幕末通史3、薩長同盟から大政奉還まで |
1866(慶応2)年の動き |
【土佐の脱藩派が薩長同盟工作に動く】 |
この頃、維新の回天事業の為には薩摩と長州が同盟する必要があるとの空気が生まれつつあった。薩摩藩の出兵拒否の背景には、幕府がフランスの経済的・軍事的援助を受けて再興した暁には、倒幕派の中心である長州攻略後に薩摩へも同様な武力討伐が為される可能性がある、と察知し始めていた。薩摩藩は次第に倒幕派に傾きはじめ、長州と手を結ぶことを考え始めていた。 こうして局面は流動していった。以降、様々な流れが倒幕へと結実していくことになる。これら全ての流れを列挙して後を追うより、最も貢献したと思われる土佐藩脱藩武士坂本竜馬と中岡慎太郎(陸援隊を結成した)の動きからこれを見ていくことにする。しかし、薩摩藩は8.18日の政変・禁門の変を通じて長州藩から恨みを買っており、薩長連合の実現は容易なものではなかった。これが為し遂げられたのは、坂本竜馬と中岡慎太郎の奔走の賜物であった。 幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士・土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん・後の久元)、中岡慎太郎の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考える。土方と中岡は、同じ土佐藩士の坂本龍馬(さかもとりょうま)に協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出す。 まず、中岡は長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎(後の木戸孝允)に、薩長融和に向けての説得を開始した。また、土方は薩摩憎しで凝り固まっている諸隊の幹部の説得を始めた。坂本はと言うと、西郷をはじめ薩摩藩の有力者に、薩長同盟の必要性を説得していった。長州にとっても、幕府の征伐が目前に迫るこの状況を考えると、薩摩との同盟は渡りに船だったが、これまでの経緯から考えると、薩摩へのわだかまりがどうしても拭えない。また、西郷は、薩長同盟の必要性はとうの前から感じていたが、薩摩にいる島津久光は以前から長州に悪感情を持ちつづけていたので、西郷の独断ではなかなか同盟に踏み切ることが困難であった。このように、薩長同盟の道は困難を極めた。 そこで、坂本は一計を講じた。まず、坂本が設立していた貿易会社の亀山社中(かめやましゃちゅう)が薩摩と長州の間に入り、薩摩藩名義で外国から武器を買い、それを長州藩に売る、という策であった。当時の諸外国の貿易商は、長州藩に武器を売ることを幕府から厳禁されていたので、長州藩は幕府との戦いに備えて武備を整えるために、小銃や大砲といったものを外国から買い揃えることが出来なかった。そのために、坂本が仲介役として間に入り、薩摩名義で買った武器を長州に渡すことで、薩長間のわだかまりを払拭しようとした。 このような坂本の努力や、土方、中岡の不断の努力が身を結び、1866(慶応2)1月初旬、竜馬と中岡が薩長同盟の伏線として間を取り持ち、長州の桂を説得する。長州の一行(桂小五郎・三好軍太郎・品川弥二郎)が京都の薩摩藩邸の敷居を潜る。かくて長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見が催された。小松帯刀(たてわき)、坂本龍馬らの立会いのもとに話しあいが始まると。開口一番、桂は過去長州藩に対してとりつづけた薩摩藩の行動を論難した。それは溜(た)まっていたものを吐き出すような勢いで、長州人桂小五郎の口をついて出る痛切な薩摩批判だった。虚心に手をにぎりあうために、敢えて言っておきたい、それで事が破れるならやむを得ないという彼の悲壮な決意とも見えた。歴史を旋回させる両雄の息づまる会談である。「ごもっともでごわす」。終始黙って耳をかたむけていた西郷は、静かな声で、それしか言わなかった。この時点で、西郷は討幕の意志をかため、そのためには薩摩と長州が連合するしかないと考えていた。 1.10日、坂本龍馬は、三吉慎蔵、池内蔵太、新宮馬之助と共に上京するため下関を出発。1.19日、幕府の監視の眼をくぐってひそかに京入京する。薩摩藩邸に潜伏している桂を訪ねた。しかし、薩長同盟の盟約交渉はほとんど進展していなかった。竜馬はこの状態を桂に尋ねると、桂は「入京以来、薩摩藩から、ご馳走などの厚遇は受けているが、長州側から同盟を提案するわけにはいかない。そうすると孤立無援の長州藩があわれみを乞う事とになる」等の悲壮な心情を訴えた。長年いがみ合ってきた両藩のわだかまりはそう簡単に消えず、双方とも自重して、なかなか同盟締結の話を切出そうとしなかった。 坂本竜馬はお互いに牽制しあっている状況を聞き、西郷に桂(長州)の心情を伝え善処を求め、合わせて薩長同盟によって長州軍は喉から手がでるほど欲していた最新銃器と軍艦1隻を薩摩藩の名義で購入し譲渡する、薩摩藩は不足気味に悩んでいた京の薩摩藩兵の兵糧米を無償提供される。これを亀山社中(海援隊の前身)が斡施するという実利妙案を授ける。更に、西郷は桂の気持ちを汲んで、薩摩藩側から同盟の話を切り出すのが良いと秘策を授けた。この提案か決め手となり、薩長連合は実現することになる。 竜馬は西郷に「薩長同盟は、薩摩や長州だけの一藩の問題ではない。これは日本全体の問題である」と言い、西郷も竜馬の言葉に心を動かされ、薩摩藩から長州藩に同盟を申し込むことになる。薩長連合は一時流産かと思われたが、竜馬の胆力技で結実することになった。 |
【「薩長同盟」成る】 |
1.8日、西郷は、村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎(木戸孝允)を伏見に出迎え、翌1.9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。 1.20日、西郷は、京都市上京区にあった薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)邸で坂本龍馬立会いの下、桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約した。坂本龍馬がその提携書に裏書きをした。こうして遂に薩摩・長州二藩の秘密軍事同盟が結ばれた(「薩長同盟締結」)。かくて犬猿の仲であった両雄藩が和解し手を結ぶことになった。回天に大きく歩を進めた歴史的瞬間であった。 かって勝海舟の命で西郷を訪ねた坂本龍馬は、海舟から西郷の印象を問われて「馬鹿なら幅も知れない大馬鹿、利口なら途方もない賢者。小さく撞(つ)けば小さく響き、大きく撞けば大きく鳴り響く釣鐘のような男」と答えた。茫洋(ぼうよう)とした表情の西郷がそこにいて、それまでの経緯から至難と思われていた薩長同盟の密約は成立した。西南雄藩の薩長両国が手をむすんだことによって、幕府倒壊にいたる幕末の政局は確定したのである。
2.6日、桂小五郎、山口に帰着し、藩主へ薩摩との提携について復命する。またこの日、同盟裏書きを持った村田新八と川村与十郎が長州へ向かう。 |
【坂本竜馬のその後】 |
1.24日、坂本竜馬と三吉慎蔵は、薩長密約直後、京都寺田屋で伏見奉行所の捕方に襲撃され負傷するも危く難を逃れる(「寺田屋の変」)。入浴中のおりょう(お龍)が異変を感じ、裸のまま危急を知らせに二階に向った逸話が残されている。坂本は、薩摩藩邸に逃げ込み匿われた。 2.5日、坂本龍馬が、桂小五郎の手紙に同盟確認の裏書きをする。「寺田屋の変」の時の縁でお龍と結婚し、鹿児島へ新婚旅行に向かう。 3.4日、小松清廉、桂久武、吉井友実、坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らが大坂を出航し、3.10日、鹿児島に入る。3.16日、坂本夫妻、傷療養をかねて霧島一帯を遊行、霧島を登山する。坂本龍馬と妻の龍が日本初の新婚旅行を行った。 |
【長州の政変(高杉が奇兵隊創設、藩内クーデター起す)】 |
長州藩の実権は再度幕府恭順派に握られることになった。藩政は椋梨藤太ら俗論派により、思いどうりに動かされるようになる。高杉晋作や桂小五郎などの尊皇攘夷思想の有志たちは脱藩などしたが、以前地下活動をつづけていた。晋作は筑紫へ亡命した。長州尊王攘夷派は次第に追い詰められて行った。 高杉晋作は、このままでは尊皇攘夷の先駆的藩から後退してしまう。もはや逃げまわっているときでないと判断する。急遽、下関に帰った晋作は、 正義派政権(倒幕)の樹立のため 、奇兵隊をはじめとする、諸隊を回り幹部に決起を促すが、誰も賛同しない。しかし、そうした晋作の必死の呼びかけに、遊撃隊の石川小五郎、高橋熊太郎、力士隊の伊藤俊輔(博文)、馬関滞在中の佐世八十郎(前原一誠)が同調した( 総勢は84名のみ)。 ここで晋作は、大庭伝七(白石正一の弟)に遺書を送っている。晋作がこの行動に死を覚悟した。それは、松陰から教えられた死生観の実行でもあった。 奇兵隊は、「兵制の近代化」の嚆矢となった。高杉は、身分にとらわれない、国民軍とも言うべき「奇兵隊」を組織して、それを駆使した。高杉は、その後、病死しましたが、彼が創設した奇兵隊は戊辰戦争のときも、長州の主力として活躍する。この高杉の意志を継承したのが大村益次郎で、蘭医学者(医者)で緒方洪庵塾の塾頭にして、宇和島藩に呼ばれた時に日本最初の蒸気船を製作、そして、幕府の講武所(洋式訓練・砲術を教えるとこ)の教授、バツグンの語学力(翻訳能力)が評価され、その噂を聞いた長州藩が大村を藩士として招いていた。長州藩が四ヶ国連合艦隊と闘って惨敗し、藩の実権を高杉らのグループが握った時、大村は高杉から「軍政改革の立案と実施」を任された。 大村は、支農工商を問わず、有能な人材を集めて「奇兵隊」以下の部隊を編成、洋式訓練を施して、日本一の精鋭に育て上げた。それは、ナポレオンの「国民軍」にならって、挙藩一致の「藩民軍」であった。ちなみに、維新後、大村は「中央軍(国民軍)」の創設に取り組む。大村はナポレオン軍に習い、「徴兵制」を採用する方針で、当面の目標として、士官学校の創設や、外国陣教官の招聘など「健軍」の基礎作業に取り組んだ。 高杉は伊藤俊輔を誘い、奇兵隊士約100名を率いて突如クーデターを起す。功山寺に決起し、高杉率いるクーデター軍は武器弾薬や軍艦3隻を奪い、幕府恭順派をことごとく打ち破る。高杉晋作率いる奇兵隊のクーデターが成功し、これにより再び長州藩を尊皇攘夷、討幕論に統一した。再び正義派が実権を握ったことになる。 |
【幕府の第二次長州征伐】 |
この間、薩摩藩と長州藩が密かに同盟を結び、長州藩が近代的兵器を調達していることなど露知らない幕府は長州の政変に怒り、長州藩を徹底的に討伐するべく長州再征の内命を諸藩に下す。かくて再び長州征伐が決行された。これを世に第二次長州討伐と云う。
5.16日、将軍・徳川家茂(20歳)自ら大軍を率いて江戸を出発。閏5月22日に入洛して直ちに参内し、同25日に大坂城に入って本営とした。 6月、第二次長州征伐の軍を差し向けた。しかし、この再征には諸藩の反対も多く、征長軍は意気が揚がらないものとなった。 将軍家茂自ら出陣するが、第一次長州討伐の時と違って諸藩の足並みは揃わなかった。薩摩藩は出兵を拒否した。明らかに幕府の威信が低下していることを見て取った西郷は、長州再征は幕府と長州の私闘であるので出兵は拒否する、という方針で藩論をまとめ、自ら筆を取って長州再征に反対する拒絶書を幕府に提出する。薩摩の出兵拒否に驚いた幕府は、ここまで来ては後には引けないとばかりに、長州藩に強引に攻め込む。将軍家茂も病弱な上に体調が優れないなど幕府軍には不安な要素が多かった。幕府は諸藩に第二次長州征伐を発令、10万余りの兵が長州の四つの国境に配置され攻撃した。 6.7日、一橋慶喜が長州征討の勅許を奏請し、勅諚が降下。同日、幕府軍艦の富士山丸を中心とした艦隊が長州領周防大島の上ノ関砲撃を開始し、戦端が開かれた。大島口、芸州口、山陰口、小倉口の四方面で戦闘が行われた(「第二次長州征討開始」、「四境戦争勃発」)。 6.8日、幕府、長州藩に宣戦布告。 長州軍総指令官の大村益次郎は大島を見捨てる考えを伝えるが、海軍総指令の高杉晋作は軍艦1隻(夜半丙寅丸)で周防大島の幕府艦隊に奇襲攻撃を行い報復攻撃にでる。油断していた幕府軍艦は一時撤退を余儀なくされる。 6.13日、幕府軍、芸州口から長州藩領内に進撃。 6.15日、周防大島の幕府軍、逆撃を受けて退却する。幕府軍は、16日に石州口、17日に小倉口からも相次いで進軍した。四方の国境から攻め込んだことから、長州側では「四境戦争」と呼ばれている。陸戦でも、最新銃で運動性の高い軽装備をほどこした長州軍が大村益次郎が指揮のもと、連戦連勝を重ねていた。さらに、長州軍は幕府本陣がある小倉城を落とすべく九州対岸に上陸戦を計画する。この時、竜馬率いる亀山社中が長州の軍艦「ユニオン号」(薩摩藩桜島丸、のち長州藩乙丑丸)に乗り組み、幕府軍を相手に戦い、幕府軍艦を攻撃し長州軍逆上陸作戦を支援した。亀山社中の下関海戦参加が長州の勝利に大きく貢献した。 7.9日、西郷が、朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。 7.18日、長州軍、浜田藩浜田城を攻め落とす。 長州軍は大村益次郎、高杉晋作の活躍により幕府軍に大勝した。 長州へ攻め込んだ幕府軍はことごとく長州藩に叩きのめされ、各方面で連戦連敗となる。この幕府の敗戦は、以前述べました坂本竜馬の斡旋で手に入れた外国からの新式の武器を長州藩が効果的に使ったことにもよるが、一番大きな原因は、薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことにより、幕府軍の士気が一向に上がらなかったことによると考えられる |
【第14代将軍・徳川家茂が急死する】 |
7.20日、幕府軍が各地で連敗し続けていた時、江戸から大阪城に入り、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が病死した。幕府はこの将軍の死により、ようやく長州征伐の休戦命令を出すに至る。 |
【幕府の長州征伐失敗に帰す】 |
7.30日、一橋慶喜、徳川宗家相続に奉られる。 8.2日、高杉晋作率いる奇兵隊が小倉城を攻略占領した。その後、逃亡する幕府軍を追撃す。実際の戦闘でも、近代化された長州軍に幕府は陸に海に敗走を重ねた。 8.16日、徳川慶喜参内して、征長軍解散と諸藩召集を奏請して勅許を得る。8.21日、幕府へ征長停止の勅命が下る(第二次長州征討の終結)。幕府は戦闘を中止し、幕府軍は撤退する。第二次長州征伐の失敗は幕府の権威をおおきく失墜し、倒幕勢力を力づける結果となった。 8.21日・征長休戦の勅命が出る。 8.30日、岩倉具視が、姉婿の中御門経之、大原重徳ら22名の公卿を動かして孝明天皇に、「列参」による対面を請い、長州征伐の朝命による中止、朝廷の変革を要望した。孝明天皇は、不敬の至りと叱って、22名の公卿を処分した。 9.2日、勝義邦と広沢兵助が会見し、休戦協定を結ぶ。9.4日、幕府征長軍撤兵開始。翌年1.23日、幕府、長州征討解兵勅許を諸藩と長州藩に伝達する。第二次長州征伐は、長州軍の圧倒的勝利で終結した。この敗北により幕府権威の失墜はもちろんのこと、薩長同盟の表明が行われ討幕側勢力が急成長していくことになる。 |
【一橋慶喜が後継する】 |
12.5日、将軍・家茂の死後、一橋慶喜が将軍職に就いた。将軍家茂が大坂城で急死すると、あとを継げるものは、もう慶喜以外にはなかった。再三固辞した慶喜だが、ついに15代将軍に就任した。 慶喜公が将軍職に就くようにと求められた時に、「東照神君は天下の為に幕府を開かれたのであるが、余は天下の為に幕府を葬る将軍とならん」という意識を持った。幕閣、また慶喜公を支えて来た面々の中に、早くから、徳川の天下は絶対ではない、という認識があった。これが慶喜公の大政奉還の前提。一種の心理的な背景としてあった。これより十ヶ月後に大政奉還となる。 西郷は若き日、斉彬の命で一橋慶喜を将軍継嗣にするよう働いていたが、その慶喜が今度は西郷の敵となり、今後立ちはだかっていくことになる。 1867(慶応3)年5月、西郷は、薩摩、越前福井、土佐、宇和島という当時力を持っていた雄藩と呼ばれる四藩に、国政のイニシアチブを取らせるため、合議によって政治を運営する雄藩連合会議を、京において開催することに成功した。西郷はこの雄藩連合に全てを賭けていたが、四つの藩のそれぞれの思惑や利害関係の不一致、将軍・慶喜の巧みな政略などのため、会 議は不成功に終わった。 この雄藩会議の失敗により、西郷は日本の変革を成し遂げるには、幕府を倒し、新しい政体を築くしかない、という考えに達した。そのため、西郷や大久保は、倒幕への準備を着々と進めていった。 |
【孝明天皇急死する】 |
12.5日、孝明天皇崩御。孝明天皇(1831〜1866、天保2年〜慶応2年)は、徳川慶喜に第15代将軍を宣下して1週間後疱瘡を発病し、「容態急変で崩御」した。35歳の若さだった。あまりにも急な崩御のため倒幕派による毒殺の嫌疑がかけられ、厠から出た天皇が下から槍で刺殺されたという噂も当時ささやかれたが、毒殺説も飛び交い、そもそもまことしやかなデタラメ説なのかどうか今日でも真相は闇の中である。検死した医師の記録は宮内庁編纂の「孝明天皇記」にも記載がないと云う。これにつき、【孝明天皇暗殺考】で別途考察。 第14代将軍・徳川家茂の死から孝明天皇の死、明治天皇即位に纏わる経過は、その昔よりとかく噂の為されてきたところである。孝明天皇の経過は次の通りである。孝明天皇は、 1847(弘化4)年、16才で即位したが、この時期には米・英・仏・露の艦隊が相次いで来航し、開国か攘夷かで国内が大いに揺れた。孝明天皇は終始攘夷を主張し、ペリーが再び来航した年(1854)に改元して「安政元年」とし、自ら神社に『国家安泰』を祈り、全国の寺社に使者を派遣して祈祷させた。 1857年はイギリスがインドのムガール帝国を滅亡させ、中国の広州を占領して半植民地化してしまう年でもある。アメリカ総領事のハリスは、これら海外の情報を元に圧力をかけ、アメリカ有利の条約締結を迫った。これに対して幕府は腰くだけとなってしまうが、孝明天皇は断固拒否を主張し幕府にもそれを求める。しかし大老の井伊直弼は、独断で通商条約を結ぶ。 孝明天皇は、薩摩長州等の倒幕派とは組みせず、あくまでも幕府による攘夷を望んだため、薩摩長州の倒幕派からは次第に疎まれていった。異母妹の和宮(かずのみや)を徳川家に降嫁させ、孝明天皇と将軍家茂とは皇女和宮を通して、「義兄弟」となった。公武合体路線を双方が求めていたといういうことでもあった。朝廷内の岩倉具視ら倒幕派にとって、孝明天皇は彼らの理想実現を阻む「敵」となった。徳川家を温存させてその上に君臨したいと願う保守的な帝として映った。孝明天皇を排除し、「幼君」(睦仁親王:明治天皇)を擁立して一気に新しい体制へ移行したいと考えても不思議ではない。 |
1867(慶応3)年の動き |
【明治天皇践祚】 |
1.9日、睦仁親王(明治天皇)が践祚(即位)する(16歳)。摂政に二条斉敬。これにつき、「大室寅之祐→明治天皇考」で別途考察。 |
【土佐藩が海援隊を結成する】 |
1月中旬、長崎で、坂本竜馬と土佐藩家老後藤象二郎が密談し、これを期に土佐藩も旧来の公武合体路線から倒幕路線へと転換していくことになった。土佐藩の後藤象二郎は薩長に後れを取っていることに焦り、坂本龍馬に望みを託した。龍馬は私怨を捨てて後藤と手を組み、亀山社中は正式に土佐藩に属する組織「海援隊」となった。 しかし、坂本のこの頃の倒幕案は天下の政権を幕府から朝廷に返還させるという「大政奉還」(たいせいほうかん)論であり、西郷らの政権武力奪取論とはいささか対立し始めていくことになる。 4月、坂本竜馬が脱藩罪を許され、土佐藩の資金援助を得て土佐商会と亀山社中を吸収合併し、土佐藩付の海援隊を設立した。隊士22名、水夫30数人の構成であった。海援隊誕生を支援したのは、土佐勤皇党と激しく対立した後藤象二郎や福岡孝弟らで、土佐藩金の梃入れもあった。この背景には、ワイルウェフ号の沈没や大極丸の代金未払い問題等、多くの難題が発生し、亀山社中の運営が困難を極めていたことにあった。 海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立していて、仕事の目的は「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」であり、射利つまり利益の追求が堂々と掲げられていた。いわば、船会社と海軍を兼ねた組織で、その中で、隊士が航海術や政治学、経済学、航海術、語学などを学ぶ学校でもあった。 初歩的英語教科書「和英通韻伊呂波便覧」は、海援隊が版権を所有し、尚友堂が、発行者である。その序文の末尾に「慶応四年戊辰三月」とあるのを発行の日付とみなすと、前年11月に龍馬は京都で暗殺され、翌4年閏4月に海援隊は、藩命によって解散させられているから、解散寸前に龍馬の海外発展の夢を継ぐ隊士たちによって出版されたものであろうか。 海援隊約規は五則は次の通り。(一)、隊士の資格と任務、(二)、隊長の権限、(三)、隊士の心得、(四)、修業課目、(五)、隊中の会計と規定している。資格は「本藩を脱する者乃他藩を脱する者、海外の志ある者此隊に入る」とあり、その任務は「運輸・射利・開拓・投機・本藩の応援」と規定されている。 本部は長崎の小曽根家の別邸に置かれ、主要隊士は前記の亀山社中のメンバーに加えて、長岡謙吉(土佐)、野村辰太郎(土佐)、吉井源馬(土佐)、佐々木栄(越前)安岡金馬(土佐)、宮地彦三郎(土佐)、関義臣(越前)の七名が参加し、合計二十六名となった。これに水夫・火夫等が加わり、総員五十名程度だったと推測されている。 坂本龍馬は様々な当時の現象を世界という大きな視野で捉えて、航海通商策を考えられる思考能力があった。その発想の源を追及してみると、幅広く情報を収集・検索し、それを総合的に判断した上で実行に移すという、ぬきんでた実行能力を持っていた。そして坂本龍馬は優秀な隊士で組織された海援隊を率いていたが、それは政治結社であると同時に経済商社でもあった。この海援隊という組織集団は、当時の最も進んだ科学技術を集大成した西洋製の鋼鉄船を持つか、或いはチャーターして、それを自分達自らが運航する技術・能力を備えていた。 隊士の殆どは勝海舟に係わりを持つか、あるいは坂本龍馬等と共に神戸海軍操練所で海軍について基礎から学んだ仲間で、航海術・運用術・機関術・算術・天文学・気象学等を修得していたのである。そして中にはオランダ語や英語を得意とする者も加わって居たのである。こうして海援隊は、日本の政治・経済・文化を蒸気船という情報手段を使って変革していこうとした。それまでの様々な組織や集団が、武力を中心とした戦闘集団だったが、海援隊はそれらとは一味も二味も違った、近代的な知識集団だったのである。 そして隊長の坂本龍馬が束縛と規制を嫌い、自由を求めて行動する人間であったと同時に、海援隊を構成する隊士も脱藩者、軽格の武士、庄屋、町民と様々な階層の出身者が居て、隊内には自由な発想と雰囲気があった。その他にも大きな特色として、当時としては画期的な目的地へ物資を輸送する際の、定時性(決まった時・決まった場所へ)の確保という近代的な行動力を備えていたのである。 海援隊は隊士の役割分担が明確で、当時としては稀有な商社的な活動を行っていた。海援隊が発足すると直ぐさまイロハ丸衝突・沈没事件や、英艦イカルス号水夫殺害事件等が続け様に発生して、多難な船出となったが、その後九月になると丹後・田辺藩やオランダ商人ハットマンとの商取引がまとまり、活動は次第に活発になってきた。 一方では出版事業にも手を出し、その他京都にも書籍や鉄砲等を販売する直営店を置くなどして、多角的な経営を進めつつあった。亀山社中時代から薩摩藩の船舶の運用を実施することによって、報酬を得ていた。当時月額三両二分が支給されていたが、その後海援隊に改編されてからは、自給自足が原則となってきた。しかし隊の活動が軌道に乗るまでは、それどころではない有り様で、隊長・坂本龍馬の計らいで一ヶ月五両、年間六十両の給料が土佐商会から支給されていた。 海援隊は文官、武官、器械官、測量官、運用官、簿籌官、医官等に分けられていて、それぞれに担当者が居た。イロハ丸の場合には士官が佐柳高次、文官が長岡謙吉、簿籌官が小曽根英四郎、器械官(機関士)腰越次郎、水夫頭が梅吉であった。坂本龍馬は土佐藩を脱藩した後、勝海舟等に巡り会い、大きく羽ばたいていったが、その当時の時代背景について、それなりの予備知識があったのである。父八平の後妻・伊与の実家、種崎の御船倉御用商人で、回漕業を営んでいた川島家(下田屋・当時地元ではヨーロッパと呼ばれていた)に良く出入りして、海事と商業の実際を見聞していたのである。 既にこの時点で「万国地図」を見、その存在を知っていた。その上に河田小龍から中浜万次郎の漂流・アメリカ体験の聞き取り書き「漂巽紀略」の内容を詳細に伝授されていた。その事を裏付ける事例として文久二年に脱藩したとき、他の志士達と違って京都へ上らずに、先ず下関から薩摩方面を目指している。当時の薩摩藩には既に造船所や反射炉等当時の先進工業技術が芽ばえており、そうした事実を坂本龍馬は理解していたのである。 優秀な隊士の代表的な存在が近藤長次郎で、英語の学力や才覚に長けていた。また沢村惣之丞、白峰駿馬も得意の語学力を駆使して、外国人の応接掛を務めていた。長岡謙吉は「船中八策」を起草出来るほどの学識を持っていたし、「商法の愚案」を提出した陸奥陽之助は理論明敏であったが、この様に海援隊には優秀な人材があまた居たのである。 大半の隊士が勝海舟塾や神戸海軍操練所で、当時の最新技術を勉強・習得していた。特に菅野覚兵衛や白峰駿馬達は、当時の西洋製の大型船舶を操る高度の操船技術を身に着けていた。その他にも佐柳高次の様に、咸臨丸の乗組員としてアメリカ社会を見聞してくるなど、当時の先学も居た。長崎に本部を置いていたので、当時としては諸外国の最新情報を、いち早くそして比較的容易に得ることが出来た。隊士の一人、橋本久太夫は、元来が幕府軍艦の乗組員で、当時の最新式の船舶(特に軍艦)を乗りこなす技術力を持っていた。そして当然ながら水夫・火夫も当時の先端技術を身に着けていたのである。 海援隊の組織は斬新で、亀山社中時代から海援隊を通して、土佐藩以外の出身者も分け隔て無く迎え入れ、同等の扱いをしている。この事は「本藩(土佐)を脱する者、他藩を脱する者、海外に志しある者」を隊員とすることが、「海援隊約規」に明文化されており、幕藩体制下の当時としては考えられない、自由な発想を持った組織であったことが裏づけられる。 |
【土佐藩の「大政奉還」論浮上する】 |
後藤象二郎は土佐藩の雄藩的地位を確保せんとして「大政奉還」論を吹聴し始め、西郷に大政奉還の主旨に同意を求める。が、「主旨は大いに理解し賛成するが、現在の日本の状況は建白などで打開することは困難である」と拒否され、土佐藩の動きとは別に倒幕へ向けての用意を独自で進めることを表明した。 |
【海援隊の「いろは丸事件」】 |
4.23日、いろは丸事件起きる。深夜、瀬戸内海で、海援隊の大洲(おおず)藩の気船「いろは丸」(オランダ船籍、45馬力、156トン)が紀州藩の気船「明光丸」(イギリス船籍、150馬力、887トン)に衝突され沈没。龍馬は、紀州藩に「万国公法」で交渉、賠償金8万3000両(実額支払い7万両)を獲得。5.29日、五代友厚の仲介で、いろは丸事件の談判成立。紀州藩は龍馬に煮え湯を飲まされたことになる。 |
【倒幕の鐘が鳴る。坂本竜馬の「革命の青写真」が浸透する】 | ||||||||||||||||||||||||
6.9日、坂本竜馬は京都に向かう途上の長崎から兵庫に向かう土佐藩船「夕顔丸」の船中で、「船中八策」を構想する。土佐藩の採るべき方針として後藤象二郎に提示した。これを土佐藩が採用、幕府に建白書を提出することになる。これが「五箇条のご誓文」の下敷きになる(「坂本竜馬が船中八策を後藤象二郎に提示」)。
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「船中八策」の意義は、新時代の青写真を呈示したことにある。且つ水戸学の水準を超えて汎ナショナリズム的観点から要点を書き出しているところに一層の値打ちがある。当時、竜馬以外にはこの見識が披瀝できなかったという意味で、竜馬の史的地位が刻まれている、と思われる。 |
【土佐藩が陸援隊を結成する】 |
7.29日、海援隊設立にやや遅れてに「陸援隊」も設立され、中岡慎太郎が隊長となる。陸援隊の母体は文久2年10月、江戸に下向する前藩主・山内豊信(容堂)に追従した尊攘派の「五十人組」。慶応3年7月、土佐藩参政佐々木高行の許可を得て、同藩の京都白川屋敷を根城に、諸藩の志士や十津川郷士を収容した。隊員は50人。主要隊士は、中岡慎太郎、田中顕助、大橋慎、香川敬三、木村弁之進、陸奥源二郎、本川安太郎、松島和助、武野虎太、山崎喜津馬、竹中与三郎、中井庄五郎、岩村精一郎、藤沢潤之助、関雄之助、山脇太郎、前岡力雄、加納宗七、斎原治一郎、宮地彦三郎、豊永貫一郎、中島作太郎、大江天也ほか。 12.8日、侍従・鷲尾隆驟を擁して高野山に拠り、鳥羽・伏見の開戦後、隊を解散して、隊士は東征軍に参加。 |
【「ええじゃないか」踊り】 |
1866年、江戸幕府の長州征伐の噂が流れると、商人は米を買い占め、米の値段は三倍以上にも上がった。米を買えなくなった町人たちは、米屋や商人の家を襲い、家や蔵を壊して物品を奪った。これが打ちこわしで、幕末には百姓一揆と絡み合って多くの打ちこわしが起こった。 「開国にともなう経済の混乱と政局をめぐる抗争は、社会の不安を大きくし、世相を険悪にした。国学の尊王思想は農村にも広まって、世直しの声は農民の一揆でもさけばれ、大阪や江戸でおこった打ちこわしには、為政者への不信がはっきりと示されていた。教派神道とよばれる民衆宗教がこのころ急激に普及、伊勢神宮への御蔭参りの流行、1867(慶応3)年、京都一帯に熱狂的におこった「ええじゃないか」の乱舞は、宗教的形態をとった民衆運動として、討幕運動にも影響を与えていった」。 8月頃、東海地方の名古屋に「お祓いさんが降る」との噂が無がれ、京都を始め各地で男も女も躍り狂う「ええじゃないか踊り」の騒ぎが拡がりを見せ流行し始めた。こうして世間が騒がしくなりつつあった。人々は仕事を投げ出して商人や役人の家に上がり込み、歌い踊りながら物品を強奪した。これらは幕府の政策に対する庶民の反乱であったが、その混乱を利用して倒幕の志士が活動した。 「ええじゃないか」踊りの歌詞は一定していないが、例えば「よいじゃないか、ええじゃないか、臭いものには紙を張れ、破れたら又張れ、ええじゃないか、ええじゃないか、日本の世直りはええじゃないか、豊年踊りはおめでたい、おかげ参りすりゃええじゃないか、はあええじゃないか」という大衆扇動的な文句を連ねており、世直し一揆や尊皇倒幕運動と軌を一にしていることに特徴があった。 11.13日、京都町奉行、ええじゃないか踊りを禁止している。農民一揆、打ち壊しは、燃え広がり、一段と激しさを加えつつ慶応3年が終わる。 |
【雄藩の密約】 |
9.18日、長州と薩摩の両藩、倒幕挙兵の順序について約す。同日、芸州船震天丸、田辺藩士、海援隊士らと兵器を満載して長崎を出港。 9.20日、震天丸下関入港。伊藤俊輔、坂本龍馬と下関で会見し、薩・長・芸3藩連合出兵を説明する。菅野覚兵衛と陸奥陽之助、ライフルの一部を持って大坂へ向け陸行。 9.25日、坂本龍馬、土佐藩重臣渡辺弥久馬・本山只一郎・森権次と会談。ライフルを土佐藩に売却。 |
【土佐藩が、藩主山内豊信の名で大政奉還を徳川慶喜に建白】 |
10.3日、土佐藩が、藩主山内豊信の名で大政奉還を徳川慶喜に建白。幕府を含めた朝廷中心の合議的連立新政権の樹立を上申した。徳川家が力を温存したままの大政奉還に反対する武力倒幕派の薩摩藩の大久保らは、倒幕の密勅を得るよう画策していくことになる。 |
【大久保利通と岩倉具視の暗躍】 |
10.6日、大久保利通、品川弥二郎、岩倉具視、中御門経之らが王政復古の方略を謀議。 10.8日、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀は連署して、討幕の宣旨の降下を中山忠能・中御門経之・正親町三条実愛(さねなる)らに請願する。 10.9日、岩倉具視が王政復古の意見書を密奏。 |
【重臣会議】 |
10.11日、徳川慶喜が、在京の、京都にいる諸大名の代表者といえる面々を二条城に集まるよう召集する。 徳川家政治顧問・西周の諸大名会議の政治構想に基づき、慶喜公が、在京40藩の重役を召して「大政奉還ということをやろうと思う、意見のあるものは申し出よ」と諮問する。 10.13日、徳川慶喜が、京都二条城で、各藩の重臣らに大政奉還を諮問する。薩摩藩の小松帯刀(たてわき)、土佐藩の後藤象二郎らが、慶喜に速やかに統治権返上を迫り、「今夜中に使者を朝廷に遣わし、明日(慶喜が)自ら赴くべき」。慶喜が「支度が整っていない」と答えると、「ならば我らを遣わしてくれ」と迫ったと伝えられている。 |
【大室明治天皇が京都明治天皇にすりかわり倒幕の密勅を下す】 |
10.13−14日、京都明治天皇にすりかわった大室明治天皇が、薩長両藩に倒幕と会津・桑名誅伐の密勅を下す。倒幕の密勅が薩摩に、藩主官位復旧宣旨が長州藩にそれぞれ降下する。慶応3年10月、岩倉・三条・中山ら倒幕派公卿は薩摩藩の大久保利通の要請により、外祖父の中山忠能がいる限り、意のままになる天皇から倒幕の密勅を得て、13日・14日には薩摩・長州両藩に倒幕の密勅がだされた。西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している。10.15日、、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。 10.14 日、正親町三条実愛邸において、薩摩藩大久保利通に、徳川慶喜の討滅を命じた詔書が下された。西郷、小松、大久保と連名で請書に署名する。 薩長両藩への討幕の密勅降下、王政復古の大号令などの過程で、大久保利通が岩倉具視と結んで討幕への動きに指導的な役割を果した。 |
【徳川慶喜が「大政奉還」する】 | ||
10.14日、討幕の密勅が薩長に下った奇しくも同じこの日、慶喜が大政奉還を願い出て、翌日勅許される(「徳川慶喜が大政奉還の上表」)。「最後の将軍」徳川慶喜は遂に将軍職を辞し「大政奉還」が実現した。ここに、15代続いた江戸幕府は幕を閉じることとなった。建白書を受けて一週間で決断をされていることになり非常に素早い決断であった。 将軍・徳川慶喜は、「大政奉還以外に新しい道を切り開く方法はない」と断を下した。幕府が自ら進んで朝廷に政権を奉還することにより薩長の討幕の大義名分を無くすことが出来、内乱が回避され、徳川の安泰も保障されると考え、土佐藩の建白を受け入れ大政奉還に踏み切る。幕派の出鼻をくじく狙いであった。
このため、薩摩藩をはじめ討幕派は武力行使ができなくなった。この慶喜の思い切った行動は、朝廷や薩摩、長州藩に衝撃を与えた。江戸幕府開府以来、政権を幕府に委任してきた朝廷は、突然慶喜から政権を返上され、その対応に困った。慶喜が大政奉還に踏み切った理由でもあり、政治を運営する能力や事務処理能力などあるはずもない朝廷は、幕府が政権を奉還したとしても結局その処置に困り、また幕府に政権を委任してくるだろうとの読み筋であった。この慶喜の策略は的中する。朝廷内部では、取りあえず政権をもう一度幕府に委任してはどうかという論も出てくる。 慶喜公に大政奉還を促した背景に、政権は分断されてはならないとする判断があった。「とにかくここは日本国内一致という為には、政権は一つにしなければならない。二つあったのでは、駄目である「」。大政奉還の上表を出した後、これでは戦国時代のように大名の割拠状態になるのではないか、と言った人に慶喜公はこう答えている。
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