れんだいこの吉田松陰論



 (最新見直し2010.07.17日)

 関連サイト、幕末人士列伝

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの吉田松陰論を書き記しておくことにする。 
 2010.7.17日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評769 れんだいこ 2010/07/19
 【吉田松陰学の勧めその1、はじめに】

 2010.7.11日の第22回参院選、その後の政局を見て、日本政治のお粗末貧相ぶりを改めて確認した。昨年の衆院選で念願の政権交代した民主党は、政権交代効果を強めるのではなく鳩山、管の二代にわたって逆走している。こう分析しない限り事態が呑み込めない。

 政権交代前公約のメイン部分はこぞって棚晒しにされ、貴重にも履行された子供手当は消費税増税の口実に悪用されている。有料高速道路の無料化は経済刺激策として企図されたにも拘わらず、最も経済効果の少ない手法で限定実施されている。選挙ともなると党首始め執行部は全能力を賭けて疾走するのかと思いきや何と、党が負けるように意図的故意のミスリードして恥じない。そして敗北の責任を何一つ負わず居直り、それが許されようとしている。

 加えて、鳩山前首相は、辞任時に次期衆院選への立候補をしないと宣明したにも拘わらず早くも再出馬を意欲し始めている。れんだいこには、この口の軽さ、無責任さが我慢できない。このところの選挙に於いて有能な働きをした功労者の小沢前幹事長に対しては、参院選直前に外し、続く官首相は非礼にも「暫く蟄居せよ」と申し渡し、その挙句に選挙に大敗したというのに馬耳東風の厚顔で事なかれしている。謝罪とかで済む話ではなかろうに。

 この政治現象をどう理解すべきだろうか。普通程度の頭脳明晰士では解けないのではなかろうか。余りにも理解できないことが罷り通っており、下手に解くと頭脳がヤラレてしまうに違いない。そこで低脳政治評論家が選ばれて新聞紙面やテレビコメンテーターとして登場することになる。彼らは一様に曰く、管政権続投良し、小沢に対しては政治とカネ問題で引き続き追及すべし、消費税増税論続行せよ、郵政再改革法案阻止せよ云々。産経辺りにになるともう少し進めて衆議院解散せよ論、辺野古基地移転推進せよ論、恐らくグアム移転費もっと出すが宜しい論云々となる。読売辺りになると、憲法改正論、自衛隊の海外武装派兵増強論、日本語廃止論、社会の隅々まで英語一辺倒論こそ国際責務、国際情勢要請なる論を説くのだろうか。読売は取っていないので分からないが云いそうである。

 こういう嘆かわしい時局にあって、れんだいこは関心を逸らした。とはいえ政治意識の灯は消えず時空を飛ぶ。なぜだか分からないが急きょ、吉田松陰について知りたくなった。アバウト程度なら誰でも知っていようが、その程度では済まなくなった。なぜ彼が幕末維新最大のイデオローグ足り得ているのか、その所説は如何なるものであったのか、少し詳しく知りたくなった。

 そこでサイトを起し、ネット検索し資料を取り寄せ、れんだいこ風に纏めて見た。やはり聞くと見るとでは大違いであった。市井の吉田松陰論は凡庸過ぎて役立たない。史家が己の甲羅に合わせ過ぎて理解するからそういうことになるのだろう。虚心坦懐に対象のもの、人を捉え、能う限り対象のもの、人をそのままに理解せんとしない限り、像が歪む。改めてそう思った。

 以上を前置きして、れんだいこの吉田松陰論を開陳する。当然、れんだいこの甲羅に合わせたものになっている。

 2010.7.19日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評770 れんだいこ 2010/07/19
 【吉田松陰学の勧めその2、なぜ吉田松陰なのか】

 なぜ吉田松陰なのか。れんだいこの見るところ、吉田松陰の秘密は血筋的な兵学者性に求められるべきであろう。この実践能力性が他の幕末思想家との際立つ差なのではなかろうか。松陰は、幕末期の被植民地化されんとする日本に対し、兵法学者的感性知性でこれを察知し分析し、敵を知り己を知る必要から西欧的文明をも学ばんと意欲し、他方で諸国に同志を求めて遊学遊説した。未曽有の国難として襲いかかりつつある日本の危機を如何に救うのか、その方策方途を求めて苦吟した。これを思えば、黒船乗船の試みを、単なる好奇心の強さで見ようとする松陰論のバカバカしさが透けて見えてこよう。

 吉田松陰の凄さは、日本神州論を基底として保持しつつ、当初は水戸学的尊王論に依拠していたが後に「天朝、幕府共に不要論」に転じ、自力の草葬志士政権創出まで展望したところにある。このイデオロギーと指針が松陰斬首後に引き継がれる。僅かの期間の薫陶でしかなかったが松下村塾塾生に展望を与え、これに薩長土肥その他諸藩の有能士が結合して行くことになった。その後の歴史は松陰が指針せしめた通りの動きとなり、幕末維新、明治維新へと向かう。

 その過程で倒幕派佐幕派が血で血を争い、多くの志士が倒れた。最期の回天事業では、討幕軍と幕府軍が内乱期待のネオシオニズムの戦略を見抜き、乗ぜられることなく江戸城無血開城へと導いた。これにより維新政府が成るが、新政府の要人は不幸なことに多くの者がネオシオニズムに籠絡されて行くことになる。これをシオニスタンと云う。だかしかし松陰イデオロギーは続く。幕末維新の良心派は永続革命を求めて士族の反乱へと続く。この抵抗が悉く鎮圧された頃より、明治維新権力の日本帝国主義化が始まる。土着的な松陰的西郷的イデオロギー、政治論は地下に潜る。こういう構図ではなかろうか。

 松陰の獄中記「幽囚録」文中の近邦アジア征服論をもって、松陰を排外主義者として捉える評論がある。これに一言しておきたい。実際には次のように述べている。「來原良三に与うる書」の中で、「富国強兵し、蝦夷をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米を拉き(くじき)欧を折かば(くだかば)事克たざるはなからん」。これをどう読みとるべきか。

 松陰の近邦アジア征服論は日本帝国主義的なものとして指針されていたのではなく、あくまで当時の西欧列強による世界の植民地支配の趨勢に対抗せんが為の橋頭保として東亜共栄圏的なものとして構想されていたのではなかろうか。この面を見ずに単に排外主義的日帝論者として看做す論は凡庸過ぎやしないだろうか。日本の被植民地化は日本だけでは護れない国際的なものであることを見据えてのグランドデザインとして理解すべきではなかろうか。その是非は別として、理解だけはかくせねばならないのではなかろうか。

 松陰を語る時のもう一つの功績として、「飛耳長目(ひじちょうもく)」を挙げねばならぬ。松陰は、或る対象を分析する場合の要件として、情報収集、動静分析を格別重視している。松蔭自身、日本全国、北は東北から南は九州まで、みずから脚を伸ばし各地の情報収集、動静を探っており範を示している。また長州藩に対して、主要藩へ忍者のような情報探索者を送り込むことを進言したりもしていると云う。これも、兵法学的実践論の観点から生み出されたものであろう。机上のデスクワークでもの知り顔する痴れ者の多い今日、耳の痛い話であろう。

 以上、ざっと確認しておく。松陰論の必要は、現代政治のお粗末さの対極にあるものとして捉えられねばならぬ。れんだいこの意識がそのように転じたのだが、これは一人れんだいこだけのものではあるまい。日本政治は明らかに与野党共に変調であり、余りにも遊び人の政治に堕してしまっている。政治が俄か仕立ての政治貴族によって弄ばれている。こう理解しないと現代日本の政局が理解できない。

 政治と云うものはそういうものではなく、民族の安穏悠久を求め、その為に命を賭けて歴史にしがみつき、ふるい落とされても新陳代謝して行くものてはなかろうか。こうやって日本の歴史は連綿と続いてきている。基本的な心構えの面で、現代政治は明らかに失格している。政治とカネ利権にうつつを抜かし正義ぶるのは、己の不正精神の裏返しの正義ぶりっこでしかないのではなかろうか。政治の透明性は必要である。それと、政治におけるカネ不要論は何の関係もない。キレイ過ぎる話には裏があるとしたものではなかろうか。

 その松陰は、安政の大獄の最期の犠牲者となる。獄中記「留魂録」は 処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられており全十六節からなる。細部の詰めまではできていないが、大凡は分かる程度にサイトアップして見た。先に紹介した二宮尊徳の「尊徳夜話」と並ぶ現代日本人民大衆の必読本としたい。こういう史書が大事にされず、どうでも良いような情報洪水攻めに遭わされているのが現代日本ではなかろうか。ささやかなりとも棹をさしておきたい。

 吉田松陰考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuishinco/shishiretuden/tobakuha/yoshidasyoin/top.html)
 二宮尊徳考
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/ninomiyaco/top.html)

 2010.7.19日 れんだいこ拝

 【吉田松陰学の勧めその3、吉田松陰式富国強兵論について】
 松重楊江氏の「二人で一人の明治天皇」(たま出版 2007年刊)は、松蔭について次のように評している。松重楊江死は、最初に明治天皇すり替え説を唱えた鹿島fの弟子にあたる。亡くなった太田龍氏も鹿島fは「日本民族の至宝、日本で唯一人のまともな本物の歴史家である」と書いている。
 「松蔭は、真に明治維新の指導者であった。明治の歴史を考えてみるに、維新政府はひたすら松蔭の理念を追い求め、道半ばにして失敗した革命だったとも言える」。
 「一つは、水戸学の主張した尊王攘夷であるが、尊王といってもそれは南朝正統論である。分かりやすくいえば、北朝である京都の天皇家を廃絶し、正統である南朝の天皇家を再興するという南朝革命論である。吉田松陰の唱える尊王とは、偽朝である北朝の孝明天皇を指すのではなく、長州にある大室天皇家を指す。松蔭は自らが「玉」を抱えていたからこそ、南朝革命論を唱えることができたのである。一口に尊王といっても、その対象が北朝か南朝かでは大違いである。(中略)

 しかし、革命家がそのテーゼを偽っていたのでは、革命の戦士たちは無駄な犠牲を払わざるを得ない。天狗党の暴走も、蛤御門の戦いも、この斉昭・慶喜の二代にわたる二枚舌、現代風にいえばダブルスタンダードのテーゼのために起こったのであって、志士達が水戸学をもって革命の原義としたのは無知無学による誤りだったのである。

 二つ目は、徹底した民族主義と侵略思想である。松蔭は水戸光圀の影響を受けて、(中略)神道による国家支配を主張した。維新政府と神道の癒着はここに始まったのである。また、安政元年〜二年に萩の野山獄において、松蔭は「来原良蔵に与うる書」の中で、「富国強兵し、蝦夷を耕し満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉(くじ)き、欧(ヨーロッパ)を析(くだ)かば事克(か)たざるはなからん」と書いている。これは、その後における日本の侵略戦争の道筋そのままである。(中絡)

 三つ目は、先の民族主義と矛盾するようだが、「解放」という理念であった。松下村塾出身の志士たちに指導された長州奇兵隊の中核をなしていたのは、部落解放の夢に燃える賤民出身の若者たちである。この解放の理念は、天皇のもとで全アジアが平等だとする点で、岩倉使節団の帝国主義とは対立する。これはいうまでもなく、後年、石原莞爾らが唱えた「大東亜共栄圏」の理想であった。

 松蔭は、『討賊始末』という書によって、「宮番の妻・登波の仇討」、すなわち賤民の女が長年の苦労の末、夫の仇を討つという苦心談を書き残している。これは、松蔭の理性や感性の中に、非差別民に対する理解がなければ書けなかったことである」。

 れんだいこがこれを論評する。(以下、略)
 吉田松陰は、安政三年五月一三日、「天下は一人の天下に非ざるの説を許す」の中で次のように述べている。

 「本邦の帝皇或いは桀村の虐あらんとも、億兆の民はただ当に首頭を並列して、闕(宮城)に伏して號哭し、仰いで大子の感悟を祈るべきのみ。不幸にして天子震怒して蓋く億兆を誅したまはぼ、四海の余明復た孑遺(げつい・のこり)あるなし、而して後神州亡ぶ。若しなお一民の存するものあれば、また闕に詣りて死せんのみ。これ神州の民なり。或いは闕に詣りて死せずんば、則ち神州の民に非ざるなり。この時に当り、湯武の如き者放伐の挙に出でなば、その心仁なりと雖も、その為(しわざ)義なりと雖も……決して神州人に非ざるなり。而して神州の民なお何ぞ之に与せんや」。

 れんだいこがこれを論評する。(以下、略)












(私論.私見)