幕末通史4、大政奉還から江戸城無血開城まで |
(れんだいこのショートメッセージ) |
森村誠一氏の「虹の生涯、第11回」(「歴史読本」、2002.11月号)で、この頃の流れが考察されている。以下参照しながら見ていくことにする。 |
1867(慶応3)年の大政奉還後の動き |
【大政奉還後の情勢】 |
大政奉還後も、将軍慶喜は依然として二条城に鎮座しており、薩長以下尊王倒幕よりの大名に睨みをきかしていた。要するに、形式は朝廷主導になったが、実質は依然として幕府が実権を握っていた。京都守護職の会津藩、所司代の桑名藩が両翼として備え、新撰組、見廻組が京都の特別警備隊として治安の任に当たっていた。大政奉還前と事実上何も変わっていない。 朝廷に政権が奉還されたものの、朝廷自体には政治能力は無かった。尊王倒幕の掛け声は瀰漫しつつも、統治システムが無かった。「政権をご不案内の朝廷へ御投げかけ、朝廷にても御もてあぐみに相成り」という親政空転の状況になった。 |
【坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺される】 | |
11.15日、京都瓦町の醤油屋近江屋新助方の2階(現在の下京区塩屋町311番地で、その時分は河原町通り蛸薬師下る)で、才谷梅太郎と名乗る坂本龍馬(33歳)、中岡道正こと中岡慎太郎(30歳)が共に暗殺される。この日はくしくも龍馬33歳の誕生日だった。11.17日、重傷を負っていた中岡慎太郎死亡。(「坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺事件」)(れんだいこの坂本竜馬論) この事件の首謀者を廻って諸説が入り乱れている。11.26日、近藤勇、坂本・中岡暗殺について事情聴取されている。12.7日、海援隊士と陸援隊士、両隊長暗殺事件にからみ、紀州藩士三浦休太郎を襲撃、新撰組と闘争に及ぶ。 坂本龍馬は、海運業と貿易を営む亀山社中をつくり、幕府の第二次長州征伐の際には、長州の海軍を指揮した。後、亀山社中は海援隊と名を改めた。一方、中岡慎太郎は、竜馬と同じ土佐藩の武士で、武市瑞山(たけちずいざん・半平太)の元で土佐勤皇党に加盟し、脱藩。陸援隊を組織し、竜馬共々薩長同盟に奔走した同志であった。 坂本竜馬が暗殺されると、海援隊は求心力がなくなり長崎派と塩飽派の二派に分裂、1968(慶応4―9.8日に明治と改元)年閏四月に土佐藩の命により解散した。龍馬死後、土佐藩士・後藤象二郎が「海援隊」を引き継ぎ土佐商会とし、土佐商会の主任・岩崎弥太郎(写真右 1834〜1885年)がその後、「九十九商会」を経て順次発展させて郵便汽船三菱会社(後の三菱財閥、日本郵船)となった。明治18年(1885年)9月郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して、日本郵船会社が創立されている。 新海援隊。海援隊書記長 長岡謙吉の提唱で、慶3〜同4、土佐藩有志によって組織された旧幕領小豆島の占領治安維持部隊。隊士11名。この際、17歳から30歳までの壮丁を狩り集め、一隊を編成したのが梅花隊。塩飽諸島のほか男木・女木の両島、直島、福田、大部、草加部までその支配下においた。隊長・中岡謙吉、以下 八木彦三郎、間崎専吉、得能猪熊、橋詰啓太郎、堀謙吉、島崎金吾、島田源八郎、岡崎恭輔、島村虎豹(土岐真金)、武田保輔ら120名 明治元年秋、讃予諸島の倉敷県移管にともなって解散、隊士のほとんどは奥羽方面の征討戦に参加した。 |
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「民族のルーツを探す旅」の「部族完成摂理期間」が次のように記している。
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【新撰組の内ゲバ】 |
11.18日、伊東甲子太郎が、京油小路で新撰組に襲われ殺害される。直後に伊東派の新撰組脱退メンバーが駆けつけ新撰組と交戦し、さらに3人が死亡。 |
【「王政復古の大号令」】 |
12.2日、西郷隆盛と大久保利通が、後藤象二郎に王政復古を12月8日とする旨伝える。12.7日、西郷と大久保、王政復古を12.9日に変更する。 12.8日、朝議が行われ、摂政二条斉敬らが西宮に長州軍がせまっていることで恐怖したのか長州藩主父子と長州藩の全面的復権と長州兵の入京、そして旧尊攘派である倒幕派の岩倉具視・三条実美らの全面的赦免を許可しようというが、中川宮・範顕は徹底的に長州藩の復権の危険性と岩倉らの陰謀説を説いて反対するが、徹夜の朝議の結果おしきられて復権と兵の入京、そして赦免が許可されてしまう。 12.9日、朝には二条・中川宮・範顕ら幕府方公卿が退出、残った正親町三条・中山ら倒幕派公卿は尾張の徳川慶勝・福井の松平慶永らと土佐の山内容堂・後藤象二郎や薩摩の島津忠義・大久保利通・西郷隆盛、そして倒幕派の総大将である岩倉具視ゃ倒幕派皇族である有栖川宮熾仁親王・山階宮晃親王を次々に参内させ、西郷は御所の全門を薩摩・芸州・土佐・福井の兵でかため、幕府方が参内できないように占拠したのである。そしてクーデターが開始されることとなる。 西郷は公家らの動揺を押さえ、大久保と共に、朝廷を中心とした新政府を樹立するべく努力した。西郷が薩摩藩兵を指揮し、宮門を固めるなか、岩倉・大久保は国学者玉松操に起草させた王政復古の大号令を明治天皇に宣言させ、幕府・京都守護職・摂政・関白などの役職を廃止して天皇のもと総裁・議定・参与の三職を設置、新体制を発足させる。 「王政復古の大号令」がようやく煥発され、公郷中の同志岩倉具視・中山忠能(明治天皇の外戚)らと結束して、倒幕計画をつづけることが声明された(「朝廷が王政復古の大号令を発し、小御所会議が開かれる」)。 この時、1・幕府や摂政、関白制の廃止され、2・幼帝明治天皇を擁立して総裁・議定・参与の三職設置による国政運営が詠われた。かくて幕府に変わる新政府が発足し、ここに天皇中心の新政府が樹立された。次の時代への幕あけとなった。 |
【「小御所会議」】 |
しかし、この王政復古宣言は形だけのものであり、依然慶喜は幕府の強大な軍事力と領地を所有していた。そのため、西郷としては何とかして幕府の権力を奪わなくては、新しい政権の樹立にならないと考えた。そこで、王政復古の大号令が煥発された同夜、御所内の小御所において、当時、まだ15歳であった明治天皇が親臨のもと、諸藩の藩主や公家達が集まり、御前会議が開かれることになった。これを世に「小御所会議」(こごしょかいぎ)と云う。 この会議で岩倉具視ら反幕府公家らは、慶喜に辞官・納地(じかん・のうち、官職を辞職し、領地を返納する)を求めることを決定しようとするが、土佐藩主・山内容堂が強行にそれに反対し、「260年にわたる徳川の天下泰平の実績を無視して慶喜を外すのは、幼帝を擁して政権を壟断しようとする野心ありと見られても仕方が無い」と主張した。越前福井藩主・松平春嶽も、その容堂の説に賛成した。 それに対し、陪席を許されていた薩摩の大久保一蔵が、「大政奉還は内府(慶喜)、官位(征夷大将軍)、所領全てと共に返還しなければ、実質の伴わぬ形式に過ぎない」と反論し、岩倉具視が「そもそも王政復古の大要は徳川抜きで初めて成り立つものであり、徳川が参加しての王政復古は形のみにして、中身は徳川の独裁政権と何ら変わりない。ましてや、御若年の天子を擁して政権を壟断する野心ありとは、帝を著しく蔑(ないがし)ろにする不敬の発言である」と反論し、会議は紛糾した。つまり、武力倒幕派による幕府権力の解体路線と平和的倒幕派によめ和解路線とが正面衝突したということになる。 その会議の真っ最中、西郷は小御所での会議のことは大久保らに任せて、自らは薩摩藩兵を率いて御所周辺の警衛と諸隊の指揮にあたっていた。小御所会議での議論がもつれ、いったん休憩が設けられると、会議に出席していた薩摩藩の重臣・岩下佐次右衛門(いわしたさじえもん・後の方平)は、西郷を呼び出し、会議が紛糾していることを告げ、助言を求めた。岩倉もその席に来て、西郷の意見を求めると、西郷は「それは、短刀一本で用は足りもす」と言い放った。相手を刺すほどの覚悟を持ってすれば、事は開ける。西郷は会議に臨む心構えを岩倉にこう説いた。 岩倉は西郷のその言葉に勇気付けられ、山内容堂を刺し殺しても慶喜の辞官・納地を成し遂げる、と周りのものに言い放った。その岩倉の決心を回りまわって聞いた土佐の後藤象次郎は驚き、主君の山内容堂に対し、土佐藩がここまで幕府に肩を持つ義理はないことを進言し、これ以上岩倉らに反対することは土佐藩にとっても良策ではないことを説いた。山内容堂は後藤の言葉に翻意し、再開された会議において、沈黙を守った。これにより、慶喜の官位辞退と領地返納、摂政・関白の廃止が決定された。 かくて、慶喜は諸大名の中の一有力大名に過ぎない立場となった。公武合体派の賀陽宮(中川宮)以下諸公卿は謹慎を命ぜられた。宮門の警備も、会津・桑名の二藩の任が解かれ、薩・土・芸・尾・越の兵士に交代した。 小御所会議の結果、岩倉具見が政治の表舞台に踊り出てくることになった。「昨日まで古びたる被布つけて火桶に憑り居られしとは別人と見まがふばかりなりし」と云われたほど、岩倉はその後の政治中枢に食い込むことになった。 公武合体派の公卿であった中川宮朝彦親王、有馬範顕、二条斉敬、鷹司輔煕、近衛忠煕、近衛忠房らは、幕府に通謀したという嫌疑がかけられ、参朝停止・謹慎が命ぜられた。中川宮朝彦親王の主戦派家人と有馬家家令である城島和泉(守)則頼を中心とする有馬家主戦派家人は他の幕府派公卿家人の家人もひきつれて城島を首領に親友である見廻組の佐々木只三郎の指揮下に入り、鳥羽や伏見方面で参戦する。(「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」) |
【その後の政局流動】 | |
宮門の警備を解かれた会津・桑名以下親藩の兵士や擁幕派が続々と二条城に終結し始めた。その兵力は、新たに宮門の警備についた薩長以下5藩の兵力を圧倒していた。12.10日夜から11日にかけて、長州軍の先鋒隊が入京して来た。4年前の8月、京から追われて以来の晴れての入京となった。 その頃、徳川慶喜は軍勢を従えて、京都の二条城にいた。松平春嶽から小御所会議の結果を知らされた慶喜は、このまま軍勢を京に留めることは危険であると考え、いったん大阪城に退くことを決めた。辞官・納地を知った幕府兵が激昂し、薩長勢と衝突すれば、朝敵の汚名をかぶせられるかもしれないと慶喜は考えた。もう一つ、薩長主導の朝廷には政権担当能力は無く、新政権はいずれ破綻分解すると見て時間稼ぎを図った節がある。 12.14日、王政復古を諸藩に布告。徳川慶喜、辞官納地を拒否し、事態は悪化。12.16日、徳川慶喜、大坂城に英米仏蘭伊普6ヶ国の代表を招き、大政奉還と王政復古の情勢について伝える。 12.25日、三田薩摩藩邸が焼き討ちされ90人が死亡。慶喜の冷静な判断とは裏腹に、江戸では、庄内藩を中心とした幕府兵が、江戸薩摩藩邸を焼き討ちする事件が起こる。慶喜が薩長との争いを避けようとしていたが、もはや統制は利かなかった。江戸で同志らが薩摩藩邸を焼き討ちしたことを耳にした大阪城の幕府兵は、士気大いに上がり、薩摩討つべしとの論に火が付き、慶喜はその兵の勢いを押さえることが出来なくなった。この時点で、兵力は薩長軍が3千余、長州1千500余に対し、幕府軍は一万五千以上の兵力があった。 この頃、大坂城中が沸騰していた。当時、その場に居た人が次のように証言している。
慶喜公と老中板倉勝静の次のようなやり取りが証言されている。老中板倉勝静は、こういう状況ではとても抑えきれない、だから彼らを率いて京都に上ってほしい、と慶喜公に言上している。慶喜公は、ちょうど風邪をひいて休んでおり、床で孫子を読んでいた。その読みさしの孫子をさして、「敵を知り己を知らぱ百戦あやうからずと書いてあるが、いま幕府側に西郷吉之助のような人物がおるか」と板倉勝静に聞いている。板倉はしばらく考えて、「残念ながら居りません」。「大久保のようなものはおるか」と重ねて聞く。「おりません」。「それではこういうものはおるか」と、何人かの名前をあげて聞くが、板倉は、「そういう人間はおりません」と答える。「それでは、たとえ最初に勝ったとしても何時までも勝ち続ける事はできない。おそらく最後は負けを取り朝敵になってしまうだろう。自分はここで兵を動かすことはできない」。このように慶喜公は板倉を説得する。結果は、遂に抑さえ切れなくなって鳥羽伏見に進軍して、敗れて朝敵になる。 |
1868(慶応4、明治元)年の動き |
【「鳥羽・伏見の戦い」】 |
1.3日、幕府諸藩連合軍は「討薩の表」(とうさつのひょう)を掲げて、鳥羽、伏見街道の二街道を通り、伏見奉行所を本営ととした。新政府側は、主に薩摩藩兵を鳥羽街道に、長州藩兵を伏見街道に配置し、西郷自身は、京の東寺に本営を置き、戦況を見守った。そして、一発の砲声が鳥羽方面に響く。鳥羽街道で幕府側と押し問答を続けていた薩摩側が、幕府軍に対し、砲撃を始めた。これを機に、伏見方面でも戦闘が始まり、「鳥羽・伏見の戦い」の幕が切って落とされた。「戊辰戦争」始まる。 戦いは初め、薩長有利で進無が、数を頼りにする幕府軍もじりじりと押し返し、戦局は一進一退の攻防を繰り広げた。しかし戦意・武器で勝る新政府軍は一歩も退かず旧幕府軍を撃退。翌1.4日、嘉彰親王が薩長軍本営に入り、事実上の官軍となる。薩長軍側に高々と錦の御旗(にしきのみはた)が翻り、戦局は完全に薩長を中心とした新政府軍の有利となった。錦の御旗を見た幕府軍は、戦意を喪失して、総退却を余儀なくされた。 退却した幕府軍の諸隊長らは、前将軍・徳川慶喜の直々の出陣を求めた。大阪城に無傷の約一万の軍勢を擁する慶喜の出陣により、士気を高め、もう一度薩長軍に戦いを挑もうとした。会津と桑名、特に会津藩は二千人くらいの兵士が京都に来ており、京都治安の最も強力な軍事力となっていた。事実、鳥羽伏見の戦いでも、会津は奮戦する。敵の鉄砲の乱射の中を抜き身を引っ提げて突っ込んで行くのは会津藩士で、その為に非常な損害を被った。 しかし、朝敵の汚名を受けた慶喜には、この段階ではもはや戦意はなかった。慶喜は諸兵士らに対し、明日出陣すると宣言しておきながら、老中・板倉勝静(いたくらかつきよ)、元京都守護職の松平容保ら数人と、夜中、密かに大阪城を脱出し、1.6日、慶喜は幕府軍艦で江戸に向けて出発した。 慶喜公が大阪城を出る時に、大阪城に残るものと出る者とに分け、老中板倉や永井は同行する。その時に慶喜公は京都守護職の松平容保と京都所司代の松平定敬、会津藩主と桑名藩主、この二人を一緒に連れて行く。軍隊の総指揮官二人が不在となった為、幕府軍は統制が取れなくなる。 翌朝、主のいなくなった幕府軍は狼狽し、かつ激昂した。そして、各自ばらばらに江戸へ向けて退却することを余儀なくされた。これにより、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全勝利となった。1868年が、干支で戌辰の年にあたるところから戌辰戦争とも呼ばれる。 |
【明治天皇即位、二重権力状態になる】 |
1.9日、明治天皇即位。 |
【官軍の進撃】 |
鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を東征大総督に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて江戸を目指し進軍することを決定した。西郷は、東征大総督府下参謀に任命され、東海道を通り江戸を目指すことになる。 1.9日、官軍、大坂城を占領。1.10日、新政府、徳川慶喜以下の官位を奪い、幕府領を直轄領と決定する。2.3日、新政府、徳川慶喜親征の詔を発布。2.6日、新政府、西国22藩に従軍令を発す。2.9日、新政府、大総督府・諸道総督府を設置。有栖川宮熾仁親王を東征大総督として東海道軍・東山道軍・北陸道軍の総指揮官とする。2.13日、先鋒総督に岩倉具定、総督府参謀に伊地知正治、乾退助が就任。2.14日、西郷隆盛、東征大総督府参謀となる。2.30日、フランス公使とオランダ代理公使が参内、イギリス公使パークスは、参内途上に襲撃される。3.6日、大総督府、江戸城総攻撃を指令する。3.6日、甲州勝沼で新政府軍と近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が衝突。3.9日、下野梁田で新政府軍と旧幕軍が衝突。 |
【滝善三郎切腹神戸事件】 |
明治政府の誕生から約1ヵ月後、新政府から京、大坂の入り口となる西宮警護を命ぜられた岡山藩が兵2千人の派遣を決定。1.4日、家老/日置帯刀(ひきたてわき)隊340ナが岡山を出発。1.11日、神戸村を通る時、フランス人水兵が隊列の間を横切ろうとした。この当時の神戸は開港したばかりで、海岸沿いに居留地建設が進み、各国公使も集まるなど異人達で賑わっていた。砲術隊長/滝善三郎が大声で注意し、身振り手振りを加えて制止させた。三宮神社にさしかかった時、隙をついて一人のフランス人が押し渡った。武士の行列を横切るのは「供割」(ともわり)と云う重大な禁忌であり、切捨て御免が許されていた。滝善三郎が、「無礼者!」と叫んで咄嗟に槍を突き出した。槍を背中に受けた水兵は付近の民家に逃げ込み、短銃を構えた。滝善三郎の部隊がこれに応じ、威嚇射撃を行った。停泊していた英米仏の陸戦隊が上陸、藩兵を攻撃し始めた。日置は全軍を六甲山麓まで引き揚げさせた。一連の戦闘で負傷者は出たが、死者は出ていない。 騒動はこれで収束しなかった。列強が事件を国家間の問題にしようとして「岡山藩が領事館に向け発砲した」として、神戸中心部や海上を占領、封鎖した。岡山藩は外国兵の理不尽行為が原因と訴えたが、新政府の伊藤俊輔(博文)が交渉に当り、英国公使のパークスの剣幕に押され、要求通り責任者の死罪を認めてしまった。新政府は万国公法(国際法)により滝善三郎のの処罰を行うと決定。従わなければ征討すると岡山藩に通告した。 滝善三郎は現在の岡山市北区御津金川を治める日置家家臣(家禄100石)の次男。小野一刀流の剣と槍の達人で、砲術にも通じ、和歌も好んだ文武両道の人だった。滝善三郎は主君らに迷惑がかかることを案じ、潔く受けいれた。日置は、「実に吾が家の忠臣」、岡山藩主/池田茂政は「馬前の討死にも勝る」と称え、跡継ぎに破格の知行500石を与えることを約束している。2.9日、神戸の永福寺で切腹が行われた。麻の裃(かみしも)姿で本堂に現われた滝善三郎は、伊藤ら政府関係者と列強公使団の代表が見守る中、自身に非がないことを堂々と主張し、「外国人の無法が事件の原因だが、新しい時代の法に従い切腹する」と述べた後、作法にのっとり表情一つ変えず腹を切り、見事な最期を遂げた(享年32歳)。死の前日に妻(はつ)、長男成太郎(4歳)、長女いわ(2歳)に記した遺書や辞世歌が今も子孫宅に残っている。滝善三郎は妻や娘と共に東山墓地に眠る。 |
【将軍慶喜の蟄居、恭順】 | |
鳥羽伏見の戦いのあと慶喜公は大阪城から海路江戸へ戻る。 1.19日、慶喜が江戸に帰り着くや、江戸城においてフランス公使レオン・ロッシュが頻りに訪ねて来て、慶喜公に軍艦・武器・戦費の提供を申し出て、熱心に挙兵を勧めている。慶喜公は、その好意には感謝しつつも、「日本国は他国に異なり、たとえいかなる事情ありとも、天子に向かいて弓を引くことあるべからず」と述べ、フランスの勧誘を断り、上野の寛永寺大慈院に謹慎し、恭順の態度を貫く(『昔夢会筆記』)。 この時、慶喜公がフランスの申し出を受け入れていたら、幕府側のフランス、薩摩・長州側のイギリスという構図で英仏の代理戦争が始まっていた可能性が強い。これは欧米列強による植民地化の方程式でもあったから、これを拒否した慶喜公の功績は注目されるに値する。鳥羽伏見の戦い以後、慶喜公が恭順の意を表し続けたことは、実に大きな歴史的意義があるということになる。この時の慶喜公の精神的基盤に義公以来の水戸家の家訓「公の為に私事を捨てる」、「もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことかあらんか、我等はたとえ幕府には反くとも、朝廷に向かいて弓ひくことあるべからず。これ義公以来の家訓なり」があったと思われる。 明治元年(慶応四年九月)春、佛国公使ロッシュの勧告を拒絶せられし事に関する記録(慶喜公伝巻七)は次のように記している。
1.25日、英米仏蘭伊普6カ国が、日本内戦に対し局外中立を宣言。 2.12日、徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは江戸城を出て上野寛永寺の塔頭大慈院に入り、蟄居謹慎の生活に入った。恭順派は和戦両面の計画を進める。 |
【暗殺予防令公布】 |
1.23日、暗殺予防令が公布された。新政府は、暗殺の対象になるような「不埒な者ども」は今後は政府が調査し、然るべき処分を行うので、単独勝手に過激な行動をしてはならないと声明した。 |
【堺事件(仏:Incident de Sakai)】 |
3.8日(旧暦2.15日)、和泉国堺町内で、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件が発生した。この事件及び顛末を「堺事件」又は「泉州堺事件」と云う。この経緯は次の通り(「ウィキペディア堺事件」参照)。 攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日 (旧暦)午後3時頃、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸、市内を徘徊した。夕刻、土佐藩軍艦府の命を受けた八番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、六番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵を連行しようとした。仏水兵側は土佐藩の隊旗を倒伏、逃亡しようとしたため、土佐藩兵側は咄嗟に発砲し、仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。遺体は16日に引き渡しを終えた。死亡した仏水兵は11名。いずれも20代の若者であった。 殺害された仏水兵11名は、神戸居留地外人墓地において駐日仏公使レオン・ロッシュ、駐日イギリス公使ハリー・パークスのほかオランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに埋葬された。ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げたが、それには「補償は一層公正であり、少しも厳しくないことはないであろう。私はフランスと皇帝の名において諸君に誓う。諸君の死の報復は、今後われわれ、わが戦友、わが市民が、諸君の犠牲になったような残虐から免れると希望できる方法で行われるであろう」という,復讐を誓った激烈な一文が込められていた。 事件発生の報は翌2月16日の朝には京に届いた。山内容堂は、2月19日早朝、たまたま京の土佐藩邸に滞在していた英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに、藩士処罰の意向を仏公使に伝えるように依頼した。この伝言は淀川を下り、夕刻には大坂へ戻ったミットフォードにより、兵庫に滞在する仏公使ロッシュに伝えられた。ロッシュは、同じく2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされるが、捕縛ではなく発砲による殺傷を目的とした野蛮な対応に外国は震撼した。 土佐藩は警備隊長箕浦、西村以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めた。一方朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者を数を減らすように要求。結局、政府代表の外国事務局輔東久世通禧らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下二十人を処罰すること。処刑の時間および場所などをまとめた。まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて決めた。 死刑となった顔ぶれは以下の20名である。切腹組は、箕浦猪之吉元章(25歳)、西村佐平次氏同(24歳)、池上弥三吉光則(38歳)、大石甚吉良信(35歳)、杉本広五郎義長(34歳)、勝賀瀬三六稠迅(28歳)、山本哲助利雄(28歳)、森本茂吉重政(39歳)、北代堅助正勝(36歳)、稲田貫之丞楯成(28歳)、柳瀬常七義好(26歳)の11名。以下は刑罰死組。橋詰愛平有道、川谷銀太郎重政(恩赦直前の1868年9月5日病死)、金田時治直政、竹内民五郎都栄、岡崎栄兵衛重明、土居八之助盛義、横田辰五郎正輝、垣内徳太郎義行、武内弥三郎栄久。 2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアール(Abel Bergasse Dupetit-Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請し、結果として9人が助命された。 |
【赤報隊の相楽総三ら8人が処刑される】 |
3.3日、赤報隊事件。諏訪で新政府赤報隊の相楽総三ら8人が処刑される。 |
【勝と西郷が政治的根回しに入る】 | |
官軍の江戸城総攻撃は3.15日と決められた。 3.9日、勝海舟、山岡鉄舟と捕虜の益満休乃助を西郷隆盛の元へ派遣。東海道を進撃する西郷の軍勢が、現在の静岡県の駿府に入ると、幕臣の山岡鉄太郎(後の鉄舟)が西郷に面会を求めてきた。西郷が山岡に会ってみると、山岡は勝の手紙を携えていた。手紙の内容は、嘆願書と言うよりも、どちらかというと、脅しに近いような内容が書かれていた。知略者勝らしいやり方であった。 手紙の要約はこうである。
西郷はその手紙を読むと、すぐさま大総督府に向かい、総督や参謀達と慶喜恭順降伏の条件を相談し、山岡のところに戻ってきた。そして、その条件を箇条書きにした書付けを山岡に手渡す。山岡はそれらの条件を一つずつゆっくりと読み終わると、西郷に対し、一つだけお請けできない条件があると言う。徳川慶喜を備前藩にあずけるという条件に対してであった。山岡は言った。「西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてください。島津候が現在の慶喜の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受けられるでしょうか。切にお考え下さい」。 山岡は、若い頃から禅や剣道で、強靭な精神力を鍛えていた。また、人物の押しも、西郷に負けず劣らず、堂々としていた。西郷は、その山岡の立派な態度に感心し、「分かりもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもす」と確約した。山岡もその言葉に感動し、泣いて 西郷に感謝した。山岡はその足で江戸に戻り、勝に西郷との面会の内容、降伏の条件等を報告した。 |
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江戸に向け駿府まで進軍してきた有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀/西郷隆盛と、勝海舟の命を受けた幕臣の山岡鉄太郎 (鉄舟)の会見は、伝馬町の桐油合羽製造・度量衡販売業であった松崎屋源兵衛宅で行われた。現在の静岡市葵区御幸町3番地21で「西郷・山岡会見の地」の碑がある。勝海舟は当初、この交渉を、徳川慶喜の信頼厚い高橋泥舟に依頼したが、泥舟は慶喜の側を離れる訳にはいかず辞退。代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦した。この会見で、将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡などが基本合意され、後の勝海舟と西郷隆盛との会談により正式決定。江戸城の無血開城実現の運びとなる。 |
【水戸学に基づく新方針打ち出される】 |
3.13日、祭政一致の達し。3.28日、神仏判然令。 |
【江戸城無血開城】 | ||||||||||||
東征大総督府は、江戸総攻撃を3.15日と決定し、続々と新政府軍は江戸に入ってきた。西郷も1868(明治元).3.11日、江戸の池上本門寺に入り、3.13日、江戸高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約3年6ヶ月ぶりに再会する。しかし、この日、西郷と勝の間に、江戸開城に関する重要な交渉事は何もなかった。ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れた。 3.14日、西郷と勝海舟の直談判が行われた。勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷のもとを訪れた。勝は概略次のように提案した。
勝は、欧米列強が両軍の死闘による疲弊を画策しており、日本が植民地化される危機にあることを説いた。幕府軍の力を誇示しつつ官軍に対して和睦の必要を説いた。西郷は、勝の提案を受け入れ、「色々難しいこともあるだろうが、自分が引き受ける」と答え、細部は別として大筋で合意した。西郷は、会談の結果を参謀会議へ持ち帰り、官軍大将の有栖川宮たる仁親王に報告、了承を経て翌日に控えた総攻撃の中止を命じた。 4.4日、西郷は、勅使ら数十人と共に入城した。田安慶頼(よしのり)が徳川家を代表して迎え、4.11日の正式明け渡しと定め、引継ぎの儀式を執り行った。 4.11日、「江戸城が無血開城される」。慶喜は、高橋泥舟の遊撃隊、山岡鉄舟の精鋭隊などに守られ水戸に出発、江戸城には薩摩、長州など7藩の兵が入城し、引渡しが執り行われた。こうして、世界的に見ても稀に見る「平和的な政権交代」による無血革命が執り行われた。当時、幕府側にも相当の軍事力が温存されていたにも関わらず、この政変劇は極めて珍しい。 勝は、著書「氷川清話」の中で、3.14日の会談のことを次のように述懐している。
この勝の回顧談で、西郷という人は、どんな人に対しても、礼を重んじ、丁重に接することを生涯心がけた人であったことが分かる。西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八(むらたしんぱち)、中村半次郎(なかむらはんじろう、後の桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えた。この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになった。 勝は、著書「氷川清話」の中で、西郷について次のように評している。
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【新撰組のその後】 |
新撰組の推移が徳川幕府の解体過程を物語っている。1868(慶応4).1月、「鳥羽・伏見の戦い」で6番隊組長・井上源三郎ら討死。江戸へ退却。同年3月、「新撰組」を中心に「甲陽鎮撫隊」を組織し甲州へ進軍。同年4月、2番隊組長・永倉新八、10番隊組長・原田左之助ら脱隊。局長・近藤勇が官軍に降伏。4.25日、近藤勇処刑される。同年5月、「新撰組」会津へ退却。同年7月、1番隊組長・沖田総司病死。同年12月、「新撰組」蝦夷へ上陸。函館「五稜郭」へ旧幕臣と共に篭城。1869(明治2).6月、副長・土方歳三戦死。「新撰組」も「五稜郭」も降伏。 |
【近藤勇の最期】 |
4月、近藤勇は、下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、降伏して越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。大久保が近藤と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4.25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された(享年35、満33歳)。斬首の際に「ながなが御厄介に相成った」と警護の武士に言葉を残して刑場の露と消えた。その首級は塩漬けにされて板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。 |