「幕末人士列伝」 |
幕末の人士列伝をサイトアップしておく。「萩市出身の志士」、「幕末人物伝 」等々を参照する。 |
【大塩平八郎】 | |
【生田万】 | |
【小関三英】 | |
【渡辺崋山】 | |
【高野長英】 | |
【吉田松陰】(よしだ しょういん) | |
【橋本佐内】(はしもと さない) | |
【梅田雲浜】(うめだ うんぴん) | |
【梁川星厳】(やながわ せいがん) | |
【頼三樹三郎】(らい みきさぶろう) | |
【吉村寅太郎】 | |
【平野国臣】 | |
【佐久間象山】 | |
【横井小楠】 |
【倒幕派】 |
【長州藩・維新の志士たち】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【薩摩藩・維新の志士たち】 | |||||||||||
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【土佐藩・維新の志士たち】 | |||||||
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長岡謙吉ながおか けんきち(1834〜1872) 高知城下浦戸町医家の子として誕生するが、12、13歳の頃河田小龍に入門。安政6年長崎で西洋医学を学ぶ。文久元年脱藩するが半年間投獄。しかし再び慶応元年脱藩。後に海援隊に入隊し文司となり「海援隊規約」を成文、そして「船中八策」の案文を作成、 坂本龍馬の右腕となる。他にも海援隊刊行の諸本を作成する。 池内蔵太いけ くらた(1841〜1866) 高知城北小高坂で出生。文久元年江戸で学び、諸藩の尊攘志士と交わる。また、武市半平太 を助け勤王党の結成に力を注ぐ。文久3年脱藩、同年長州藩外艦砲撃で遊撃隊参謀として活躍。また、吉村虎太郎らの天誅組大和挙兵に参加。まさに血の気の多い青年志士である。そんな青年を龍馬は亀山社中に引き入れるが、坂本龍馬の思いも届かず慶応2年鹿児島に向かう途中遭難死する。 高松太郎たかまつ たろう(1842〜1898) 龍馬の家跡を継いだ高松太郎は、坂本龍馬の長姉千鶴の子として天保13年に生まれた。土佐勤王党に加盟するが叔父龍馬の勧めで勝海舟に入門。神戸海軍操練所で航海術を学び亀山社中、海援隊に加わり叔父龍馬の片腕として活躍した。 沢村総之丞さわむら そうのじょう(1843〜1868) 土佐郡潮江村の地下浪人に家に生まれる。間崎哲馬に入門、経学を学ぶ。その後、土佐勤王党に加盟し、長州尊攘派を探り西国諸藩の傾向を武市に報じ、文久2年3月24日 坂本龍馬と脱藩した。一旦は龍馬と別れるが勝海舟に入門した龍馬に再会、沢村もまた龍馬に誘われ入門した。そしてこれより海援隊に至るまで坂本龍馬と行動を共にする。龍馬死後、慶応4年海援隊が長崎奉行所を占拠した際、薩摩藩士を誤射し、両藩関係の悪化を恐れ自刃する。 岩崎弥太郎 いわさき やたろう(1834〜1885 現在の高知県安芸市一ノ宮に、地下浪人岩崎弥次郎の長男として生まれる。安政元年江戸で学び、高知帰国後吉田東洋に学ぶ。慶応3年後藤象二郎に長崎に招かれ、土佐商会に赴任する。この頃坂本龍馬との交流も有ったと言われる。土佐商会と称し、国際貿易を担当。これが認められ上士の馬廻に昇格、小参事として大阪の財務を委任された。明治4年藩設の九十九商会が解散すると、この施設を譲渡され三菱商会を創立、海運業を経営した。 中浜万次郎なかはま まんじろう(1827〜1898) ジョン・万次郎として有名。天保12年出漁中嵐により遭難しアメリカ捕鯨船に救出され、船長ホイット・フィールドに伴われ捕鯨を手伝う。のちに船長居住地であるマサチューセッツ州で、学校教育を受ける。嘉永4年日本へ帰国。土佐藩に引き渡された後、河田小龍の許で海外事情を明らかにした。その後も幕府に召され、書信翻訳や軍艦操練 所教授となり、万延元年遺米使節に通訳官として渡米。 河田小龍 かわだ しょうりゅう(1824〜1898) 高知城下片町に生まれる。13歳から絵画、儒学を学び嘉永5年に帰国した中浜万次郎を取り調べ「漂巽紀畧」を著述。安政元年には薩摩、長崎に赴き海外の新知識を体得する。そして近藤長次郎、長岡謙吉らに教え、また坂本龍馬にも海外事情を教え啓発した。 |
【熊本藩・維新の志士たち】 |
【横井小楠(よこい しょうなん)】 (1809〜1869年 享年61歳) |
熊本藩士の家に生まれ、10歳で藩校「時習舘」に入学。29歳で塾長となった。31歳で江戸に留学した後、熊本で私塾を開いた。50歳で越前藩主、松平春嶽の要請に由り藩の「賓師」となり、幕府の政事総裁職となった春嶽のブレーンとして国の指針「国是7か条」を建言した。 だが、政府の参与に就いた翌年、61歳で旧体制の過激派に暗殺された。 吉田松陰が私淑し、勝海舟が称賛、トルストイが驚嘆した人物。朱子学をベースにした仁政の理想を根本に据え、行動した。福井越前藩の政治顧問を務め、維新後の新政府で西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通らと共に参与の地位に就いた。薩摩、長州藩出身者を中心とする新政府の若きリーダーたちにとって、小木南は別格の庁論的存在であった。参与の中で肥後藩出身というのも異例であった。その実力の程が知れる。 小木南の残した言葉。米国留学に旅立つ甥に送った詩。「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。なんぞ富国に止まらん。なんぞ強兵に止まらん。大義を四海に布かんのみ」。「富国有徳」の思想。小渕恵三首相が所信表明演説で触れた。(2003.11.17日付け日経新聞文化欄、徳永洋「先覚者『小木南』魂は死なず」参照) |
【佐幕派】 |
徳川慶喜とくがわ よしのぶ(1837〜1913) 徳川15代将軍。水戸藩主徳川斉昭の子として生まれ、弘化4年一橋家を相続する。将軍後見職となり幕政改革に尽力し徳川家茂のあと将軍となる。大政奉還をした将軍として有名である。 |
松平春嶽まつだいら しゅんがく(1828〜1890) 春嶽は号名。名は慶永である。文政11年に生まれ、11歳で15代越前福井藩主斉善の養嗣となる。藩主になってからは藩政改革に努め、一橋慶喜と共に幕政改革にも励んだ。龍馬と出会ったのは文久年間の頃であろう、面会した龍馬の人物に魅かれすぐさま海舟への紹介状を与える。さらに脱藩浪士である坂本龍馬に加え、近藤長次郎らとも面会している。また、龍馬の脱藩赦免に際しても山内容堂に口添えしている。龍馬の人柄か、春嶽の度量の大きさか、とにかく幕閣にしては勝海舟に並ぶ大人物である。 |
勝海舟かつ かいしゅう(1823〜1899) 坂本龍馬の目標とする「世界の海援隊」「日本の洗濯」は、最大の恩師である勝との出会いから始まった。その海舟は、勝小吉の子として文政6年に生まれ嘉永3年赤坂に蘭学塾を開き、安政2年には長崎海軍伝習所に入所した。日本人としてはじめて自ら指揮して咸臨丸でアメリカへ渡航し、神戸操練所発足に際し軍艦奉行となる。龍馬と出会ったのは文久2年の事で、海舟は「斬りに来た」と語っているが、実際はそうではないらしい。禁門の変後による疑惑を負い操練所は閉鎖となった。大政奉還後の西郷隆盛との会見「江戸無血開城」は有名である。 |
【藩政改革派】 | ||||||
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