第10部の1 戦後の釈放時の疑惑考、「復権証明書」の疑惑考

 (最新見直し2012.09.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「宮顕の釈放経過」と「復権証明書取得経過」には今日なお不自然にして未解明な闇の中にある。結論から言えば、何らかの必要があってと思われるが、宮顕は唯一人「いち早い違法出獄」で釈放されている。これがまず大いに有り得ない釈放であることを確認し疑惑せよ。ところが皮肉なことに、後になってこの「違法出獄」故に司法省当局が法的救済を為そうにも為しえないというジレンマに襲われることになった。最終的に「復権証明書」が出されているが、法理論的には疑義が残るものとなっている。以下、この経過を検討していきたい。大きく言って次の点が解明されねばならない。

 2009.5.13日再編集 れんだいこ拝


題名
戦後の釈放時の疑惑
釈放後の「復権証明書」の取得経過疑惑考

【戦後の釈放時の疑惑考】

【宮顕の奇怪な一足早い釈放と復権証明書の奇怪】
 GHQのマッカーサー司令部は、軍国主義勢力追放という統治政策を有利に運ぶためもあって獄中政治犯の釈放に踏み切った。こうして、1945.10.4日付けでGHQの「民権指令」により10.10日期限で獄中政治犯の釈放を指示した。事実、治安維持法絡みの被告は10.10日に一斉に釈放された。この時の指示は純正政治犯のみを対象としており、宮顕や袴田のように刑事犯を併合している場合には適用されなかった。そういう理由によって袴田は他の政治犯が釈放されたにも関わらず居残組となり、当人はそれをややあきらめの気分で日記にしたためている。

 ところが、宮顕は例外で、何と10.10日より一日早い10.9日に慌しく網走刑務所を出所している。その情報が袴田に伝わるや、袴田は自分が放置され、宮顕だけがなぜ釈放されたのか抗議し始めた。これにつき、宮顕は「網走の覚書」で次のように明らかにしている。
 「(所長より)君について命令が来た。健康の点もあるし、執行停止することになった、として釈放されることになった」。

 しかし、この弁には明らかに真偽不明な胡散臭さがある。なぜなら、今日判明しているところでさえその経過が何とも妙で、次のようなマジック出所であったことが判明しているからである。

 宮顕の「網走の覚書」によれば、概要「発信人は東京の予防拘禁にいた同志の一人と弁護士名の連名で、出たらすぐ来い。宿舎の用意有り」との電報が届いている。しかし、差出人が誰なのか、連名の弁護士名も明らかにされていない。研究者の間では、「予防拘禁にいた同志の一人」が徳田球一、弁護士が栗林敏夫氏だと推測されているが、この当時、徳球の指示で幾人かに電報を打っているのは事実であるが、宮顕に宛てたかどうか疑問がある。

 なぜなら、徳球と宮顕の間にはそれまで何の接点も見出されない疎遠な関係でしかなかったからである。それと、宮顕よりは近い関係にあった袴田にはこの種の電報が届いておらず宮顕だけに打電するのは不自然極まりない。他にこのような電報を貰った者の裏づけもない。むしろ、別な筋例えば「当局奥の院」から電報が届いたのではないかと思われ、これについては宮顕自身が明かさなければなるまい。これを「宮顕の釈放経過疑惑その一」とする。

 「不自然な脱獄指示書」を受け取った宮顕は、出所を強く要請する為の「釈放上申書」を書き上げている。「釈放上申書」には診断書が添付されている。これを見るに、病状診断ではさほどの所見が為されていないにも関わらず、末尾で「右により心身の衰弱増進し、刑の執行により生命を保つこと能わざるものと認む」とされ、「釈放の喫急なることが要請される」という珍奇な「診断書」となっている。

 つまり、宮顕の「一日早い釈放」には理由があり、GHQの「民権指令」に基づく正規の手続きによってではなく、生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置による違法出所であったことが判明する。宮顕につき何故、「生命危篤に基づく特例措置」が講ぜられたのか、これを「宮顕の釈放経過疑惑その二」とする。

 「釈放書」は、10.9日付けで網走刑務所所長・山本捨吉から釧路地方裁判所網走支部検事局検事・佐々木利視宛てに送付され、即日許可されている。且つ、宮顕はその当日出所している。何とも手回しの良い出所であったことになる。かくて、宮顕につき何故かくも手際の良い、徳球ら他の政治犯よりも一日早い出所が講ぜられたのか、これを「宮顕の釈放経過疑惑その三」とする。

 網走刑務所出所後の宮顕の足取りがつながらない。10.9日午後4時、出所し、8時の汽車で函館へ向かっている。台風のため青函連絡船が欠航となり、東京へ着いたのは14日とされているが、この日程は間延びしすぎであろう。真相は、一刻も早く東京へ辿り付いている可能性が強い。

 この頃既に戦前以来の活動家の名だたる者は共産党の再建目指して競うようにして活動拠点となっていた国立の自立会へ結集しつつあったが、宮顕が出向いたのは10.21日と云われている。この間都合12日間要しているが、宮顕はそれまで何処で何をしていたのだろう、何らかの外部接触が為されていたと推定できる。これについても宮顕自身が明かさなければなるまい責務がある。これを「宮顕の釈放後疑惑その一」とする。 

 宮顕のこの間の経過で不自然なことは、他の指導幹部の全員が釈放に当たって事前・事後の数次に亘ってGHQ要員から聴取され調書を取られている事実があるにも関わらず、宮顕の場合その痕跡が記されていないことにある。宮顕が下部党員であった故に重視されなかったと見なすのは不自然である。戦後党運動の最初より宮顕は中央委員に選出されており、徳球と書記長の座を争ってもいる。GHQが見逃すことはあり得ないと考えるのが至当であろう。してみれば、宮顕には何故調書が取られていないのか、あるいは秘匿されているのか。これを「宮顕の釈放後疑惑その二」とする。

 10.12日、CLO(終戦連絡中央事務局)は、GHQに対して「終戦恩赦」を上申し、10.17日、大赦令(勅令579号)、減刑令(勅令580号)が発令されている。減刑令により、宮顕は無期懲役から懲役20年に、袴田は懲役13年から2年3ヶ月24日を減刑された。つまり、無罪放免ではなく無期懲役から懲役20年への減刑が言い渡されているが、何故放免され続けたのかという疑惑が生まれることになる。これを「宮顕の釈放後疑惑その三」とする。

 その後、宮顕は、袴田と共に執拗に「復権証明書」を手に入れるべく奔走しているが、本来両名の言うが如く「小畑の死因が体質的なショック死」であれば、そのことを証する為に再審査を請求していくのが筋であろう。宮顕は何故冤罪として事件の再調査の要請に向かわなかったのだろうか。これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その一」とする。

 宮顕は、事件の再調査を要請する方向には向かわず、超法規的特例措置による「復権証明書」を手に入れんが為に涙ぐましい努力を見せていくことになる。宮顕はなぜそれほど執拗に「復権証明書」取得にi拘ったのか、相当の理由があると解するのが至当であろう。これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その二」とする。


 1946(昭和21).5.29日、宮顕、袴田両人に「復権証明書」が交付されている。この経過は、日本当局もGHQも互いの責任の痕跡を残さぬように努めており、今日でも「本当の事情はわからないという他はない」(元内閣法制局長官・林修三、「宮本氏らの復権問題の法律的問題点」)と云われているように、闇の部分となっている。この発行経過が疑惑に包まれており、これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その三」とする。

 この時の「復権証明書」の文言にも問題が残されている。「勅令第730号」は、次のように記している。
 「人の資格に関する法令の適用に付いては、将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとの同令第一条に則り、資格を回復したることを証明す」。

 この時の「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という文言による「復権」が問題とされる。なぜなら、「復権」の正確な法律的解釈は、純正思想政治犯に対して適用されるものであり、それまでの遣り取りでも宮顕・袴田らのような併合犯には適用されなかった経過がある。にも関わらず同様文言で復権させるには無理があった。これを政治的圧力で無理やり押し通したことになる。さて、誰がその圧力主体者であったのかが解明されねばならないだろう。これを「宮顕の復権証明書取得疑惑その四」とする。

 以上、概略を述べたが、「宮顕の釈放経過疑惑」で三点、「宮顕の釈放後疑惑」で三点、「宮顕の復権証明書取得疑惑」で四点、都合ざっと10点の疑惑に包まれている。これだけの疑惑まみれにありながら、「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という文言の「復権証明書」を手にしているのだから「解決済み」と居直るのが宮顕―不破系党中央のスタンスである。これを真に受ける者はよほど奇特な御仁であると云わざるをえまい。

 2003.7.25日 れんだいこ拝

【「法螺と戯言」氏の賛同文】
 れんだいこの上記の指摘につき、「法螺と戯言」氏が「中曽根氏の宮本顕治氏についての照会」の中で次のように御意の姿勢を披歴している。これを転載しておく。
 中曽根氏の宮本顕治氏についての照会

 +++++時事ネタ(宮本顕治事件)
 月刊雑誌「世界」の2011年1月号に興味深い記事を見つけました。「秘密解除・ロッキード事件」というもので、朝日新聞記者の筆になるものです。この記事は、そもそもは本年2月の朝日新聞記事に端を発しています。

 %%%%%引用開始
 http://nikonikositaine.blog49.fc2.com/blog-entry-1167.html
 ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書(朝日新聞 2010年2月12日3時30分)


 ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。

 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。

 ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

 与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。

 文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。

 さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。

 文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。

 結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)

     ◇


 東京地検特捜部検事時代にロッキード事件を捜査した堀田力弁護士の話 米国への要請が事件発覚直後で、しかも「日本の政府がひっくり返るかもしれない」とブラフ(脅し)みたいな言い方なのに驚いた。私は法務省刑事局の渉外担当参事官として2月26日に渡米し、資料入手の交渉をしたが、それを阻止するような動きがあるとは察してもいなかった。
%%%%% 引用終わり

 上記は、世間をあっと驚かせたことからよく知られています。この書類を発見した朝日記者の手によるとおもわれるのが「世界」の論説です。この記事にまことに興味深い表現があるのです。

%%%%%引用開始
「翌六日、東京にいた国務省ウイリアムシャーマンと自民党幹事長中曽根が接触した。事前に表敬のために予定されていた接触だったが、話題はロッキードになった。駐日大使館から国務省にその日のうちに送られた公電に中曽根の発言の概要が報告されていた。
 それによれば、中曽根がまず触れたのが日本共産党の「スパイ査問事件」だったとされている。共産党委員長の宮本顕治はこの事件で監禁致死や死体遺棄などの罪に問われて戦中に有罪判決を受けたが、戦後まもなく復権していた。民社党委員長春日一幸は一月二十七日の衆議院本会議でその経緯を取り上げて「真相を明らかにすべき」と迫った。」
 %%%%%引用終わり


 1945年8月15日の時点で宮本顕治氏は、ウイキペディアによれば、『第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)12月5日に、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、不法監禁致死、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪判決を下した。1945年(昭和20年)5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。』というわけで、わずか4ヶ月強とはいえ、宮本氏は網走刑務所に服役中でした。1945.10.4日付けでGHQの「民権指令」により10.10日期限で獄中政治犯の釈放を占領軍は指示し、事実、治安維持法絡みの被告は10.10日に一斉に釈放されました。この時の指示は純正政治犯のみを対象としており、宮顕や袴田のように刑事犯を併合している場合には適用されなかったのです。(レンダイコ氏ブログより、引用)。しかも宮本氏の釈放が一日早い10月9日であることも謎であるとレンダイコ氏は指摘しています。

 釈放のおよそ二ヵ月後の昭和20年12月29日に勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)が発布され『別表1ニ掲グル罪ヲ犯シ本令施行前刑ニ処セラレタル者ハ人ノ資格ニ関スル法令ノ適用ニ付テハ将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス但シ左ニ掲グル場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ』というわけで、治安維持法関連で収監されていた政治犯の人権が回復されたのです。しかし、この時点では殺人事件に関与したとされる宮本氏にこの復権は適用されていません。当然のことです。なぜならば、上記条文の「別表1に掲げる罪」(殺人)を犯していたからです。しかし、宮本氏は、自らが犯した「殺人事件は治安維持法がらみであるから復権さるべき」と執拗に占領軍に「嘆願」した結果、翌年五月、超法規措置で「復権証明書」が交付されているのです。上記の春日一幸氏の疑問は、殺人事件にかかわった刑事犯に勅令七三〇号が適用されたことの不明朗さを(1976年時点での政治的背景があったにせよ)指摘したものだったのです。

 復権証明書を執拗に請求した宮本氏側の論理は納得しがたいものです。この論理は、小林多喜二、野呂栄太郎などを拷問で虐殺した特高警察の犯罪を免罪するものです。特高警察の存在の前提が治安維持法にあるからです。地到底受け入れがたい「屁理屈」というものです。レンダイコ氏が指摘するように上記の経過には多くの胡散臭さが残っています。しかし、私が注目するのは、中曽根氏がロッキード事件の「もみけし」に先立って「宮本事件」に触れていることです。

 渡邉恒雄回顧録 ( 伊藤 隆, 御厨 貴, 飯尾 潤 (中央公論新社、2004年))によれば、CIAエージェントとして、いまや日本中に知れ渡っている正力松太郎氏に中曽根氏を引き合わせたのがナベツネであると氏自ら語っています。なにせナベツネは自ら正力氏の走り使いであったと上記本で自慢げに語っているのですから。正力氏、中曽根氏のどちらも警察官僚です。私は、宮本氏にかかわる秘事は当然のことながら中曽根氏に引き継がれているのであろうと想像していました。しかし、どうもそうではなかったようです。もしかすると、CIA 下っ端エージェントの正力氏には宮本氏にかかわる真相・秘事は明かされていなかったのではないか。そして、中曽根氏は自らの鋭い嗅覚で、「宮本復権」に占領米国軍司令部・米国政府がかかわっていたであろう事を察知し、冒頭の質問となったのだろうと思います。

 一方、ナベツネは正力氏との日常の接触から何がしかの感触を得ていたのではないか?それを思わせるに十分な記載が上記の本で触れられています。ナベツネは学生時代つまり東大駒場の共産党新人会で相当の回数宮本氏と遭遇していますが、二人の会話は、いつも「スパイ」談義なのです。それは、後日の邂逅でも再度、スパイ談義です。当時、ナベツネには不明朗な金の授受からスパイの嫌疑をかけられていました。ナベツネは自らのススパイ嫌疑にかこつけて、宮本氏の秘事を�拙んでいると暗に揺さぶりをかけていたのではないかと思われるのです。


 1970年代、この事件の顛末は皆さんも知るとおり、共産党の「田中角栄たたき」に結実したのです。

【「法螺と戯言」氏の賛同文に対するれんだいこのお返し】
 上記の「法螺と戯言」氏の「曽根氏の宮本顕治氏についての照会」に対し、れんだいこは次のようにお返し文「法螺と戯言氏の宮顕疑惑考」を書き上げた。そのりうち「法螺と戯言氏のれんだいこ史観通底考その1」を下記に転載しておく。

 2012年3月 6日 (火)

 法螺と戯言氏のれんだいこ史観通底考その1

 2012.3.4日、ネット検索で「法螺と戯言」を見つけた。サイト管理人を仮にF氏と命名しておく。F氏は、れんだいこの宮顕論、リンチ事件考を踏まえた上で更に自身の見聞を加えた価値ある宮顕論を展開している。れんだいこの所説を好意的に言及しているので謝意も込めて確認する。「法螺と戯言」の全文はサイトで確認していただくとして、れんだいこに関わりのある部分、宮顕論上の秀逸な観点に特化して引用し、れんだいこコメントを付けることにする。F氏文を読み易くする為にれんだいこ文法に則り若干アレンジするものとする。腹の足しになる議論を心がけている本稿は合格するだろうか。 

 F氏は、「2010年02月」のブログの「時事ネタ(ロッキード事件)」で次のように述べている。

 「かれこれ40年近く昔の事件になります。あの頃、純粋(言い換えれば無知)な私は、『札束で頬を叩いて意のままにする宰相』についての過度の気嫌いから時の総理大臣田中角栄氏のスキャンダル失脚を好ましく眺めていました。しかし、時の経過の中で、あの事件が角栄氏の政界放逐を目論んだ一大政治陰謀の一場面であったことを知るに至りました」。

 「2010年12月」の「ロッキード事件と中曽根康弘氏(3)」で、当時のF氏のスタンスを次のように述べている。

 「1960年代から70年代にかけて、私は軽薄な左翼学生でありました。そうした軽薄思考の学生には、田中角栄氏と正力ー渡辺恒雄―中曽根氏はどちらも反動右翼であり、抗う対象でありました。前回掲載した簡単な年表に見るように1974年に月刊誌文藝春秋上で立花隆氏が田中角栄氏の金脈に関する連載を開始した際は、『それいけ、それいけ』と喝采したものです。ところが、立花氏は、ロッキード事件が米国上院で議論されるまさにその時期に『日本共産党の研究』と題する連載を開始するのです。共産党信者であった私は、この立花氏の連載に驚くと同時に、この連載は文藝春秋誌のいわば左右バランス感覚のなせるものであったのだろうと自らを納得させたわけです。つまり右の田中を叩き、ついで左の共産党を叩くというわけです」。

 これによると、1970年代までのF氏は「共産党信者であった」ことが分かる。そのF氏が共産党に失望し、のみならず疑惑を抱くようになった経緯が以下に立論されている。これを確認する。

 F氏の「共産党失望から疑惑への経緯」に、朝日新聞2010年2月12日付け(奥山俊宏、村山治)記事「ロッキード事件 『中曽根氏がもみ消し要請』 米に公文書」(米ミシガン州のフォード大統領図書館所蔵 )が大きく関係しているようである。同記事は、ロッキード事件当時の中曽根幹事長の奇妙な言行を暴露している。この文書は1976年2月20日、ジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写しであり、米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管されており、2008年8月に秘密指定が解除されたことから知られるようになった。この記事と共にF氏の「共産党失望から疑惑への経緯」への旅が始まる。

 文書によると、1976年2月4日、ロッキード事件が米議会で暴露され、与野党いずれも政府に真相解明を要求し始めた。2月18日、三木首相は「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。 その日の晩の中曽根の怪しい行動が記されている。中曽根が米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼している。

 中曽根は、三木首相の事件の徹底解明方針とは逆に、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」、「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と発言している。 中曽根の怪しい行動は翌19日の朝にも確認できる。この日、一晩考慮した中曽根は「もみ消すことを希望する」と伝えている。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書かれている。文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明にされている。

 上述の朝日記事を読み流した者は多いが、F氏は、ここから中曽根疑惑の眼を点灯させる。以来、ロッキード事件論、角栄論、中曽根論、宮顕論、日本共産党論、小沢キード事件論、現代政治論へと思考の旅を続けて行くことになる。

 中曽根疑惑につき、「時事ネタ(ロッキード事件(2)」で次のようの述べている。

 「それにしても爆弾級の情報でした。当時、米国にロッキイード事件の調査に行った共産党代議士の正森成二氏が帰国後の談話で、『トライスタ売込みよりもっと巨大な金がP3C対潜哨戒機売込みで動いている』と語っていたことが思い出されます。その額たるや、トライスタ関連での金とは一桁違うといわれていました。この売り込みに日本側で直接に関わったのが中曽根元首相であり、児玉誉士夫であったわけです。だからこそ、中曽根氏は、自分への疑惑を追及されることを防ぐべく、田中角栄氏を人質に差し出し、自分はその罪を免れたわけです。政治とはそういうものとはいえ、その陰湿・悪質な行為は許しがたいものがあります。そして、この超大疑惑に東京地検特捜部はなんら手をつけなかったのです」。

 「2010年09月」のブログの「時事ネタ(ロッキード事件)」で次のように述べている。

 「私は、40数年前の若かりし頃、日本共産党を応援しておりました。この党の躍進後退にかっては、一喜一憂しておりました。この党の代議士に日本国を真に憂い、国民の僕として働くとの気概を、主観的にかぶせ思い込んでいたのです。そして、この党を支えてきた地方議会議員、医師、弁護士などにそうした人材の存在を確かに確認してきました。何人かの国会議員は温かい目を持ち、私の信頼に応える議会活動をされておられました。しかし、全体としては、この組織を束ねる指導部には、日本を米国からの隷従から解き放ち、『国民生活を安定させるための戦術・戦略を構築する』能力と、意欲がないことが判明しました。むしろ、日本を危機に追いやる勢力に『意図』的に加担することでもって生き残りを目論む姑息さを見てきました(詳しくは、いずれ、機会をみて書きます)」。

 何と正確にも、「この組織を束ねる指導部には、日本を米国からの隷従から解き放ち、『国民生活を安定させるための戦術・戦略を構築する』能力と、意欲がないことが判明しました。むしろ、日本を危機に追いやる勢力に『意図』的に加担することでもって生き残りを目論む姑息さを見てきました」と証言している。先に共産党信者であったF氏を確認したが、いつしか共産党に失望と疑念を向け始めたことが分かる。

 「2012年12月」のブログの「中曽根氏の宮本顕治氏についての照会」で次のように述べている。

 「この書類を発見した朝日記者の手によるとおもわれるのが『世界』の論説です。この記事にまことに興味深い表現があるのです。『翌六日、東京にいた国務省ウイリアムシャーマンと自民党幹事長中曽根が接触した。事前に表敬のために予定されていた接触だったが、話題はロッキードになった。駐日大使館から国務省にその日のうちに送られた公電に中曽根の発言の概要が報告されていた。それによれば、中曽根がまず触れたのが日本共産党の『スパイ査問事件』だったとされている」。 

 このブログの何が大事かと云うと、F氏が、ロッキード事件勃発最中に中曽根が「宮顕のスパイ査問事件」に言及していることを重大視し、中曽根が何故に「宮顕のスパイ査問事件」に触れたのかにつき正当な疑問を発しているところにある。当該論文を読んだ者は多いのに多くの者は疑問をわかさず通り過ぎている。それに比べF氏は由々しき疑問を感じたと云う訳である。F氏の謎解きの旅の圧巻部分である。

 F氏は、中曽根がわざわざ持ち出した「宮顕のスパイ査問事件」に興味を覚え、同事件の再確認へと乗り出したようである。その結果、共産党の戦前の党中央委員査問致死事件の主犯として収監されていた宮顕の戦後の釈放過程に疑義を唱えている。釈放前は「わずか4ヶ月強とはいえ、宮本氏は網走刑務所に服役中でした」と正しく認識している。「わずか4ヶ月強とはいえ」は、俗説の宮顕神話「網走獄中長期収監説」を一蹴している。その上で次のように述べている。

 「1945.10.4日付けでGHQの「民権指令」により10.10日期限で獄中政治犯の釈放を占領軍は指示し、事実、治安維持法絡みの被告は10.10日に一斉に釈放されました。この時の指示は純正政治犯のみを対象としており、宮顕や袴田のように刑事犯を併合している場合には適用されなかったのです。(レンダイコ氏ブログより、引用)。しかも宮本氏の釈放が一日早い10月9日であることも謎であるとレンダイコ氏は指摘しています」、「レンダイコ氏が指摘するように上記の経過には多くの胡散臭さが残っています。しかし、私が注目するのは、中曽根氏がロッキード事件の『もみけし』に先立って宮本事件に触れていることです」。
 「渡邉恒雄回顧録 ( 伊藤 隆, 御厨 貴, 飯尾 潤 (中央公論新社、2004年))によれば、CIAエージェントとして、いまや日本中に知れ渡っている正力松太郎氏に中曽根氏を引き合わせたのがナベツネであると氏自ら語っています。なにせナベツネは自ら正力氏の走り使いであったと上記本で自慢げに語っているのですから。正力氏、中曽根氏のどちらも警察官僚です。私は、宮本氏にかかわる秘事は当然のことながら中曽根氏に引き継がれているのであろうと想像していました。しかし、どうもそうではなかったようです。もしかすると、CIA 下っ端エージェントの正力氏には宮本氏にかかわる真相・秘事は明かされていなかったのではないか。そして、中曽根氏は自らの鋭い嗅覚で、『宮本復権』に占領米国軍司令部・米国政府がかかわっていたであろう事を察知し、冒頭の質問となったのだろうと思います。

 一方、ナベツネは正力氏との日常の接触から何がしかの感触を得ていたのではないか?それを思わせるに十分な記載が上記の本で触れられています。ナベツネは学生時代つまり東大駒場の共産党新人会で相当の回数宮本氏と遭遇していますが、二人の会話は、いつもスパイ談義なのです。それは、後日の邂逅でも再度、スパイ談義です。当時、ナベツネには不明朗な金の授受からスパイの嫌疑をかけられていました。ナベツネは自らのススパイ嫌疑にかこつけて、宮本氏の秘事を署ルんでいると暗に揺さぶりをかけていたのではないかと思われるのです。1970年代、この事件の顛末は皆さんも知るとおり、共産党の『田中角栄たたき』に結実したのです」。

 ここで、れんだいこが登場している。これにより、F氏が、れんだいこの日本共産党論、宮顕論、不破論を読んでいることが分かる。その上で、れんだいこの立論に共感していることが分かる。このことが「れんだいこ検索」にヒットし、れんだいこがF氏を知るきっかけになり、れんだいこがお返しの本ブログを書いていると云う次第である。情報はかくして世界を回り戻りつ又回ると云うことが分かり興味深い。

 F氏は、「時事ネタ(ロッキード事件(2))」で次のように述べている。

 「前回の記事に、このブログを読んでくださっている方から質問やら、コメントやらをいただきました。まずはレンダイコとは何か?という質問です。レンダイコとは下記のホームペイジ上で鋭い政治評論をなされている方です。http://www.gameou.com/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron.htm れんだいこ氏の本名、生い立ちについて、私は何も知りません。しかし、氏の宮本顕治論は、広い資料および文献の渉猟が窺われ、それに基づく深くかつ論理的考察には大きな説得力があり、引用しました」。

 これによれば、無名のれんだいこの所説を引用する意図が訝られ質問されたようである。その返答として、「氏の宮本顕治論は、広い資料および文献の渉猟が窺われ、それに基づく深くかつ論理的考察には大きな説得力があり、引用しました」と答えていることになる。御立派である。れんだいこが有名無名に拘わらず、れんだいこ立論に値打ちがあり、値打ちがある以上紹介すると開き直っている公正さが素晴しい。今でこそれんだいこは「検証学生運動上下巻」の執筆者として知る人ぞ知るの半有名人になっているが、この当時はもっと無名である。無名の人物の所論を紹介するのは勇気のいることである。感謝申し上げたい。この後に更に素晴しいれんだいこ好評価の弁を開陳してくれているが、それはそのケ所で確認することにする。

 2012.3.6日 れんだいこ拝


【戦後釈放後の「復権証明書」が公布されるまでの経過】
1945 (昭和20)
 8.15  終戦。
10.4  GHQの「民権指令」(SCAPIN93号)。治安維持法撤廃や政治犯釈放を指令。但し、釈放者は「併合犯」を除くと司法省に明示。
10.5  司法省は、刑事局長号外通牒で、「刑事犯、経済犯の併合犯を除く」政治犯を10日までに釈放するよう通知。
10.9  宮顕が網走より出所。
10.10  徳球・志賀らが予防拘禁所から出所。この時GHQは、「10.4日指令の実施要領」を発表し、「併合犯の詳細を20日までに求め、GHQの決定まで各併合犯を拘留してもよい」と指示を出している。
10.12  CLO(終戦連絡中央事務局)はGHQに対して、「終戦恩赦」を上申。
10.17  大赦令(勅令579号)、減刑令(勅令580号)発令される。減刑令により、宮本は無期懲役から懲役20年に、袴田は懲役13年から2年3ヶ月24日を減刑された。
10.19  袴田里見が宮城刑務所から出所。
10.20  CLO(第317号)は、10.10日のGHQ指令を受けて、「拘留中の併合犯」リスト37名を提出。その中に宮城刑務所の袴田ら4名が含まれていたが、実際には袴田は既に前日出所している。
10.22  この日までに司法省刑事局に届いた報告に拠れば、政治犯439名が釈放、うち治安維持法関係272名、スパイ法関係77名、言論統制法関係90名。
11.6  CLOは、GHQに政治犯として法務省関係439名、海軍省関係28名、陸軍省関係1名の計468名の釈放、SCAPIN93号で釈放された者2026名との報告書を提出。
12.19  GHQがSCAPIN458号で、同93号によって釈放された政治犯の復権措置を指示。
12.19  宮顕はこの間「スパイ挑発との闘争」を書き上げており、この日執筆を完成させている。「査問事件」に対する宮顕的正義の弁明を満展開させていた。宮顕釈放の約2ヵ月後の頃であるが、宮顕の戦後党運動の最初はこの執筆闘争であったと云うことになる。「月刊読売.1946年3月号」に発表された。
12.29  12.19日のGHQ・SCAPIN458号指令を受けて、勅令730号発令。但し、宮顕、袴田には適用されず。
1946 (昭和21)
 1.2  宮顕・袴田が12.29日の勅令730号で復権適用されぬことを司法省に抗議。1.8日付け「アカハタ」再刊第10号に「われらは抗議す」論文が掲載される。
 1.20  宮顕・袴田が「復権申請理由書」を提出。
 2.25  司法省が、宮顕・袴田に対する恩赦適用についてGHQに伺いを出す。この時司法省は、復権を求める両名に対して、政治犯として釈放した誤りから、刑期の残りを恩赦で消して復権させようとしていた。GHQは、何ゆえこの2名が出所し得たのか尋問している。
 3.26  GHQ民政局内部で、意見が対立。
 4.5  GHQ民政局内部で、宮顕・袴田の復権は政治的な判断で行うべきでないとの筋論が為される。
 4.29  GHQが、司法省の宮顕・袴田を恩赦法で復権させようという意向を拒否した。GHQは、誤って出所させた二人を日本政府が再逮捕しなかったことにより、刑事犯の部分が消えたとみなされるという観点から日本側に責任を委ねることにした。そこで、SCAPIN458号に基づく勅令730号の特例措置を指令することになった。
 5.15  上記の主旨を明記したGHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ署名の覚書「日本人の政治犯の復権にについて」が出される。
 5.18  司法省が、宮顕・袴田を勅令730号で復権させる特別通牒を出す。
 5.29  両人に「復権証明書」公布。

【宮顕釈放時疑惑考】
 以上を踏まえて、無期懲役の判決を受けた宮顕、懲役13年の判決を受けた袴田が、出獄し、「復権証明書」を手に入れるまでの動きをもう少し詳しく解明することにする。

 1945.10.4日、GHQは、日本政府に対して「民権指令」(SCAPIN93号)を発した。この指令は、「政治的、宗教的、市民的自由の制限撤廃に関する覚書」指令のことであり、以下の観点に立脚した政策的措置を具体的に施すよう日本政府に指示していた。
 天皇、国体、日本政府に対する自由討議も含め、思想・宗教・集会・言論の自由を制限する全法令の撤廃。つまり、治安維持法並びに関連法を撤廃せよということである。
 政治犯人を10.10日までに全員釈放すること。
 内務大臣、警保局長、警視総監、都道府県警察部長、特高警察関係者全員の免職。
 特高警察を10.15日までに廃止する。

 「民権指令」はこれらを骨子としており、宮顕釈放問題に関して云えば次のようなことになる。「民権指令」は、2の項で10.10日までに政治犯の釈放を指令していたが、政治犯一般ではなく純正政治犯のみを対象としていた。純正政治犯とは思想犯・政治犯のことであり、その対象者は次のように判断されていた。1・治安維持法関係の違反者、2・罪名が明確でないにも関わらず入獄中の者、3・保護観察、留置、投獄あるいは自由を制限されている理由が、実際には彼らの思想、言論、宗教、政治的理念などによるにも関わらず、法律技術で軽微な犯罪を問われている者。かく規定して、「これらの人々を1945.10.10日までにことごとく釈放することを要求する」としていた。

 「民権指令」は午後6時過ぎに政府に到達した。同夜8時過ぎに緒方内閣書記官長が首相官邸で東久邇首相と協議。翌日午前10時30分からの閣議で実施要領を打ち合わせすると共に、「民権指令」に抵抗してきていた岩田宙造司法大臣の辞任と東久邇内閣の総辞職を決定した。

 これにより翌10.5日、司法省は、「刑事局長号外通牒」を出し「検事ノ指揮ニ因ル執行停止ノ方法ニ依リ」政治犯の釈放を指示するところとなった。但し、指令の主旨から純正政治犯にのみ適用され、併合犯には適用されないとしていた。このこと自体は法治主義の精神からしていわばあり得べき当局見解であったと思われる。
(私論.私見) 宮顕のひと足早い出所の怪について
 これによれば、宮顕、袴田らの一般刑法罪との併合犯は適用除外ということになる。にも拘らず、宮顕はひと足早く釈放されている奇怪さが刻まれている。

【新聞報道のミステリー】
 奇妙なことに、10.5日の刑事局長号外通牒を報じた10.6日の新聞各社の記事では、「即時釈放を予想される政治犯」として、「岡邦雄、元子爵土方久敬、久津見房、春日庄次郎、二見俊雄、宮本顕治ら約150名」と書かれており、宮顕の名が率先して掲げられていた。「日本産業経済」、東京朝日新聞の中央紙から、地方紙の北海道新聞に至るまでほとんど同じ内容の記事となっている。氏名の配列までそっくりであり、司法省当局の発表に基づいたものであることを物語っている。
(私論.私見) 「即時釈放を予想される政治犯名簿」に併合犯の宮顕が載る怪について
 司法省とGHQの遣り取りからして、宮顕のようにれっきとした併合犯が間違って釈放名簿に載ったとするミス説は不自然であろう。宮顕に限りこういう不自然なミスが連発する胡散臭さが付きまとっている。

【特別調査委員会の設置】
 こうして、司法省は政治犯の釈放手続きに入ることになり、釈放対象者を確定させるための特別調査委員会を設置している。同委員会では、刑法犯、経済犯を併せ持つ併合犯に対してはどうするのかという問題に逢着することとなり、GHQに問いただしている(76.6.26日付け「サンケイ」が公開した米政府公文書中の「資料4」より)。これに対し、GHQは、「そのような人々は釈放されるべきではない」と回答している。これに基づいて、司法省刑事局長は、10.5日、刑事局長号外通牒で、「『刑事犯、経済犯の併合犯を除く』政治犯を10日までに釈放」するよう通知している。

【刑事併合犯の取り扱い協議】
 宮顕の場合、単に政治犯というのではなく、小畑殺害を直接的理由とする刑事犯でもあった。つまり、併合罪であった。宮顕の罪名「治安維持法違反、不法監禁傷、不法監禁致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反」は、この三規定のどれによっても釈放適用されない。にもかかわらず釈放されることになる。これは「違法出所」である。そのミステリーを以下追跡していくことにする。

 そういう理由によって袴田は他の政治犯が釈放されたにも関わらず居残りぐみとなっていた。当人はややあきらめの気分を日記にしたためている。
 (れんだいこ調査によれば次のようなことになる)

 マイヤーズ法務部顧問の47.3.26日付け覚書「日本人既決政治犯の特赦(資料1)」で、この時宮顕と袴田の処遇が検討されたことを明らかにしている。「二人が政治犯罪と一般犯罪の両方で罪に問われたこと、また一般犯罪の故にさらに刑務所に拘禁され続けたかも知れないという事実を、日本の司法省は二人の釈放前に行われたGHQ担当官の調査のさい認めた」と書き記している。

 この「マイヤーズ覚書」は米政府公文書であり、76.3.26日付け「サンケイ」が公開した貴重文書である。これによれば、日本の司法省がわざわざ宮顕と袴田の処遇をGHQに相談して、釈放拒否の回答を得ていたにも関わらず、結果的に日本側の独断で釈放に踏み切っているという経過が見えてくる。何が何でも宮顕を釈放せんとして、実際に釈放した「奥の院」の意思を想定せずには不可解であろう。

【出獄要請電報のミステリー】
 「網走の覚書」に拠れば、この間宮顕は、概要「発信人は東京の予防拘禁にいた同志の一人と弁護士名の連名で、『出たらすぐ来い。宿舎の用意有り』との電報が届いた」ことを明らかにしている。が、この一文には胡散臭さが秘められている。なぜなら、袴田にはこの種の電報が届いておらず、当時他にこのような電報を貰った者の裏づけも無い。第一、差出人が誰なのか、連名の弁護士名も明らかにされていない。研究者の間では、「予防拘禁にいた同志の一人」が徳田球一、弁護士が栗林敏夫氏だと推測しているが、徳球が宮顕にそのような打電をしたのかどうか疑わしい。

 これについては、少々調査を要する。徳球の指示で幾人かに電報を打っているようである。但し、宮顕に宛てたかどうか疑問があるのでこう断定しておく。むしろ、別な筋例えば「当局奥の院」から電報が届いたのではないかと思われ、これについては宮顕自身が明かさなければ永久に分からない。
 (れんだいこ調査によれば次のようなことになる)

 今日に至るもこの時の電報の差出人が判明されていない。松本明重「日共リンチ事件」では、「三田村四郎(転向により昭和8年7月除名、その後反党活動を指揮する)がこの頃宮顕宛に電報を打っている事実と証拠も現存しているのである」と書かれているが、それより以上は詮索されていない。しかし、松本明重氏のこの指摘は重い。宮顕と三田村四郎が繋がっているということは大いにあり得る。肝心な時に現れる人間模様こそ凝視せねばなるまい。三田村の背後に誰が居たのか、興味は尽きない。

【「網走刑務所長発言」のミステリー】
 「網走の覚書」では続いて、次のように記している。
 概要「私は返電を打つために手続きをとった。すると間もなく呼び出しがあった。所長室に連れられて行くと所長が言った。『君について命令がきた。健康の点もあるし、執行停止することになった』。結局、執行停止という形式で出すことになったのが分かった」。
(私論.私見) 加周義也の「リンチ事件の研究」の物足りなさについて
 れんだいこ調査によれば次のようなことになる。加周義也の「リンチ事件の研究」では、「宮本だけに特別の『謀略的』な命令が密かに届いたと見るのは、見当違いである」とわざわざ見解を示しているが、『謀略的』であったかどうかはともかく、不自然きわまることには違いなかろう。私は、宮顕を一刻も早く出獄させ、戦後党運動の指導権を取らそうとしてなりふり構わなかった当局の意図が見え隠れしていると見る。いずれにせよ、袴田は放置されており、宮顕だけが便宜を受けたのは何故か。この不明朗さについて、かって民社党春日委員長(当時)が国会質疑している。当然政治的に利用された訳であるが、咎められる理由があるからこそ突かれることになる。

【「虚偽診断書」のミステリー】
 宮顕は急遽「釈放上申書」を提出している。その上申書には医師の「診断書」が添付されている。これを見るに、病状診断ではさほどの所見が為されていないにも関わらず末尾で「右により心身の衰弱増進し、刑の執行により生命を保つこと能わざるものと認む」とされ、釈放の喫急なることが要請されているという変調な「診断書」となっている。

 宮顕は「診断書」により釈放の口実が与えられていくことになるという意味で、「診断書」は重要な役割を負っている。以上からすれば、宮顕の釈放はGHQの「民権指令」に基づく正規の手続きに拠ってではなく、生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置による「違法出所」であったことが判明する。
(私論.私見) 「虚偽診断書」のミステリーについて
 れんだいこ調査によれば次のようなことになる。この診断書の所見に対し、元結核予防会・結核研究所長・東京大学医学部教授の斯界の権威・岡治道博士は、次のように述べている。
 「結核専門家の立場から見た場合、雲を掴むような診断書で何のことか判りませんね。まず何をもって肺浸潤という診断を下したかが不明瞭です。肺浸潤は昔、肺結核や肺炎を含む言葉として使用されてたもので、現在は使われておりません。私自身も今まで、肺浸潤という診断をしたことは一度もありません。それほど不明確な、肺浸潤という病名を診断する以上は、レントゲン写真を添付するのが医者の常識です。もし添付できなければ、レントゲン写真の所見を記入すべきですが、ここには何も書いていません。従って、それ以前にレントゲンを取ったことがあるのかどうかも不明です。当時でもレントゲンは普及していましたからね。次の『予後、不良』これが問題です。まず肺浸潤で予後不良なのか、衰弱で予後不良なのか意味不明です。そもそも『予後、不良』というのは、先行き助からないだろうという意味なのですから、ここでは『まず入院しなさい。その上で精密検査をする必要があります』とするのが医者の常識です。この『診断書』といわれる文面でみる限り、医師の主観が多く、客観的な資料の記載もありませんので、何を言っているのか判りません」(松本明重「日共リンチ殺人事件」)。

 通常、「病気による刑の執行停止」とは、このまま服役させておけば命が危ない、と云う状況になって行われる。宮顕がこの当時、ジャガイモの一杯入った味噌汁を食べて、体重が60キロに増え、健康を回復したと云う事を、宮顕自身が幾つかの対談の中で語っている。このままでは命が危ないという状況では決してなかった。その証拠に、宮顕の出所後の歩みを見れば「先行き命が覚束ない予後、不良」などではなく、「出所後の途中で『あきあじ』などをご馳走になり、午後8時まで新聞を読んだり電文を書いたりして過ごす」(「網走の覚書」)とあり、何よりその後の党活動での反徳球運動に精力的な様子を見れば、宮顕釈放の手続きが、「刑の執行停止」で出獄させる為の形式手続きに過ぎなかったことが判明する。

 こうして、宮顕の釈放には、網走刑務所長と釧路地裁網走支部検事による「虚偽の診断書」を利用しての「書類上のデッチ上げ釈放」という経過が見えてくることになる。伝えられるところによると、網走刑務所では、元気一杯の宮顕を「病気による刑の執行停止」という形で出獄させた為、その辻褄を合わせる為に過去に遡って偽の「病状経過報告書」まで作られていたと云う。問題は、そうした小官僚に小細工をさせた闇の部分こそ詮索されるに価するということであろう。事実、これは「ウッカリしたチョンボ」ではない証拠に袴田ら他の治安維持法+刑法犯は出獄を許可されていない。

【「釈放上申書」のミステリー】
 宮顕は出所を強く要請する為に「釈放上申書」を書き上げ、10.9日付けで網走刑務所所長・山本捨吉から釧路地方裁判所網走支部検事局検事・佐々木利視宛てに送付され、即日許可を得ている。「釈放上申書」は、釈放の理由として次のように記している。
 「病状回復に至らず、現症肺浸潤として別紙刑務医官診断書の通りこのまま刑の執行を継続するにおいては、心身の衰弱加わり生命を保つことあたわざるおそれ有りのそうろうにつき、刑事訴訟法546条第一項第一号に該当するものと認められそうろう条、至急刑執行停止の御指揮相成りたくそうろう 昭和二十年十月九日 刑務医務官(印)」。
(私論.私見) 「釈放上申書」のミステリーについて

 れんだいこ調査によれば次のようなことになる。つまり、宮顕は、GHQの「民権指令」による堂々たる出所ではなく、格別の計らいによって手回しよく釈放されたという経過を見せている。その理由として、宮顕の強い要請によって為されたと考えるよりも高度な政治的な判断により強行されたと考えるほうが自然であろう。いずれにせよ、宮顕は「病気を理由とする刑の執行停止処分」によって出所することになった。

 おかしなことだが、市川正一、国領、三木清ら党幹部の獄中病死は平然と捨て置かれたのに対し、宮顕の場合は病死の恐れがあるので刑執行停止によって早急に釈放の許可を願うと、刑務所長が画策しているという構図となっている。


【宮顕出所日のミステリー】
 宮顕は「釈放上申書」を提出した当日に許可を得、「病気による刑の執行停止」と云う事でやはり当日網走刑務所を出所している。何とも手回しの良い出所であたことになる。

 なお、十全なる併合犯であった宮顕の10.9日釈放は他の政治犯釈放日より一日早い。これら全てが何とも妙な経過を見せている。

 但し、共産党中央委員会の「日本共産党の50年」は、宮顕の出獄を10月16日としている。これは意図的かどうかまでは分からないが明らかに間違いである。というか、10.16日まで当局奥の院と何らかの折衝していたことの裏示唆とも考えることができる。
(私論.私見) 「宮顕出所日」のミステリーについて
 れんだいこ調査によれば次のようなことになる。してみれば、 「二人(宮本.袴田)の場合、罪名は政治犯だけではない。むしろ、殺人、死体遺棄、不法監禁の方が主である。戦後、徳田球一、志賀義雄らと同じような形で釈放されたのではなく、それに準じた刑の執行停止という恩恵によって出獄したのである」(全貌社主宰水島毅)は、根拠のある謂いと云うことになる。ところが世の中好事魔多し。宮顕の「違法出所」が後に逆に事態を紛糾させることになる。これについてはこの後見ていくことにする。

【宮顕と袴田の落差のミステリー】
 この不自然さは袴田の様子と比べてみるのが分かり易い。宮城刑務所の所長は、「併合罪の者は本省から釈放命令が来ていない」として政治犯の竹中・春日ら約40名の釈放後も、袴田に対しては出所させなかった。この見解と措置の方がむしろ原則的であったことになる。ちなみに宮城刑務所においてこの時釈放されなかった袴田・岸・田島・二見の4名はいずれも治安維持法+刑事犯の併合罪であった。これを仔細に見れば、岸・田島・二見らは党活動上で発生した警官の刺殺であり、袴田の場合のみ党員間のリンチ致死事件であったという性質の違いがある。

 袴田の「獄中日記-1945年」には、次のように記されている。
 「今日は自身の釈放問題について、今度出所する同志竹中恒三郎といろいろ相談ざるため、山形の義兄に明日面会に来るよう電報を発す。いよいよ明日出所する同志春日庄次郎に別れを告げるべく、戒護課長の計らいに寝ている同君の病室を訪ねる。約十分間ばかり話し、握手して別れる」。

 つまり、竹中・春日らは純粋政治犯であることにより10.10日釈放され、袴田は併合犯という理由で見合わせられたということである。そういう理由によって袴田は他の政治犯が釈放されたにも関わらず居残りぐみとなっていた。「その際、所長の言明によって併合罪の者は本省より釈放命令が来ておらぬということを初めて聞かされ、政府のやり口の愚劣さにあきれ果てたり」と記しているが、ややあきらめの気分であるが納得しいる様子も行間から窺える。

【袴田の釈放ミステリー】

 宮顕が出所したことが袴田に伝わり、これが袴田の強圧出所に波及していくことになる。この経過について、袴田自身が次のように述べている。

 意訳・概要「11.18日伊藤憲一・健策氏が面会にやってきて、『網走の同志宮本は9日刑務所を釈放された』ことを伝える。袴田はこの事実を知ると、それまでの、自分は併合罪があるから、釈放されないのは止む得ないという心境(「日記」の行間から感じられる)を翻して突然強気になり、宮本と自分とは罪名は全く同一であるのに自分を釈放しないのは当刑務所の不当な処置であるとして、釈放を要求してハンストに入る。こうして釈放を要求したところ、所長はにわかに慌てて検事局方面をかけずり廻ることになった。『取り合えず東京の本省に菊地看取長を派遣することにしたからその誠意を認め断食を中止してくれ』とのことにより中止する」。

 つまり、宮顕の出獄を知った袴田が「頭へ来て」所長や看守を脅迫した様子が窺える。意訳・概要「次の日、夜が明けると早々と所長が出てきて、『全責任は私個人が負うから、本省からはまだ何の返事も無いけれど、あんた、今日直ぐ出て行ってくれないか』となり、出所することになった」。つまり、宮顕の超法規的出所とそれが契機となって袴田もまた10.19日、超法規的にドサクサ的に出所したことが明らかとなる。

 この超法規的出所について、袴田自身が「党とともに歩んで」で次のように述べている。

 概要「10.18日晴れ。網走の同志宮本は9日、刑務所を釈放されたりという。宮本と自分とは罪名は全く同一である故に、自分を釈放しないのは明らかに当刑務所長の不当な処置であることが明瞭である。網走で宮本顕治同志が釈放されたというのは、これは網走刑務所長の間違いだったか、あるいは司法省から行った書類の不備だったのでしょう。その間違いがあったことが非常に助けになった訳です。同じ罪状の宮本同志を釈放して私をどうして釈放しないかと、それでどんどん糾弾した」。

 「党とともに歩んで」は、共産党中央委員会の理論政治誌「前衛」に昭和41年8月号から18回にわたって連載されたものの刊行本である。松本明重「日共リンチ殺人事件」は次のように記している。

 「つまり、日共の現委員長と副委員長は、リンチ殺人事件の主役に相応しい『インチキ出所』と『脅迫出所』のコンビが占めている、ということであろう」。


【出獄後の足取りその一、「手紙・電文」ミステリー】
 10.9日、網走刑務所出所後の宮顕の足取りがつながらない。「網走の覚書」に拠れば、午後4時出所し、8時の汽車で函館へ向かっている。台風のため青函連絡船が欠航となり、函館市若松町の旅館で泊まって出航待ちしていた際に手紙や電文を書いたりして過ごすとに記している。

 この時の電報が誰宛のものかも明記していない。党本部であればそう明確に記すのが自然であろう。なお、山口市の母親宛ての手紙の文面は次のように記されている。
 「私の出所のため骨折ってくれた人たちに会っておく必要もあり、また網走へ前から電報を寄せて私の出るのを待っていた人たちもあり、東京でしばらく滞在せざるを得ない事情にあります」。
(私論.私見) 「私の出るのを待っていた人たち」について
 「私の出るのを待っていた人たち」とは、どの人たちのことをいっているのだろうか。徳球系以外の別働隊が存在していたと考えられるのではなかろうか。

【出獄後の足取りその一、国立自立会へ向うまでの間延びミステリー】
 東京へ着いたのは14日とされているがこの日程は間延びしすぎであろう。真相は、一刻も早く東京へ辿り付いている可能性が強い。戦前以来の活動家の名だたる者は続々と戦後党運動の拠点となった国立自立会へ結集しつつあったが、宮顕が出向いたのは10.21日と云われている。
(私論.私見) 「宮顕の空白の12日間」について
 この間都合12日間何をしていたのだろう、党関係以外の者と何らかの外部接触が為されていたと推定できる。 

【GHQの宮顕調書不存在のミステリー】
 宮顕のこの間の経過で不自然なことは、他の指導幹部の全員が釈放に当たって事前・事後の数次に亘ってGHQ要員から聴取されている事実があるにも関わらず、宮顕の場合その痕跡が記されていないことにある。宮顕が下部党員であったというのは不自然である。戦後党運動の最初より宮顕は中央委員に選出されており、徳球と書記長の座を争ってもいる。GHQが見逃すことは有り得ないと考えるのが至当であろう。
(私論.私見) 宮顕に限り聴取されていない怪について
 ちなみに袴田の場合、居残組4名が10.15日に米軍憲兵将校2名が通訳を伴って面接調査されている。この時彼らの出所について言及されていない。このことは、GHQから見ても10.4日の「民権指令」による政治犯釈放対象ではなかったということを示唆している。

【釈放後の「復権証明書」の取得経過疑惑考】

「終戦恩赦」
 この間10.12日CLO(終戦連絡中央事務局)はGHQに対して、「終戦恩赦」を上申し、10.17日大赦令(勅令579号)、減刑令(勅令580号)が発令されている。減刑令により、宮本は無期懲役から懲役20年に、袴田は懲役13年から2年3ヶ月24日を減刑された。

 ここで恩赦法について述べると、恩赦には「大赦」・「特赦」・「減刑」・「刑の執行の免除」・「復権」の5種類がある。このうち「大赦」とは「有罪の判決を受けた者については、その言渡は、効力を失う」というものであり、「減刑」は「刑を減軽し、又は刑の執行を減軽する」というものである。更に「復権」とは「有罪の言渡を受けた為法の定めるところにより資格を喪失し、又は停止された者に対して」「資格を回復する」というものである。このように「大赦」と「減刑」は全くその効力が違う。「検事ノ指揮ニ因る執行停止」で出獄した大半の政治犯は、有罪の言渡は効力を失う、という「大赦」が適用されたのであるが、宮顕らは、刑事犯にも適用された途端に「刑を減軽」する「減刑令」が適用されたに過ぎないのである。出獄後に減軽されるとはどういうことか。これは、その時点で刑の執行が終っていなかった事を意味する。これも併合罪があったからである事は云うまでもない事であろう。

 12.29日、GHQがSCAPIN458号で、同93号によって釈放された政治犯の復権措置を指示し、司法省はこれを受けて12.29日勅令730号発令で政治犯の復権を措置した。「復権」とは、「政治犯人等の資格回復に関する件」のことであり、「将来に向かって刑の言い渡しは効力を失う」という文言で、10.4日のGHQの「民権指令」により出所した政治犯に差し迫った総選挙に際して選挙権、被選挙権を回復させようとすることに意味があった。
これにより、は晴れてめでたく無罪放免となった。

 これについても、大赦令と同じ流れで、純粋思想犯・政治犯だけが対象とされ、併合犯には適用されなかった。

(私論.私見) 

 れんだいこ調査によれば次のようなことになる。これにより純粋思想犯・政治犯により出所した者は恩赦で晴れてめでたく無罪放免となった。こうして、純正政治犯には「大赦令」が適用されたが、宮顕等に適用されたのはこれではなく「減刑令」の方であった。つまり、この時点では、純正政治犯と併合犯は厳密に区別されて法の適用を受けていたことになる。司法当局は、当初この様に厳密な法の適用を一貫させていたということである。

 宮顕・袴田ら併合犯については減刑だけが行われており、釈放については「刑の執行停止」という中途半端な形になった。併合犯については「この限りに非ず」として、復権の対象から除外されていたということになる。宮顕・袴田にはこの違いが応えたと見え、強い抗議によって執念で無罪放免を画策していくことになる。司法当局もその取り扱いに苦慮していくことになり、態度を二転三転させる。かっての国会に於ける稲葉法相の答弁ではないが誠に「奇妙キテレツ」な経過を見せていくことになる。


「終戦恩赦」と宮顕、袴田の出所問題との絡み

 以上見てきた通り、宮顕と袴田は合法的な出所ではなく、違法出所であったことにより、10.4日のGHQの「民権指令」により出所した政治犯は、12.29日、GHQがSCAPIN458号で、同93号によって釈放された政治犯の復権措置を指示し、司法省はこれを受けて12.29日勅令730号発令で政治犯の復権を措置した。「復権」とは、「政治犯人等の資格回復に関する件」のことであり、「将来に向かって刑の言い渡しは効力を失う」という文言で、差し迫った総選挙に際して選挙権、被選挙権を回復させようとすることに意味があった。これについても、大赦令と同じ流れで、純粋思想犯・政治犯だけが対象とされ、併合犯には適用されなかった。

 「将来に向かって刑の言い渡しは効力を失う」とは、過去に判決の有ったことまでが消滅する訳ではなく、併合犯のように非適用の者にとっては臍を噛まされることになった。こうして、正規の手続きを受けず出獄した宮顕、袴田は勇み足出獄の虚を突かれた形となり、まことに按配の悪いことになった。


【宮顕、袴田の執拗な抗議】
 宮顕、袴田は、昭和21年1.2日、復権適用されぬことを司法省に強く抗議している。
(私論.私見)
 宮顕は袴田と共に執拗に「復権証明書」を手に入れるべく奔走しているが、本来両名の言うが如く「小畑の死因が体質的なショック死」であれば、そのことを証する為に再審査を請求していくべきではなかろうか。事実は、超法規的特例措置による「復権証明書」を手に入れんが為に涙ぐましい努力を見せている。なぜ、それほど執拗に拘ったのには相当の理由があると解するのが至当であろう。

【宮顕、袴田が「復権申請理由書」を提出】
 1.20日、「復権申請理由書」を提出している。「復権申請理由書」とは、宮顕、袴田が復権措置を要求したさいの文書である、この辺りのことは宮顕が明らかにせぬまま経過していたところ、ロッキード疑獄究明等のため渡米した日本共産党調査団(内藤功参議院議員、庄司幸助衆議院議員)が、アメリカのメリーランド州スートランドの国立記録文書センターに保存されていたものを他の多数の文書とともに発見して、その写しを入手することによって明るみになった。この文書を受け取った日本政府側が書き写して、連合軍総司令部GHQに送付したものと見られる。

日米当局の鶴首協議
 この申請によって、日本政府も従来の態度を続けることはできなくなり、47.2.22日(または25日)、宮顕、袴田の「特赦」措置をとることについてGHQの指示を求めている。GHQは検討の結果、4月末、二人に対して、恩赦によってではなく、釈放政治犯の資格回復に関する45.12.19日付け連合軍指令に基づく勅令第730号「政治犯人等の資格回復に関する件」(昭和20.12.29日公布)によって、公民権回復の措置をとるよう、日本政府に指示している。日本政府は法理論上の整合性に苦慮し、GHQの指示に従うのを躊躇していた形跡が有る。その為、GHQの再度の指示によって日本政府も復権措置をとらざるをえなくなった。

 2.25日、司法省が、宮顕・袴田に対する恩赦適用についてGHQに伺いを出している。この時司法省は、復権を求める両名に対して、政治犯として釈放した誤りから、刑期の残りを恩赦で消して復権させようとしていたようである。ここには司法省も又復権させようとしている形跡を見て取ることができる。この時GHQは、何ゆえこの2名が出所し得たのか尋問している。


 3.26日、GHQ民政局内部で、意見が対立。4.5日GHQ民政局内部で、宮顕・袴田の復権は政治的な判断で行うべきでないとの筋論が為される。

 4.29日、GHQが、司法省の宮顕・袴田を恩赦法で復権させようという意向を拒否した。GHQは、誤って出所させた二人を日本政府が再逮捕しなかったことにより、刑事犯の部分が消えたとみなされるという観点から日本側に責任を委ねることにした。そこで、SCAPIN458号に基づく勅令730号の特例措置を指令することになった。

 5.15日、上記の主旨を明記したGHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ署名の覚書「日本人の政治犯の復権について」が出される。その要旨は、1・「二人が釈放の対象にならない」ことを「日本の司法省は二人の釈放前に行われたGHQ担当官の調査の際に認めた」にも関わらず、2・日本側当局が宮顕を病気を理由に仮出所させながら、3・追って宮顕が釈放されているのに同一犯の袴田が拘留され続けるのはおかしいという理由で袴田も出所し、4・二人はその後逮捕されていない。5・これは、GHQの意向に反してまで釈放すべきでない者を釈放させた日本側当局者の責任問題であり、6・どう解決するかについても日本側当局者の責任で行われるべきである。7・思うに、敢えて政治犯として釈放してきた経緯があるので、それなら勅令第730号を適用すべきである、としていた。

 いずれにせよ、結論は「復権させるべし」の判決が先に出されており、残された問題は、GHQは日本当局の責任で処理させようとし、日本当局はGHQの超法規的措置によって処理しようとし、そのいずれで決着させるのかにあった。
(私論.私見)
 判明することは、宮顕・袴田の復権に当り、GHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズ氏が暗躍していることである。ハワード・マイヤーズの働き掛けがなければ、宮顕・袴田の復権はあり得なかったが、こうなるとハワード・マイヤーズとはそも何者ぞということが詮索されねばならない。れんだいこは、宮顕が闇のラインを使ってハワード・マイヤーズ氏を登場させ、復権を手にしたと推定している。窮地の時に真実が現われる。この経緯に、宮顕と闇のラインの関係がはからずも露呈していると窺う。

 もっとはっきり云おう。ハワード・マイヤーズ氏はネオシオニストの回し者ではなかろうか。ネオシオニストは、宮顕窮地に際して伝家の宝刀を抜いたのではないのか。皮肉なことになるが、党内スパイ摘発闘争を呼号し査問指令し続けていた宮顕こそがネオシオニストのスパイであったということになる。歴史の深層は深い。
 
 2006.5.24日 れんだいこ拝

「刑事局長特別通牒」
 以上の経過を踏まえて5.18日司法省が、宮顕・袴田を勅令730号で復権させる「刑事局長特別通牒」を出し、宮顕らの復権に勅令730号を適用する事によって処理するよう指示している。 

「復権証明書」交付される
 5.29日宮顕、袴田両人に「復権証明書」が交付されている。この経過は、日本当局もGHQも互いの責任の痕跡を残さぬように「本当の事情はわからないという他は無い」(元内閣法制局長官・林修三「宮本氏らの復権問題の法律的問題点」)闇の部分となっている。
(私論.私見)
 れんだいこ調査によれば次のようなことになる。宮顕及び共産党現中央は、「『宮本・袴田に対する5.29日の復権証明書の交付』により、治安維持法裁判の判決は無効とされ、法的にも決着が着けられた」としているが問題がない訳ではない。「復権証明書」の文言を見るに、「勅令第730号により、人の資格に関する法令の適用に付いては、将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとの同令第一条に則り、資格を回復したることを証明す」とある。この「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」という文言による「復権」は、宮顕・袴田の場合にはやはり疑問が発生する。そもそも「勅令第730号」による「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」とは、戦前の純正思想政治犯に対する復権文言であり、宮顕・袴田らのような併合犯には適用されなかった経過があり、にも関わらず同様文言で復権させるには無理がある。これを押し通すことを政治的圧力と云う。こういうゴリ押し手法は圧力以外には通らない。さて、誰がその圧力主体者であったのかが解明されねばならないだろう。

「復権証明書」交付を廻る国会質疑
 そういう不明朗さが残っており、事実国会で問題にされている。当の質問の相手は公明党の矢野書記長(当時)であるから政治的に利用されたのは明らかであるが、利用されるだけの不分明さが残っているということでもある。それを再現すると次のようになる。これは、1976(昭和51).1.30日の衆院予算委員会で公明党矢野絢哉書記長(当時)を質問し、それに対する答弁で明確になった。この質問と答弁の要旨は次のようなものであった。
矢野  宮本氏の判決文尾にある『将来に向って刑の言渡を受けざりしものとみなす』についての法律的解釈に食い違いがある。これは判決の誤りであって(リンチ査問の)事実がなかったとの解釈になるのか、或いは事実は事実として否定するものではないと解釈すべきなものか。
吉田法制局長官  勅令730号は、人の資格を論ずるにあたって、『刑の言い渡しを受けなかったものとみなす』という意味であって、判決文等の事実を消滅するものではない。
稲葉法相  資格回復という事は判決は有効だったと云う事であり、犯罪事実がなくなったわけではない。ましてやデッチ上げという事を認めたわけではない。
(私論.私見)  
 この政府答弁は、勅令730号が「人ノ資格ニ関スル法令ノ適用ニ付テハ将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」としており、勅令の目的が「人ノ資格ニ関スル法令ノ適用」に限定している事からみても妥当であろう。更に云えば次のことも問題である。恩赦法によれば、復権は「刑の執行を終らない者又は執行の免除を得ないものに対しては、これを行わない」としている。宮顕の刑が終っていない事は明らかだし「執行の免除」を受けたわけでもない。それにも関わらず、なぜ勅令730号が適用されたのか。大きな疑問である。
 1976.1.日、不破書記長(当時)が、記者会見で次のように述べている。
 概要「宮顕の判決原本に、勅令730号により『将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケズリシモノト看做ス』と明記されている。この事は、刑の言渡しそのものがなかったとされたわけだ」。
(私論.私見)
 不破のこの弁明は、「法律に無知であることも甚だしい」と批判されるより、明らかにいつものお得意の話芸で話をすりかえているところが批判されねばならない。「将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケズリシモノト看做ス」を「この事は、刑の言渡しそのものがなかったとされたわけだ」と解するのは、このことだけで公党の責任者として失格発言である。何事に於いても方便ウソ以外はウソをついてはいけない。

 なお、判決原本にこの様に附記されることは特別のことではなく恩赦が適用されれば附記することになっている。むしろ、判決原本に10.5日の「大赦」が附記されていないことこそ問題である。

 2006.6.6日再編集 れんだいこ拝

【宮顕宛「復権証明書」】
復権証明書
 證    明    書

 本籍 山口縣光市大字島田第○○○○番ノ○號
                      宮     本     顕     治
                         明治四拾壱年拾月弐拾日生
 昭和壱十九年十二月五日
 東京都刑事地方裁判所判決
 治安維持法違反、不法監禁致傷、不法監禁致死、不法監禁、不法監禁、 傷害致死、死体遺棄銃砲火薬類取締法施行規則違反
 懲役二十年
 無期懲役言渡しのところ昭和二十年勅令第五百八拾號減刑令に依り懲役二十年に●更せらる

 右者に●する頭書の刑は昭和二十年十二月二十九日公布勅令第七百三十號に依り人の資格に●する法令の適用に付いては将来に向けて其の系の言い渡しを受けざりしものと●●するとの同令第一●に則資格を回復したることを證明す

 昭和二十二年五月二十九日  東京地方検察●検事正 木内●●

【宮本議長の出獄と復権をめぐる重大な疑惑】
 菊地謙治氏の「日共の血腥い過去を忘れるな」は、「宮本議長の出獄と復権をめぐる重大な疑惑」として「崩壊した”虚構の論理”を繰り返す日共の詭弁」の見出しで次のように述べている。
 往来の共産党のこの問題に対する主張は次のようなものであった。”リンチ査問事件”は戦前の特高警察のデッチ上げであり、小畑達夫の死因は「特異体質によるショック死」である。このことは「法医学界の権威」である古畑種基博士の鑑定でも明らかにされ、戦前の「天皇制権力の下での暗黒裁判」でさえも宮本議長らに、殺人罪、殺人未遂罪を適用出来なかった。戦後、宮本議長等に「将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」との勅令第730号が適用されたが、これは、戦前の判決が全くデッチ上げであった事を当局自らが認めた事である。共産党の主張は長い”論文”となってあらわれるのが常であるから、この問題についても様々なことを述べていたが、その骨子は上記の様なものであった。

 しかし、前半の小畑達夫の死因は古畑博士によって「特異体質によるショック死」と鑑定されたという主張に対しては、雑誌「全貌」昭和47年5月号がはじめて、古畑博士の鑑定書は「特異体質によるショック死」ではなく「外傷性ショック死」となっている事を明らかにし、又『文藝春秋』51年1月号で古畑鑑定書そのものが公表され、共産党の主張のウソがはっきりした。後半の「刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」は判決がデッチ上げである事を意味するという共産党の主張も、国会の場で法務省当局によって完全に否定された。

 こうして、共産党のいわば”虚構の論理”は次々と崩れ去っているのに、今回の浜田委員長の発言を巡って、あいも変らず同じ論理を蒸返したのである。しかし、この事件は、リンチの事実の有無だけが問題ではない。戦後の宮本議長、袴田元副委員長(除名)らの出獄と復権を巡っても幾つかの疑惑が残っている。

 「宮本・袴田の出獄と復権を巡る疑惑の数々」の見出しで次のように述べている。
 こういう経過を辿って、宮本議長と袴田は復権したのであるが、この経過を詳細に検討してみれば幾つかの問題点が浮かび上がってくる。次に列挙してみよう。
① 宮本議長が「病気による刑の執行停止」という形で出獄したこと。
② 袴田の出獄の裏付となる法的根拠がはっきりしない事。
③ 宮本議長、袴田は治安維持法違反を対象とした「大赦令」(勅令579号)が適用されず、刑事犯を対象にした「減刑令」(勅令580号)が適用されている事。
④ 刑事犯との併合罪の者に対する適用を除外した勅令730号が、公布されてから1年半もたった後に刑事局長の「特別通牒」によって宮本議長等に適用された事。

 共産党は、これらの問題は、宮本議長、袴田が非転向で通した為に、当時の政府がその復権を遅らせ、さぼろうとした為だという理屈を新しく持ち出してきた。「他の人々が、天皇制権力の弾圧に屈して、節を曲げ、転向したのに対して、両氏が非転向であった為、反動勢力が意識的にその復権措置をさぼり続けた事に他なりません」(『赤旗』)と云う論理である。しかし、それならば、なぜやはり非転向であった徳田球一や志賀義雄が直ぐに復権されたのか。徳田や志賀が非転向であった事は共産党の作った党史である『日本共産党の50年』にも明記されている。共産党の”新しい理屈”は全くスジが通らない。事実ははっきりしているのである。宮本議長、袴田には治安維持法違反の他に、傷害致死、不法監禁致死、死体遺棄、銃砲火薬類併合罪であったからである。勅令579号にしても730号にしても全て、これら併合罪を含むものは適用から除外する事を明記してあったのである。

 「法律を無視した共産党の反論」の見出しで次のように述べている。
 このように、いわば”ドサクサ出獄”した宮本議長等は当然復権しなかった。勅令579号で「大赦」されず勅令730号も直ぐに適用されなかった。「病気による刑の執行停止」であれば、病気が治ったら再び収監すると云うのが法律的な筋であったはずである。ところが、勅令730号が公布されてから1年半もたって、突然これが適用される。最も当人達にとっては突然ではなく、抗議や要請を繰返した結果であろう。しかし、これがどの様な経過を辿って、どのような法的根拠に基づいて適用されたのかは皆目わかっていない。このところで、当時絶対的な権限を持っていたGHQと仲の良かった共産党の立場と関連づけられて疑惑がもたれているのである。此の点は、法務省当局が国会で、事実を調査して報告するとしているから、やがて明かになる時が来るかも知れない。

 共産党は、宮本委員長の「病気による刑の執行停止」と勅令730号が適用されたことについてこう言っている。「宮本氏等だけが『釈放』でなく、『刑の執行停止』で出たとしていますが刑の執行中だった人は殆ど全てとりあえず『刑の執行停止』と云う形で日本政府は釈放したのです。宮本氏らだけが『刑の執行停止』などというのは、宮本氏らの『刑期が残っている』などという為の虚構に過ぎません」といった理屈をこね回して、判決そのものを否定する形で決着がつけられた、と主張している。

 この共産党の主張は正しくない。宮本議長ら以外の刑の執行中の政治犯がとりあえず「刑の執行停止」で出獄したのは事実である。しかし、それは10月5日の「刑事局長号外通牒」の「検事ノ指揮ニ因ル執行停止」であって「病気による執行停止」ではない。宮本議長は併合罪があった為に「号外通牒」に基づく「検事ノ指揮ニ因る執行停止」の措置がとれなかった為に「病気による執行停止」となったのである。




(私論.私見)