敷島初代会長の出直し

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.12.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「敷島初代会長の出直し」を確認しておく。

 2016.05.28日 れんだいこ拝


【敷島初代会長の出直し】
 「敷島初代会長の出直し(その一) 」。
 次々部内教会も設立され、教勢も伸び、喜びの空気につつまれているこの前年頃(註・明治27)から□□会長は身上がちとなり、5月24日の東海支教会鎮座祭には、分教会長に代って清水虎次郎理事が祭主をつとめた。□□会長の身上障りは、いっこうに快方にむかわず、6月21日、身上願によっておさしづをいただくと、

 『さあ/\たづねる処/\、これまでに何ど/\いくたび事情、なれど道なき一ッ道とゆう、一日なりと/\たのしみ/\、よふ/\の事情、これからながらくとゆう、一時もって不足なるとおもう処、めん/\心一つである。あるも一ッ、ないも一ッ、心事情とゆう、これ一つさとしおこう、心まで身の内不足、世上事情あるによって、はやく事情はこんで、事情ハめん/\あるも一つ、ないも一つ、これ一つはあさん(註・「発散」)したなら又一つ事情、これだけさとしおこう』(明治二八・六・二二)

 これから長らくという思いから、一時をもって不足と思うのもそれぞれの心の持ち方一つである。不足の心を持つか持たぬかも心次第とさとしおこう。事情もそれぞれの心一つ、この心一つを発散することが肝要とお教え下されたように拝察できる。

 ここでお示し下さっている「心を発散せよ」と仰せの□□会長の悩む心、不足の心の原因が教会内部のことか、長男庄作についてのことか、或いは全く異なる他の問題であるかは定かではないが、次第に身上弱まる病床にあって悩む最大の苦しみは、素行よろしくない庄作に対して、教会長後継の問題も含めて父として将来に対する案じ心を仰せ下さったに違いないし、□□会長自身、父として頭の痛い問題であったに相違ない。

 このおさしづをいただいてのち16日後、再び□□会長身上願をもっておさしづを仰ぐのである。

  明治二十八年七月七日
 ‥‥尋ねば事情さしづ一つ、よく事情きわけ/\。事情によってのばす事もあればのばせん理もある。早く事情身に一つ事情、心に一つ事情ある。心にある。発散でける。発散でけねば身に回る。はたに聞きわけ。これまで事情たすけ一つ事情/\、他にはた/\事情、身に迫る事情から、皆な発散せにやならん/\

 {押して桜井の方願}
 さあ/\尋ねるまでどふしたらえゝ、こふしたらえゝ、こら言わせんで。そんなこと尋ねるのやないで。』

とのおさしづであった。「事情によって延ばす事もあれば延ばせられない理もある。はやく事情身に一つ、心に一つ事情あるということを悟り、心を入替えてくれればよし、発散することができなければ身にまわる」と仰せになった。さらに「押して桜井の方願」について桜井の方、とお尋ねした意味も親神と□□会長のみの知るところで「桜井の方」の真意はわかりにくいところであるが、おそらく教会のことか、幹部役員のことか次期会長のことか、長男庄作の件であったに違いない。この押しての伺いには「どうしたら良い、こうしたら良いとは言わん、そんなこと尋ねるのやない」とお叱りいただいてしまっている。この七月七日のおさしづが、親神から□□会長がいただいた最後のお言葉となったのである。

 昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)159~161ページより
 「敷島初代会長の出直(その二) 」。
 □□会長は入信以来、持前の豪気さと素晴らしい統率力をもって心勇講をとりまとめ城島分教会を設立、当時のおぢばの神殿より遥かに大きい神殿建築をなしあげ、教勢発展のうえに尽力、十数人の布教師を北海道に派遣、また自から布教督励の為に北海道に渡ったり、教祖五年祭のつとめ、教祖御遺体を豊田山墓地に御改葬に至る間のつとめ振りなど、全城島の教信者を指揮して努力なされた偉大な功績、心身を砕いて城島の為に活動しつづけ、道の拡充に献身した努力は非凡なものであった。さらにおぢばに近かったが故に、理の親子関係は文字通り混とんとしていた時代に、心勇講を組織化し、教内外に心勇講の存在を認識させるに充分な教勢を統率していった。そうした素晴らしさの反面、のちのおさしづで「又一名悪説出した理は遁(のが)れるにのがれられん」或いは「親の事情から子の事情、善き事栄えるは何も言うこと無い。なれど悪い事栄え」とお示しいただくような因縁の道にも、つい走られたことは、伊八郎のつとめ振りからその存在を余りに意識しすぎてのことであろうか、とにかく非凡な手腕をもって城島の基礎固めに、その功績偉大なるが故に、豪放活発な性格からなされたこととはいえ、惜しまれてならない悪説の行動であった。この□□初代会長の明暗二つの足跡は、数々の話題を残し、十一月二十四日(陰暦十月八日)脊髄の病いで一年苦しみ、ついに五十八歳で出直したのである。(中略)

 ~「頌徳」には次のように記されてある
 「斯くて明治28年(11月)□□分教会長は皈天せられた。嗣子庄作氏は素行修らず、墳墓の土未だ乾かざるに父の遺産は朝露の消ゆるが如く蕩尽されたのである。而して伊八郎先生に対して兇器を携え暴行を加えんとせし事、幾十回なりしやも知るべからざる程である(明治28年より37年までの長きに至る)当時分教会の財政は月々年々の負債嵩み、明治28年度はその極度に達したと言っても良いくらいである。‥‥」。

 素行の悪さも並々のものではなく、どうにかならないものかと役員らも苦心し相談しあっているが、白刃をかざし、これを治めるについてのはたはたの者達の、苦心と苦労は並大抵なものではなかったと伝え聞かされている。しかしその苦心、心尽くしもかえって逆に無心の度を重ねる事となり、火の入った火鉢を伊八郎に投げつけたり、できあがったばかりの教祖殿の檜の柾柱や畳を日本刀で切り回るという乱行のはげしさであった。庄作の当時の行状は分教会の集会決議録や、伊八郎の日誌、その他の諸文書記録によくうかがえるところであるが、「親の事情から子の事情。‥‥何程どうしてやろ、こうしてやろうと思うたてめん/\の心より取り返やしはならん。‥‥
寄せた処がじいと寄りにくい‥‥」とまでおさしづで仰せ下された程であるから、おそらく想像を絶する素行であったようである。

 昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)161~164ページより





(私論.私見)