449―126 | 戦後在日の帰国運動 |
1959.12.14日に始まった「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」には多くの疑惑があるように思われる。通常「裏切られた史観」で論ぜられているが、れんだいこは少し違うのではないかと見る。これには、別サイトで考察した「吉田文書」が関係している(「吉田文書考」)のではないのか。この機密文書で明らかになる日本政府当局者の「在日朝鮮人所払い政策」と北朝鮮の「労働力確保政策」と恐らくは相当の裏金がジョイントして進められたものであり、ここに何らかの暗黙の協定があった可能性がある。れんだいこそう推理する。 かくて、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国者」は、関東軍のシベリア抑留同様にこの「歴史の非情さ」に翻弄されたのでは無かろうか。ということは、今日の我々が為さねば為らぬこととして、これを強く推し進めた主体の善意に関わらずその裏にあったものを炙り出さねばならないのではなかろうか。 れんだいこ史観から見えてくることは、ここでも宮顕が暗躍していると思えることである。丁度この時期、それまでの徳球時代が維持していた日朝共産党員の共闘関係が切断され、朝鮮人党員が党籍剥奪措置されている。それは日本当局者の意思であった筈であり、れんだいこは、宮顕がその意向に応えた措置を採ったと見る。帰国事業の促進もかねてよりの狙いであった。これにも宮顕が日共党中央の権威を利用して表から裏から画策したと見る。そういう様子が見えて来るのだから仕方ない。 こういう観点から以下考察することにする。主なる資料として「梁山泊掲示板管理人・金国雄氏の考察」その他を参照させてもらった。 |
【帰国事業推進の政治的流れ】 | |
1958(昭和33).9.8日、金日成は、北朝鮮創建10周年記念慶祝大会で、在日朝鮮人の帰国を求め次のように声明した。
この演説が在日朝鮮人の帰国運動を強力に展開する決定的な契機となった。 北朝鮮政府は1958.9.16日付、南日外務相声明で、帰国者をいつでも受入れ帰国後の生活をすべて責任をもって保障するという立場を再び表明し、10.16日には、帰国に要する旅費と船舶を祖国がすべて負担し、輸送の準備と帰国者の安定した生活と職業を保障すると表明するなど、帰国実現のための措置を次々にとった。 1958(昭和33)年の日朝協会第4回大会で、「北朝鮮共和国を積極的に支持し、このため日韓会談に反対し、在日朝鮮人集団帰国を強力に推進し、岸内閣の朝鮮政策を改めさせ、李承晩と対決する方向に運動を指向する」という北朝鮮一辺倒の政策を打出して、北朝鮮政府の意向に沿った政治色を強めている。この時、在日朝鮮人の集団北朝鮮帰国方針を強力に打出し、その実現成功の功が認められ畑中理事長は、同年7月、北朝鮮最高人民会議幹部会から第二級国旗勲章を授けられている。 つまり、1958(昭和33)年頃から、在日朝鮮人の間に共和国への帰国運動が台頭し、さらに日本の民間人の間にもこれを積極的に推進する「在日朝鮮人帰還協力会」が結成された。 11.17日、在日朝鮮人帰国協力会、日本自由民主党衆議院議員岩本信行らを中心に結成される。 12.25日、朝鮮金剛協同貿易商社、日本貿易3団体に対して、直接貿易の取引提案を打電。 1959.2.3日、共和国朝鮮国際貿易促進委員会、日朝貿易会等3団体に対し、朝鮮金剛協同貿易商社の提案は、両国民間人の合意による貿易として支持する旨の打電。 このような動きを受けて1959(昭和34).2.13日、日本政府はこの日の閣議決定で「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取扱いに関する閣議了解」を為し、在日朝鮮人の北朝鮮帰国を認め、日本赤十字社が赤十字国際委員会の協力を得て行なうこととした。「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」こととし、「帰還希望者の意思確認と帰還意思が真意であると認められた者の帰還の実現に必要な仲介とを、赤十字国際委員会に依頼する」とした。赤十字社の協定によったのは、日朝間に国交がなかったためである。 3.3日、新潟県帰国協力会が結成さる。 5.9日、共和国と直接貿易実現の為、日本貿易3団体関係者ら全国大会を東京で開く。 6.13日、日朝協会全国理事会、在日朝鮮公民の帰国希望者に帰国の実現支持を決議する。 6.24日、総聯、日朝協会、帰国協力会等3団体で、帰国業務連絡会議を結成する。 閣議決定を受け同年4月から日本赤十字社がジュネーブで北朝鮮赤十字と交渉を行い、その結果、8.13日にカルカッタで両赤十字社の間に「在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する協定」(以下、「カルカッタ協定」と記す)が署名された。乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保障すると取り決められた。 これを受けて日本赤十字社は、昭和34年9月11日、我が国政府に対し帰還業務実施について、正式に業務委託の通知を行うよう要精し、政府は同月29日付で日本赤十字社宛「在日朝鮮人帰還業務実施について」(厚生省発援第75号)と題する文書をもって、帰還業務実施を同社に委託する旨通知した。 以上の経過を経て、同年12.14日以降、在日朝鮮人で北朝鮮へ帰国することを希望する第一次帰還者の北朝鮮帰国が実施され、新潟港から帰国専用船で北朝鮮へ向かった。以降も同様に順次帰還して行った。 日本人側で帰国事業に積極的に協力したのは在日朝鮮人帰国協力会(会長=鳩山一郎、幹事長=帆足計、幹事=政党・労組代表・文化人ら17名、各県に支部)であり、自民党も社会党も共産党も、要するにあらゆる政党がこれを支持し、推進する立場にたった。窓口になったのは日本赤十字社であり、すべては「人道上の問題」として推進されていくことになった。 |
【帰国事業始まる、その時の宣伝】 |
北朝鮮への帰国は、日赤の帰国事業団の仕事として1959(昭和34)年より1971(昭和46)年まで161回、1981年まで187回、約9万3340人(日本人妻6800人を含む)、四半世紀続いた「帰国事業」となった。現在も年一回であるが少数の帰国があると言う。帰国者は、新潟の収容所(昔の陸軍新潟連隊の兵舎)(日本赤十字新潟センター)へ集められ、1週間近い収容所生活を経て新潟港より北朝鮮の清津(チョンジン)へ出港していった。 9万人余りの在日朝鮮人が、日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡った。 1960(昭和35)年、朝鮮総連(議長・韓徳銖)が全国の津々浦々で帰国協力運動を巻き起こす。この年は歴史的な安保闘争が闘い抜かれ、韓国においても李承晩政権が打倒されるなど激動の年でもあった。 朝鮮総連は、北朝鮮が今いかに大躍進を遂げ発展し続けているかを語り、千里馬(チョンリマ・一日に千里を駆け抜ける駿)の如きスピードで躍進する祖国の発展ぶりを伝えつづけた。北朝鮮を「躍進を続ける祖国」、「教育も医療も無料の社会主義祖国」、「地上の楽園」、「衣食住に何の不自由もない」、「祖国には失業者がいない」、「祖国には貧富の差がない」、「祖国の学校、教育制度、国家制度は、国民一人一人のため最大の配慮を目的としており、全ての点で何の心配もない地上の楽園である」、「金日成大学にもモスクワ大学にも留学できる」、と宣伝し、マスコミに対しても「帰国者の自由往来の実現と、北朝鮮に対するマスコミの公正で人権意識に基づく報道を求め」、各マスコミ、政治家、文化人の多くがこれを受けて、「人道問題」という美名のもとこの運動を支持していった。しかし、その先には「凍土の収容所共和国」が待ち受けていたことまでは知らされていない。 今日、「そこは地獄であった。劣悪な食事と住居、過酷な労働現場、青少年たちの勉学の夢を絶つなど悲惨な現実が待っていた。『約束が違う』、『だまされた』、『日本に帰してくれ』などと訴えた帰国者には韓国のスパイ、日本公安の手先の汚名が着せられ、強制収容所送りや見せしめの銃殺などきびしい制裁が加えられた」(「2001.6.4日付け北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会声明」)ことが命がけで生還した帰国者の口から明らかにされている。 |
【日本人妻問題】 | |
帰国事業が始まった1959年当時、日本人妻の問題はどのように認識されていたのであろうか。夫婦の双方が朝鮮人であった場合はまだしも、日本人妻(ないし夫)の場合、言葉や風俗習慣や生活レベルの問題など愛情だけでは解決できない数多くの不安を抱えながらの出発であったことが想像に難くない。1962年に上映された映画「キューポラのある街」は、この時の帰国事業の様子を描写しており、菅井きん演じる日本人の妻は同行を望まず、結局父親と子供たちだけが帰国するという展開になっている。これによれば、「日本人妻問題」は、帰国事業の開始当初から存在していたことになる。 三年後には里帰りできるという約束を信じた日本人妻は、ほんの一握りの宣伝用の里帰り以外はただの一人も日本の土を踏めないまま年老いていき、多くの人がすでに亡くなっている。 「小辞典No.0979」に次のように記されている。
「日本人妻自由往来実現運動本部」(のちの「〜実現運動の会」)が、「日本人妻問題」に逸早く取り組んだ。池田文子(本名=江利川安栄)を代表とするこの団体は1974.4月に結成され、日本人妻からの手紙を機関誌「望郷」のほか、「鳥でないのが残念です」(1974年)や「日本人妻を返して!」(1979年)として出版し、また映画「鳥よ翼をかして」(1985年)を製作するなど、この問題に対する世論形成に大きく関わってきた。 |
【帰国事業がどのように推進されたのか】 |
在日本朝鮮人総聯合会(以下「朝鮮総聨」と略す)が「(朝鮮民主主義人民共和国は)教育も医療も無料の社会主義祖国」「地上の楽園」という猛烈なキャンペ−ンを繰り広げ、在日朝鮮人を「帰国」へと組織した。 「祖国を知る集い」が組織され、集団帰国決議へと発展し、「その決意を込めた金日成に宛てた手紙」が書かれ、帰国運動を盛り上げていった。 帰還協定は、何度も継続され、67年までの間に約89,000人が帰国した(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。その多くは日朝二重国籍者であるが、日本単独国籍の日本妻が約1,600人余がいた)。「祖国への帰国」とは言うものの、実質は、社会主義国・新天地への「移住」であった。 この集団帰国の背景には、50年代の貧困と差別、偏見にあえぐ在日朝鮮人社会の閉塞状況があり、北朝鮮政府の労働力補充政策が作用した。帰国者には、日本での絶対的困窮と侮辱的な民族差別から脱出したいという消極的な選択とともに、民族的愛国心から北朝鮮の国家建設に参加したいという積極的な意志もあった。そのうえ、社会主義への幻想に惑い、被告による「地上の楽園」宣伝に踊らされて、最初の2年間に約75,000人が殺到するというブ−ムが起きた。 |
【マスコミの報道はどのように為されたのか】 |
1959.2.13日、日本政府が送還を決めると、韓国は、帰還は主権侵害と反発し、帰還船の安全を保証せず、李承晩ライン強化を示唆した。新聞は14日付け社説で一斉に政府決定を支持し、韓国の態度を批判した。毎日新聞は、「人道的見地から、居住地の自由選択という国際的原則に則ったもので、韓国が妨害の挙に出れば、正統政府の威信をさらに傷つける」とし、朝日新聞は、「懸案を解決するための当然の措置といってよいが、韓国の強硬な反対は、人道問題として遺憾とせざるを得ない」と論じた。読売新聞は、「在日朝鮮人の3分の2が韓国籍を取得しようとしない。帰還させたとしても韓国の面目が傷つけられる訳ではない」、産経新聞も「人道と正義の要請する責任の立場から送還に至ったことは誠に止むを得ない。(韓国の姿勢は)許すべからざる暴挙」と論じた。 第一陣の帰還時の報道は、「埠頭は興奮と感激のルツボだった。祖国への新しい希望に胸ふくらませて、一路清津港へと向かった」(毎日新聞夕刊)、「『夢のような正月』という見出しで、ごちそうは食べ放題、飲み放題で、賑やかな歓声がホテルにあふれていた」(読売新聞翌日の報)と書き付けている。 |
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判明することは、戦後左派運動の有力な担い手であった在日朝鮮人運動が、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業キャンペーン」によってその主力を北朝鮮へ召還させたという史実である。それは、「吉田文書」通りの事態が進行したことを意味する。この愚挙は、日本政府の思惑、北朝鮮からの手招き、それに呼応する宮顕系日共の後押し、マスコミのプロパガンダという具合に役者が勢揃いして押し進められた。 気づくべきは、ロッキード事件もそうであるが、左右、当局、マスコミ、司法その他諸々が相一致して事を進めていく構図が生まれた場合、一歩引いて思案を廻らす必要があるということであろう。その弁え無しに流れに乗ることは仕掛けに乗せられたことを意味する。後で気づいてももはや遅い。結局、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」の例も、要するに左派運動が頭脳戦でヤラレテイルことを証しているのではなかろうか、そんな気がする。 2005.3.28日 れんだいこ拝 |
【帰国者からの悲痛な手紙】 |
帰国者から悲鳴にも似た、助けを求める手紙が、日本にいる家族・肉親に送られてくるようになった。表沙汰にすると帰国者に累が及ぶので、日本に住む家族・肉親は秘密裏に懸命に対応した。まったく連絡が途絶えて行方不明になった帰国者を求めて必死に探しまわった挙句、その帰国者が処刑されていたことを知ったという痛ましいケ−スもある。また、最近9年間だけでも、日本の家族の住所を尋ねる約7,600通の手紙が日本赤十字社に届いている。 先に帰国した者は、日本に残る親戚に対し、売り食いのための日用品を帰国船で送ってくれるよう手紙で訴え続け、帰国船が往来している間は北朝鮮政府も日本の物資を得るために、帰国者の言動に対しある程度の目こぼしを許していたが、65年以降は極端なテロルと経済の破綻の進行により、片っ端から捕らえる「粛清」が支配し、帰国者の地位は重大な監視対象として極端に悪化し迫害が加えられ、飢餓も加わりその生活は凄惨を極めるものとなった。 |
【帰国事業のその後】 |
1959年12月から始まった帰国事業により60年末までに約52,000人の在日朝鮮人が北朝鮮へ帰国した。この成果は予想以上のものであった。しかし、61年以降帰国希望者の減少傾向は顕著となり、被告は被告及び北朝鮮の威信のために帰国者を募ることが至上命令となった。北朝鮮側は日本のインフルエンザの流行を口実に帰国船の配船を一時停止して時間を稼ぎ、その間に被告の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が61年早々から西日本一帯を遊説し、北朝鮮のバラ色の生活を宣伝し、帰国を拒む同胞には恫喝まがいの演説で帰国へと駆り立てた。 朝鮮総連中央本部でも「60万同胞たちよ!統一の日が近づいている。共和国に帰国し、7カ年経済建設計画に私も貴方も参加して祖国統一を早めよう!」を中心スローガンに、各階層の在日朝鮮人に帰国を訴える20数項目のスローガンを作った。そして川崎市での神奈川朝鮮人大会でスローガンの解説を行い、被告の全勢力をあげての帰国者集めを展開し、年齢別、職業別、地域別の帰国推進集団が無数に組織された。 青年・学生の中でも帰国推進集団が組織され、「金銀よりも貴い子女を持つ同胞よ!幼稚園から大学まで無料教育させてくれる共和国に帰国し、心ゆくまで勉強させ宝のような働き手にしよう!祖国統一を早めよう!」、「愛する青年たちよ!希望のない地で無駄に日々を送るのもそこまでにして、共和国に帰国して青春の情熱全てを捧げ、学び、働き、国の柱になろう」といったスローガンが青年層に向けて発せられ、被告の組織内部では帰国しない者は逆賊のような雰囲気が生まれ、活動家は家族を先に帰国させることで組織に忠誠を示さねばならない事態にまでなっていたのである。 |
【帰国事業の再開】 |
3年間の中断の後、71年から84年まで帰国事業は再開されたが、その後の帰国者は、共和国政府からの要求にもとづく、被告幹部・有力商工人の子弟、技術者集団、学生青年グル−プの強制的な送り込みや、政治的処分としての召喚といったもので、現在は帰国事業の形式だけは残っているものの帰国者はほとんどいない。かわりに、家庭訪問のための短期訪問集団事業や、祖国研修事業が活発に行なわれてきた。 |
【闘う者達の主張】 |
朝鮮総連の本来の役割は、在日同胞の民族問題、生活と権利についての協助組織、あるいは外向けには差別撤廃のための運動体としての役割を有しており、「八大綱領」に従っている。その三条は、「われわれは、在日朝鮮同胞の居住、職業、財産および言論、出版、集会、結社、信仰などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」と規定している。この規定は、構成員の「自由」を侵害する勢力が日本政府であれ、日本の社会勢力であれ、北朝鮮政府であれ何であれ、これらの抑圧と闘う責務を負っているというべきである。 「民主的自由」と謳っているのであるから、右「自由」には人間存在の根源である帰国者たる構成員又はその家族の「生命・身体の自由」を初めとして全ゆる基本的人権を享受する自由が当然のことながら含まれる。具体的には帰国者たる構成員又はその家族に対し、生命・身体の安全確保の責務・抑圧と隷属から人権を擁護すべき責務を負うというべきであった。 朝鮮総連は、帰国事業を推進するに当たり、未知なる国である北朝鮮の社会主義国家の実態を正確に紹介すべきであった。帰国希望者は単身、あるいは家族とともに日本における生活の全てを捨てて移住するものであるから、帰国勧誘にあたっては社会主義国家である北朝鮮の政治体制、社会体制、経済体制、教育体制等生活に直接関わりのある全ての事案に対し、正確かつ最新の情報を提供しなければならない義務があった。その意味で、帰国事業発案者であり促進者であった朝鮮総連の責任は重い。 朝鮮総連は、北朝鮮の正確な情報及び帰国者の実状を調査することなく、むしろ故意に秘匿した経過を持つ。更に、帰国者が北朝鮮においては監視対象=動揺分子として密告の対象とされていること、少しでも体制に不満をもったり日本での生活を口にしたと密告されれば、突然内務署員に拉致され消息を絶たれ、強制収容所における監禁、拷問果ては処刑されてしまうような厳しい監視と迫害の下におかれるという重大な事実を、帰国希望者に対し一切告知していない。 北朝鮮には出身成分で人間を区分する制度が厳然として存在している事実、北朝鮮において唯一人間らしい生活を営むことのできる特権階級たる労働党員に帰国者はなれない事実(但し、87年以降の門戸開放政策により、党が認めた帰国者にのみ党員への道が開かれた。しかし、監視対象であることに変わりはない)、帰国者が監視対象として位置づけられ、それが何を意味し、どのようなものであるかを知らせることは、帰国者が北朝鮮で生存していくための最も重要な点であり、まさに生死の問題であるが、被告は一切これを告知していない。被告は在日朝鮮人をして北朝鮮の奴隷的労働力とするため、あるいは人質として日本に残る在日朝鮮人から情報と資産を搾取するための帰国事業でありながらこれを隠して帰国希望者を募った。重大な重要事項の不告知である。 また、北朝鮮へ帰国した帰国者の基本的人権の侵害、果ては生存権の侵害に至るあらゆる権利侵害に対し、被告は被告綱領3項による帰国者の権利を擁護する義務があり、これを行使する力量を備えているにもかかわらず被告はこれを怠り、帰国者を恐怖と危険にさらし続けたものであり、被告には帰国者に対する重大な保護義務違反がある。 北朝鮮では人民の基本的人権はもとよりあらゆる権利・自由が侵害されている。思想、表現、学問の自由、居住、移転、職業選択の自由、更に外国移住・国籍離脱の自由などは全くない。それどころか、婚姻や国内移動の自由も著しく制限され、労働者はひたすら命令された職場で働きその日の食糧を得る(その日を生きる)ことにのみ全精力を注がねばならない生活である。「地上の楽園」は「生き地獄」であり、囚人や奴隷と何ら変わりない生活状況である。帰国者はこの地獄から抜ける術はなく、原告のように奇跡的に脱出できた者は9万人を超える帰国者の中でわずか一握り程度である。そして、この僅かな人々による証言で北朝鮮における帰国者及び一般人民の実態がようやく明らかとなっているのであるが、被告は当然に北朝鮮国内における実態及び状況を即時に把握でき、北朝鮮における帰国者の悲惨な迫害生活を熟知していたものであるが、これを黙殺し、帰国者らの権利を擁護する義務を怠ったものである。 |
【<資 料>「031回-衆-外務委員会-04号 1959/02/06」(抜粋)】031回-衆-外務委員会-04号 1959/02/06昭和三十四年二月六日(金曜日)午前十時三十一分開議 |
○帆足委員 |
続きは、「金日成体制の功罪」
(私論.私見)