申し出を却下した。朝廷の強硬な対応に苦慮した幕府は、諸大名合議という形式を取り付け、勅許を得ぬままの日米修好通商条約締結の断を下した。

 1858(安政5)年、大老の井伊直弼が日米修好通商条約に調印する。孝明天皇は激怒し、日本通商条約の勅許を拒み、これに反対して2度にわたって譲位を表明した。幕府側の「アメリカとの条約締結は、武備を整えいずれ外国を追い払うまでの一時的措置」との釈明により、結局思い留まり、幕府へ攘夷を促し続けていくことになった。

 この頃、14代将軍の座を廻って、紀州の慶福(後の家茂)と水戸の慶喜が争う形となった。これを将軍継嗣問題と云う。井伊大老は、紀州の慶福を推した。これらが重なり、安政の大獄が始まった。井伊大老はその後、桜田門外で暗殺された。

 一方、安藤信正の公武合体論を容れて公武合体論者に転換し、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王との縁談が決まっていた皇妹和宮の将軍家茂への降嫁に同意した。孝明天皇と第14代将軍家茂とは皇女和宮を通して、「義兄弟」となった。この頃から、過激な尊攘運動にを警戒する立場をとるようになった。

 他方、尊王攘夷論はますます台頭し始め、長州が朝廷を巻き込む形で連携し始めた。朝廷内の公卿は孝明天皇派と三条実美、岩倉具視ら倒幕派の公卿が対立し始めた。この間、将軍家茂は、孝明天皇の身命を擲った驚くべき御覚悟に打たれ、幕藩体制のパラダイム(旧枠)を乗り越えて、天皇と直結する新結束を打ち出していった。これは、「上からの幕末維新」として着目されるべきであろう。

 1862(文久2).5.11日、「時局御軫念御述懷の勅書」を発布している。これについては「孝明天皇御文考」に記す。

 同10月から12月にかけて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、天皇に忠誠を誓った(「孝明天皇紀」)。大政奉還の5年前のことであり、天皇親政の先駆けとなった。

 同12月、将軍家茂は書を孝明天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪した。

 同12月、孝明天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問した。

 1862(文久2)年から翌年にかけての尊攘運動が高まる。文久3.2月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。「非蔵人日記」には次のやうにある(書き下し文に改めた)。
 「…先年來有志の輩、誠忠報國の純忠を以て周旋致し候儀、叡感[天皇の思召]斜めならず[一方(ひとかた)でなく]候、之に依って猶(なほ)又言路[意見具陳の方途]を洞開し[新たに開き]、草莽微賤の言と雖も叡聞に達し[天皇のお耳に入れ]、忠告至當の論は淪没壅塞(りんぼつようそく)せざる様[埋没して表に出ないことのないやう]との深重の思召に候間[ので]、各韜[包み隠さず]忠言は學習院へ參上(参上)し、御用掛の人々へ揚言[言上]すべく仰せ出され候間、亂雑[混乱]の儀これ無き様相心得、申し出され候べき事」(『孝明天皇紀』第四巻)。

 孝明天皇は、驚くべき指導力を発揮し、上は将軍から下は民間志士に至るまで、日本への外国勢力浸透を阻止せんとその第一線に立ち続けた。文久3.3月、家茂が、實に230年ぶりに上洛(入京)し、君臣の名分を正して天皇に帰順した。上下両加茂神社、石清水八幡宮への攘夷祈願幸行が執り行われる。朝廷の攘夷派は、この行幸を機会に、「攘夷決行は5.10日」と将軍家茂に期限を定める言質をとり、これにより西国で馬関戦争や薩英戦争が勃発した。

 この間、孝明天皇は、京都守護職であった会津藩主松平容保を深く信任し始め、尊皇佐幕姿勢を強めていった。

 当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていた。彼らは長州と 結び、外国に門戸を開けてしまった幕府を倒して天皇の親政を実現すべきだと企図していた。

 1863(文久3).8月の大和行幸を機とする討幕挙兵の計画が漏洩した。孝明天皇はこれに苦慮し、中川宮に密かに指令を出してクーデターを決行した。8.18日深夜1時、中川宮、近衛忠熈、二条斉敬、松平容保、稲葉正邦らが密かに参内、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護された。御前会議が開かれ、攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決された。異変に気づいた三条実美らが駆けつけたが中に入ることはできず、長州兵も堺町門へ急いだが会津藩の兵とにらみ合いになったまま近寄ることができなかった。

  攘夷急進派はやむを得ずいったん長州へ退いて再起を期すことになった。8.19日、三条実美ら七人の公家が長州へと下った(七卿都落ち)。このあと朝廷には徳川慶喜・松平春嶽・島津久光・山内豊重・伊達宗城・松平容保が集まって参頂会議を開き、公武合体派が朝廷の支配権を確立した。こうして、孝明天皇は、薩摩・会津藩の後押しを得て「8.18日の政変」で朝廷内の尊攘倒幕派を追放し、これにより一時、公武合体派が盛り返した。

 1864年の長州藩の京都出兵を薩摩・会津の兵を用いて斥け(「禁門の変」)、公武合体派の面目を保った。「天皇制 (NO.208,1999/8/1) 」は次のように記している。
 「クーデターと逆襲というシーソーゲームを通して、それぞれの内部での思想が純化されていった。当然、激変する政治情勢への対応の誤りから、それぞれ多くの有為な人材の命を奪っていった。めまぐるしいつばぜり合いを経ながら、次第にその力関係が拮抗し、やがて逆転していく。しかし、孝明天皇自らが鮮明な「攘夷」の旗幟を掲げて育てた「下威」(身分が低い)の尊皇攘夷派志士と、同派のやはり「下威」の公家が圧倒的な力を蓄えるに至る。これによって、天皇の意向がまったく通らないという末期症状を招くことになる。天皇は「8・18政変」で彼らを弾圧し、自ら「攘夷」に疑念を表明してしまうまでに追いつめられる」。

 1865年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た英米仏蘭の四国代表団を乗せた連合艦隊が大坂湾に来航し、天皇に条約の勅許を要求する。孝明天皇は、強烈な軍事威嚇のデモンストレーションを目の当たりにするにおよび天皇も事態の深刻さを悟り、「万人仰天」といわれた幕府の通商条約を承認してしまう。こうして、安政条約の勅許が出される事となった。だが、この年には西洋医学の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかった。この一連の政治過程により、天皇が幕末政治史に持っていた主導性が、孝明天皇と朝廷の権威は急速に崩落した。

 1866.1月、坂本龍馬、中岡慎太郎らの斡旋で抗幕の「薩長同盟」の密約がかわされ、江戸時代の政治体制を変革しようとする倒幕の動きはいや増していた。

 1866.8月、「公武合体」により幕府との協調を深めていった孝明天皇に、朝廷内部から「御立派に御孤立の要求」がだされ、岩倉具視を黒幕とする「公家の一揆」が決行される。孝明天皇は、これを処罰した。

 1866年(慶応1)12.5日、徳川慶喜に第15代将軍を宣下。その1週間後の12.10日頃より疱瘡を発病し、快方にむかっているときの12.25日(新暦1.30日)、急逝崩御した(享年36歳)。天皇は幕末維新のまっただ中を生きて死んだ。

 孝明天皇の死の直後から「毒殺説」が囁かれた。あまりにも急な且つ快方にむかっているときの崩御のため倒幕派による毒殺の嫌疑もかけられた。公武合体論の天皇の急逝後、岩倉具視らの討幕派の公卿勢力が急速に高まったために、岩倉具視派により毒殺が噂されることになった。これについては、「孝明天皇暗殺考」で確認する。

 平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮祭神。陵墓は東山区、泉涌寺の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ:京都府京都市東山区今熊野泉山町)。 死後、孝明天皇と漢風諡号が贈られた。

 次のような御製が遺されている。
 「あさゆふに 民やすかれと思ふ 身のこころにかかる 異国(とつくに)の船」(孝明天皇御製・安政元年)
 「澄ましえぬ 水にわが身は沈むとも にごしはせじな よろづ国民(くにたみ)」(同上・御詠年不祥)
 「この春は 花鶯(うぐいす)も捨てにけり わがなす業(わざ)ぞ 国民のこと」(同上・御詠年不祥)
 「うば玉の 冬の夜すがら 起きて思い伏して思う 国民のこと」(同上・御詠年不祥)
 「我が命あらん限りは祈らめや 遂には神のしるしをも見む」(同上・御詠年不祥)
 参考HP

 「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-

 太田龍・氏の「時事寸評」の2003.9.2日付「孝明天皇の攘夷の詔勅の精神の復活」( http://www.pavc.ne.jp/~ryu/)は次のように記している。これを転載しておく。
○徳富蘇峰は、近世日本国民史全百巻のうち、三分の一近くを、孝明天皇の御世にあてて居る。蘇峰は、薩長藩閥の御用作家に過ぎない、などと、批判されることも多いが、にも拘わらず、彼が、大正初年、明治の歴史を書こうと志して、織田信長から説き起こし、そして孝明天皇の時代を、その歴史の中心に置いたところは、高く評価すべきである。

○薩摩長州は、ロスチャイルド、サッスーン、グラバーに買収されて、国賊と成り果てた。とくに、長州が極悪である。かくして、長州は、イルミナティ世界権力の手先と化し、その指示にもとづき、岩倉と共謀して、孝明天皇を弑逆した。孝明天皇は、弑逆によって崩御される少し前、後事を、二人の忠臣に託して居る。即ち、一人は、白川神祇伯家学頭、高浜清七郎。もう一人は、勤王力士隊隊長、旭形亀太郎である。

○このことについては、「ユダヤの日本占領計画」(太田龍著、荒地出版、絶版)、「天皇破壊史」(太田龍著、成甲書房)、「縄文日本文明一万五千年史序論」(太田龍著、成甲書房) 以上、三冊の著書に評述した。

○平安朝、花山天皇の皇子に始まる、白川神祇伯学頭。歴代天皇の皇太子は、立太子後、三年間、神祇伯家学頭によって、集中的に、天皇としての学問と神事を教育されたと言う。この三年間の教育こそ、天皇に即位するための必須の課程であったと言う。しかし、孝明天皇は、長州藩の軍隊の皇居襲撃によって、時局がはなはだ危急を告げて来たために、皇位継承の秘事が断絶することを懸念され、白川神祇伯学頭高浜清七郎を招き、しばらく、田舎に避難するよう勅首を下された。ところが、その後、間もなく、逆賊長州と岩倉によって、孝明天皇は弑逆される。

○かくして、太古から続いた皇位継承の秘儀は断絶させられたのである。これは一体、何を意味するのか。

○イルミナティ世界権力の手先、売国奴国賊学問奴隷集団、売国奴官僚、政治家、売国奴マスコミ、売国奴宗教界などは、この一大事を、素知らぬ顔をして黙殺する。明治以降の西洋かぶれした、すべての学問奴隷と宗教人はマスコミ人は、売国奴である。なによりも、まず、孝明天皇攘夷の詔勅の精神を復活させよ。 (了)

○日本義塾案内

 九月二十五日(木曜)、午後六時半〜九時(六時開場)
 会場 文京シビックセンター四階、シルバーホール隣。B会議室。
 講師 太田龍
 演題 孝明天皇の御代と、明治以降に、明確な断絶が存在する。その史実を認めることが、神国日本再生復活のための必須の前提であると言うこと。評伝西郷隆盛のための序論。資料代 一回 千円。

【孝明天皇の系譜】
 「系譜」参照ないし転載。孝明天皇の父は、第120代.仁孝天皇。母は、藤原(正親町)正子。(後に藤原(鷹司) 祺子皇太后の養子となった。)

【孝明天皇の兄弟姉妹】
 孝明天皇には異母兄弟が多数いたが、夭折した方々が多く、皇女和宮が将軍家に輿入れする時には、和宮を入れて、わずか3名(孝明天皇、淑子内親王、親子内親王=和宮)になっていた。

 1866(慶応2).7.20日、第14代将軍家茂が20歳の若さで死亡したため、和宮には子供はいない。(その後、和宮は薙髪(ちはつ)して静観院宮と称した。)

 淑子内親王は、第五代閑院宮愛仁親王と婚約していたが、婚約者が死去。記録では、その後、結婚し子供をもうけた記述は見当らない(猶子を除く)。

 第13代徳川家定の妻は、薩摩藩藩主・島津斉彬の叔父の娘で、斉彬の養女として家定に嫁がされた天璋院篤子(1835〜1883)である。14代将軍の正室和宮とは10歳しか違わない。結婚後、わずか1年7ヶ月で家定は、35歳の若さで病死している。嫁となった、和宮とは10歳しか違わない。暗愚といわれた家定と違い、篤子はしっかりものであったという。ちなみに篤子は、一橋慶喜を嫌っていたとも言われているが、幕府が薩長軍によって敗北色が濃くなると、実家である島津家と徳川家のパイプ役になったそうだ。
 (以下、転載しておく)
 母
<皇后>:藤原(鷹司) 繁子  →安仁親王(1820〜1821)).皇女(1823翌日夭折)

<皇后>:藤原(鷹司) 祺子  →皇女.女二宮(1829〜1831).孝明天皇(養子)

<女院>:藤原(正親町) 雅子  →皇子鎔宮.のりみや(1825〜1827).統仁(孝明天皇;在位(1846〜1866).皇子幹宮.もとみや(1833〜1836).皇女恭宮ゆきみや(1837〜1838).(猶子)浩宮・喜久宮

<典侍>:藤原(甘露寺) 妍子  →皇女成宮(1825〜1826).淑子内親王(1829〜1881).皇子三宮(1830〜1831).皇女総宮(1832〜1833)皇女経宮(1836〜1836).(猶子)尊応入道親王(後の久邇宮朝彦親王)                                               
<典侍>:藤原(橋本) 経子  →皇子胤宮(1844〜1845).親子内親王(和宮、江戸14代将軍・徳川家茂室.1846〜1877)                          
<典侍>:藤原(中山) 績子  →(猶子) 純仁入道親王(後の小松宮彰仁親王)・公現入道親王(後の北白川宮能久親王)

<掌侍>:藤原(今城) たつ子  →皇子(1832.即日夭折)

 【孝明天皇の皇子】


<皇太后>:九条 夙子  →順子内親王(1850〜1852).皇女≪富貴宮≫(1858〜1859).「実子」としての養子)明治天皇 (生母・中山慶子)

<典侍>:中山 慶子  →睦仁(1852〜1912:明治天皇;在位1867〜1912)

<典侍>:坊城 伸子  →皇子(1850即日夭折)

<掌侍>:堀河 紀子  →皇女寿万宮(1859〜1861).皇女理宮(1861〜1862)

<掌侍>:今城 重子  →子供なし

【孝明天皇の妻、側室】
【中山慶子:1835〜1907】
父:中山忠能  母:園愛子

1851年(17歳)孝明天皇に入侍
1852年(18歳)中山邸で祐宮(明治天皇)を出産
1866年(32歳)孝明天皇、36歳で没、明治天皇即位
1868年(34歳)従三位.三位局の称と食禄500石と屋敷地を賜る
1870年(36歳)東京に転居、従二位を賜る
1979年(45歳)嘉仁親王(大正天皇)の養育係となる
1907年(73歳)青山の屋敷にて死去


【堀河紀子:1837〜1910】
父:権中納言 堀河康親  母:さじ  異母兄弟:岩倉具視

1852年(16歳)孝明天皇に入侍
1862年(26歳)宮中を退下
1863年(27歳)束髪を命じられ、霊鑑寺に退去
1866年(32歳)孝明天皇没、明治天皇即位
1968年(34歳)処分を解かれ、掌侍隠居に復帰
1910年(74歳)死去

※公武合体派として攘夷派から排斥を受けた。今城重子・岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直とともに四奸二嬪と呼ばれた。

【孝明天皇のお子達(皇子、皇女)】
 「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」は、孝明天皇のお子達(皇子、皇女)について次のように記している。これによると、祐宮(睦仁親王)の同胞は次に見るようにすべて夭折している。
 順子内親王 嘉永3年11月4日生 同5年6月17日薨。母は、左大臣尚忠女藤原夙子
 皇子 嘉永3年12月17日生、翌日ヨウ。
 明治天皇 嘉永5年9月22日(陽暦11月3日)生。母は、従一位忠能女慶子
 皇女 安政5年6月12日生 同6年8月2日薨、2歳
 皇女 安政6年3月22日生 文久元年5月1日薨、3歳
 皇女 文久元年10月8日生 同2年8月10日薨、2歳







(私論.私見)



「大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室」
http://www.asyura.com/2002/bd18/msg/943.html

「参考資料(幕末〜明治)」
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/761.html

「Re: 参考資料(幕末〜明治)2」
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/762.html

「「萩」へマンジュウつくりにいってくる 田布施町のタブー2003春 大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について」
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/477.html

「転載:極悪国賊売国奴孝明天皇弑逆犯の一味によって捏っち上げられた「皇国史観」に、筆誅を加えなければならない。 [週刊日本新聞]」
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/283.html

【世襲宮家の変遷は↓が分かりやすい】
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6188/kwauz/kwauzs.html


Re: 南朝正統派の主張の根拠
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(系譜〜孝明天皇系譜)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/820.html
(感想&資料〜幕末からの有栖川宮家資料)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/828.html

【南朝】
(後醍醐天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn096.html
(後村上天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn097.html
(長慶天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn098.html
(後亀山天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn099.html

【北朝】
(光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn01.html
(光明天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn02.html
(崇光天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn03.html
(後光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn04.html
(後円融天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn05.html
(後小松天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn100.html
(後花園天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn102.html

最後に資料になりそうなURLを載せておきます。
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(系譜〜孝明天皇系譜)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/820.html
(感想&資料〜幕末からの有栖川宮家資料)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/828.html

【南朝】
(後醍醐天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn096.html
(後村上天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn097.html
(長慶天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn098.html
(後亀山天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn099.html

【北朝】
(光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn01.html
(光明天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn02.html
(崇光天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn03.html
(後光厳天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn04.html
(後円融天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tnn05.html
(後小松天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn100.html
(後花園天皇の簡単な経歴)
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn102.html


 「日本一の大魔王」崇徳上皇の怨念  井沢元彦

 四国讃岐(香川県板出市)の崇徳上皇の御陵。上田秋成が「雨月物語」の一編「白峯」に、この地を登場させたことは、余りにも有名である。 「白峯」は歴史上の事実である西行法師の白峯御陵参拝に、崇徳院(上皇)の怨霊が現われるという虚構を付け加えた本邦屈指の怪談である。
 
 孝明天皇が亡くなり、明治天皇が践祚したのは慶応三年(1887)年一月のことである。しかし、明治天皇は正式な即位をする前に、勅使として大納言源通富を遠く四国讃岐にある崇徳院の白峯御陵に派遣した。そして、院の命日にあたる八月二十六日に、その墓前で宣命(勅語)を読み上げさせたのである。長文にわたるので極一部を意訳すると、次のようになる。

 (明治)天皇の御言葉を白峯に眠られている崇徳院の霊にお伝えします。そもそも、過ぎし保元年間に、いまいましきことあり(保元の乱)、貴方様がこの讃岐に配流され御憤死されたことは、大変悲しいことでありました。ここにおいて、私(明治帝)は先帝(孝明帝)の御遺志を継いで、貴方様の為に、京の都に新しい宮(神社)を建立致しました。どうか長年の怨念をお捨てになって、この源通富が御先導致しますので京へお帰り下さい。そして、この後は天皇と朝廷をお守り下さい。また、最近、皇軍に反旗をひるがえしている陸奥・出羽の賊徒(会津藩や奥羽列藩同盟に属する諸藩)の鎮定と天下安穏の実現の御助力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 こうして崇徳院の霊が9月6日、700年ぶりに京へ帰る事になった。明治天皇の即位の礼は、なんとこの翌日慶応4年(1868)の八月二十七日に行われている。崇徳院の命日に宣命が読み上げられることと、その翌日に即位の礼が行なわれることは、予定されていたに違いない。「明治」と改元されたのはしかも崇徳院の霊が京都に帰還した翌々日の九月八日のことである。崇徳院の「承認」を経てから、正式な改元の儀式を行う事も決められていたのだろう。朝廷はこれだけの配慮を、崇徳院の霊に対して行っている。どうして、そこまでする必要があるのか。

 崇徳院は平安末期の人、第75代の天皇陛下である。この天皇陛下はわずか5歳であった。そして23歳の若さで、父鳥羽上皇から、弟でわずか三歳の体仁親王への譲位を強要された。体仁は崇徳の異母弟で、鳥羽上皇は美福門院という女性の生んだ体仁親王が可愛いあまり(実は、崇徳上皇は白河上皇の皇子ではないかと噂されている。それが原因で鳥羽上皇に睨まれたのではないかと!忍)に、崇徳を天皇の位から無理矢理追い払ったのである。これが近衛天皇陛下となる。ところが近衛天皇陛下はわずか十七歳で若死してしまった。当然、崇徳院は自分が再び天皇の座に返り咲くか、悪くても長子の重仁親王が位に就く事になると思っていた。ところが美福門院が邪魔をした。近衛の死は崇徳院の呪詛によるものだと、讒言したのである。鳥羽上皇は怒り崇徳院の復権のチャンスは消えた。

 ここに至って崇徳院はついに叛乱を決意した。左大臣藤原頼長、源為朝らを配下にして政権奪取を試みたのである。これが保元の乱である。だが企ては失敗に終わった。崇徳院は讃岐に配流される事になった。如何に叛乱を企てたとはいえ、上皇が流罪になるとは前代未聞のことである。奈良の昔平城上皇も同じ事をしたが、頭を丸めれば許してもらえたのである。崇徳院は望郷の念を抱きつつ、流罪地の讃岐で五部大乗経の写経をした。五部大乗経とは法華経、華厳経、大品般若経などの五つの極めて功徳のある経のことである。この経を院は京へ送り、寺へ納めようとした。ところが朝廷ではこれを拒否し、経を讃岐に送り返したのである。院は激怒した。そして指を喰い破って血を出し、其の血で経に誓文を書き付けた。「この経を魔道に廻向して、魔縁と成って遺恨を報ぜん」。この五部大乗経の大功力を全部悪いことに使う、そして魔縁(魔王)となって恨みを晴らす、というのである。更に院は誓いを立てた。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」

 皇を取って民となす、とは革命の宣言である。天皇家を没落させ、天皇家以外の者をこの国の皇にするというのである(そうかな。崇徳院は強制的に廃位されたから、革命だとは思わない。そして、其の後政権に就いたのは一応皇族の血を流れている清和源氏であるから。まして、上で書いたけれど、清和源氏は、本当は陽成源氏であり、陽成天皇陛下も強制的に廃位されたから、其の恨みが神は認めて単なる天誅であるともいえるのである!忍)。これは、それまでの日本で、国の根本の規範として認識されていた「天壌無窮の国体」に真っ向から異を唱えるものである。「天壌無窮」とは、皇室の祖先神天照皇大神が孫の瓊瓊杵尊をこの国に天下りさせる際、述べた言葉の中にある文言で、「豊葦原の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宝祚の盛えまさんこと、まさに天壌と窮りなかるべし」というものである(この時に、稲穂を与えられたのである。意味は稲穂を中心に栄えるように云う事である。この井沢氏は書き入れていない!忍)。是の日本の、天皇家の根本規範というべきものに、一度は天皇の位に就いた者が正面切って呪いをかけたのである。

 この世に恨みを抱いて死んだ者といえば菅原道真や後醍醐天皇も思い浮かぶが、この人々は正面切って天皇家を呪ったわけではない。「天皇家を没落させる」と言い切ったのは崇徳院だけなのである。しかも、その呪いは奇しくも実現した。院の没後すぐに平家の政権が我が世の春を謳い、次に初めての本格的な武家政権である鎌倉幕府が成立した。そして、その幕府を倒そうとした後鳥羽上皇は、臣下であるはずの北条氏によって流罪にされた。崇徳院を流罪にしたのはあくまでも天皇家の意志である。しかし、後鳥羽院は初めて臣下の手によって流された。当に「民を皇となさん」の呪いが成就したのである。これ以後、何か悪いことが起こるとそれは崇徳院の怨霊の仕業だと、広く信じられた。「平家物語」と並んで近代以前に親しまれた「太平記」には、崇徳院が金色の鵄に変身し、大魔王会議の議長としてこの世を混乱に陥れようと画策する場面がでてくる。第二十七巻雲景未来記事の章である。金鵄となった崇徳院が後鳥羽院、後醍醐院たちと「天下を乱り候うべき評定にてある」のである。「太平記」講談の原型だから、文字の読めない人にも広く親しまれた。崇徳院が日本の第一の大魔王であることは、貴族階級から庶民に至るまでの常識だったのである(是れからは、藤原高子の怨念が付きまとうでしょう!忍)。