449―126 戦後在日の帰国運動

 1959.12.14日に始まった「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」には多くの疑惑があるように思われる。通常「裏切られた史観」で論ぜられているが、れんだいこは少し違うのではないかと見る。これには、別サイトで考察した「吉田文書」が関係している(「吉田文書考」)のではないのか。この機密文書で明らかになる日本政府当局者の「在日朝鮮人所払い政策」と北朝鮮の「労働力確保政策」と恐らくは相当の裏金がジョイントして進められたものであり、ここに何らかの暗黙の協定があった可能性がある。れんだいこそう推理する。

 かくて、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国者」は、関東軍のシベリア抑留同様にこの「歴史の非情さ」に翻弄されたのでは無かろうか。ということは、今日の我々が為さねば為らぬこととして、これを強く推し進めた主体の善意に関わらずその裏にあったものを炙り出さねばならないのではなかろうか。

 れんだいこ史観から見えてくることは、ここでも宮顕が暗躍していると思えることである。丁度この時期、それまでの徳球時代が維持していた日朝共産党員の共闘関係が切断され、朝鮮人党員が党籍剥奪措置されている。それは日本当局者の意思であった筈であり、れんだいこは、宮顕がその意向に応えた措置を採ったと見る。帰国事業の促進もかねてよりの狙いであった。これにも宮顕が日共党中央の権威を利用して表から裏から画策したと見る。そういう様子が見えて来るのだから仕方ない。

 こういう観点から以下考察することにする。主なる資料として「梁山泊掲示板管理人・金国雄氏の
考察」その他を参照させてもらった。


【帰国事業推進の政治的流れ】
 1958(昭和33).9.8日、金日成は、北朝鮮創建10周年記念慶祝大会で、在日朝鮮人の帰国を求め次のように声明した。
 「無権利と民族的差別と生活難にあえぐ在日同胞は、最近朝鮮民主主義人民共和国に帰国する希望を表明してきました。朝鮮人民は、日本で生きる道を失い、祖国のふところに帰ろうとするかれらの念願を熱烈に歓迎します。共和国政府は、在日同胞が祖国に帰り、新しい生活をいとなめるようすべての条件を保障するでありましょう。われわれはこれを民族的義務と考えています」。

 この演説が在日朝鮮人の帰国運動を強力に展開する決定的な契機となった。

 北朝鮮政府は1958.9.16日付、南日外務相声明で、帰国者をいつでも受入れ帰国後の生活をすべて責任をもって保障するという立場を再び表明し、10.16日には、帰国に要する旅費と船舶を祖国がすべて負担し、輸送の準備と帰国者の安定した生活と職業を保障すると表明するなど、帰国実現のための措置を次々にとった。

 1958(昭和33)年の日朝協会第4回大会で、「北朝鮮共和国を積極的に支持し、このため日韓会談に反対し、在日朝鮮人集団帰国を強力に推進し、岸内閣の朝鮮政策を改めさせ、李承晩と対決する方向に運動を指向する」という北朝鮮一辺倒の政策を打出して、北朝鮮政府の意向に沿った政治色を強めている。この時、在日朝鮮人の集団北朝鮮帰国方針を強力に打出し、その実現成功の功が認められ畑中理事長は、同年7月、北朝鮮最高人民会議幹部会から第二級国旗勲章を授けられている。


 つまり、1958(昭和33)年頃から、在日朝鮮人の間に共和国への帰国運動が台頭し、さらに日本の民間人の間にもこれを積極的に推進する「在日朝鮮人帰還協力会」が結成された。

 11.17日、在日朝鮮人帰国協力会、日本自由民主党衆議院議員岩本信行らを中心に結成される。
 12.25日、朝鮮金剛協同貿易商社、日本貿易3団体に対して、直接貿易の取引提案を打電。

 1959.2.3日、共和国朝鮮国際貿易促進委員会、日朝貿易会等3団体に対し、朝鮮金剛協同貿易商社の提案は、両国民間人の合意による貿易として支持する旨の打電。

 このような動きを受けて1959(昭和34).2.13日、日本政府はこの日の閣議決定で「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取扱いに関する閣議了解」を為し、在日朝鮮人の北朝鮮帰国を認め、日本赤十字社が赤十字国際委員会の協力を得て行なうこととした。「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」こととし、「帰還希望者の意思確認と帰還意思が真意であると認められた者の帰還の実現に必要な仲介とを、赤十字国際委員会に依頼する」とした。赤十字社の協定によったのは、日朝間に国交がなかったためである。

 3.3日、新潟県帰国協力会が結成さる。
 5.9日、共和国と直接貿易実現の為、日本貿易3団体関係者ら全国大会を東京で開く。
 6.13日、日朝協会全国理事会、在日朝鮮公民の帰国希望者に帰国の実現支持を決議する。
 6.24日、総聯、日朝協会、帰国協力会等3団体で、帰国業務連絡会議を結成する。

 閣議決定を受け同年4月から日本赤十字社がジュネーブで北朝鮮赤十字と交渉を行い、その結果、8.13日にカルカッタで両赤十字社の間に「在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する協定」(以下、「カルカッタ協定」と記す)が署名された。乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保障すると取り決められた。

 これを受けて日本赤十字社は、昭和34年9月11日、我が国政府に対し帰還業務実施について、正式に業務委託の通知を行うよう要精し、政府は同月29日付で日本赤十字社宛「在日朝鮮人帰還業務実施について」(厚生省発援第75号)と題する文書をもって、帰還業務実施を同社に委託する旨通知した。

 以上の経過を経て、同年12.14日以降、在日朝鮮人で北朝鮮へ帰国することを希望する第一次帰還者の北朝鮮帰国が実施され、新潟港から帰国専用船で北朝鮮へ向かった。以降も同様に順次帰還して行った。

 日本人側で帰国事業に積極的に協力したのは在日朝鮮人帰国協力会(会長=鳩山一郎、幹事長=帆足計、幹事=政党・労組代表・文化人ら17名、各県に支部)であり、自民党も社会党も共産党も、要するにあらゆる政党がこれを支持し、推進する立場にたった。窓口になったのは日本赤十字社であり、すべては「人道上の問題」として推進されていくことになった。

【帰国事業始まる、その時の宣伝】
 北朝鮮への帰国は、日赤の帰国事業団の仕事として1959(昭和34)年より1971(昭和46)年まで161回、1981年まで187回、約9万3340人(日本人妻6800人を含む)、四半世紀続いた「帰国事業」となった。現在も年一回であるが少数の帰国があると言う。帰国者は、新潟の収容所(昔の陸軍新潟連隊の兵舎)(日本赤十字新潟センター)へ集められ、1週間近い収容所生活を経て新潟港より北朝鮮の清津(チョンジン)へ出港していった。 9万人余りの在日朝鮮人が、日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡った。

 1960(昭和35)年、朝鮮総連(議長・韓徳銖)が全国の津々浦々で帰国協力運動を巻き起こす。この年は歴史的な安保闘争が闘い抜かれ、韓国においても李承晩政権が打倒されるなど激動の年でもあった。

 朝鮮総連は、北朝鮮が今いかに大躍進を遂げ発展し続けているかを語り、千里馬(チョンリマ・一日に千里を駆け抜ける駿)の如きスピードで躍進する祖国の発展ぶりを伝えつづけた。北朝鮮を「躍進を続ける祖国」、「教育も医療も無料の社会主義祖国」、「地上の楽園」、「衣食住に何の不自由もない」、「祖国には失業者がいない」、「祖国には貧富の差がない」、「祖国の学校、教育制度、国家制度は、国民一人一人のため最大の配慮を目的としており、全ての点で何の心配もない地上の楽園である」、「金日成大学にもモスクワ大学にも留学できる」、と宣伝し、マスコミに対しても「帰国者の自由往来の実現と、北朝鮮に対するマスコミの公正で人権意識に基づく報道を求め」、各マスコミ、政治家、文化人の多くがこれを受けて、「人道問題」という美名のもとこの運動を支持していった。しかし、その先には「凍土の収容所共和国」が待ち受けていたことまでは知らされていない。

 今日、「そこは地獄であった。劣悪な食事と住居、過酷な労働現場、青少年たちの勉学の夢を絶つなど悲惨な現実が待っていた。『約束が違う』、『だまされた』、『日本に帰してくれ』などと訴えた帰国者には韓国のスパイ、日本公安の手先の汚名が着せられ、強制収容所送りや見せしめの銃殺などきびしい制裁が加えられた」(「2001.6.4日付け北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会声明」)ことが命がけで生還した帰国者の口から明らかにされている。

【日本人妻問題】
 帰国事業が始まった1959年当時、日本人妻の問題はどのように認識されていたのであろうか。夫婦の双方が朝鮮人であった場合はまだしも、日本人妻(ないし夫)の場合、言葉や風俗習慣や生活レベルの問題など愛情だけでは解決できない数多くの不安を抱えながらの出発であったことが想像に難くない。1962年に上映された映画「キューポラのある街」は、この時の帰国事業の様子を描写しており、菅井きん演じる日本人の妻は同行を望まず、結局父親と子供たちだけが帰国するという展開になっている。これによれば、「日本人妻問題」は、帰国事業の開始当初から存在していたことになる。

 三年後には里帰りできるという約束を信じた日本人妻は、ほんの一握りの宣伝用の里帰り以外はただの一人も日本の土を踏めないまま年老いていき、多くの人がすでに亡くなっている。

 「小辞典No.0979」に次のように記されている。
 概要「『祖国帰国事業』の帰国者中、日本人妻が1831人いた。1997年8月の日朝交渉予備会談で、「故郷訪問」が合意された。しかし、1997年、98年、2000年の3回で、合計43人が『訪問』できただけで、北朝鮮は、その後、合意事項を履行していない。残り1788人÷1831人×100=約98%は、帰国ピークの1960・61年以後、40年間にわたって、日本訪問を事実上“禁止=出国不可能”状態に置かれている」。

 「日本人妻自由往来実現運動本部」(のちの「〜実現運動の会」)が、「日本人妻問題」に逸早く取り組んだ。池田文子(本名=江利川安栄)を代表とするこの団体は1974.4月に結成され、日本人妻からの手紙を機関誌「望郷」のほか、「鳥でないのが残念です」(1974年)や「日本人妻を返して!」(1979年)として出版し、また映画「鳥よ翼をかして」(1985年)を製作するなど、この問題に対する世論形成に大きく関わってきた。

【帰国事業がどのように推進されたのか】
 在日本朝鮮人総聯合会(以下「朝鮮総聨」と略す)が「(朝鮮民主主義人民共和国は)教育も医療も無料の社会主義祖国」「地上の楽園」という猛烈なキャンペ−ンを繰り広げ、在日朝鮮人を「帰国」へと組織した。

 「祖国を知る集い」が組織され、集団帰国決議へと発展し、「その決意を込めた金日成に宛てた手紙」が書かれ、帰国運動を盛り上げていった。

 帰還協定は、何度も継続され、67年までの間に約89,000人が帰国した(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。その多くは日朝二重国籍者であるが、日本単独国籍の日本妻が約1,600人余がいた)。「祖国への帰国」とは言うものの、実質は、社会主義国・新天地への「移住」であった。


 この集団帰国の背景には、50年代の貧困と差別、偏見にあえぐ在日朝鮮人社会の閉塞状況があり、北朝鮮政府の労働力補充政策が作用した。帰国者には、日本での絶対的困窮と侮辱的な民族差別から脱出したいという消極的な選択とともに、民族的愛国心から北朝鮮の国家建設に参加したいという積極的な意志もあった。そのうえ、社会主義への幻想に惑い、被告による「地上の楽園」宣伝に踊らされて、最初の2年間に約75,000人が殺到するというブ−ムが起きた。

【マスコミの報道はどのように為されたのか】
 1959.2.13日、日本政府が送還を決めると、韓国は、帰還は主権侵害と反発し、帰還船の安全を保証せず、李承晩ライン強化を示唆した。新聞は14日付け社説で一斉に政府決定を支持し、韓国の態度を批判した。毎日新聞は、「人道的見地から、居住地の自由選択という国際的原則に則ったもので、韓国が妨害の挙に出れば、正統政府の威信をさらに傷つける」とし、朝日新聞は、「懸案を解決するための当然の措置といってよいが、韓国の強硬な反対は、人道問題として遺憾とせざるを得ない」と論じた。読売新聞は、「在日朝鮮人の3分の2が韓国籍を取得しようとしない。帰還させたとしても韓国の面目が傷つけられる訳ではない」、産経新聞も「人道と正義の要請する責任の立場から送還に至ったことは誠に止むを得ない。(韓国の姿勢は)許すべからざる暴挙」と論じた。

 第一陣の帰還時の報道は、「埠頭は興奮と感激のルツボだった。祖国への新しい希望に胸ふくらませて、一路清津港へと向かった」(毎日新聞夕刊)、「『夢のような正月』という見出しで、ごちそうは食べ放題、飲み放題で、賑やかな歓声がホテルにあふれていた」(読売新聞翌日の報)と書き付けている。

(私論.私見) 「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」考


 判明することは、戦後左派運動の有力な担い手であった在日朝鮮人運動が、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業キャンペーン」によってその主力を北朝鮮へ召還させたという史実である。それは、「吉田文書」通りの事態が進行したことを意味する。この愚挙は、日本政府の思惑、北朝鮮からの手招き、それに呼応する宮顕系日共の後押し、マスコミのプロパガンダという具合に役者が勢揃いして押し進められた。

 気づくべきは、ロッキード事件もそうであるが、左右、当局、マスコミ、司法その他諸々が相一致して事を進めていく構図が生まれた場合、一歩引いて思案を廻らす必要があるということであろう。その弁え無しに流れに乗ることは仕掛けに乗せられたことを意味する。後で気づいてももはや遅い。結局、「在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業」の例も、要するに左派運動が頭脳戦でヤラレテイルことを証しているのではなかろうか、そんな気がする。

 2005.3.28日 れんだいこ拝


【帰国者からの悲痛な手紙】
 帰国者から悲鳴にも似た、助けを求める手紙が、日本にいる家族・肉親に送られてくるようになった。表沙汰にすると帰国者に累が及ぶので、日本に住む家族・肉親は秘密裏に懸命に対応した。まったく連絡が途絶えて行方不明になった帰国者を求めて必死に探しまわった挙句、その帰国者が処刑されていたことを知ったという痛ましいケ−スもある。また、最近9年間だけでも、日本の家族の住所を尋ねる約7,600通の手紙が日本赤十字社に届いている。

 先に帰国した者は、日本に残る親戚に対し、売り食いのための日用品を帰国船で送ってくれるよう手紙で訴え続け、帰国船が往来している間は北朝鮮政府も日本の物資を得るために、帰国者の言動に対しある程度の目こぼしを許していたが、65年以降は極端なテロルと経済の破綻の進行により、片っ端から捕らえる「粛清」が支配し、帰国者の地位は重大な監視対象として極端に悪化し迫害が加えられ、飢餓も加わりその生活は凄惨を極めるものとなった。

【帰国事業のその後】
 1959年12月から始まった帰国事業により60年末までに約52,000人の在日朝鮮人が北朝鮮へ帰国した。この成果は予想以上のものであった。しかし、61年以降帰国希望者の減少傾向は顕著となり、被告は被告及び北朝鮮の威信のために帰国者を募ることが至上命令となった。北朝鮮側は日本のインフルエンザの流行を口実に帰国船の配船を一時停止して時間を稼ぎ、その間に被告の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が61年早々から西日本一帯を遊説し、北朝鮮のバラ色の生活を宣伝し、帰国を拒む同胞には恫喝まがいの演説で帰国へと駆り立てた。

 朝鮮総連中央本部でも「60万同胞たちよ!統一の日が近づいている。共和国に帰国し、7カ年経済建設計画に私も貴方も参加して祖国統一を早めよう!」を中心スローガンに、各階層の在日朝鮮人に帰国を訴える20数項目のスローガンを作った。そして川崎市での神奈川朝鮮人大会でスローガンの解説を行い、被告の全勢力をあげての帰国者集めを展開し、年齢別、職業別、地域別の帰国推進集団が無数に組織された。

 青年・学生の中でも帰国推進集団が組織され、「金銀よりも貴い子女を持つ同胞よ!幼稚園から大学まで無料教育させてくれる共和国に帰国し、心ゆくまで勉強させ宝のような働き手にしよう!祖国統一を早めよう!」、「愛する青年たちよ!希望のない地で無駄に日々を送るのもそこまでにして、共和国に帰国して青春の情熱全てを捧げ、学び、働き、国の柱になろう」といったスローガンが青年層に向けて発せられ、被告の組織内部では帰国しない者は逆賊のような雰囲気が生まれ、活動家は家族を先に帰国させることで組織に忠誠を示さねばならない事態にまでなっていたのである。

【帰国事業の再開】
 3年間の中断の後、71年から84年まで帰国事業は再開されたが、その後の帰国者は、共和国政府からの要求にもとづく、被告幹部・有力商工人の子弟、技術者集団、学生青年グル−プの強制的な送り込みや、政治的処分としての召喚といったもので、現在は帰国事業の形式だけは残っているものの帰国者はほとんどいない。かわりに、家庭訪問のための短期訪問集団事業や、祖国研修事業が活発に行なわれてきた。

【闘う者達の主張】
 朝鮮総連の本来の役割は、在日同胞の民族問題、生活と権利についての協助組織、あるいは外向けには差別撤廃のための運動体としての役割を有しており、「八大綱領」に従っている。その三条は、「われわれは、在日朝鮮同胞の居住、職業、財産および言論、出版、集会、結社、信仰などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」と規定している。この規定は、構成員の「自由」を侵害する勢力が日本政府であれ、日本の社会勢力であれ、北朝鮮政府であれ何であれ、これらの抑圧と闘う責務を負っているというべきである。 「民主的自由」と謳っているのであるから、右「自由」には人間存在の根源である帰国者たる構成員又はその家族の「生命・身体の自由」を初めとして全ゆる基本的人権を享受する自由が当然のことながら含まれる。具体的には帰国者たる構成員又はその家族に対し、生命・身体の安全確保の責務・抑圧と隷属から人権を擁護すべき責務を負うというべきであった。

 朝鮮総連は、帰国事業を推進するに当たり、未知なる国である北朝鮮の社会主義国家の実態を正確に紹介すべきであった。帰国希望者は単身、あるいは家族とともに日本における生活の全てを捨てて移住するものであるから、帰国勧誘にあたっては社会主義国家である北朝鮮の政治体制、社会体制、経済体制、教育体制等生活に直接関わりのある全ての事案に対し、正確かつ最新の情報を提供しなければならない義務があった。その意味で、帰国事業発案者であり促進者であった朝鮮総連の責任は重い。


 朝鮮総連は、北朝鮮の正確な情報及び帰国者の実状を調査することなく、むしろ故意に秘匿した経過を持つ。更に、帰国者が北朝鮮においては監視対象=動揺分子として密告の対象とされていること、少しでも体制に不満をもったり日本での生活を口にしたと密告されれば、突然内務署員に拉致され消息を絶たれ、強制収容所における監禁、拷問果ては処刑されてしまうような厳しい監視と迫害の下におかれるという重大な事実を、帰国希望者に対し一切告知していない。

 北朝鮮には出身成分で人間を区分する制度が厳然として存在している事実、北朝鮮において唯一人間らしい生活を営むことのできる特権階級たる労働党員に帰国者はなれない事実(但し、87年以降の門戸開放政策により、党が認めた帰国者にのみ党員への道が開かれた。しかし、監視対象であることに変わりはない)、帰国者が監視対象として位置づけられ、それが何を意味し、どのようなものであるかを知らせることは、帰国者が北朝鮮で生存していくための最も重要な点であり、まさに生死の問題であるが、被告は一切これを告知していない。被告は在日朝鮮人をして北朝鮮の奴隷的労働力とするため、あるいは人質として日本に残る在日朝鮮人から情報と資産を搾取するための帰国事業でありながらこれを隠して帰国希望者を募った。重大な重要事項の不告知である。


 また、北朝鮮へ帰国した帰国者の基本的人権の侵害、果ては生存権の侵害に至るあらゆる権利侵害に対し、被告は被告綱領3項による帰国者の権利を擁護する義務があり、これを行使する力量を備えているにもかかわらず被告はこれを怠り、帰国者を恐怖と危険にさらし続けたものであり、被告には帰国者に対する重大な保護義務違反がある。

 北朝鮮では人民の基本的人権はもとよりあらゆる権利・自由が侵害されている。思想、表現、学問の自由、居住、移転、職業選択の自由、更に外国移住・国籍離脱の自由などは全くない。それどころか、婚姻や国内移動の自由も著しく制限され、労働者はひたすら命令された職場で働きその日の食糧を得る(その日を生きる)ことにのみ全精力を注がねばならない生活である。「地上の楽園」は「生き地獄」であり、囚人や奴隷と何ら変わりない生活状況である。帰国者はこの地獄から抜ける術はなく、原告のように奇跡的に脱出できた者は9万人を超える帰国者の中でわずか一握り程度である。そして、この僅かな人々による証言で北朝鮮における帰国者及び一般人民の実態がようやく明らかとなっているのであるが、被告は当然に北朝鮮国内における実態及び状況を即時に把握でき、北朝鮮における帰国者の悲惨な迫害生活を熟知していたものであるが、これを黙殺し、帰国者らの権利を擁護する義務を怠ったものである。

<資 料>「031回-衆-外務委員会-04号 1959/02/06」(抜粋)031回-衆-外務委員会-04号 1959/02/06昭和三十四年二月六日(金曜日)午前十時三十一分開議

○帆足委員 

 明治三十八年ごろ、朝鮮人の日本に住んでおる者はわずかに二百名前後、それが大正元年日韓併合後急激にふえまして、それでもやっと三千人前後なんです。それが欧州大戦のときのブームに乗じまして、一方においては日本において工業力か発達し、また安い賃金の労働力が豊富に要請されまして、急激に朝鮮から日本への渡航者がふえました。大正十二年の関東大震災のとき、民族的偏見から朝鮮人虐殺という償いがたいほどのまことに不幸な事件が起った。その大正十二年においてすら、朝鮮人は日本に八万人しかいなかったのです。

 それがさらに急激に増加いたしまして、昭和六年には三十万になりました。その渡ってきた朝鮮人の実態を調べますと、非常に貧乏な貧農は総督府の手によって渡航制限を受けまして、むしろ中農程度の農民諸君が、あるいは恐慌であるいは農村不況で土地と職を失いまして、そして春窮といいますけれども、春の食糧に困った人たちで、三月、四月になりますと急激に日本への渡航者がふえまして、これは春窮の農民といわれております。そして渡航者の大部分、その八割までは農民が日本に渡ってきておる。そして渡ってきますときは家財道具を全部片づけて、当時の金で三十円か五十円、あるいは二十円、十円というようなわずかな小づかい銭を持って日本に渡ってきました。

 そして日本に渡ってきますと、まず言葉かわからないのでまごまごしているうちに、半失業者の状況になる。あるいはまた幸いに職を見出し得ましても、過去における牢固たる民族的偏見と教育の相違、それに言葉の不自由ということがさらに加わりまして、朝鮮の労働者の諸君は、鉱山においては大体日本の労働者の労賃の半分、工場において大体三割方安いというような状況に置かれます。そして一たび失業いたしましたときは、縁故関係も少いものですからいよいよ生活に窮乏いたしまして、あるいはバタヤとなりくず拾いとなり、さらに下りましてこじきに近いような状況に追い込められて、犯罪に陥る者が多い。また固定の資産、貯蓄を持っていないために、狭い土地、安い非衛生な場所に定着の場所を求めて、そこに一種のスラム街ができる。こういうような過程をたどりまして、昭和六年に三十万でありました朝鮮人の諸君はだんだん数がふえまして、その上に戦時体制に入りましたために、日本において労働力がますます必要となりまして、ついに朝鮮から大量の徴用をいたすようになりました。

 徴用で参りました者の数は六十万をこえております。そして、当時日本の青年たちは軍需工場には参りますけれども、鉱山や炭鉱に徴用で参ることを大へんきらいましたために、鉱山、炭鉱の労働力の約四割以上は朝鮮労働者諸君、特に徴用したところの朝鮮の労働力をもってやっておったのです。さらに中国から強制的に連れてきた労働力をもってそれを補い、そして僻陬の地であるために監督も行き届かず。封建遺習は牢固たるものがあり、戦争に便乗して労務管理はフアッショ的に強化され、食糧の不足がこれに伴い、物資の不足がこれに加わり、そうして栄養失調で多くの労働者が倒れ、今日でも鬼哭啾々として白骨が埋まっておる鉱山の遺跡は、至るところにあるという状況です。

 当時の調査報告を見ますと、たとえば福岡県における石炭労働者のうち朝鮮労働者諸君は、その苦しい生活に耐えかねて約四〇%が逃亡し、五%が病気で送還され、結局残った歩どまりは四八%と報告されております。こうして戦時中動員されまして、昭和十九年には在日朝鮮人の数は実に二百万に偉しました。それが戦後情勢が変りまして、一挙に百数十万、大部分は軍用船によって朝鮮のふるさとに戻ったわけであります。そのうちに朝鮮の統一はならず、南北戦争は起り、去就に迷ううちに今日約六十万の朝鮮人諸君が日本にとどまっている。これらの諸君は、終戦直後には外国人としての多少の有利なる特権を利用して糊口の道をしのぎましたけれども、それもすでに過去のものとなり、経済が正常化するにつれまして不況の脅威、不景気のしわ寄せば最も強くこの少数民族に当るわけです。

 なおわれわれとして注目すべきことは、六十万朝鮮人諸君のうち約半数が二十才以下の青少年である。これら青少年は民族的偏見、学歴の相違、言葉の不自由等のために、学校を出ても職なく、日本の青年に職がないくらいですから、朝鮮の青年に職が豊かに供給されるわけがない。従いまして、この六十万の朝鮮人の諸君はいわゆる開拓者として、また開拓者農民、開拓者的労働者としてこの地に場所を求めているのではなくて、貧窮の民として、世界多しといえども、少数民族にしてこれほど苦しい生活をしている民族はないといってもいいくらいであって、われわれ国会に籍を置く者として、この少数民族に対する合理的対策がいまだ立たず、隣邦の困っている民に対して人間らしい待遇を十分に与える政策を持っていないということを、私はまことに恥かしいことであると思っております。

 わが社会党としても与党の諸君と相談いたしまして、かねてこの問題についてはもっと人道的な、もっと筋道の通ったもっと義狭心のある対策を立てねばならぬと思っておりましたが、お互いに国内のことに追われて、隣邦の民に対して、あたたかい政策をなし得ていないということを、私は恥かしいことに思っております。このときにあたって大量の帰国問題が起ったわけですから、この帰国問題に対しては友情と人道の立場から十分に協力して、そして同時にこの際、国内に残る朝鮮の諸君に対しても、全体の少数民族対策を考えながら適切なる、そして合理的なる施策を施すことが必要であることを私は痛感いたします。

 また朝鮮は大陸の東端に突出している半島の形をなしておりますが、面積は大へん広くて日本国土の三分の二くらいあると思います。そして人口は日本の三分の一である。人口密度は非常に小さいわけです。しかし日本と違って寒さきびしく、風土苛烈でありますから、これまでの歴史の段階においては多くの人口を生かすことはできませんでしたけれども、最近急激に工業が発達し、さらに国際的にも技術が進歩いたし、同時に特に北朝鮮においては石炭と水力ともに恵まれ、そして鉄鉱石に恵まれ、希少金嘱に恵まれている。そしてまた海産物が豊かである等のために、現在朝鮮人民民主主義共和国の人口は一千万足らずであると思いますけれども、あと五百万や一千万の人口は、社会主義建設のためでなくても朝鮮の民主主義革命のために、すなわち朝鮮の国民の生活をヨーロッパ並み程度にする工業を発展させるためにも、平和建設のためにより多くの労働力を必要とするという状況ですから、これはイデオロギーから離れて自然の摂理として、今日本の過密人口の中であえいでいる朝鮮の友だちが所を得て、朝鮮人民民主主義共和国に多数帰られるということは、私は、天地の理法にさからうものではなくて、天の摂理に合うものとして認識することが必要である、こういうことを思うわけでございます。

 従いまして、そうなりますと、ここで政府関係各省の御注意をわずらわしたいことは、今度の朝鮮人帰国問題は、一定の場所に収容されておる捕虜をその本国に送るというような種類の事件ではないわけです。一定の収容所の中に置かれている捕虜をおのれの決定する祖国に移すというだけのことであるならば、ただ伝票を配り、技術的配慮を加えるだけで済むわけです。しかしただいま日程に上っておる帰国問題は、日本におる六十万朝鮮人諸君のうちで、所を得ざる隣邦の友が、その自由なる意思に従ってわがふるさとに帰ろうとする問題でありますが、これらの諸君は貧窮のどん底にあえいでおるとはいえ、それぞれみな、それぞれなりに生活のからを背負っているわけです。従いまして、自分の祖国に帰るとなりますと、まず第一には帰ろうとするふるさとの実情がどうであろうかということをだれしも考えるでしょう。あるいはまた、ことし子供は尋常五年になるか来年になれば尋常六年である。中学に入るときの境目に帰ろう、せっかく友だちもあることであるから来年に延ばそう、同じ帰るとしても来年を選ぼうという人もあるでしょう。あるいはまた、病人をかかえておってどうしようと思い惑って、まあしばらく見合せようという人もあるでしょう。あるいはまた、当分日本にいたいと思っておりましても、ことし子供が高等学校を出、そして五月には平壌の金策大学か、金日成大学に入りたいと子供が言うので、子供に勧められて、それでは思い立とうという人もある。あるいはまた、今日閣議の決定すらまだ見ない段階において、今国に帰るなどということを勝手にきめたところで世間を騒がせるだけだからと思って、判断に迷って黙っておる方もあるでしょう。あるいはまた、帰るといううわさが立ちますと、朝鮮人に夜逃げされては大へんだというので借金の取り立てに来る人々もぼつぼつおるそうです。あるいはまた商売を続けようと思いましても、帰る人に金を貸すのは危ないというので銀行が金融を引き締める。またヤギ小屋ほどの家を整理するにいたしましても、家を一軒整理し、借りている土地を人に譲り渡すとすれば、多少の権利金ももらえる。ましてや自分の家であれば百万円で売れるか、百二十万円で売れるか、売り方次第によっては有利になろうというので、少くとも一軒の家を売り、世帯を片づけるには半年なり一年なりの期間がかかる場合もある。

 あるいはまた、国に帰るといたしましても、一体どの程度の貯金を持って帰ることができるか、外貨をどの程度まで携帯を許すか、当然外貨を大量に持って帰ることは許されないということは常識でわかるでしょうが、そうすれば、家財道具をどの程度まで持っていけるか、金で持っていけないから、自転車十台ぐらい、ミシン二十台や三十台ぐらいは持って行ったらどうだろうというようなことも言えると思う。そういう条件かはっきりしていないで、帰るか帰らないかと言うてみたところで、それは私は言う方が無理だと思う。今日与党の議員の方の中には、これは単に常識論で、まあ三千人でも帰ればそれもいいことではないか、こう言われる方もあるし、いや三万人くらいは実行できるだろうという方もあります。あるいは五万人くらいはお帰りになるであろうという予測をされる人もあります。しかしこれは全部そのときの天気かげんで、ある天気晴朗の日の思いつきにすぎませんで、何ら根拠のあることでないと思います。現在朝鮮総連合並びに帰国協力会の手元に集まっている資料によりますと、大体十一万人の署名が集まっております。

 これに対して公安調査庁では同庁の一月二十日現在の調査で帰国希望者を四万人と推定し、今後増加しても六万人くらいであろう、こういっております。一体、公安調査庁というのは、私はスパイの集まりだと思っておりますが、こういうものがこういう人道の問題に発言をすることすら第一おこがましいと思っておりますが、いかなる根拠をもってこういう数字を発表して世間を惑わそうとするか。こういうばかなことを言わなければ、罪も少くて、そして呼吸するくらいの人権は許しておいてもいい官庁であると思っておりますけれども、これが帰国問題に口を出す。この無学な、戦前においてはおそらくフアッショに最も心酔したであろうところの主義と政策を持っておる、これらの徒輩か、この朝鮮人問題に口を出して、まあ三万人か四万人だろうなんていうことを天下の新聞に発表するなどというのは、私は大それたことであると思う。公安調査庁の諸君の仕事は、ただ破壊的な活動をする勢力に対して多少の調査をしておるということ――たとえばフアッショの勢力、それから破壊的アナーキストの勢力、そういうものに対する調査にとどまるならば弁解の余地もあるでしょうけれども、朝鮮人の帰国問題に対し公安調査庁がえたいの知れぬ数字を発表するなどということは、まことにあきれ果てたことと思いますが、一体外務省の皆さんはそれをどういうふうにお考えになっておられるか、これも伺っておきい。

 ところで、こういう問題でありますので、独身者が固まっておる捕虜収容所の捕虜というような特殊の身分の人が帰るというなら、もうきようにでも、おまわりの古手か何かが伝票を持っていきまして、お前は東か西かと聞くと、これで解決するということも言えましょうけれども、今度の問題はそういう捕虜を送還する問題でなくて、生活のからを負っておる、そして貧乏して苦しい生活をしておる隣邦の民がどういう手順で国に帰ろうか、あるいはまた子供のために日本にととまろうか、思い惑いつつこの問題をきめねばならぬ。しかも長きにわたって、日本政府はとても朝鮮に帰れるような便宜をこんなに早く与えてくれるとは期待もしていなかった。また南に帰ろうと思いましても、今南に帰りたいという人が六、七百人届けを出しているという――これは風評です。

 私が朝鮮のある専門家に聞いたことですから、その人個人の意見ですが、数百の届けを出しておりますが、朝鮮の公使館では出国ビザを与えない、こういうことも聞いております。そういうような環境に置かれた朝鮮の諸君が、帰国について軽率な判断ができないのは、私は当然であると思う。また多数の家族をかかえた慎重な御家庭では、第一船、第二船が出て、そして一体朝鮮に渡った人たちの生活はどうであったか、うまくいっておるか、また先方ができるだけのことをしてくれても、社会主義の制度と資本主義の制度とは、風俗習慣において多少異なるところがあるから、長らく自由経済のところで、どちらかといえば放漫な生活をした人たちが、規律正しい社会主義の建設、経済の中に入っていくときに、それに適応できるかどうかということを思い惑う人もあろうと思うのです。

 私が朝鮮に行って現地を見ました印象では、そういう過渡期の人たちに対しては、懇切な教育と忍耐強い愛情にあふるる指導が行われ得る、私はそういう観察を持って参りましたけれども、われわれのように政治家としてまた経済学者として社会主義圏を視察するというような機会に恵まれた人は、ごくわずかでありまして、大部分の人はニュースや風評を聞いて、一方では朝鮮を天国のように賛美する人があるかと思うと、他方では地獄のようにけなす人もおる。こういう状況のもとで、どちらかといえば今日では教育水準の高くない朝鮮の友だちが、思い惑うことも、これまた無理もないことだと思う。しかも先ほど申し上げた統計を見ますると、昭和六年においては三十万くらいの朝鮮人しかいなかった。大正十二年のあの記憶すべき痛ましい年に、わずか八万の朝鮮人しかいなかった。それが今では六十万おるわけですから、自然の摂理にゆだねるとしますならば、純粋の論理でいけば、ほんとうに日本で所を得た朝鮮の諸君と言えば、まず十万そこそこではあるまいか。

 パチンコ屋りで安定した仕事をしておるといっても、パチンコは賭博なのであって、社会党内閣でもできたならば、パチンコという趣味に対して、それほど寛大でもなかろう、私は勤労者の内閣ができたときには、そういう賭博場に対してはあまり寛大な政策をとるとは限らないと思う。あるいはまた特殊喫茶、特殊キャバレー等の経営をしている朝鮮人、中国人が多いことは、諸君の御承知の通りですが、そういう商売が、所を得た健全な商売であって隣邦の民としてそれで経済能力をもって日本民族に寄与しておるという解釈は、私は立たぬと思うのです。そういうような領域における企業に第三国人がはびこることは、私は健全なる日本民族の道義と趣味と、またレクリエーションを養うために、それはよい影響をもたらすものではなかろうと思います。そういうものをさらにはぶいて、純粋によき勤労とよき技術とよき経営能力とよき文化を持つ隣邦の民として尊敬され、日本に寄与しておる移民の数はどれくらいかと言うと、十万をはるかに割るということになる。そうすると、帰るということの事実は人道の問題であって、何人も関与せざる個人の自由です。

 しかし政治家としてこの問題を達観して、この問題が起ったところの歴史的背景、立地条件、経済発展の段階等を考えますならば、日本に所を得る朝鮮人諸君の最大限度は十万ぐらいである。五十万ぐらいの人口には、多少、またははなはだしい無理があるという見通しを立てざるを得ない。そういう客観的、社会科学的見通しのもとにこの問題を考えますると、これは一万、二万の捕虜送還の問題と違って、隣邦の民が所を得るという問題でありますから、われわれの態度も忍耐強く、寛容で、友情をもってこの問題をながめ、彼らがその自由意思によって意見を発表し、あるいはまたわれわれに友だちとして助けを求めるならば、われわれはこれにあたたかい手を差し伸べて、そして彼らが祖国に帰る道の手順やその順序や、その帰国への手続、実現への過程を円滑ならしめるように見守って差し上げなければならない、こういうように思うのです。

 しかりとするならば、今日ちょいちょい新聞に出ておりますように。国際赤十字に頼む、国際赤十字に調査をさせる、われわれはこれに賛成です。最終的な確認は、もし朝鮮赤十字、国際赤十字、日本赤十字の御協力によって、またその御指導によってそれを行うことが、今日複雑な国際情勢下において正当であるとするならば、その最終的確認は赤十字の手によってなされることにわれわれは異議を申しませんが、しかしそこまで流れてくる過程においては、やはり調査をする者としては深い理解かなくてはならぬ。すなわち赤十字が担当したからと言って、直ちに地方の国勢調査員や村役場の吏員や、あるいは巡査の古手などに頼んで、直ちに期限を切って、そして一体何人帰るか、調査員は横柄な態度をもって鉛筆を口でなめなめ一人々々戸別訪問して、赤い国に戻れるそうだがお前戻るかね、今のうちに戻るなら戻ると言うておかないと、二度と機会かないよ、そういう言い方をして回ったとしたならば、その統計が心理学的に見て妥当であるとは言えないと思うのです。

 従いましてこれは一定のさく内におる戦時捕虜を送還するような問題でないということです。民族移住の問題である、その民族自身の立地的あり方や経済的条件が無理があるからです。その無理がこれでだんだんほどけていくような問題を背後に持っておるということなどを、私はよく理解しておく必要があると思う、しかし、その調査にはやはり朝鮮人の自治体の朝鮮連合とか、あるいは岩本代議士と一緒に私どもが党派を離れて純粋の人道的立場から協力しておる協力会とか、そういう友邦団体も朝鮮の諸君の意見をよく聞き、そうして円滑化やその要望の取りつけなどにただいま協力しておりますけれども、政府におきましては最終的法的確認は赤十字の手によるとしても、その確認に至るまでの朝鮮人諸君の要望を取上げたり、彼らの意見を聞いて、無理のないように、調査方法についても彼らから要望があるでしょう。また帰国の申し出の日取りの区切り方についても、幾つかの方法があるでしょう。また送還の手順、送還の流れにしても相当の長期間の流れがあることも見越しておかねばならぬ、そういうことをよく理解していただきたい。

 私は、今日この席で竹内次官から軽率なる即答を求めようとするものではありません。そうではなくして、大体議員というものはお役人の意見を聞くべきものではなくて、私どもは民意を代表してその国民の世論のあるところ、われわれが、科学的に確かめたところを行政をあずかっておる諸兄に申し上げて、そうして諸兄の施政の参考にしていただくというのが、護民官たる議員の任務でありますから、私は申し上げるのであって、皆さん方から軽率なこれに対する論断を私は今直ちに聞こうとするものではありませんから、どうかこの問題に対して私は朝鮮に十五年もいたもので、少年時代、中学生の時代も、全部朝鮮の中学校を出たものでありますし、朝鮮同窓会の副会長もしておりますし、また私の性癖からいって、この少数の民族に対しては理解と満腔の同情を持っておるものの一人で、また九州生まれでありますから義狭心としても、この不遇な環境にあるところの朝鮮の友に対して、できるだけ友情と人道とをもって処遇したい、こう考えておる政治家の一人ですから、そういうものの声として一つわれわれの誠意のあるところもおくみとり下さって、この問題が円滑に運ぶように御協力を願いたい。

 従いまして調査方法について政府はこういう意見を持っておりますというような軽率なことを今聞こうというのでなくて、今後岩本議員にも御相談下され、われわれにも御相談下さって、一つ摩擦のないように、また政党の左右両極の政略に利用されないで、これか人道的見地から円滑に進むようにという誠意をもって申し上げておるのですから、この問題についてそういう含みある御配慮をただいまから御研究しておいていただきたい。


 続きは、金日成体制の功罪





(私論.私見)