狭山事件の背景考その3

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「狭山事件の背景考」をものしておく。

 2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.15日 れんだいこ拝


 「★阿修羅♪ > 近代史02 」の中川隆・氏の2010 年 4 月 06 日付投稿「日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景」その他を参照する。
 怪奇事件

 明治16年、ある(東北だったかな?)村でのこと。その村の風習で結婚式の日、初夜の前に新郎の父親と新婦が結婚式場の会場で交わるという儀式があった。ついたての向こうで行なわれ、その事件のとき4時間たっても2人はでてこない。しびれをきらした新郎が「親父、いいかげんにしろ」と叫び、出席者もいらいらしてついに覗きにいった。そうしたら、2人は裸で抱き合ったまま死んでいた。結局、死因もわからなかった。心中なの?その日以前から2人は関係があったのか?父親が仮に腹上死したとしても花嫁が死んでいるのはおかしい。

 近親相姦タブーと性的境界

 なぜ近親者の間では性行為や、婚姻関係を結ぶことが禁止されるのかという近親相姦タブーの問題。ヨーロッパの王家は、近親婚による血友病という遺伝的な問題を抱えていて苦しんだ。日本では、法律によって、直系の血族と、傍系の血族で三親等以内の人との結婚は禁止されている。ここで直系というのは、たとえば自分の両親、祖父母、曾祖父母というふうに、親をさかのぼって行ったり、あるいは自分の子ども、孫、ひ孫というふうに子どもをたどっていったりする、上下の垂直の血の繋がりのことで、これは何親等であろうと禁止されている。傍系というのは、直系の人たちの兄弟姉妹や、そこからさらに先に伸びていく血の繋がりのことを言う。たとえば、自分自身の兄弟姉妹との関係はどうなるのかと言いますと、これは直系ではなくて傍系ということになる。何親等になるかと言いますと、親等の数え方は、私-親-私の兄弟姉妹、というふうに血の繋がりをたどるときに、一度親のところに戻って、それから兄弟姉妹のところに行くという数え方をするので2親等ということになる。法律ではこの傍系の血の繋がりについて、3親等以内が禁止の対象になっている。

 私 ------------ 0親等
 私の両親 --------- 1親等(直系)禁止
 私の兄弟姉妹 ------- 2親等(傍系)禁止
 兄弟姉妹の子である甥や姪   3親等(傍系)禁止
 さらにその甥や姪の子ども   4親等(傍系)結婚可能

 ということになりますが、いくら法律上は結婚可能であるとは言っても、その年齢差を考えてみるとどうなんでしょかね。そこで、自分の年齢に近い線を探るのであれば、親のルートをたどることになります。
 私 ------------- 0親等
 私の両親 ---------- 1親等(直系)禁止
 私の祖父母 --------- 2親等(直系)禁止
 その子、つまり両親の兄弟姉妹  3親等(傍系)禁止
 さらにその子、つまり私のいとこ 4親等(傍系)結婚可能

 いとことなら結婚できることになる。配偶者がいるときには、配偶者の両親などは、血族ではなくて「姻族」と呼ばれ、姻族については、直系についてだけが禁止の対象になっている。ですので、たとえば妻が亡くなった時は、夫は妻の妹と結婚することもできる。しかし、妻の母親、つまり義母は直系の姻族ということになるので結婚できない。結婚できるかどうかという問題については、その他にも離婚や再婚をした場合とか、養子をもらった場合とかに、いろいろと複雑な組み合わせが発生する。

 地方によってはフンドシ祝とか、腰巻き祝とかいうのがあって、親戚の年長者が若者に性の手ほどきをするとかいうのもある。あるいは、若い男たちが夜這に行って恥をかかないようにということで、年配の女性たちが神社などに集まって、若者に性交の実施教育をするというようなことも、地方によっては行なわれていた。あるいは、結婚していても、厄落としと称して、祭りの時などに夫も婦も見知らぬ人と交わったりするような風習もあった。ほかにもいろいろな風習がある。このような淫靡な風習は、明治時代から始まる近代化の波が押し寄せるて来るに従ってしだいに消滅していった。

 http://homepage1.nifty.com/eggs/jitai/incest/2taboo.html

 07. 中川隆 2010年8月18日 21:13:34: 3bF/xW6Ehzs4I: MiKEdq2F3Q

 狭山事件について思う事

 ◆◆「狭山事件・自殺した容疑者O氏について」◆◆

 M氏から電話があり、「事件発生直後に自殺したO氏はどうしても怪しい。 関係なければ結婚式の前日に自殺するだろうか」と質問された。同じような声はよく聞く。事件から四十三年過ぎているが、O氏への疑いはいまだに晴れていない。自殺した直後にマスコミが「容疑者が自殺」と報じたので、その印象がいまだに強く残っている。国会でも野党議員が「自殺したO氏を調べろ」と追及したこともあった。O氏は当時トラック運転手だったが、婚約者がいて家も新築中だった。五月七日には結婚式をする予定で、その前日の六日朝に自宅で農薬を飲んで井戸に飛び込んだ。家族宛に遺書もあったらしい。六日は善枝さんの葬儀の日だった。O氏はかつて十年前に善枝さん宅で作男として働いていた。血液型もBで条件は整っていた。事件発生直後から容疑者として浮かんでいて、狭山署の捜査本部は任意で呼んで調べている。連日朝早くから夜遅くまで調べられていた。自殺の直後、捜査本部はマスコミの取材に対し「O氏は事件と無関係だ」と発表した。なぜ、さんざん容疑者として調べていたO氏が、自殺したとたんに「無関係」と断定したのか。そこに、重要な意味があるのではないか。事件発生当初は単独犯でなく、グループによる犯行と考えていた捜査本部は、O氏に仲間の名前を問いただしていたのではないか。近くの森養豚場のスコップが盗まれていて、地下足袋がO氏の自宅付近から見つかっている点などから、O氏が犯人を知っているのではないかと追及した可能性がある。O氏は二十万円の身の代金を要求するほどお金に困っていない。 運転手としての収入もあり、家の新築も進んでいて婚約者もいた。 善枝さんを強姦し埋めたり、カバンや教科書を別々に捨てるような複雑な犯罪をしなければならないような、実行犯としての動機がない。 しかし、犯行グループは知っていると見て 「だれがやったのか、知っているならいえ」 と迫ったのではないか。 警察は、よく容疑者の秘密を見つけ出し、自白しないなら世間にいうぞ、といって自白を迫る手口を使う。 かつて、自白しない女性容疑者に 「おまえは学校時代、特殊学級にいたな。そのことを夫にいっていいか。自白すれば内緒にしてやる」 といって殺人を自白させた事件があった。おそらく、O氏にも警察は過去の事実を突きつけ、ばれれば結婚できないような状態で 「仲間の名前をいわなければ、おまえの秘密を婚約者にばらすぞ」 とせめ立てたのではないか。 だからこそ、自殺した翌日には「O氏は無関係」と断定できたのではないか。 「死人に口なし」で、その後もO氏は「犯人では」といわれ続けている。 そういう意味でO氏も被害者の一人だと思う。 簡単に「怪しい」などと裏付けのない疑いはしてほしくない。

 参考図書 『狭山事件の真犯人』 著者・殿岡 駿星
 http://blog.goo.ne.jp/syunsei999/e/f59e7b6d78bd25f8699f48ead8d69879

 狭山事件については多くの人が謎解きをやっているが、狭山事件の犯人は中田家の長男かO氏だというのがコンセンサスになっている。しかし、この両人は何らかの関わりで犯行には止むを得ず加わっていた可能性は高いけれど殺人の実行犯とは考えないだろうと思います。要するに、狭山事件についての多くの論者は興味本位に無責任な文章を書き散らして、狭山事件の犯人は中田家の長男かO氏だというをでっちあげて定着させてしまったのです。 死人に口無しですから、真犯人にとってはO氏が犯人扱いされるのが一番都合が良い訳ですね。また、中田家の長男は中田家の秘密(?)を知られたくないから、自分に嫌疑がかかっていても否認すらしない。 まあ、自分は犯人ではないから何を言われようと平気なわけですね。 こういうのも真犯人にとっては非常に好都合な訳です。 このまま行ったら関係者が全員死んで事件は迷宮入りですから、真犯人は現状のまま時間が経つのを待ってるのでしょう。 日本人はみんな人が良いから気付かないでしょうが、真犯人は口塞ぎの為に自殺に見せかけて何人も殺してる異常性格者です。 当然、真犯人はゴーストライターに狭山事件の犯人を中田家の長男やO氏だと思わせる様な文章を書かせているだろうし、ネットを通して情報操作を繰り返していると想定した方がいいと思います。 今頃、真犯人もうまくいったと ほくそ笑んでいる事でしょう。

 明治維新を経て、西欧列強に伍してゆくために中央集権体制の国民国家の形成を目指して様々な制度が作られた。家族制度に直接繋がるものとしては、明治4年制定の戸籍法があり、明治6年に地租改正と徴兵令が定められた。戸籍法によって戸主が定められ、地租改正で土地の権利が定められると戸主名義の財産となった。また、徴兵制が成人男子を対象にしていて、一時、戸主の免役があったことから、長男相続へと方向付ける原因のひとつになった。その後、明治23年に教育勅語が発せられ、明治31年に家族制度を明文化した民法が制定された。教育勅語については、当時回付された西欧流の民法草案に対して、家族の中に権利規定などを持ち込むべきでないという考えを持った保守層などがその制定を強く働きかけた。明治民法は、欧米列強と付き合い、治外法権を撤廃させるために欧米流の法制度を制定するという色彩が濃かった。そのため、国内では様々な議論があり、家族法関連の規定についてはある意味骨抜きにされた条文で制定された。このあたりの事情については、ざっと以下のようです。

●明治民法は、 元老院の審議によって多くの条文を削除されて実効力を削がれた旧民法の条文をもとに、 明治前期に整備されていた戸籍制度を基礎にして、 戸籍に体現される 「家」 を基幹の家族制度として家族法の規定を整備した。 この結果、 日本民法は、 相続という効果を除けば、 戸籍の登録基準を定める法として主に機能するものになった。

●明治民法は、 本来的な家族法としては無力な法であったけれども、 家制度を定めて家族の正統的なあり方を宣言することにより国民の家族意識を形成する法としては、 圧倒的に強力なイデオロギー的効果をもった。当初は現在の住民基本台帳と同じように、 ひとつの屋敷ごとの住民登録として作成された戸籍は、 実際の生活を反映したものであったから、 もともと家制度は生活実態や感情と重なるものではあった。 しかし逆に、 明治民法の家制度や戸籍制度によってそれが制度化され、 その制度の側が国民の意識を形成したことも大きかった。

●家制度は国家公認のイデオロギーとして推進された。 明治民法立法以前は、 わが国では戸籍上も夫婦別姓であったのだが、 その記憶は瞬く間に遠のいた。

●明治民法そのものよりもあるいは戸籍制度や氏のほうが、 国民の家族意識形成に働いた力は大きかったかもしれない。住民登録とも連絡しており公開原則のもとで本人の意思にかかわらず他人から容易にアクセスできる戸籍という家族簿は、 国民各人が人生の重要な場面で記載内容が問題とされる逃れられない身分証明でもあって、 その記載はさまざまな差別をもたらしうるものであったから、 戸籍の記載内容への関心は絶大なものであり、 その存在が国民の意識に重大な影響力をもつのも当然のなりゆきであった。

●第2次大戦後の民法改正はイデオロギー的にはたしかに大きな転換ではあったけれども、 実際には、 家意識は、 戦後改正による家制度の解体後も根強く残った。 それには、 氏の果たした機能が大きかったと思われる。 個人の表象である氏名は本人にとって人格権的な意味をもつ非常に重要なものであるから、 本人の意思に合致した変更であればともかく、 意思に反しても婚姻に伴って氏を変更させることは、 「家」 の変更として人々の意識に圧倒的な影響力をもたらしたであろう。

 以上から見えてくるのは、戸籍法、地租改正、徴兵令、教育勅語、民法といった様々な法律、制度が制定されたとはいえ、新しい家族制度への変化の上では戸籍登録と婚姻に伴う氏の変更(庶民に名字が許されたのは明治になってから)という実態的な規定に基づく「家」の具象化が基礎になっていたと言えるようです。そして、教育勅語で「親への孝行」などが教え込まれ、戸主の財産権の規定から民法での家父長の規定へと繋がる序列観念の浸透が「家」制度を補強するようになっていったと思われます。江戸期の庶民(農民、町人)たちのおおらかな婚姻規範と共同体的なつながりの中に組み込まれていた家族は、明治期の西欧列強に伍するための中央集権体制の国民国家の形成を目指した法制度の制定と近代的な産業社会への移行という社会の変化の中で、「家」制度に基づく家父長の下に統率された家族へと変化していきました。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/05/3661.html

148. 中川隆[-9574] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:25:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2900] 報告

 大家族生活の良さ 2019年06月16日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html

 柳田国男が、明治42年(1909年)に、白川郷を訪れたとき、大家族生活の印象を書き残している。

 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2279832.html

 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。

 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 引用以上

 ちなみに「チュウビンテンメン」という用語は、ネット上で探しても出てこない。広辞苑や大言海でも無理かも知れない。「秋風帖」という柳田の著作には漢字で出てくるものの、今では誰も理解困難だ。

 柳田が言いたかったことは、「白川郷の大家族生活には孤独が存在しない」ということである。しかし、冒頭の私のブログに書いてあるように、昭和初期には、女性たちは、高山や岡谷、富山などの紡織産業に出稼ぎに出ていて、ひとたび外の世界の「自由」に触れた者たちは、再び白川郷に戻らなかった。白川郷の労働が激しかった理由は、たぶん戦国時代に、煙硝=硝酸カリの製造法が発見され、その最適地として知られたのが飛騨合掌家屋であったことだろう。雪深く湿度が高い環境と、一軒家に多数の人々が暮らしているので、原料となる屎尿・青草の入手が容易な白川郷や五箇山では効率的な煙硝の製造が可能だった。加賀藩や高山藩が煙硝製造に焦って、住民たちに年貢の代替として無理な負荷をかけ続けた事情は容易に窺える。

 白川郷には男女の集団生活があったが、彼らはプライバシーに飢えていた。我々が、大家族生活の利点に憧れるとき、最も警戒しなければならないことが、人が多すぎてプライバシーがもたらす休息が失われることの可能性である。

 大家族には生活上の利点が実に多い。何よりも、食事、洗濯、買い物などで、たくさんの消費を効率的に満足させられるのである。一度にたくさんの仕事をするから、孤立した小家族に比べて、一人あたりの消費は実に合理的に行える。間違いを犯しても、仲間がすぐに指摘してくれるし、分からないことは教えてもらえる。 生活の必要経費と労働量は、小家族と大家族では極めて大きな差が生じる。何よりも、一人主婦が家事を行うのと、数名でワイワイガヤガヤと共同して行うのでは、同じ家事でも雲泥の差、共同には人生の楽しさのエッセンスが詰まっている。一人の仕事はつまらない。人は共同にこそ人生のすべての楽しみを得られるように設計されているのである。洗濯機や冷蔵庫、掃除機など家電製品で考えれば、数名でも数十名でも同じ道具と時間ですんでしまうので、たくさん買いそろえる必要がない。老人や病人の介護が、一人の主婦に負担が集中する小家族とは比較にならないほど楽であり、何か困ったことが起きても、よってたかって解決する人が、たくさん出てくるのである。人が死んだときも、全体に及ぶ影響は、家族の規模が大きいほど小さなものになる。悲しみも、みんなが和らげてくれる。「孤独」って、どこの話? ということになるのだ。

 ここでネット上で、大家族生活の合理性について書かれているサイトを参照してみよう。

 山上家の節約術が凄い!家族10人で月30万円!?
 https://xn--bck9etdz48puxcfxu.net/bigfamily/bigfamly/yamagamike

 大家族貧乏ゆうり家の究極のこだわり節約術
 https://yuurin4children.com/daikazokusetuyaku/

 大家族すぎて生活苦に陥っている家庭の悩み https://mikle.jp/theme/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%
8B%A6+%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F/

 血縁ばかりが家族になるわけでなく、家族というより「共同体志向」を念頭に考える必要がある。 逆に大家族制度の不合理性=不便性について、ネット上で実情と意見を探しているのだが、なかなか発見することができない。小家族の合理性について探しても、まず出てこない。つまり、「小家族で良かった」との記事は見たことがない。「大家族はいいですよ」という記事はたくさん見かけるのだが、大家族のせいで自殺に追い詰められたとか、人生が窮屈で死にそうだとかの苦情を探すのは困難なのであり、小家族で幸せだったとの賛美も見つからない。せめて、「トイレが足らなくて、我慢してるうちに漏れちゃった」というような具体的な不便記事を探しても見つからない。それでも、大家族を未経験の人が真っ先に深刻に不安視するのが、プライバシーの侵害であり、隠し事ができないことへの恐怖であり、たくさんの人と同居することの閉塞感、圧迫感であろう。

 実際問題として白川郷の若い娘たちが、苛烈な冬の野麦峠を越えて、女工哀史に描かれた凄惨なほどの岡谷の生糸紡織産業に就業し、一日16時間の辛い肉体労働を強要されても、故郷に帰らなかった事情は、8畳間に同性の10人以上もが寝起きする合掌家屋の生活に、よほど嫌気がさしていたのではないかと思う。

 そこで、我々が窮乏する生活上の要請から、再び大家族生活に回帰するにあたって、個人のプライバシーと、大家族の合理性を、どのように両立させるか明確なビジョンを持って、計画的に準備することが必要というのが私の考えである。もうギュウギュウ詰の生活を我慢できる人も少ないだろうから、一定のプライバシーは、どうしても確保しておかないと、集団=共同体生活も成り立たないと考えている。

 そこで参考になるのが、ヤマギシ会のシステムである。
 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html

 私は1973年頃、新島淳良がヤマギシ会の理事長だったころ、特別講習というのに参加したのだが、この頃のヤマギシ会は、本当に素晴らしかった。何より、参画者の女性たちが美しかった。化粧など誰もしていなかったが、人生や人間関係に対する喜びにあふれた表情は、一目見ただけで忘れられないほど美しいものだった。当時のヤマギシ会は、まだ貧しくて、みんな粗末なトタン張りの小屋に住んでいたが、それでも、ヤマギシズムと呼ばれた放し飼いに近い養鶏法が生活の主軸になっていたから、養鶏法をモデルとしたシステムに、人間も生活していたのである。ドーム型の長屋を区割りして個室が作られていたが、個室は四畳半くらいで、数名が生活していた。食事も洗濯も風呂も、すべて共同で行われ、強制は一切なく、本人の自主性だけに依拠した共同体がうまく機能していた。問題が出ると研鑽会が開かれ、みんなで意見を出して解決していた。

 大切なことは、ヤマギシ会においては、粗末ではあったが、それなりの個人のプライバシーが確保されていたということで、我々が共同体を志向するときも、必ず、共同性とプライバシーを両立させる生活システムを考える必要があると思う。

 その後、80年代末にも私は関わったのだが、その頃になると、いろいろな問題が噴出し、いわゆる「問題組織」とレッテルを貼られるようになったが、私は、詳細を知らない。ただ、結構豪華な個室が与えられていたことが印象に残っている。ちょうど70年前後の全共闘運動が80年代に近くなると、悪い意味での変質が起きていたことに似た、組織の統治に関する問題がたくさん出てきて、私は幻滅させられることが多く、ヤマギシとの関わりも失われた。

 リーダーが専用のベンツに乗って外出する姿を見たとき、「ヤマギシも終わったのか?」と強い不安に駆られた記憶がある。つまり、もの凄く儲かっていたことで、ヤマギシズムの本質を見失ってしまったのではないか? と私には思えた。

 今の段階では抽象的にしか語れないのが残念だ。当時は、私自身が地獄の釜のなかにいるような精神状態で、何をどうすべきかのビジョンが、まるで生み出せなかった。

 資本主義の爛熟過程では、みんな物質的欲望と見栄に取り込まれ、愛を見失い競争だけが生き甲斐になるような、人間性を見失った時代になってしまうのだが、それがバブル時代だったと思う。

 私もバブル時代の中で、価値観を見失い苦悩したが、今、再び、60年代のような民衆の貧しさが復活して、真実を見抜こうとする価値観が復権してきているような気がする。

 豊かさは人を愚かにするが、貧しさは人を賢明に育てるのである。みんなが貧しくなって、再び、我々の前に真実が姿を現しはじめた。それが共同体の復権であると、私は思う。

 共同体=すなわち大家族生活のことである。人が金ではなく、人に依拠して生き抜いてゆく。この世の本質は、金や差別ではなく、人間と、その愛であると気づいた人たちが、手を取り合って新しい社会を形成してゆくのである。

 まだ資本主義の競争社会に影響を受けて、人ではなく、技術や集団、組織の虚構に目を奪われて、「この世には人間と自然しかない」という真実を見抜けない人たちがたくさん生きている。

 彼らは、コンピュータ社会、IT・AIに過剰な幻想を抱き、それが人を支配するようになると勘違いしているが、決してそうではない。世界の本質は人間であり、金ではなく、技術でも権力でもない。
 人間だけを見つめて生きるために、我々には大家族=共同体生活が必要なのだ。

 また、共同体は、「そうしなければ生きてゆけない」という切羽詰まった現実の上に築かれるものであり、誰か頭の良い、えらーい人が登場してきて共同体社会を指導して回るわけではない。

 みんな、ときには「いやいや」団結し、共同してゆくのであって、団結のなかで、新しい価値、大きな合理性としての共同体生活を見いだしてゆくものだと私は思う。

 何度も書いているのだが、30年前に松原照子が予言したとおり、「日本人は草も食べられない」ようになりつつあり、もう大都会では餓死するしかない時代が目前に迫っていると思う。

 テレビでやってる山奥の「ポツンと一軒家」こそ、真の桃源郷になる時代が近づいているように私には思われるのだ。

 今は90歳近い老人が少人数で最期の日を待っているが、やがて、ここに若者たちが、未来を担う共同体を作り出す日がやってくると私は信じている。 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html






(私論.私見)