449―1312 金日成体制の功罪

 (れんだいこのショートメッセージ)

 北朝鮮の指導者となった金日成は、次第に王朝体制を整備し始めていった。金日成は、いわゆるソビエト史のレーニンからスターリンへの政権移行の過程で出来上がった体制を模倣し、主観的には建国革命の継続であったと思われるが、「『主体思想(=チュチェ思想』に基づく絶対君主型国家」を体制化させた。世上ではこれを王朝体制と云う。「国家のあらゆる最終的政策決定権を、トップ一人だけが握る独裁型国家運営システム」ということである。

 スターリニズム的硬直型官僚システムは、遂にソビエト連邦の崩壊へ辿り着いた。金日成体制は、息子の金正日体制へと禅譲され今日に至っているが、2002年現在経済失政にのたうち廻っている。この体制を以下検証する。

 2002.3.28日 れんだいこ拝



【帰国者がそこに見たものは】
 帰国者を待ち受けていたのは「楽園」ではなく、「牢獄」にも似た現実であった。実際は衣食住全てに貧しく、著しく不足していた。労働者や農民は長時間の重労働を強いられ、病人であろうと高齢者であろうと労働のない者に食糧支給はなく、人々はただ命をつなぐわずかな食糧を得るためだけに働く囚人ないし奴隷生活の実態を知った。

 精神論だけが生産の要素であり一般労働者に勤労意欲は全くなく、逮捕や収容所送りあるいは処刑を怖れて保身と密告に怯える生活であること、

 帰国者の多くは、思想、言動、生活すべてが統制される北朝鮮の独裁体制社会に適応することが難しく、共和国社会の生活水準の低さに幻滅した。さらに、日本からの帰国者は資本主義社会の自由思想に染まっており、日本や韓国と人脈がつながっている潜在的スパイ分子とみなされ、体制的不純者として要監視対象とされた。

 帰国者は更に厳しい監視・統制・分断下におかれ言動も統制された。党及び隣人や職場の仲間による厳しい監視の下、生涯を党の命令通りに休みもなく労働するだけの奴隷生活を強制されることになった。恋愛や結婚にまで党の管理が及んだ。

 北朝鮮政府は、帰国者を「人質」「金づる」として利用し、日本にいる親族に対し、金銭や物資の献納を強いている。また、北朝鮮当局は、帰国者の日本への自由往来を認めていないので、新たな離散家族状況が生まれた。被告は北朝鮮政府が帰国者約9万人を人質に取ることを容認・加担し、北朝鮮政府のいいなりになったものである。


 北朝鮮の人民大衆の生活実態は次のようなものであった。@・糧票による食糧配給制度。一般労働者は、自分と家族の一日分の食糧配給券(糧票)は出勤と引き替えであった。欠勤すれば一日家族が餓え、勝手な職場離脱は餓死を意味する。北朝鮮は労働可能な最低ラインの食糧(主食)を配給することで、労働者を職場に縛り付け、食べるためだけに働かせ、労働者の一切の余分な欲求を抑えることができた。北朝鮮では一家の主たる労働者で一日700グラム(子供は400グラム、扶養家族の老人が300グラム等)とその量が決められており、これを超える食糧は得られない。また、主食は雑穀(主にトウモロコシ)が9、米が1の割合で混ざったものであった。

 幹部は「共和国では毎年人口の3倍の人が食べられる食糧を生産していて、今ではアルジェリアの人民にまで食糧を援助している」「資本主義国である日本では、資本家の搾取によって労働者は一日一食の飯も当たり前に食べられない」と宣伝していたが、実態は日本では家畜の餌であるトウモロコシが主食である上、これすら満足に食べられない食糧事情であった。

 帰国者の売り食い(日用品を売って食糧に変える)の実態は、農村に限った物ではなく、原告を含め一般労働者も全く同じである。売り食いのできない北朝鮮国民の貧困たるや、想像を絶するものがあり、物品を持たない帰国者も同じだった。帰国者の物品に対する北朝鮮国民の羨望と妬みは、物品補給が途絶えた後の帰国者に対する差別と抑圧の元ともなった。

 A・労働党員(帰国者らは党員を「アパッチ」と蔑称をつけた)による監視。労働党員はいつ、いかなる場所でも非労働党員を検問できる権利を持つ。61〜2年当時は、未だ帰国船による帰国者への物資の補給が多く、党員はこれによる恩恵を受けていたため、帰国者の動向に対する監視は強かったが、帰国者にはある程度の旅行の自由があるなどの特権もあり、帰国者に対する制裁にもいくらかの目こぼしがあった。しかし、「出身成分」で「動揺分子」に分類されている帰国者に対する党員の監視は一時も止まず、労働党員が統制する秩序に少しでも乱れを生じさせると判断されれば、直ちに内務署への連行あるいは署員へ密告され、収容所送りが待っていた。監視は党員のみならず、非党員によっても行われ、労働者同士の密告も多々あった。

 B・結婚制限。結婚は党の会議にかけられ、工場での勤務評定や政治学習の成績が考慮される。結婚の条件が出され、つまり結婚にまで党が介入し労働の手段に利用する。

 C。教育制度。北朝鮮では、子供が生まれたらすぐ託児所(子供40人に保母2人程度)に入れて組織的生活を始める。これは育児時間より労働時間重視の政策による。幼稚園では、自分を育ててくれたのは父母ではなく首領である金日成であると教え、人民学校(小学校)と中学校では少年団の組織に入り団体生活と組織生活の教育訓練を本格的に実施し、技術学校又は高等学校進学後は民主青年同盟に加盟して政治的実戦訓練を行う。エリートコースを勝ち抜いた者は大学進学が許され、社会教育と組織生活の成績で、北朝鮮での最高の勲章であり栄誉である労働党員として世間に出られるか否かが決まる。

 託児所は、59年から一週間託児制度(月曜の朝に子供を預け日曜に連れて帰る)を採用する工場が増えていた。北朝鮮では共働きを奨励するが、夫の収入だけでは生活(「食べる」だけの最低の生活)できず、妻も働かざるを得ないのが実態である。又は、妻が党員といういわば特権階級でも、夜昼なく党の命によって働くことになるので、子供は1週間預けっ放しが便利なのである。子供は党によって育てられたと教えられるため、親子の情愛より党への忠誠が優先し、親子間でも密告は絶えない。

 D・医療制度。北朝鮮では医療費は原則無料であり、被告幹部はさかんにこれを宣伝していたが、無料で受ける医療措置はお粗末極まるものであった。国立病院と言っても5名程度の入院設備があるだけのしろものでしかなかった。

 61年当時は診断書が出れば仕事を休んでいる間給料の70%が支給され、食糧の配給もあったため(診断書のない病欠は食糧配給がない)、病院にはいつも長い行列ができて診断書を何とか入手し一日でも仕事を休みたいという栄養失調の労働者で一杯であった。しかし、70年以降には酒や煙草、漢方薬と引き替えでなければ診療を受けられず、貧乏人に医療は無きに等しい。


 E・一般労働者と労働党員の差。最低限度の食糧であるため、一般人民の貧困さは深刻であり、副食費で月給の3分の2を費消する生活苦であった。(なお、65年以降は経済情勢の悪化等により、左記生活レベルすら望めず、餓死と隣り合わせの生活となっていった。)これに対し工場の支配人、技師長(いずれも労働党員)などは一般労働者の3倍の給料を得、かつ様々な生活品を配給される。これを中央供給対象者と言い、1級から4級までの等級がある。中央供給対象者は労働党員であり、帰国者は党員になれない。これらの中央供給対象者のことを原告ら帰国者は「共産主義貴族」と呼んだ。(但し80年代に入り、北朝鮮の政治経済情勢の極端な悪化と身を守る事だけに腐心し労働意欲をなくした人民の閉塞状況を打開する目的で、北朝鮮は87年に「門戸開放」政策を打ち出し、強制追放者である政治的不純分子の中で核心的な位置にある者を入党させる措置をとった。これにより、帰国者も党員になれ代議員になった者もいたが、捜査機関による監視の目は党員になっても全く変わらず、近隣の家々によって常時監視されていた。また、代議員になっても手当はない。)。

 F・労働者の職能別階級(給料体系)は3級から8級であり、新入工員は3級から始まる。帰国者は特別な優遇処置として4級から始まったが、一時的な見せかけであり、素行や業績が悪ければ即降格(減給)された。降格処分を受けることもある。

 62年7月から8月15日までの45日間は「朝鮮民族解放記念戦闘」という千里馬運動、9月1日から37日間は第3期「最高人民会議代議員選挙記念増産期間」として、毎日12時間労働を休憩、休日なしで強制された。このような休日なしの延長労働は、あらゆる口実の下で全国的に設定され強制された。

 G・北朝鮮の祝祭日は、元日と金日成の誕生日と8月15日の解放記念日の3日だけである。また、千里馬運動中は日曜もなく、通常の日曜も月に3回は労力動員と称する労働に回され、原告も山で防空壕を掘らされた。雄基では全市民を動員して山という山に防空壕を掘っていた。無論土曜の半日休みなどあるはずもなく、時間外労働手当も代休も一切ない。

 H・軍事訓練。労働の外に、毎月2、3回夜7時から2時間、夕食を食べずに軍事訓練(ソ連製短機関銃と北朝鮮製の歩兵銃で武装、足りなければ竹槍を持つ)があった。これが労農赤衛隊の訓練である。

 I・各種会議。出勤は朝7時で、すぐに工場の党委員長による1日の生産計画と責任量の超過達成の訓辞が1時間(これを会議と言う)、昼食時には政治読報会という会議、作業後午後6時から8時までは職場の会議があった。土曜日には1週間の総括があり、成績が悪ければ夜11時までも居残り仕事をさせられる。週毎に職場別事業総括の会、月末と分期末に総括会議、その他不定期に開催される民主選挙宣伝、70日間戦闘の政治的意義についての講習会等のほか、各団体別(労働党や民主青年同盟、職業同盟や女性同盟、労農赤衛隊な)の会議があり、これらの会議に加えて帰国者には週1回の帰国者特別講習会と朝鮮語学習会への参加が強制された。労働と会議によって、睡眠時間以外の全てが束縛されるとっても過言ではない生活であった。


【金日成体制式社会主義の実態】
 北朝鮮では、国民(公民)を解放直後当時の出身階級・階層で「出身成分」に分類し、いわゆる逆差別構造を生み出している。「出身成分」は、1・金日成政権に忠実な核心階層、2・監視対象=動揺分子、3・特別監視対象=敵対分子に分け、それを更に51に分類し、1の核心階層は13に、2の監視対象は27に、3特別監視階層は11に細分化し、1980年には更に2と3に13分類を追加し、都合64の成分分類となっている。動揺分子以下に分類された人々は徹底的に差別され抑圧される独特の恐怖システムを作り上げている。父の出身成分は子や孫にも受け継がれる。戦慄すべきこの「出身成分分類」こそ、兵営国家、監獄国家と云われる恐怖統治を端的に示している。

(私論.私見) 北朝鮮体制の「出身成分分類」考

 「出身成分分類」をマルクス主義の名を借りて正当化しているとしたなら、それは北朝鮮マルクス主義の稚気的な水準を証左していることになろう。マルクス主義は、人の出身階層がその人の思想レベルに影響を与えることを指摘しているが、出身階層で人を判断せよなどとは云っていない。恐らくどこかでボタンの掛け違いが起っているのだろう。

 2005.3.28日 れんだいこ拝


 「帰還事業帰国者」は、2の監視対象=動揺分子に分類されており、常に監視の対象、密告の対象とされた。監視対象27種類の中には、党の除名者(任務遂行中過ちを犯し、党員資格を失ったもの)や、党の免職者、逮捕・投獄者家族や経済事犯などの犯罪者レベル、及び知識人(八・一五以後外国に留学した者またはそれ以前に高等教育を受けた者)や労働者(今は労働者であるが八・一五前に中小企業者、商工業者、知識人であった者)などが含まれている。

 こういう低い位置付けがなされた理由として、自由主義社会の空気を十分に吸った者、異質思想の持ち主、思想的動揺者、不平不満分子、あげくのはては日本や韓国から送り込まれたスパイとみなされていたからであった。在日化したことに当人の罪を問うことはナンセンスであるにも拘らず、この差別と監視は一生ついてまわり、密告や当局の判断で、いとも簡単に強制収容所に送られることになった。北朝鮮には12の強制収容所があって、推定15万人以上が収容され、日本からの帰国者も多数含まれており、人間の生活とは言えない状況に置かれていることが、この間、北朝鮮から逃れてきた者の証言などを通じて明らかになってきている。


 党委員長の権力は絶対であり、職場長、支配人から3級工に至るまで、その任免権は党委員長にある。党委員長は日に5〜6回工場内を巡視し、党委員長に命ぜられた私服の安全員は抜き打ちで工場内を視察し、労働者の怠業を監視した。その他労働党員は全て非党員の監視者であり、原告は一日12時間の労働時間中7回便所に行ったことが怠業として朝の会議で糾弾されたこともあった。

 また、北朝鮮では職場でも人民学校でも自己批判会という同志裁判が行われ、素行の悪い者、責任量を達成できない者などが全員の前で壇上に挙げられ、群衆裁判が為される。集団リンチのような様相であり、原告も党員たちから反動分子であると糾弾され、自己批判を要求された。自己批判会では、党委員長が判決を下す。


【北朝鮮体制の選挙制度の実態】
 北朝鮮が世界に誇るという選挙は次のようなものであった。1962.10.8日に朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議第三期代議員選挙の様子が報告されているがそれによると、全国383の選挙区で383名が立候補し、その全員が名誉の当選をし、投票率100%、信任投票100%であった。鉛筆も置かず、党が決めた立候補者1名を信任することしかできない仕組みであり、選挙とは名ばかりの党の一方的命令であった。

 「北朝鮮の独裁体制下にある一般人民には基本的な人権さえ存在せず、『共産主義貴族』だけが肥え太り、一般人民には明るい未来を希望することさえできない社会であることに絶望した」と評されている。
(私論.私見) 北朝鮮体制の「選挙制度」考

 北朝鮮に限らず凡そ自称社会主義国家はいずれも自己否定でしかない選挙制度を導入している。ほんの形ばかりの体裁だけの選挙制度という意味である。これは、ロシア・ポルシェヴィキ型マルクス主義以来の根本的欠陥を反映しているように思える。ちなみに、日共の党内選挙もこの北朝鮮型選挙制と何ら変わりは無い。つまり、大人になりきれていない連中による翼賛選挙制を共通して採用していることになる。

 この仕組みは、本来のマルクス主義とは何の関わりも無い、権力派に好都合なだけの閉鎖式選挙制である。しかしながら、れんだいこは、理論的にその非を説く理論にお目にかかっていない。このことは何を意味するのだろうか。

 2005.3.28日 れんだいこ拝




(私論.私見)