豊臣秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」 |
(最新見直し2007.3.4日)
【豊臣秀吉の危惧】 | |
イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582.12.14日付けでマカ オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう な手紙を出している。
これによれば、スペイン国王によるシナの植民地化が狙われており、イエズス会東インド巡察師がその手引きをしていることが判明する。但し、日本は様々な事由で征服の対象としては不向きであるとも述べている。但し、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と述べている。 |
【豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発す】 |
「阿修羅空耳の丘42」のTORA氏の2006.1.27日付け「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」を参照する。「2006.1.27日付株式日記と経済展望」より転載したもので、原文は、「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。
1587.7.24日(天正15.6.19日)、豊臣秀吉が、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然宣教師達を呼びつけ、「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。 |
【「伴天連(ばてれん)追放令」の論理】 | ||||||||||||
キリシタン禁止令はキリシタン禁止令は次のような内容であった。(北國新聞の2002.7.9日付け「バテレン追放令 博多・箱崎の陣で秀吉ひょう変 奴隷売買と寺院破壊を怒る」は、貴重な記事を掲載している。これを参照する ) 宣教師には次のような沙汰していた。
秀吉は、次のように宣告した。
国内向けとみられる法令は11カ条からなっており、次のような内容であった。
秀吉が指令した「バテレン追放令」は、世界のキリスト教史でも重大事件で、「バテレンたちの数百枚に及ぶ膨大ともいえる文書がヨーロッパに存在している」(「南蛮のバテレン」松田毅一著)という。日本側にも資料は多く、博多で秀吉の茶会に同席していた茶人紙屋宗湛(かみや・そうたん)が残した日記によれば、天正15.6.19(西暦では1587.7.24)日、秀吉の宴席から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと書かれている。 |
【「伴天連(ばてれん)追放令」の根拠考】 | |||||
「伴天連(ばてれん)追放令」を野蛮な宗教弾圧と思うべきだろうか。通俗的歴史書は、キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていないが、そういう観点は早急に見直されるべきではなかろうか。そもそも、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して当初は好意的であった。しかし、信長の時代はともかく秀吉の頃になると宣教師たちの植民地化活動が目に余り始めた。秀吉は、宣教師たちの間に日本占領計画が存在することを見抜いて危険視するようになった。その具体的措置として「伴天連(ばてれん)追放令」を発したことになる。 これが、「伴天連(ばてれん)追放令」に纏わる実際の話ということになる。云える事は、秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」には充分な根拠があったということである。直接的には、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったと考えられるが、本質的には西欧植民地主義の臭いを鋭く嗅ぎとったということであろう。してみれば、「バテレン追放令」は、当時の日本の国力を示して余りある国威の発揚であったことが判明する。 その論理はつぎのようなところにあったものと考えられる。 その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」という観点からのキリシタン禁止令であった。キリシタンの宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)であった。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸した。ルイスも改宗ユダヤ人であった。 彼らが宣教師となり、敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、遂には植民地化するという政策が常套化していた。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。 その2、「植民地政策と重複しているが、布教は建前で、実は略奪ビジネスである」という観点からのキリシタン禁止令であった。この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。 ザビエルのゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた次のような手紙が残されている。
その3、「宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」という観点からのキリシタン禁止令であった。ルイス・デ・アルメイダは、イエズス会の神父として来日したが、宣教師たちの生活を支えたり、育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。 鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は次のように述べている。
鬼塚氏の指摘は、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414〜417」でも裏付けられている。若菜氏は、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用で次のように述べている。但し、肝腎の「火薬一樽につき日本娘50人」の記述を省いている。
かなり護教的な論調で解説しているが、奴隷売買に言及している。 秀吉は、準管区長コエリヨに対して、次のように命じている。
日本の娘などがキリシタンによって奴隷として売りさばかれた史実は、さまざまな文献資料によっても証明されている。日本の歴史教科書では、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えていない。高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。それでは、秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。ましてや宣教師のザビエルなどが改宗ユダヤ人であることなどと指摘する歴史教科書はない。 その4、「宣教師達は、神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、日本の祖法である平和的共存を排除している。それは日本では許されない」という観点からのキリシタン禁止令であった。高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名は、宣教師に教唆され、神杜仏閣の破壊、焼却に執心していた。これは、ユダヤーキリスト教的一神教主義の招いたものであった。秀吉は、「なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と批判している。(「日本人女性人身売買考」参照) その5、「宣教師達は、牛馬を食べることを好む。それは日本の祖法に抵触している」という観点からのキリシタン禁止令であった。 秀吉は、伴天連たちの牛馬を食ぺる習慣に対して、「馬や牛は労働力であり、好ましいことではない」と批判した。 |
【「宣教師の反撃」】 | |
秀吉は、準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。しかし、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨに進言したが、彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は
金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が
あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ ピンに要請した。これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことであった。 しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。 この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。 キリシタンの抵抗は執拗に続いた。もはや軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで15年間日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599.2.25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、 というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。しかし、この計画は未遂に終わった。 |
【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】 |
秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった。 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。が、スペインやポルトガルの宣教師の入れ智恵であったという説もある。コエリは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。しかし、コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。 1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰に宣教師達の巧言があったことが推定でき、秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。 |
【「伴天連(ばてれん)追放令」その後と「キリシタン弾圧」】 | |
秀吉が九州征伐後に博多で発した「伴天連(ばてれん)追放令」は、 キリスト教が予想以上に普及してい
たことと、貿易を重視して南蛮交易を押し進めていたことも有り、その効力はさほど強くなかった。 1596.10月、台風のため土佐の浦戸湾に漂着したスペイン船の積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、スペイン国王による宣教師派遣には領土征服の意図が含まれているという趣旨の水先案内人の発言が為された。これを「サンフェリペ号事件」と云う。12月、秀吉は再び禁教令を発し、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。 1597(慶長2)年、秀吉は、追放令に従わずに京都、大阪で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師6名とイエズス会のパウロ三木や熱心な信者24名を次々と捕えた。この頃、ランシスコ会とイエズス会が阿吽の呼吸で結託しつつ日本で宣教していたことが判明する。 殉教者たちは、見せしめとしてまず京都で左耳たぶをそがれ、牛車で町中をひきまわされた。伏見や大坂、堺でも同じように扱われ、冬の厳しい寒さの中、後ろ手に縛られながら、遥かな殉教の地長崎へ向かって徒歩で護送された。旅の途中、新たな2名の殉教者が加わった。 殉教者の世話をするために付き添い、執拗に願い出て殉教者に加わったペトロ助四郎と、殉教者を最後まで見届けようと心に誓い、願って殉教者に加わった熱心な信者フランシスコ吉の2人であった。 1597.2.5日朝、殉教の地へたどり着いた26人の殉教者達は、西坂の丘で十字架に縛り付けられた。西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする群集で埋まった。十字架につけられた26人は賛美歌を歌い、パウロ三木は罪状に対し次のように述べている。
日本人信徒26名はわざわざ長崎まで連れて行かれて、十字架に縛り付けられたまま槍で処刑された。世に名高い「長崎の26聖人殉教事件」である。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、宣教師ルイス・フロイスは、これを報告し、秀吉を暴君と罵っている。イエズス会とマニラ総督府は、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手段をとった。こうして、丁々発止の攻防戦、両者の熾烈なせめぎ合いが演ぜられていくことになる。(「日本二十六聖人」参照) |
【「スペインの商船、サン・フィリップ号船長の証言」】 | |
「キリシタンに世界侵攻の危険を感じとった徳川三代の情勢判断」は、次のような逸話を紹介している。興味深いので転載する。
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【豊臣秀吉の晩年】 |
1592年、朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、また明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。しかし、講和が決裂したため、1597年、再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。 秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。 秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。 |
その後の経緯は、「キリスト教禁教史」に記す。
(私論.私見)
(個人的)週刊日本新聞・過去ログ選集