第3部の4 補足・事件関係者の陳述調書漏洩の衝撃

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).11.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「小畑中央委員リンチ致死事件」(以下、「リンチ事件」と云う)の解明は、宮顕の正体を暴く格好テキストとして意義がある。だがしかし、この事件は巧妙な上に巧妙にも極力隠蔽し続けられ、万一この事件に関心を寄せる猟奇家が現れた場合にも念入りな史実改竄と詐術により正確な読み取りが不可能にされてきていた。逆にいえば、それほど重要な史実であるということでもある。今これをれんだいこが読み取ろうとしている。諸賢の批評を請う。

 「リンチ事件」の各被告の調書、宮顕身上書、網走刑務所からの釈放過程の調書が漏洩したのは、事件後40年以上経緯してからである。これにより、事件の面貌がまるっきり変わることになった。宮顕が、事件関係者の調書が出るなどと思わずタカをくくって好き勝手な弁明をしていたことが判明した。その衝撃は本来とてつもなく大きいものであったが、日本左派運動の頭脳の貧困により一部の識者に於いてしか受け止められなかった。この流れを素描しておくことにする。

 2006.5.23日再編集 2009.1.30日再編集 れんだいこ拝


投稿 題名
「リンチ事件」の真相見直しを廻って思わぬ勃発
立花隆氏による「日本共産党の研究」で再度勃発
自民党が「共産党リンチ事件調査特別委員会」を設置、各党の反応
鬼頭判事補暗躍考
「リンチ事件」関係者の調書が続々漏洩される
袴田が衝撃の真相告白
「リンチ事件資料漏洩、袴田証言」の衝撃と無反応の驚愕
宮地健一氏の「スパイ査問事件と袴田、逸見教授政治的殺人事件」考
宮内勇氏の「断罪闘争は正しかった、なぜそう主張しないのか」論文考

【「リンチ事件」の真相見直しを廻って思わぬ勃発】
 かくしてこの事件は久しく埋もれてきた。れんだいこ調査によれば、宮顕及びその背後勢力の涙ぐましい隠蔽工作が奏効していたということである。ところが、ほぼ40年後唐突に、思わぬところから思わぬ形での勃発を見ることになった。

 単に党利党略的であったと思われるが、1974.7月の参院選を前にして、毎日新聞連載の「(各党首)陣頭に聞く」のインタビュー6.26日付けで、当時の春日民社党委員長が共産党の戦前のリンチ事件を取り上げ、次のように批判した。
 「極悪非道ですよ、共産党は。反対者を殺すのだから。昭和8年、宮本顕治や袴田里見が何をやったか、予審調書を見れば分かる。連合赤軍の集団リンチ殺人事件とどこが違うか。口ではない。彼等が何をやったかだ。それをもとに判断するしかないじゃありませんか」。

 春日民社党委員長はかく述べて、「リンチ事件」を共産党攻撃の材料に使うという挙に出た。

 共産党はこれにすかさず抗議して、6.28日付け赤旗で、宮本太郎広報部長による談話「低劣な中傷について」を発表し次のように反撃した。
 「公党の指導者に対する許し難い中傷を加えている。これは、昭和8年当時、秘密警察のスパイが、査問中特異体質のため死亡した事件を特高警察が『リンチ・殺人事件』としてデッチアゲたことを取り上げ、我が党の宮本委員長らに殺人者と云う悪質な中傷を加えたものである」。
 「だが、この『事件』が、警察の捏造であったことは、戦前の暗黒政治下の裁判所でさえ事実上認めざるを得なかったところであり、さらに、戦後昭和22.5.29日に、治安維持法を撤廃した勅令735号(昭和20年12.29日)によって、将来にわたって刑の言い渡しを受けなかったものとすると、東京地検も確認している」。
 「春日氏が『予審調書を見れば分かる』などといって、宮本書記長の予審調書があるかのように云っているのは、明白なデマである」。

 共産党のこの弁明は明らかに嘘の上に成り立っている。だがこの頃は、田中角栄の金脈疑惑の追及が始まる直前であり、結果的に大きな政治課題にはならなかった。この年の10.10日、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆氏の「田中角栄−その金脈と人脈」が掲載され、これが以降の田中政界追放の狼煙となり、世の中挙げて角栄問題へ向かったことにより、「リンチ事件」の真相解明は一時沙汰止みとなった。

【立花隆氏による「日本共産党の研究」で再度勃発】
 ところが、1975.12.10日「文芸春秋1976.1月号」が発売され、立花隆氏による「日本共産党の研究」の一章で「リンチ事件」論文が発表され、再びこの問題が浮上することになった。論文は、未知の資料をふんだんに駆使して「リンチ事件」を精密に検討し直し、宮顕が定説にしていた「特異体質によるショック死」説を否定し、「リンチはあった。スパイとされた小畑の死因は傷害致死」と暴露した。宮顕らに対する東京刑事地方裁判所の判決文等が掲載され、大きな反響を起こした。これによって、「リンチ事件」問題が再燃し、一挙に火を噴いていくことになった。

 12.11日、赤旗は、宮顕がその昔この論文によって解決済みだとしていた「スパイ挑発闘争−1933年の記録」を全文リバイバル公開して対抗した。12.20日、「第7回中総」で、宮顕委員長は、立花論文に触れて、「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃した。

 立花氏と赤旗との論戦が継続していくうち、「リンチ事件」がいよいよ国会質疑へと飛び火した。事件解明の発端を作った民社党の面子とと共産党が互いに一歩も引かぬ論戦を国会内外で繰り広げていくことになった。

 1976.1.27日、春日一幸民社党委員長が、衆院本会議で「リンチ事件」を質問している。「共産党は、リンチによる死亡者の死因は特異体質によるショック死だとしているが、真実は断じて一つ」として、事件の究明と戦後の宮顕の公民権回復に関しても次のように疑義を表明し、政府の見解を迫っている。
 「裁判所の判決に示されたものが真実なら共産党の抗弁はウソであり、共産党の主張が真実なら、あの判決は宮本氏らに無実の罪を科したことになりましょう。すなわち、裁判所のあの判決は真実に即した正当なものであるのか、それとも日本共産党が主張するがごとき、それは当時の特高警察によってデッチ上げられ、かつ、その云うところの天皇制裁判によるデタラメな判決であったものか、このことは本件がいかに戦前の司法機関の責任に属するものとはいえ、問題の重要性に鑑み、その真相をこのまま曖昧にしておくことは、本件に対する国民の疑惑はますます大きくなるばかりであります」。
 「あのリンチ共産党事件なるものの事実関係を、あらためて国民の前に明らかにする必要があると思うが、政府の見解はいかがでありますか」。

 この時の様子は、「共産党議員のヤジと怒号、一方では自民、民社党議員の拍手に包まれて春日一幸民社委員長がゲンコツでテーブルをたたきながら熱弁をふるった」(鈴木卓郎「共産党取材30年」)とある。

 1.29日、自由民主党の倉成正が、この判決文は本物かどうかと国会質問を行い、稲葉修法務大臣は原本と同じであると認め、どういういきさつでGHQの指示が下ったのか明らかにしなければならないと述べた。

 1.30日、塚本民社党書記長がスパイ査問事件についての詳細な質疑を行い、果ては宮顕の「復権問題」、刑の執行停止に伴う残余の期間にまで及ぶ質問(衆院予算委員会)が為された。稲葉法相は、質問に答え、「宮本、袴田らの手で行われた凄惨なリンチ殺人事件」の事実を認めた。さらに、でっち上げだと主張するなら、再審手続きを申請するべきだとも答弁した。

 これに対し、共産党の不破書記局長が、衆院予算委員会での春日質問を非難し、「国会を反共の党利党略に利用するもの。宮本委員長の復権は法的に決着済み。暗黒政治の正当化だ」と反論した。但し、「判決に不服なら再審の請求という手段がある」という稲葉法相の指摘に対してはノーコメントで通している。

【自民党が「共産党リンチ事件調査特別委員会」を設置、各党の反応】
 1月末、自民党「共産党リンチ事件調査特別委員会」が設置された。この件に関するマスコミの報道は次の通りで、各社とも事件隠蔽に加担するコメントを添えているところに共通項が認められる。朝日新聞は、「歴史の重み、矮小化の恐れ、醜聞の立証に終始する政争次元の論議は疑問」という見出しで、「この事件を論ずるためには、小畑氏の死因の究明ではなく、こうした政治社会的な背景の分析に力点が置かれるべきであり、しかもそれが戦争から敗戦につながった歴史への反省を込めて行われるべきであろう」。毎日新聞は、「取り上げる意義どこに 資格回復の是非いまさらに論議しても」。読売新聞コラムは、「共産党は好きでないが」と前置きして、「春日演説が暗黒政治と軍国主義の復活を推進することになりはしないか」と憂えた。

 公明党も社会党も、「リンチ事件」の解明に対する消極的なコメントを述べていることが注目される。1.30日、公明党・矢野書記長は衆院予算委員会で次のように述べた。
 概要「かっての治安維持法のもとで特定の思想が不当な弾圧を受けた、こういういきさつがある。民主主義を正しく育てていくために、こういった問題を今後教訓にしていかなくてはならない。従って、国会の責任というものは、なぜこういう事件が起ったのか、その政治、社会的な背景を分析する無歴史の教訓として、冷静に、公正に、且つ客観的な事態の解明が必要である」。

 2.2日、社会党・成田委員長は遊説先の佐賀市で記者会見し、次のように述べた。
 「今国会は政策対決を通じて解散を勝ち取る場であるにも関わらず、戦前の治安維持法体制下でおきた問題を持ち出したのは遺憾だ。この問題を歴史的背景と切り離して取り上げることは正しくない。全野党共闘を実現するために共民両党の節度ある態度をのぞみたい」。

 こうした折も折、「ロッキード事件」が勃発し、世は挙げて「ロッキード事件」の解明に向かっていくことになった。朝日新聞記者・鈴木卓郎氏の「共産党取材30年」は、次のように述べている。
 「助かったのは『スパイ査問事件』を追及されていた共産党である。『査問事件』のナゾは解かれたわけではないが、要するに話題はロッキード献金の方へ移ってしまい、話題としては急速にしぼんだ。宮本を獄中から釈放したのはマッカーサーであった。今度はロッキードが宮本を世論の総攻撃から救った。これで宮本は二度『アメノか帝国主義』に助けられたことになる。なんとも運の強い皮肉な共産党委員長といわざるを得ない」。

 この経過でのマスコミと社会党、公明党のボンクラさは、宮顕の胡散臭さについて皆目認知していないことにある。しかし、当局奥の院からの意向でこのように対応していったとすれば理解できぬ訳ではない。それにしても、朝日新聞の「この事件を論ずるためには、小畑氏の死因の究明ではなく、こうした政治社会的な背景の分析に力点が置かれるべきである」論調は意図的な捻じ曲げであり、「小畑氏の死因究明不要論」をこれほど露骨に説くことは許されがたい。この一事で、この社が日共党中央と誼を通じていることが分かる。ともあれ民社党の春日委員長の鬼気迫る追求が史実に刻まれている。

【鬼頭判事補の暗躍】
 文藝春秋はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補が提供した「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。鬼頭は、この後で勃発したロッキード事件でも布施検事総長の名を騙り、三木首相と1時間の長電話に及び「中曽根免訴、角栄徹底追及の指揮権発動」を要請するという奇怪な動きをすることで公務員職権濫用罪で有罪となる。これについては「鬼頭判事補暗躍考」で確認する。

【「リンチ事件」関係者の調書が続々漏洩される】
 さて、これからが本論である。こうした経過で「リンチ事件」は再び雲隠れしたが、この間貴重な資料が漏洩されていった。

 1976.6.8日、評論家・平野謙氏が「リンチ共産党事件の思い出」を出版した。本書で、衝撃的な袴田里見の訊問・公判調書全文が発表された。概要「立花論文で一定の漏洩が為された以上、正確を期すために長らく手元に秘匿してきた袴田調書他を公表する」としていた。この資料は、種々の政治的配慮で長らく平野氏の手元に保管されていたものであった。

 これに対し、宮顕自ら1976.10.10日付け初版の「宮本顕治公判記録」(新日本出版社)を出版して対抗している。これはいわば平野謙氏の「リンチ共産党事件の思い出」により事件関係者の陳述調書が漏洩された衝撃を薄める為に、その党内的な読み取り方を指し示す必要から出版されたものと思われる。

 しかし、この「公判記録」は宮顕にとって止むを得なかったとはいえ両刃の剣となった。なぜなら、宮顕プロパガンダの満展開にせよ、宮顕が否定しているところの事実を逆に浮き彫りにさせることにもなったからである。同時に、注意深い読み手には、宮顕の破天荒滅茶苦茶な詭弁ぶりが明らかにされることにもなったからである。尤も、「公判記録」による宮顕プロパガンダが成功し、党内の鎮静効果には絶なるものがあった。

 続いて、翌年の1977.3.31日には、竹村一氏の「リンチ事件とスパイ問題」が出版され、平野謙氏の「リンチ共産党事件の思い出」を補強するかのように逸見、大泉その他関係者の訊問・公判調書、関係調書の一部が公表された。これで充分という訳ではないが、以降その他関係者の調書が発表されず今日まで至っていることを思えば、これで手に入るほぼ全資料が出揃ったことになる。

 ところが、世の中は挙げて「ロッキード」の渦中であり、さしたる注目されることも無く経過していくことになった。とはいえ、宮顕の党内支配を批判し、脱党、除名された人士は数知れず、その中の一人である元中央委員亀山幸三は、的確にも平野、竹村がもたらした資料漏洩の意義を感じ取った。亀山氏は、著書「代々木は歴史を偽造する」のあとがきで次のように述べている。
 「私は、平野氏がこの袴田調書を入手して、直ちに公表するとか、またはそれを現実の党の重大事項であると考えて、神山氏とか、その他の人々に見せていてくれたら、党の在り方、党中央の全ての事態はかなり現在とは違ったものになっていたであろうと考える。もしも15年前に公開されていれば、少なくとも、神山氏と私は、そのままにしておくはずがない。党はかなり大きな別の変化と発展を遂げたであろうというのは決して空想ではないと思う。私は三一書房の竹村氏や平野氏に、現時点においても、公刊されたことに心からの敬意を表すと同時に、その公刊までの経過があまりに長きにわたったことに、一言厳重な抗議を云わざるを得ない」。

 残念ながら、日本共産党員はこの頃既に、宮顕支配二十年余を通じて自分の頭で考え判断する能力を欠損させられていた。これほどの衝撃本が世に出されても、これを読み取り咀嚼する者はほぼ誰も出なかった。ところが、後日判明することになるが、当の宮顕自身が大きく動揺しており、事後の善後策に狂奔していた。事件関係者の生き残りであり二人三脚を続けていた宮顕と袴田の間に亀裂が生まれていくことになった。

 この辺りの事情について、袴田は1978年出版の「昨日の同志宮本顕治へ」の中で、次のような興味深い史実を明きらかにしている。
 概要「立花隆氏の『リンチ事件の研究』が発表されて以来動揺著しく、1975.12.9日宮顕より『どうしても話したいことが有るから、自宅まで来て欲しい』との呼び出しがあり、宮顕邸まで出向くことになった。防衛隊員のほか小林栄三が控えていた。宮顕は、雑談もそこそこに、怒鳴りつけるようにして、袴田の『党と共に歩んで』の大泉、小畑問題に関する個所の記述で、『小畑の体位が間違っている』といい始めた。袴田は一瞬呆気にとられた。何で今更この男は今頃になって40数年前の出来事を蒸し返すのかが理解できなかったからである。出版後10年も経っており、党の学習参考文献にも推薦されている著書の内容について、宮本が突如『あれは間違いだ、訂正しろ』と云い出したのだ。袴田著書『党と共に歩んで』が書いているように『宮本が小畑をうつ伏せにして組み伏したのではなく、小畑は仰向けだった。小畑は声も立てずに死んだのだ』ということに、同意させようとし始めたのである。私は何も間違ったことは書いていないのだから、一歩も退かなかった。と、宮本はますます激昂した。宮本の細君は、亭主の余りにもな激昂ぶりに気押されたのか、盆をテーブルに置くや否や、後ずさりして出て行った」(62P)。
 「宮本は一体何を恐れたのか。が、今になってみれば、彼の腹の中は明白である。真実を恐れ、自分にやましいところのある彼は、『立花論文』によって自分に都合の悪い事実が露呈することを恐れたのだ」(63P)。

 宮顕の動揺はかくのごとくであった。以降、この二人の関係は、査問致死の事実そのものを認めようとしない宮顕と、それを認めてスパイ摘発闘争であったのだからジハード論で押し切るべきだとする袴田との違いが表面化して、抜き差しなら無い関係へ歩むことになった。

【袴田が衝撃の真相告白】
 78年(昭和53年)に至って除名された袴田が、「リンチ事件」の真実を明らかにした。「週刊新潮・78年2.2日号」の中で次のように新証言している。
 「私はこれまで、45年前のこの不幸な事件で宮本が犯した大きな誤りについて、誰にも話したことは無い。それは私が口を開くことによって、万が一にも宮本の立場を悪いものにしてはならないと配慮したからだ」。
 概要「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた事実を明らかにする」。
 「宮本は、右ひざをうつ伏せになった小畑の背中に乗せ、彼自身のかなり重い全体重をかけた。さらに宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑の体を全体重をかけて右ひざで押さえているのに、その肩の線とほぼ平行になるまで彼の右腕をねじ上げ、かつ押さえたのだ。苦しむ小畑は、終始大声を上げていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重を乗せた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて『ウォ−』という小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本の締め上げに息が詰まり、遂に耐え得なくなったのである。小畑はグッタリとしてしまった」。「私は今まで、特高警察に対しても、予審廷においても、あるいは公判廷でも、自分の書いたものの中でも、この真実から何とか宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。この問題で宮本を助けるのが、あたかも私の使命であるかのように私は真実を口にしなかった。その結果、私も宮本も殺人罪には問われずに済んだのだ」。

 しかし、この新証言も、共産党中央の反論によって衝撃を生むことはなかった。(以下、資料化する)。

(私論.私見) 【「リンチ事件資料漏洩、袴田証言」の衝撃と無反応の驚愕】

 リンチ事件各種資料が漏洩され、袴田証言が為されても、流布されているところのリンチ事件の構図は影響を蒙らなかった。こうなると問題は、これら一連の資料漏洩によって「小畑中央委員リンチ致死事件」の全貌が明らかにされ、もはや宮顕定説とは大きく異なる素体を見せているにも関わらず、これらの資料が全く精査されようとせず、さして大きな話題にもならず今日まで経過している不思議現象を我々はどう了解すればよいのだろう、ということになる。

 「リンチ事件各種資料漏洩、袴田証言」から「事件のれんだいこ解析」が生まれた。これを普通に読み取れば、「事件のれんだいこ解析」のようになるであろう。亀山流に云うならば、「もしも15年前に公開されていれば、少なくとも、神山氏と私は、そのままにしておく筈がない」となる。亀山氏の指摘の如く、惜しまれるのは漏洩の遅さである。もし仮に、これが徳球時代に漏洩されていたなら、宮顕は間違いなく除名追放処分を受けていただろう。それは、徳球執行部が政治的に動いたことによってではなく、宮顕弁明の余りな居直りと反党行為が露見したことにより責任をとらせられた為である。

 しかし、歴史はそうはならなかった。漏洩が遅すぎた。これにつき、手元に置き続けた平野謙・氏の犯罪は弾劾されるべきである。ところが、こたび漏洩されてもなお何事もなく平穏に経過させてきている現実がある。これを知性の貧困というべきか、怯堕いうべきか分からない。しかし、いつまでも許すわけにはいかないことは確かであろう。

 れんだいこはあきれている。この一事だけで、現代の自称インテリのボンクラ性を見て取る。彼らは日頃何やら小難しい文章を捏(こ)ね上げることでインテリ性を語ってはいる。だがしかし、彼らの読解力や論証力は驚くべき貧困なのではなかろうか。その貧困をカムフラージュする為に小難しい文章を得意とし、あるいは不破式の長たらしい無内容文を綴り、その論を肩書き権威で通用させているだけのことではないのか。

 外国語に長じたとしても最終的には読解力や論証力になるのであり、母国語で出来ない者が外国語で出来る訳もなく、してみれば彼らの外字引用文も単に読めるというだけのことであり、それを紹介したというだけのことであり、さほど評するのに当らないのかもしれない。こういう単なる外字かぶれが多過ぎる。そういえば、和文章に句読点をコンマ「,」、終り点をドット「.」にすることで学識ぶっている手合いが目に付く。裁判所の判決文もそういう風になってきつつあるが、何の意味があるのだろうか。れんだいこの義憤は抑えきれない。

 2006.5.23日 れんだいこ拝

【宮地健一氏の「スパイ査問事件と袴田、逸見教授政治的殺人事件」考】
 その後の動きとして、宮地健一氏の「スパイ査問事件と袴田、逸見教授政治的殺人事件」がある。宮地氏自身「1967.5月愛知県党問題」で査問に付され、その時の経験から宮顕の正体に関心を持ち始め、「リンチ事件」を本格的実証的に考察するに至った貴重な資料である。これに触発されてれんだいこの「宮本顕治論」が生まれることになる。

 宮地氏の考究は、宮顕の弁明の逐一を他の被告の証言と絡ませて詳細に比較分析しているところに値打ちがあり、れんだいこのそれは事件の経過を陳述、公判調書に即して再現したところに意味がある。どちらも、「リンチ事件」の研究においてそれまで為されていなかった面での稀有な労作であり、インターネット上に発表されている。

 しかしながら、これだけ公開して各界の判断を要請しているにも関わらず、我らが自称インテリ、新旧既成左翼の側からの見解が依然として為されない。この現象こそ凝視せねばならないのではなかろうか。一事万事でほぼ左派が脳死状態にあるということを例証しているのではなかろうか。宮地氏も然りであろうしれんだいこも何も奇説を唱えて売り込もうとしているのでは無い。左派再生のために貴重な視点の提供をして役立たせたいというのが真情である。それは確かに衝撃は大き過ぎるだろう。だがしかし、これが真実なら真実に立って総見直しせずにどうやって再建できるだろうか。

 今日、日本左派運動の退潮は目を覆うものがある。その理由はソ連邦及び東欧共産圏諸国の解体によって説明されるべきであろうか。それはマルクス主義の理論的欠陥を検証せねばならないことを意味している。あるいはマルクス主義運動上でのスターリニズム的捻じ曲げの問題もあろう。だがしかし、日本の左派運動の場合には、そういうレベル以下の問題であって、取敢えずは「六全協」以降の日本共産党史を基礎から掘り返し、新たに敷設し直していく以外に方法がないのではなかろうか。

 これは、宮顕批判をスターリニズム的観点から為して事足れりとしてきた党派にも同様云えることである。なるほどスターリンも又帝政ツアーリズムのスパイであったとしているのなら共通認識もあるかも知れない。しかし、宮顕を批判するのにわざわざロシアまで出向かねばならぬこともあるまい。その凡庸な従来の批判観点をも吟味切開すべきである、ということが示唆されているのではなかろうか。

 2002.3.17日 れんだいこ拝

【宮内勇氏の「断罪闘争は正しかった、なぜそう主張しないのか」論文考】
 1976.2.20日号「朝日ジャーナル」に、「社会運動通信」主幹の宮内勇氏が「断罪闘争は正しかった、なぜそう主張しないのか」なる題名で次のように語っている。れんだいこは観点の甘さをも感じるが、非常に興味深い個所があり、以下紹介する。
 「私が今度の事件で、不思議に思い、また遺憾にも思うことは、宮本君や共産党の諸君が、なぜこうした事実の真相をはっきりと主張しないのかという点である。事実を事実とし自ら進んで堂々と認める態度になぜ出なかったのか。当時のスパイ査問事件を宮本君は間違いとでも思っているのであろうか。察するに、現在の共産党は、いわゆる宮本路線によって穏健と柔軟を売り物にしている。そのために昔の共産党のイメージ表に出したくないという配慮もあつたであろう。あるいはまた、事があまりにも宮本、袴田という現首脳部の個人的問題に直結しているため、これを持ち出されることは党の美化のため避けたいと考えたのかも知れない」。
 「戦前の治安維持法下という、今とは違った状況の下で起こったあの事件を、現在の共産党の路線から議論するのはどんなものであろうか。あの事件は、歴史の評論はともかく主観的には、当時としてはあれが正しいとの認識に立っていたのである。私自身、正しいと信じてあの断罪闘争を支持したわけであり、その気持ちは今でも変わりは無いのである」。
 「ついでに申し上げておくが、とかく共産党の言説の中には、言い訳、あるいは誇張が多すぎる。目的のためには手段を選ばず、真実を曲げてでも、その場の要請に役立たせようとする。こういう作為的、権謀的体質は、どうも昔から共産党の体質の中にあったように思う。これは、一つには自己の無謬性を過信し、誇示することから起こる偏向であり、また一つには、権威主義的個人崇拝とも相通ずる『歴史の作為と美化』の産物でもあろう。

 しかし、我々が知らねばならないことは、歴史は悠久であり、歴史の真実は、あくまで真実であるということである。ソビエット共産党史が、時の権力者によって、何度も都合のいいように書き改められている事実を、共産党は他山の石として、もっと真剣に反省してみるべきである」。

(私論.私見) 宮内勇氏の「断罪闘争は正しかった、なぜそう主張しないのか」論について

 れんだいこの評する宮内氏は、リンチ事件後直ちに疑惑を強め、党内多数派を形成し、宮顕ー袴田執行部に異を唱えていった点で功績を持つ。この観点に照らすと、宮内氏がここで「当時としてはあれが正しいとの認識に立っていたのである。私自身、正しいと信じてあの断罪闘争を支持したわけであり、その気持ちは今でも変わりは無いのである」発言には違和感を覚える。宮内氏よ、耄碌したのか、と問いかけたい。

 2006.5.23日 れんだいこ拝




(私論.私見)