【山田伊八郎逸話】 |
教祖伝逸話篇84「南半国」、101「道寄りせずに」、121「いとに着物を」、164「可愛い一杯」、185「どこい働きに」。 |
教祖伝逸話篇84「南半国」 |
山中こいそが、倉橋村出屋鋪の、山田伊八郎へ嫁入りする時、父の忠七が、この件を教祖にお伺いすると、「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す。なれども、本人の心次第や」と、お言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こいそは、「神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂きまする」と言うて、明治14年5月30日(陰暦5月3日)に嫁入った。すると、この山田家の分家に山本いさという人があって、5年余りも足腰が立たず寝たままであった。こいそは、神様を拝んでは、お水を頂かせる、というふうにしておたすけさせて頂いていたところ、翌年、山中忠七が来た時に、ふしぎなたすけを頂き、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、一人歩きが出来るようになった。又、同村に、田中ならぎくという娘があって、目が潰れて、7年余り盲目であった。これも、こいそが、神様を拝んでは、神様のお水で目を洗うていたところ、間もなく御守護を頂いた。それで、近村では、いざりの足が立った、盲も目が開いた、と言って、大層な評判になって、こいそを尋ねて来る者が、次から次へと出て来た。 |
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教祖伝逸話篇101「道寄りせずに」 |
明治15年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、「今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(註、こいその生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで」と、お聞かせ下された。それから程なく、5月10日(陰暦3月23日)午前8時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、綺麗な産着を着せて寝かせてあった。お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、3里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。教祖は、「もう、こいそはん来る時分やなあ」と、お待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、「名をつけてあげよ」と、仰せられ、「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで」と、御命名下された。 |
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教祖伝逸話篇121「いとに着物を」。
明治16年6月初(陰暦4月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女いくゑを連れて、いくゑ誕生満1年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、教祖は、大層お喜び下され、この時、「いとに着物をして上げておくれ」と、仰せられ、赤衣を一着賜わった。これを頂いてかえって、こいそは、6月の末(陰暦5月下旬)に、その赤衣の両袖を外して、いくゑの着物の肩布と、袖と、紐にして仕立て、その着初めに、又、お屋敷へお礼詣りをさせて頂いた。その日は、村田長平が、藁葺きの家を建てて、豆腐屋をはじめてから、3日目であった。教祖は、「一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわけにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、ちょうど思う通り来て下されて」と、仰せられ、いくゑを背負うて、井戸を見においでになった。教祖は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁寧に仰せになったのである。そして、帰って来られると、「お陰で、見せてもろうて来ました」と、仰せられた。この赤衣の胴は、おめどとしてお社にお祀りさせて頂いたのである。 |
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教祖伝逸話篇164「可愛い一杯」。
明治十八年三月二十八日(陰暦二月十二日)、山田伊八郎が承って誌した、教祖(おやさま)のお話の覚え書きに、「神と言うて、何処に神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。というは、世界一列の人間は、皆な神の子や。何事も、我が子の事思てみよ。ただ可愛い一杯のこと。百姓は、作りもの豊作を願うて、それ故に、神がいろいろに思うことなり。又、人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと、踏ん張り切る」と。 |
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教祖伝逸話篇185「どこい働きに」。
明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘(つ)もみ上げる力見て、思やんせよ」と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付き米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は晴らさずには置かん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事」と、お聞かせ下された。 |
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