「孝明天皇暗殺考」 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
幕末動乱過程を検証すると、重大事変が次から次へと発生していることがわかる。根強い疑義が指摘されているにも拘わらず、通史はこの辺りを通り一遍の解説で済ましている。れんだいこは、両論を聞いた上でやはり異変を感じるので検証して見ることにする。 何が異変かというと、1・将軍家茂の急逝(1866.6.20日、20歳)、2・孝明天皇の急逝(1866.12.25日、36歳)が偶然過ぎることにある。更に、3・睦仁親王(京都明治天皇)急逝(1867.7.8日)が指摘されており、これが事実とすると、将軍家茂の急逝後5ヵ月後に孝明天皇が急逝し、その7ヵ月後に孝明天皇の後継者の睦仁親王(京都明治天皇)が急逝していることになる。 前二者の急逝は史実で確認されているところである。これだけでも異変なのに、睦仁親王(京都明治天皇)急逝まで重なると偶然とみなすわけには行かないであろう。ところが、不思議なことに、歴代の歴史家はこれらの政変にあまり関心を払っていない。在野的に問題にされて燻り続けているというのが実際である。その燻りを史実考証的に採りあげたのが、鹿島昇・氏の著作「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」であった。以来、俄かに「幕末政変に於ける王朝交代問題」がクローズアップされつつある。こうなると、れんだいこのアンテナが作動しない訳にはいかない。れんだいこの分かる範囲内で、「孝明天皇暗殺考」をサイト化することにする。 2005.11.14日 れんだいこ拝 |
【孝明天皇急逝の歴史的意味考】 | ||
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【孝明天皇死因諸説考】 | |||||||||||||||
孝明天皇の死をめぐって、死の直後より怪しまれてきた。通説は病死説に立っており特段の関心を払わないが、まさに字義通りの「火のないところに煙は立たない」で暗殺説が燻り続けている。しかし、孝明天皇の変死は囁かれ続けているものの死因解釈は諸説分かれている。これを列挙して図示すれば次のようになる。ちなみに、4と5の併合説は、れんだいこが初めて推定する新説である。従来の説を検討すれば、自ずと導き出される。
以下、諸説を概述していくことにする。 |
【孝明天皇急逝通説、疱瘡による病死説】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「孝明天皇急逝」の様子は、宮内省の編纂した公式記録である「孝明天皇紀」や、「中山忠能日記」などによって、天皇の死に至るまでの経過をある程度たどることができる。 特に、「中山忠能日記」は、これを記した大納言・中山忠能が孝明天皇の御子・睦仁親王の外祖父にあたるという縁戚性と、その娘慶子が孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)の生母でありつつ女御(宮中女官の一つ)として孝明天皇崩御の前後を常時詰めして見守っており、その刻々情報を一日数回にわたって父大納言に克明に病状を知らせていたとのことであり、これを受けて中山公卿が孝明天皇崩御の様子を記しているという点に於いて、特筆の信頼性を持つというべきであろう。 中山公卿は、「正心誠意」と題して膨大な日記を遺している。一般には「中山忠能日記」と云われているが、慶応2年12月半ばから年末までの記述が、孝明天皇崩御の前後事情を克明に記している。 「中山忠能日記」は次のように評される歴史文書である。「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」は、次のように述べている。
以上を予備知識として、「中山忠能日記」の該当記録を読み込んでいくことにする。その解読本として、尾崎秀樹氏が、1963.1月号の「歴史と旅」で「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」を著している。鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」にその一部が引用されている。インターネットサイトでは、「明治という時代」、「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」(「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」に所収)等々で概述されている。 れんだいこが、これらをテキストにしながら他の資料をも参考にしつつ整理してみる。
つまり、「中山忠能日記」に従う限り、孝明天皇は痘瘡(ほうそう)による急死ということになる。 尾崎秀樹氏の「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」は、「中山忠能日記」を請けて次のように解説している。
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【孝明天皇急逝異説その1、毒殺説】 | ||||||||||||||||||
戦後いち早く歴史家のねずまさし氏が、孝明天皇は病死ではなく暗殺であることを学問的に論証した。ねず氏は、「孝明天皇は病死か毒殺か」(「歴史学研究」173号所収)で概略次のように述べている。
しかし、事が事だけに、論証の正否などには関係なく、学会からは無視された。 次に、天皇の最後の病床に立ち会った宮廷医師、伊良子光順の曽孫に当たる伊良子光孝氏が、光順の手記について発表した。次のように指摘している。
平凡社の「大百科事典」でも、「孝明天皇は疱瘡(ほうそう)を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い」(羽賀祥二・著)と書かれている、とのことである。 尾崎秀樹氏の「にっぽん裏返史・孝明帝の死因」は、通説を踏まえつつ次のように「異説その1、毒殺説」を唱えている。 鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」はこの説を紹介している。れんだいこが必要な範囲で説明を補うことにし[]に記す。まずこれを確認しておく。次のように記述されている。
「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」が、次のような「アーネストサトウ日記妙4」(萩原著、朝日新聞社)を紹介している。アーネストサトウは、当時、日本に駐在していたイギリスの外交官であり、「日本における外交官」と云う日記を残している。「一外交官が見た明治維新上・下」(訳/坂田精一、岩波文庫、1960年初版)がこれを紹介している。
アーネストサトウの「日本における外交官」の日本訳は、「天皇陛下は毒殺された云々」の下りをカットしていたとのことである。 「アーネストサトウ日記妙4」(萩原著、朝日新聞社)は、これに次のようなコメントをつけている。
「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」管理人は、次のようにコメントしている。
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【孝明天皇急毒殺説を裏付ける侍医証言考】 | |
「孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である」は、次のように記している。
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【孝明天皇急逝異説その2、刺殺説】 | ||||||||
鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 明治維新の謎」は、通説(疱瘡による病死説)、異説その1(毒殺説)を紹介しつつ新たに刺殺説を述べている。これを異説その2(刺殺説)とする。 れんだいこが必要な範囲で説明を補うことにし[]に記す。まずこれを確認しておく(残念ながら、本書を入手していないので、流布されているところのものを記すことにする)。
孝明天皇暗殺の背景事情について次のように記述している。
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【孝明天皇急刺殺説を裏付ける侍医証言考】 | |||
「孝明天皇刺殺説」は、「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」が早くより刺殺説を唱えているようである。筆者は次のように記している。これを仮に「土肥一十郎(春耕)日記」とする。
雑誌「ムー」(平成14年12月号)が、財川外史著「天皇と忍びー聖と闇の血脈」の次の記述を紹介している(「孝明天皇陛下が刺殺されたのか」より)。
雑誌「ムー」(平成14年12月号)の財川外史著「天皇と忍びー聖と闇の血脈」は他にも幾つかの証言を記しているようである。それによれば、「土肥一十郎(春耕)日記」以外にも次のような侍医の証言があるようである。これを仮に「菅修次郎日記」とする。
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【孝明天皇急刺殺説を裏付ける他の証言考】 | ||||||||
他にも、「蜷川新証言」を記している。これを確認する。
もう一人、明治42.10.16日、満州ハルピン駅で伊藤博文を狙撃したテロリストとして知られる朝鮮独立運動家・安重根の公判陳述が注目される。安重根は次のように述べている。
どこまでが信憑性に足りるのか定かではないが、あながち無視するわけにもいかないように思われる。 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK17」の救国の草莽の志士氏の 2006.1.6日付け投稿「孝明天皇暗殺は慶応2年12月25日(但し旧暦)の事情の詳細追加」は次のように述べている。
「宮崎鉄雄氏による決定的な証言」を転載する。
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【孝明天皇急逝異説その3、薬物投与暗殺と刺殺併合説】 | |||
れんだいこは、以上を踏まえて、新説「薬物投与→刺殺の併合説」を主張したい。「薬物投与→刺殺の併合説」とは、「中山忠能日記」の記述を請けて12.12日頃よりの疱瘡病状を認め、これを砒素のような薬物投与による症状とみなし、それが回復過程にあったところ、何としてでも暗殺を企図する勢力が12.24日の夜半に厠に忍び込み、孝明天皇が厠に入り用足し中に刺傷し、孝明天皇はそのまま重態危篤となり結果的に刺殺せしめられた、とする説である。これによると、孝明天皇は「堀河紀子邸において刺殺された」のではなく、れっきとして御所内での変事であったことになる。以下、これを論証する。 「中山忠能日記」は、12.24日から25日の深夜に関して異様な記述をしている。このことが確認されねばならないだろう。「中山忠能日記」は、12.12日頃よりの疱瘡病状を認め、それが回復過程にあったことを12.24日までの日記に記している。しかし、疱瘡病状か砒素ないしはトリカブトのような薬物投与による症状かは判じ難い。れんだいこは、後者と見立てる。12.24日の前半は、「咋日から御召し上り物も相当あり、御通じもよろしい」と記している。これによれば、孝明天皇は奇跡的な回復過程にあったことになる。 ところが、その夜半から病状が急変する。「発熱し、叶き気がひどく、下痢が3回あった。典医は体内に残っていた毒の作用だと診立てた」。12.25日の記述では、「容体急変、親王が訪問、危篤状態に陥った」とある。「側近の者が暗澹として、ひたすら天に祈るありさま」を記している。 実際には次のように記されている。
これにつき、野宮定功(ののみやさだいさ)の日記では、「この日も叶き気ひどく食欲なく、典医の手当ても湛海僧正の祈祷もむなしく、ついに大事に及んだ」と記されている、という。 不思議なことに、「孝明天皇紀」には肝腎のこの時の典医の報告が記載されていない。これは何故なのかが詮索されねばならない。恐らく、「中山忠能日記」、「野宮定功(ののみやさだいさ)日記」のようには記せなかった、と窺うべきではなかろうか。れんだいこは、「孝明天皇紀」の不記載の方に軍配を挙げたいと思う。 注目すべきは、「中山忠能日記」が、「異様な記述」を遺すことにより異変を示唆していることである。「中山忠能日記」は肝腎なところを削除されている箇所があるようで、次の件がそれである。正本には、「25日は御九穴より御出(脱)血、実もって恐れ入り候」との記述が為されているとのことである。その後紛失したとされている上乗坊の日記にも、「天皇の顔に紫色の斑点があらわれて血を叶き脱血した」と書いてあったとのことである。両書に共通するのは「御出血、脱血」であり、「中山忠能日記」は「御九穴より」と記すことにより肛門出血を示唆している。いずれにせよ、七転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。 「中山忠能日記」の正本には、孝明天皇逝去の前日の深夜の奇怪な「火の玉」話が記されているのにこれまた削除されているようである。正本には次のように記されているとのことである。
れんだいこは、これは重大な記述と見る。この異様な記述は何かを隠喩しているのではなかろうか。「明治天皇替え玉説の無稽と無惨」のように、忠能が「人魂の出現は死人の出る予兆で、人魂の落ちた家からは翌日死人が出る」という超常現象が実際にあったとして、そのことをそのまま記している、と受け取るべきだろうか。この記述を請けて、「自然な病死であって、言われているような 刺殺など人為によるものではない」と理解すべきだろうか。 思うに、それは余りな凡庸な受取りではなかろうか。これは歴史的文書に見られる典型的な隠喩表現であり、1・「勘解由家来」、2・「北野あたり」、3・「戌刻天空」、4・「小茶碗くらいの大きさの人魂」、5・「西方から」、6・「飛んで来る」、7・「見た」、8・「およそ御所の上あたりで見えなくなった」のそれぞれの箇所が暗喩しているとみなすべきだろう。「中山忠能日記」は、「孝明天皇の不審死」を関係者並びに後世の者に示唆することに腐心している、と受け取るべきではなかろうか。 この疑惑に、鹿島説の刺殺説を接合させたらどうだろう。鹿島説の堀川邸云々の部分を削除し、刺殺実行行為箇所の記述即ち「孝明天皇が用をたそうと厠に入った際に、厠の下に隠れていて槍か刀で刺し殺した」を繋げれば、真相が見えてくるというべきではなかろうか。 ちなみに、「7.19日の中山忠能日記」には、「寄(奇)兵隊の天皇」、「明治天皇紀」には、「7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり」との記述があるとのことである。暗殺された睦仁親王(京都明治天皇)に代わり、大室寅吉が睦仁親王(京都明治天皇)にすり代わったとする説を受け入れれば、これらの記述が整合することになる。 この説を否定するためには、件の記述が虚偽であることが証されねばならない。件の記述が真正ならば、れんだいこのこの推論には十分な根拠があると云うべきだろう。否、卓見であるかも知れない。 2005.11.15日 れんだいこ拝 |
【孝明天皇逝去後の孝明天皇派の公卿のその後の動静】 | |
「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」は、孝明天皇逝去後の孝明天皇派の公卿のその後の動静を次のように伝えている。
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【山口県田布施町の怪】 | |||||
「フリーメーソンとは何か その4」の下記の部分を転載しておく。
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ノンフィクション作家、郷土史家、竹細工職人の鬼塚英昭氏は、「田中角栄こそが対中売国者である」の原稿を2015年12月10日に脱稿後の12月21日、体調の不調を自覚して緊急入院。胃を原発部位とする進行がんが発見され、明けて2016年1月25日、薬石効なく大分県別府市内の病院にて永眠した(享年78歳)。 |