豊臣秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」

 (最新見直し2007.3.4日)

【豊臣秀吉の危惧】

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582.12.14日付けでマカ オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう な手紙を出している。

 「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、 神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能に して、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある」。

 これによれば、スペイン国王によるシナの植民地化が狙われており、イエズス会東インド巡察師がその手引きをしていることが判明する。但し、日本は様々な事由で征服の対象としては不向きであるとも述べている。但し、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と述べている。

 1584年、宣教師スパ ル・コエリョやルイス・フロイスら30余名の一行が落成したばかりの大阪城に出向いている。この時のことかどうは分からないが、秀吉は南蛮服を着たり、牛肉に舌鼓したと伝えられている。

 キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョが最も行動的であった。当時の日本は準管区であったので、コエリョは、イエズス会の日本での活動の最高責任者であった。 

 1585(天正13)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と申し出ている。当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったので、それは有り難い申し出であった。これによれば、当時、宣教師は軍事コンサルタントも兼ねていた様子が判明する。シナ攻略に宣教師が一枚噛んでいたことも判明する。秀吉は、コエリョの申し出に満足したが逆に、イエズス会がメキシコやフィリピンを征服したように我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

 1587年(天正15).5月、秀吉は京都を前田利家に5千の兵で守らせ、大坂城は秀次の1万の兵を置き、畿内を固めた上で九州に向け出陣した。利家は留守役に回ったが、すでに越中三郡を与えられ一人前の大名となっていた前田利長が秀吉軍に加わった。利長ら30カ国から集められた秀吉軍は総勢4万。

 先頭に高山右近の軍勢があった。2年前に明石に転封となっていた右近が秀吉軍に加わり九州に向かったのは4月末だった。フロイス「日本史」によると、右近は秀吉軍の前衛総指揮官の役を命じられて明石を出陣した。600の歩兵、百の騎兵と多数の雑役で組織された右近軍は「ある者は十字架を兜(かぶと)に、あるいは旗に付け、また他の者はそれを衣裳に描き」、「鎧(よろい)の上から大きな十字架を下げて」行進した。進軍先では真っ先に敵を切り、秀吉の本陣を率先して守るなど、並々ならぬ貢献ぶりだったという(別の当代紀などには総勢1300名で旧暦2月に出陣の命を受けた、とある)。

 秀吉が九州平定のために博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の日本にはまったくない軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。秀吉の軍をおおいに驚かせた。 

 肥後八代(熊本県)で島津義久勢を一蹴した秀吉は、軍を博多に引き返し、6月、筥崎宮(はこざきぐう)(地名は箱崎)に陣を張った。博多湾に近い千代の松原で茶席をもうけ、博多の有力商人たちを取り込んだ。堺と並び国際交易都市で知られた博多は、度重なる戦火で著しく荒廃していた。薩摩を支配下に置き、西日本を完全制圧した秀吉は次なる目標、大陸進攻の基地として博多の街の復興にとりかかった。

 秀吉の天下取りの思惑とは別に、大村、有馬の両キリシタン大名を脅かす九州の雄、島津を打ち破るのは右近の願いでもあったと推定できる。秀吉と右近の関係は九州平定でますます強固になったと思われた。だが、秀吉は九州を一巡する間、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒した。秀吉は、かっての一向宗と同じ存在になる危険性を嗅ぎ取った。否、むしろもっと空恐ろしいものを感じ取った。


【豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発す
 「阿修羅空耳の丘42」のTORA氏の2006.1.27日付け「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」を参照する。「2006.1.27日付株式日記と経済展望」より転載したもので、原文は、「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。

 1587.7.24日(天正15.6.19日)、豊臣秀吉が、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然宣教師達を呼びつけ、「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。

 軍事力を誇示するコエリョに対してキリシタンの野望が事実であると確信し、キリスト教を禁ずること、宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。続く措置として、秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。

 近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。となると、追放令は、その計画を察知した秀吉の自衛対抗的措置だったことになる。弾圧を強める秀吉に対して、宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。頂点に達した両者の緊張は、秀吉の死よって終止符を打つ。しかし、キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。


「伴天連(ばてれん)追放令」の論理
 キリシタン禁止令はキリシタン禁止令は次のような内容であった。(北國新聞の2002.7.9日付け「バテレン追放令 博多・箱崎の陣で秀吉ひょう変 奴隷売買と寺院破壊を怒る」は、貴重な記事を掲載している。これを参照する

 宣教師には次のような沙汰していた。
 日本は神国たるところ、キリシタン国より邪法を授けそうろう儀、はなはだ以って然るべからす(日本は神々の国である。宣教師は邪宗を唱えている。キリシタン国が邪法を授けている。それはよろしくない)。
 キリシタンが神社仏閣を打ち壊すのは不届きである。今後は何事も秀吉の命令に従ってやるように(彼らは諸国で宗門を広めつつ日本の神社仏閣を破壊している。かってないことであり、罰せられるべきである)。
 バテレンは20日以内に自国に立ち去れ。
 商船は商売のためであるから、別の問題である。
 今後、神と仏の教えに妨害を加えなければ日本に来るのは自由である。

 秀吉は、次のように宣告した。
 「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」。

 国内向けとみられる法令は11カ条からなっており、次のような内容であった。
 「キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない」、「一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要」、「日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない」、10条「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止する」、11条「牛馬を屠殺し食料とするのを許さない」。

 秀吉が指令した「バテレン追放令」は、世界のキリスト教史でも重大事件で、「バテレンたちの数百枚に及ぶ膨大ともいえる文書がヨーロッパに存在している」(「南蛮のバテレン」松田毅一著)という。日本側にも資料は多く、博多で秀吉の茶会に同席していた茶人紙屋宗湛(かみや・そうたん)が残した日記によれば、天正15.6.19(西暦では1587.7.24)日、秀吉の宴席から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと書かれている。

 この年、秀吉は、長崎を直轄領にした。


「伴天連(ばてれん)追放令」の根拠考
 「伴天連(ばてれん)追放令」を野蛮な宗教弾圧と思うべきだろうか。通俗的歴史書は、キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていないが、そういう観点は早急に見直されるべきではなかろうか。そもそも、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して当初は好意的であった。しかし、信長の時代はともかく秀吉の頃になると宣教師たちの植民地化活動が目に余り始めた。秀吉は、宣教師たちの間に日本占領計画が存在することを見抜いて危険視するようになった。その具体的措置として「伴天連(ばてれん)追放令」を発したことになる。

 これが、「伴天連(ばてれん)追放令」に纏わる実際の話ということになる。云える事は、秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」には充分な根拠があったということである。直接的には、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったと考えられるが、本質的には西欧植民地主義の臭いを鋭く嗅ぎとったということであろう。してみれば、「バテレン追放令」は、当時の日本の国力を示して余りある国威の発揚であったことが判明する。

 その論理はつぎのようなところにあったものと考えられる。

 その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」という観点からのキリシタン禁止令であった。キリシタンの宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)であった。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸した。ルイスも改宗ユダヤ人であった。 彼らが宣教師となり、敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、遂には植民地化するという政策が常套化していた。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。

 その2、「植民地政策と重複しているが、布教は建前で、実は略奪ビジネスである」という観点からのキリシタン禁止令であった。この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。

 ザビエルのゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた次のような手紙が残されている。
 「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)。
 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

 
その3、「宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」という観点からのキリシタン禁止令であった。ルイス・デ・アルメイダは、イエズス会の神父として来日したが、宣教師たちの生活を支えたり、育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。

 鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は次のように述べている。

 「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。


 
鬼塚氏の指摘は、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414〜417」でも裏付けられている。若菜氏は、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用で次のように述べている。但し、肝腎の「火薬一樽につき日本娘50人」の記述を省いている。
 「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉。

 かなり護教的な論調で解説しているが、奴隷売買に言及している。

 秀吉は、準管区長コエリヨに対して、次のように命じている。
 「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天連はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。

 
日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた史実は、さまざまな文献資料によっても証明されている。日本の歴史教科書では、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えていない。高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。それでは、秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘する歴史教科書はない。

 
その4、「宣教師達は、神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、日本の祖法である平和的共存を排除している。それは日本では許されない」という観点からのキリシタン禁止令であった。高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名は、宣教師に教唆され、神杜仏閣の破壊、焼却に執心していた。これは、ユダヤーキリスト教的一神教主義の招いたものであった。秀吉は、「なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と批判している。(「日本人女性人身売買考」参照)

 
その5、「宣教師達は、牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」という観点からのキリシタン禁止令であった。 秀吉は、伴天連たちの牛馬を食ぺる習慣に対して、「馬や牛は労働力であり、好ましいことではない」と批判した。

【「宣教師の反撃」】
 秀吉は、準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。しかし、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨに進言したが、彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は 金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ ピンに要請した。これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことであった。

 しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。 この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。
これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。

 キリシタンの抵抗は執拗に続いた。もはや軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで15年間日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599.2.25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。
 概要「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでも しも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国 を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包 囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の 生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろ う。・・・  このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るよ うにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り 囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好 な位置にある。・・・  (日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイ ン人の間で育てることになるだろう。・・・  スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべ きシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る」。

 キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、 というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。しかし、この計画は未遂に終わった。


【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】
 秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった。

 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。が、スペインやポルトガルの宣教師の入れ智恵であったという説もある。コエリは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。しかし、コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。

 1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰に宣教師達の巧言があったことが推定でき、秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。

「伴天連(ばてれん)追放令」その後と「キリシタン弾圧」】
 秀吉が九州征伐後に博多で発した「伴天連(ばてれん)追放令」は、 キリスト教が予想以上に普及してい たことと、貿易を重視して南蛮交易を押し進めていたことも有り、その効力はさほど強くなかった。

 1596.10月、台風のため土佐の浦戸湾に漂着したスペイン船の積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、スペイン国王による宣教師派遣には領土征服の意図が含まれているという趣旨の水先案内人の発言が為された。これを「サンフェリペ号事件」と云う。12月、秀吉は再び禁教令を発し、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。

 1597(慶長2)年、秀吉は、追放令に従わずに京都、大阪で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師6名とイエズス会のパウロ三木や熱心な信者24名を次々と捕えた。この頃、ランシスコ会とイエズス会が阿吽の呼吸で結託しつつ日本で宣教していたことが判明する。

 殉教者たちは、見せしめとしてまず京都で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされた。伏見や大坂、堺でも同じように扱われ、冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながら、遥かな殉教の地長崎へ向かって徒歩で護送された。旅の途中、新たな2名の殉教者が加わった。 殉教者の世話をするために付き添い、執拗に願い出て殉教者に加わったペトロ助四郎と、殉教者を最後まで見届けようと心に誓い、願って殉教者に加わった熱心な信者フランシスコ吉の2人であった。

 1597.2.5日朝、殉教の地へたどり着いた26人の殉教者達は、西坂の丘で十字架に縛り付けられた。西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする群集で埋まった。十字架につけられた26人は賛美歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し次のように述べている。
 「今、最後の時にあたって、わたしたが真実を語ろうとすることを、皆さんは信じてくださると思います。キリシタンの道のほかに、救いの道がないことを、私はここに断言し、保証します。わたしは今、キリシタン宗門の教えるところに従って、太閤様はじめ、わたしの処刑に関係した人々をゆるします。わたしはこの人々に少しも恨みを抱いていません。ただせつに願うのは、太閤様をはじめ、すべての日本人が一日もはやくキリシタンになられることです」。

 日本人信徒26名はわざわざ長崎まで連れて行かれて、十字架に縛り付けられたまま槍で処刑された。世に名高い「長崎の26聖人殉教事件」である。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、宣教師ルイス・フロイスは、これを報告し、秀吉を暴君と罵っている。イエズス会とマニラ総督府は、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手段をとった。こうして、丁々発止の攻防戦、両者の熾烈なせめぎ合いが演ぜられていくことになる。(「日本二十六聖人」参照)


【「スペインの商船、サン・フィリップ号船長の証言」】

 「キリシタンに世界侵攻の危険を感じとった徳川三代の情勢判断」は、次のような逸話を紹介している。興味深いので転載する。

 慶長元年(一五九六年)五月、土佐の浦戸付近に、スペインの商船、サン・フィリップ号が座礁した。豊臣秀吉は、すでにその九年前(天正十五年)、九州を平定すると共に、キリシタンを禁止、スペインとの通商を断っている。それ故、この難破船の貨物は没収された。

 その時、この船の船長デ・ランダは、秀吉が派遣した増田長盛の前に世界地図を広げ、「わが国王の領土は、世界にわたってかくの如く広大である。この大国の国民を虐待せば、容易ならぬ禍を招きしが承知のうえか」、と威嚇した、と云われている。長盛が、「いかにしてこのように広大な領土をあわせ得たのか?」とたずねたところ、ランダ船長は、「その手段はまず、宣教師を入りこませ、キリスト教をひろめて土人を手なずけ、しかるのちに軍隊を送り、信徒と相呼応してその国を征服するのだ」、と、広言した(本音を言ってしまった)、という。この事件は、秀吉の死の直前のことだ。

【豊臣秀吉の晩年】

 1592年、朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、またから援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。しかし、講和が決裂したため、1597年、再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。

 1598.8.18日、秀吉はその最中に五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した(享年62歳)。

 秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。

 秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。

 その後の経緯は、キリスト教禁教史に記す。





(私論.私見)


(個人的)週刊日本新聞・過去ログ選集