孝明天皇御文考



 (最新見直し2006.2.14日)


【孝明天皇・時局御軫念御述懷の勅書】
 備中處士氏の「皇宗の詔勅」が貴重な「孝明天皇・時局御軫念御述懷の勅書・孝明天皇紀・文久二年五月十一日」をサイトアップしている。検索で出くわしたので、これに謝し転載しておくくことにする。
 【孝明天皇・時局御軫念御述懷の勅書・孝明天皇紀・文久二年五月十一日】

 「夫れ聖人に非ざるより、内安ければ、必ず外の患ひ有り」と。方今天下、二百有餘年、至平に慣れ、内、遊惰に流れ、外、武備を忘れ、甲冑朽腐し、干戈腐□[金+肅]す。卒然として夷狄の患ひ起つて、之に應ずる能はず。終ひに癸丑(嘉永六年)・甲寅(安政元年)の年より、有司、益々駕御の術を失し、事、模稜多し。是を以て戎虜、恐懼する所を知らず、求徴□[厭+食、あ]く無く、條約を定め、關市を通ぜん事を請ふ。幕府因循、其の請ひを拒むこと能はず、旗下の小吏を以て奏聽す。朕、其の誣罔を知つて之を斥く。

 翌戊午(安政五)年二月、幕府、老吏堀田備中守及び二三の小吏を以て登京、事情を陳し、切りに請うて止まず。朕、熟々案ずるに、「古今の夷狄の憂ひ少なからずと雖も、近年の如く甚だしきは、未だ之れ有らざる也。若し一旦、之に親狎し、□[肉+擅の右]流穢□[三水+張]、神州陸沈し、朕が世に至つて、初めて金甌を缺けば、何を以て先皇在天の靈に謝せん」と、深謀遠慮し、群臣に諮詢するに、皆な其の不可なる事を白す。又た列藩、内密上言の者少なからず。乃ち幕府に命じ、天下の大小名に令し、務めて時宜を陳せしむ。然るに幕府、命を抗し、肯へて之を天下に傳示せず。朕、深く憂慮し、未だ處置すること有らず。是に於て群臣八十八人、奮然として、奏状を以て、朕が意を贊す。又た或は曰く、「朕、若し幕府の請ひに從はずば、必ず承久・元弘の事を爲さん」と。然れども「朕、何ぞ一身のことを以て、祖宗の天下に易へんや」と、卒ひに重ねて命ずるに、前令を以てし、次いで幕吏を返らしむ。又た使ひを發し、幣を三社に奉じ、「戎虜、國體を汚すことなく、人民、其の生を安んぜんことを祈請す。庶幾はくは、弘安の先蹤を繼がん」と。豈に圖らんや、旬日の間、幕吏、朕が命を用ゐず、遂に條約を定め、通商を許し、片紙を以て奏して曰く、「時勢切迫、止むを得ざる事也」と。朕、殊に其の侮慢非禮を怒ると雖も、未だ遽かに是を讓責せず。三家・家門、或は大老を召し、其の仔細を尋糺せんとす。然るに尾・水・越、其の餘二三の名藩臣を籠居せしめて、又た嘗て命を奉ぜず。次いで前將軍、薨ぜり。又た忠言するもの有り。曰く、「嗣子幼若、將軍に任ずることなく、暫く其の爲す所を見て、而る後ち之に任ぜよ」と。然れども直ちに其の職に任じ、其れを以て其の職を盡さしめんとす。然るに將軍幼若、有司柔惰、朕が意に稱ふ事を知らず。嘗て攘夷の念なく、却つて之を親昵し、剩さへ正議の士を排斥す。朕、其の三家・三卿等を召せども、來らず。剩さへ正議の名藩臣を退隱、或は禁固せしめ、其の積鬱の餘、激して變を生じ、外夷、其の虚に乘ぜんことを過慮し、特命を幕府・水府に下し、天下の大小名、同心合力、幕府を補佐し、内、奸吏を除き、諸藩勤王の志を慰し、外、黠虜を攘ひ、各國窺覦の念を絶せしめんとす。然るに皆、朕が意を體し、其の命を海内に示傳し、天下、一心戮力、徳川を補佐し、外夷征殄の議を興さず、却つて公武不和の難を釀し、朕、深く之を憂ふ。

 其の間、事々紛々、盡く言ふべき事難し。然れども其の一二を言はんに、人々以爲(おもへ)らく、「幕府、此の如く衰弱振はず、戎狄、此の如く猖獗懲りず。然らば則ち外患、何れの時にか止まん。神州の正氣、何れの時にか囘復せん。人民、何れの時にか生を安んぜん。是れ豪傑英雄の將にあらずんば、治むること能はず」と。「三家・三卿の中、一橋刑部卿は、其の英雄なるを以て、之をして其の職に當らしめば、寧ろよく大事を成就せん」と。是を以て草莽有志の士、其の事に周旋奔馳するものあり。又た其の間、奸猾、其の意を快くせんとするものありて、事多く朕が意の如くならず。不日にして、間部下總守登京、幕命を以て、凡て天下の事を論ずる者、一切に縛收して、之を江戸に下し、次いで四大臣、落飾幽居し、正議の士、是に於て盡く。下總守、幕議を白して曰く、「條約押印のことは、先役備中守の所爲にして、當役の知る所に非ず。即ち今ま條約を返し、通市を止むる時は、外國に不信を傳へ、彼が怒りを激し、異變不測に生ぜん。環海武備、未だ充實せず、且つ大奸、内に在り。若し外患起らば、内憂、之に乘ぜん。然らば忽ち天下、土崩瓦解、如何とも爲すべからざるに至るべし。希はくは幕府の申す所に從ひ、姑く天下の時勢を覽(ごらん)ぜんことを。必ず年を經ずして、戎虜を掃絶し、神州の正氣を囘復せん」と。是を以て、朕、止む事を得ず、枉げて其の請ひに任せ、以て天下の時勢を見る。

 其の後、庚申(萬延元)年三月三日、水府浪士、伊井掃部頭の刺す事あり。其の所爲は亂暴に似たりと雖も、其の懷中する所の状書を視て、其の意を察すれば、深く外夷の跋扈を憤怒し、幕府の失職を、死を以て諌むるにあり。是れ朕が嘗てより憂ふる所也。又た其の後年、墨使を刺し、又た東漸寺の件々、皆な其の意、斯に基づけり。其の餘、外夷の陸梁なる、對州の事、二个國相増す事、兵庫より陸行、江府に至るの事、海岸測量、殿山を借與の事等、朕、一一幕府に、其の然らざる事を責むれども、幕吏奏して曰く、「是れ皆な一時の權宜にして、浪華開商延期の術策なり」と。又た奏請して曰く、「外夷を掃殄するに、天下、一心戮力にあらずんば、爲し難し。故に和宮を以て將軍に尚(しやう)し、公武一和を天下に表し、而る後ち戎虜勦絶に及ぶ可き也。然らざれば、公武の間を隔絶せんとするの奸賊ありて、外夷拒絶に及び難し」と。朕、念に、先帝遺腹の妹を以て、百有餘里の外に嫁し、而も古來未曾有の武臣に尚せんこと、朕が意、實に忍びざる所也。然るに幕吏、切りに内外の事情を陳謝し、朕が憐みを請うて止まず。朕も意に忍びずと雖も、「祖宗の天下の事には代へ難し」と、意を決して、其の請ひを許し、十年を出でず、必然外夷掃除の事を命じ、且つ海内大小名に、朕が意を傳示し、武備充實せしめんとす。幕吏連署奏状し、皆な朕が命を聽く。故に去冬、和宮入城の事に及べり。

 然るに今春に至り、幕吏安藤對馬守、浪士の爲に刺さる。是等、皆な掃部頭を刺せし者と同意の者にして、此の如き輩は、死を視ること歸するが如く、實に勇豪の士也。嗚呼、此の輩をして、少しく其の憤鬱する所を押さへしめて、諭すに丁寧誠實の言を以てして、暫く其の勇氣を儲(たくは)へしめ、他日非常の變に用ひ、其れをして先鋒たらしめば、堅を衝き鋭を挫くに於て、何の難きことかあらんや。誠に愛むべきの士也。然るを幕府、意を斯に著けず、日夜、猶ほ其の餘黨を索る。是れ惟ふに、怨みを天下に構へて、事に於て益なく、其の本に反らずして、只に威力を以て制せんとす。是を捕ふれば、殃ひ又た斯に生じ、天下の變、止む時なく、終ひに大變を激生するに至らん。是れ朕が深く憂慮する所也。聞く、翌十六日、將軍拜廟の事あり。「有司、前日の變を以て、拜廟の事を延引せんと謂へり。然るに將軍、嘗て拜廟のことを廢せずして、之を行へり」と。朕、其の寛量を愛し、因つて思ふ。「庚申三月以來、九門外に守兵を置き、又た關白邸亭にも兵士を置く。或は參廟に密々武士を具して、非常に備ふ」と。是等、朕、深く慙憂する所也。因つて又た思ふに、「往年、三社に奉幣せし以來、神州の汚穢を洒掃せんことを、朝夕祷請して、又た法樂をも、今に至つて猶ほ之を行ふ。庶幾はくは、以て前の志願を全うして、之を終へん」と。

 去年、元を改め、天下と與に更始す。公主、既に尚し、公武、實に一和す。此の時に迨(およ)んで、既往は咎めざるの教へに由り、天下に大赦し、三大臣の幽閉を免じ、列藩臣の禁固を赦し、有志の士の連座せる者を放たんことを、速かに幕府に告げ、以て此の擧を行はしめよ。是れ朕が深く欲する所也。爾後、天下、心を合せ力を一にし、十年内を限り、武備充實せしめ、斷然として夷虜に諭すに利害を以てし、一切に之を謝絶し、若し聽かざれば、速かに膺懲の師を擧げ、海内の全力を以て、入りては守り、出ては制せば、豈に神州の元氣を恢復せんに、難きこと有らんや。若し然らずして、惟(たゞ)に因循姑息、舊套に從つて改めざれば、海内疲弊の極、卒ひには戎虜の術中に陷り、坐しながら膝を犬羊に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏めば、朕、實に何を以てか、先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府、十年内を限りて、朕が命に從ひ、膺懲の師を作(おこ)さずんば、朕、實に斷然として、神武天皇・神功皇后の遺蹤に則とり、公卿百官と、天下の牧伯を帥ゐて、親征せんとす。卿等、其れ斯の意を體して、以て朕に報ぜんことを計れ。
 (れんだいこの現代文訳)
 【孝明天皇・時局御軫念御述懷の勅書・孝明天皇紀・文久二年五月十一日】

 「それ聖人に非ざるより、内安ければ、必ず外の患いあり」と。方今天下二百有余年、至平に慣れ、内、遊惰に流れ、外、武備を忘れ、甲冑朽腐し、干戈腐□[金+肅]す。卒然として夷狄の患い起って、之に応ずる能わず。終いに癸丑(嘉永六年)・甲寅(安政元年)の年より、有司、益々駕御の術を失し、事、模稜多し。これを以て戎虜、恐懼する所を知らず、求徴□[厭+食、あ]くなく、条約を定め、關市を通ぜん事を請う。幕府因循、その請いを拒むこと能わず、旗下の小吏を以て奏聴す。朕、その誣罔を知って之を斥く。

 翌戊午(安政五)年二月、幕府、老吏堀田備中守及び二三の小吏を以て登京、事情を陳し、切りに請うて止まず。朕、熟々案ずるに、「古今の夷狄の憂い少なからずと雖も、近年の如く甚だしきは、未だ之れあらざる也。もし一旦、之に親狎し、□[肉+擅の右]流穢□[三水+張]、神州陸沈し、朕が世に至って、初めて金甌を欠けば、何を以て先皇在天の霊に謝せん」と深謀遠慮し、群臣に諮詢するに、皆なその不可なる事を白す。又列藩、内密上言の者少なからず。すなわち幕府に命じ、天下の大小名に令し、務めて時宜を陳せしむ。しかるに幕府、命を抗し、肯へて之を天下に伝示せず。朕、深く憂慮し、未だ処置することあらず。是に於て群臣八十八人、奮然として、奏状を以て、朕が意を贊す。又或いは曰く、「朕、もし幕府の請いに従わずば、必ず承久・元弘の事を為さん」と。しかれども「朕、何ぞ一身のことを以て、祖宗の天下に易えんや」と、卒いに重ねて命ずるに、前令を以てし、次いで幕吏を返らしむ。又使いを発し、幣を三社に奉じ、「戎虜、国体を汚すことなく、人民、その生を安んぜんことを祈請す。庶幾(こい願)わくは、弘安の先蹤を継がん」と。あに図らんや、旬日の間、幕吏、朕が命を用いず、遂に条約を定め、通商を許し、片紙を以て奏して曰く、「時勢切迫、止むを得ざる事也」と。朕、殊にその侮慢非礼を怒ると雖も、未だ遽かに是を讓責せず。三家・家門、或いは大老を召し、その仔細を尋糺せんとす。しかるに尾・水・越、その余二三の名藩臣を籠居せしめて、又かって命を奉ぜず。次いで前将軍、薨ぜり。又忠言するものあり。曰く、「嗣子幼若、将軍に任ずることなく、暫くその為す所を見て、しかる後(のち)之に任ぜよ」と。しかれども直ちにその職に任じ、それを以てその職を尽さしめんとす。しかるに将軍幼若、有司柔惰、朕が意に稱う事を知らず。かって攘夷の念なく、却って之を親昵し、剩(あまつ)さえ正議の士を排斥す。朕、その三家・三卿等を召せども、来らず。剩さえ正議の名藩臣を退隱、或いは禁固せしめ、その積鬱の余、激して変を生じ、外夷、その虚に乘ぜんことを過慮し、特命を幕府・水府に下し、天下の大小名、同心合力、幕府を補佐し、内、奸吏を除き、諸藩勤王の志を慰し、外、点虜を攘(はら)い、各国窺観の念を絶せしめんとす。しかるに皆な、朕が意を体し、その命を海内に示伝し、天下、一心戮力、徳川を補佐し、外夷征殄の議を興さず、却って公武不和の難を釀し、朕、深く之を憂う。

 その間、事々紛々、盡く言うべき事難し。しかれどもその一二を言わんに、人々以為(おもえ)らく、「幕府、この如く衰弱振わず、戎狄、この如く猖獗懲りず。しからば則ち外患、何れの時にか止まん。神州の正気、何れの時にか回復せん。人民、何れの時にか生を安んぜん。これ豪傑英雄の将にあらずんば、治むること能わず」と。「三家・三卿の中、一橋刑部卿は、その英雄なるを以て、之をしてその職に当らしめば、寧(むし)ろよく大事を成就せん」と。是を以て草莽有志の士、その事に周旋奔馳するものあり。又その間、奸猾、その意を快くせんとするものありて、事多く朕が意の如くならず。不日にして、間部下総守登京、幕命を以て、凡て天下の事を論ずる者、一切に縛收して、之を江戸に下し、次いで四大臣、落飾幽居し、正議の士、是に於て盡く。下総守、幕議を白して曰く、「条約押印のことは、先役備中守の所為にして、当役の知る所に非ず。即ち今条約を返し、通市を止むる時は、外国に不信を伝え、彼が怒りを激し、異変不測に生ぜん。環海武備、未だ充実せず、且つ大奸、内に在り。もし外患起らば、内憂、之に乘ぜん。然らば忽ち天下、土崩瓦解、如何とも為すべからざるに至るべし。希(ねが)わくは幕府の申す所に従い、姑く天下の時勢を覧(ごらん)ぜんことを。必ず年を経ずして、戎虜を掃絶し、神州の正気を回復せん」と。是を以て、朕、止む事を得ず、枉(ま)げてその請いに任せ、以て天下の時勢を見る。

 その後、庚申(万延元)年三月三日、水府浪士、伊井掃部頭の刺す事あり。その所為は乱暴に似たりと雖も、その懷中する所の状書を視て、その意を察すれば、深く外夷の跋扈を憤怒し、幕府の失職を、死を以て諌むるにあり。これ朕が嘗ってより憂うる所也。又その後年、墨使を刺し、又た東漸寺の件々、皆その意、斯に基づけり。その余、外夷の陸梁なる、対州の事、二个国相増す事、兵庫より陸行、江府に至るの事、海岸測量、殿山を借与の事等、朕、一一幕府に、その然らざる事を責むれども、幕吏奏して曰く、「これ皆な一時の権宜にして、浪華開商延期の術策なり」と。又奏請して曰く、「外夷を掃殄するに、天下、一心戮力にあらずんば、為し難し。故に和宮を以て将軍に尚(しょう)し、公武一和を天下に表し、而る後戎虜勦絶に及ぶべき也。しからざれば、公武の間を隔絶せんとするの奸賊ありて、外夷拒絶に及び難し」と。朕、念うに、先帝遺腹の妹を以て、百有余里の外に嫁し、しかも古来未曾有の武臣に尚せんこと、朕が意、実に忍びざる所也。しかるに幕吏、切(しき)りに内外の事情を陳謝し、朕が憐みを請うて止まず。朕も意に忍びずと雖も、「祖宗の天下の事には代え難し」と、意を決して、その請いを許し、十年を出でず、必然外夷掃除の事を命じ、且つ海内大小名に、朕が意を伝示し、武備充実せしめんとす。幕吏連署奏状し、皆朕が命を聴く。故に去冬、和宮入城の事に及べり。

 しかるに今春に至り、幕吏安藤対馬守、浪士の為に刺さる。これ等、皆な掃部頭を刺せし者と同意の者にして、この如き輩は、死を視ること帰するが如く、実に勇豪の士也。嗚呼、この輩をして、少しくその憤鬱する所を押さえしめて、諭すに丁寧誠実の言を以てして、暫くその勇気を儲(たくは)えしめ、他日非常の変に用い、それをして先鋒たらしめば、堅を衝き鋭を挫くに於て、何の難きことかあらんや。誠に愛むべきの士也。しかるを幕府、意を斯に著けず、日夜、猶その余党を索る。これ惟うに、怨みを天下に構えて、事に於て益なく、その本に反らずして、只に威力を以て制せんとす。これを捕うれば、殃ひ又斯に生じ、天下の変、止む時なく、終いに大変を激生するに至らん。これ朕が深く憂慮する所也。聞く、翌十六日、将軍拜廟の事あり。「有司、前日の変を以て、拜廟の事を延引せんと謂えり。しかるに将軍、嘗って拜廟のことを廃せずして、之を行えり」と。朕、その寛量を愛し、因って思う。「庚申三月以來、九門外に守兵を置き、又関白邸亭にも兵士を置く。或は參廟に密々武士を具して、非常に備う」と。これ等、朕、深く慙憂する所也。因って又思うに、「往年、三社に奉幣せし以来、神州の汚穢を洒掃せんことを、朝夕祷請して、又法楽をも、今に至って猶之を行う。こい願わくは、以て前の志願を全うして、之を終えん」と。

 去年、元を改め、天下と與に更始す。公主、既に尚し、公武、実に一和す。この時に迨(およ)んで、既往は咎めざるの教えに由り、天下に大赦し、三大臣の幽閉を免じ、列藩臣の禁固を赦し、有志の士の連座せる者を放たんことを、速かに幕府に告げ、以てこの挙を行わしめよ。これ朕が深く欲する所也。爾後、天下、心を合せ力を一にし、十年内を限り、武備充実せしめ、断然として夷虜に諭すに利害を以てし、一切に之を謝絶し、若し聴かざれば、速かに膺懲の師を挙げ、海内の全力を以て、入りては守り、出ては制せば、豈に神州の元氣を回復せんに、難きことあらんや。もし然らずして、惟(たゞ)に因循姑息、旧套に従って改めざれば、海内疲弊の極、卒ひには戎虜の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊に屈し、殷鑑遠からず、インドの覆轍を踏めば、朕、実に何を以てか、先皇在天の神霊に謝せんや。もし幕府、十年内を限りて、朕が命に従い、膺懲の師を作(おこ)さずんば、朕、実に断然として、神武天皇・神功皇后の遺蹤に則り、公卿百官と、天下の牧伯を帥ゐて、親征せんとす。卿等、それ斯の意を体して、以て朕に報ぜんことを計れ。













(私論.私見)