【三船留吉考その1、履歴考】 |
三船留吉の履歴は次の通り。
1909(明治42).2.10日生まれ。秋田県由利郡鳥海町小川字戸坂47。上京して江東で全労組合員となる。日本共産青年同盟に加わり、共青中央委員になった。31年入党と推定。「全国アド紛失事件」(31年11月、加藤亮尚が検挙され、加藤の保管していた共青全国組織のアドレスが警察の手にわたり、12月地方活動家31名が検挙された事件)ののち、その組織的責任をとって、32年神奈川県共青組織に派遣された。その神奈川の組織も破壊されたあと、東京に復帰、再び共青中央委員となり、党の東京市委員会の責任者(委員長)に就任した。1933(昭和8).2.20日、小林多喜二虐殺事件発生。同年6.21日、除名処分に付されている。三船のパーティー・ネームとして三舵、武田、佐原保治、水原、香川等々いくつもの変名がある。
三船留吉は、宮顕系党中央及びその追従派により「小林多喜二を売った男」として喧伝されている。しかし、れんだいこ調査によれば、それはない。むしろ怪しいのは宮顕ラインの線である。仮に百歩譲ってスパイだとしても、今日なお「スパイM(飯塚盈延)」ほどには詳細が明らかにされていない。
1934.3.2日、三船が奥嶋時子と入夫婚の形で結婚。1935.3.4日、共産党中央委員会が壊滅する。袴田里美検挙。
寺尾としが次のように回想している。
「小柄で頭のよさそうな顔をしていた。私は彼とは1週2回の定期連絡をもって、銀座の有名喫茶店ばかりで会っていた。そのころまだめずらしかったロイド眼鏡をかけて、いつも最新流行の背広やスプリングコートを着ていた」。 |
「三船に対しては非常なやり手という評価がなされていて、彼の態度も自信満々という風が見られた。彼は能弁であったし、ハッタリ屋であったからたしかに一見やり手のように見えた」。 |
「査問することになっていたとき、彼は風を喰らって行方をくらましてしまった。私はそれを聞いて口惜しがった」。 |
宮顕は、公判調書で三船について次のように述べている。
「スパイ水原(三船の党名)のごときは、江東の改良主義的労働組合にいたスパイ」(「第5回公判調書」)。 |
「元来、三船は、社会大衆党から入って来、共青、その他の組織に入り、その間組織を破壊される被害があったのであるが、探査をせぬうちに中央部に入ってきた男である」(「第7回公判調書」)。 |
松本清張氏は、「小林多喜二の死」の中で、次のように記している。
概要「小林多喜二は特高警察のスパイに転落していた三船留吉によって官憲に売られ、その結果、多喜二は特高の拷問によって築地警察署で落命した」。 |
しかし、三船研究はスパイMのそれほどは進まなかった。しまねきよしが「日本共産党スパイ史」の中で三船の実態解明を試み言及しているが十分なものではない。
立花隆の「日本共産党の研究」は、三船の特高スパイとしての事績の概要を系統的に明らかにした。異色な点は、三船スパイ論を一層亢進させ「もともと根っからのスパイ」、「当局の雇われスパイではなく、当局の人間そのものだったのではないかとも考えている」なる見解を披瀝したところにある。この見解の陳腐さは、「宮顕的三船スパイ説」の延長で、更にそれを急進主義的に結論せしめていることにある。立花よ、「宮顕的三船スパイ説」そのものを検証することから始めるのが研究であろうに、お前のそれは事大主義にのっかかっているだけのことではないのか。 |
(れんだいこの私論.私見) 日共党史の公認的三船留吉論について |
日共党史の公認的位置づけもその他論者の分析も「三船スパイ論」に傾斜しているが、字句通りに受け取ってはならない。第一、宮顕の述べているような三船の社会大衆党歴は確認されていない。宮顕の場合、全協の松原氏の例もあり、スパイでない者をスパイ呼ばわりし、党員でないのに党員であるかのように扱って除名するのは朝飯前のことである。これについては、立花氏の「日本共産党の研究」の中で詳しく論ぜられている。れんだいこ観点から見れば断じてスパイでない小畑中央委員をスパイ容疑で査問し、遂にリンチ致死せしめている。宮顕こそスパイの視点からの見直しが急がれる所以である。
従って、流布されてきた「三船スパイ論」は一から検証し直されねばならない。むしろスパイでなかった可能性から詮索せねばならない。スパイだったとして、何時から如何なる心境によってスパイになったのか。それはどの線のスパイであったのか、三船の手引きとされている検挙のどれが本当で後は濡れ衣かを検証せねばならない。最大のテーマは、小林多喜二を売ったとの説は本当かどうかの吟味であろう。
れんだいこは、小林多喜二を売ったとすれば宮顕の方こそ怪しく、それをそらすために三船説を流しているように見える。そもそも文芸戦線は特殊なそれであり、小林多喜二との秘密の連絡網は宮顕−蔵原の方こそ元締めだったのではないのか。これは当然に勘ぐられねばならないのにどの識者も言及していない。補足すれば、立花は、全協の松原氏の冤罪を立証した。その裏腹で三船の根っからのスパイ説を説いている。オカシイではないか。全協の松原冤罪説のように三船冤罪説に向かうのが筋ではないのか。変調な者が手掛けると、どこかで尻尾を出す典型だろう。
2004.6.28日 2011.1.5日再編集 れんだいこ拝 |