教祖と大和言葉

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.12.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「根のある花」を確認しておく。

 2018.6.28日 れんだいこ拝


【「根のある花」】
 「教祖と大和言葉(その一) 」。
(※史料掛報202号(昭和49年3月号)「史料について」山本徳雄より~
 (前略)次にもう一つ若い方々に特にお願いしたいことは、昨日もけっこうな天理教教祖伝逸話篇をお下げいただきましたが、あれを拝読、これまでから考えていた考えが、特に余計深く感じさしていただいたことは、即ち大和言葉であります。教祖の深いお心、お気持、或はお姿を少しで(も?)深く身近に分からせていただきたいと思いますと、大和言葉というものを相当分からしてもらわにゃいけないように思います。この一、二ヶ月前に、敷島から出してもらいました『山田伊八郎文書』ですが、あの中をちょっと昨日、一昨日もそういうつもりで特に目を通させていただきましたが、大和言葉といい、或は大和訛ともいいましょうか、どこまで大和言葉といっていいか、どの範囲までその言葉が使われているか、使われていないか、そのへん私もそこまで研究していないんですが、本当に何でもないような言葉の中に、いろいろと特殊な言葉があります。私ちょっと引き出して見始めたんですが、あんまりあるのでよしました。しかしこの特殊な言葉の中に折角の御言葉、大体今度出していただいた逸話篇は、標準語に近い御言葉で書いて下さっているように思いますので、本当にけっこうでありますが、大和言葉丸出しになって来ますと、おおよそは分かるんでありますが、はっきりした意味が分かりかねる御言葉が、随分出て来るんじゃないかと思います。これからだんだんお出しいただく御言葉、次々とお出し下さる逸話篇を読ましていただいたら、その点よく分かると思いますが、この大和言葉には特殊な言葉が、非常に沢山あります。

 実はこの前にも申し上げたと思いますが、敷島のお指図の中に「明治二十四年十一月一日 山田伊八郎 身上はなの出物から御伺」という、本部の今度の七冊本には「御願」となっておりますが、この御伺の御言葉の中によく引用しやすい御言葉で、随分方々へ使われます。「根のある花」という御言葉でありますが、あれが最初八冊本を出して下さる時代、またそれまででもそうであったんでありますが、やはり大和言葉を少し分かりにくかったように拝察するんであります。お書き下げには申し上げたい面を申しますと、「これ俄かに咲く花は、切って来て床へ挿してあるも同じ事。これはのじの無いものである」ということをおっしゃって下さっているのであります。「これはのじの無いものである」と、お書き下げにはそう書いてあるんですが、昔の大和言葉を御存知の方は分かりきったことなんですが、現在大和で若い方でしたら大和で生まれて育った方でも、元の地の大和言葉、標準語に段々育てられておりますので、元の大和言葉というのはなかなか分かりにくいかと思うんであります。七冊本を出して下さるまで、大体皆な「あじ」と書いておって下さるのであります。その「のじ」といいますのは、「のじがない」、「のじがある」ということは、分かって下さる方は分かりきったことなんですが、いつまでも持つ力、持久力といいますか非常に粘り強い保存力、或は生きる力というようなのを大和言葉で「のじがある」とか「のじがない」とか、一つのものに対してもそういうことを言うんであります。「あじ」の間違いじゃないかと思うて、「あじ」とせられたんやろうと思うのであります。「のじ」と「あじわい」とは非常に違うんです。といいますように、大和言葉はちょっとしたところに、案外いろいろと意味が違うんであります。(つづく)
 「教祖と大和言葉(その二) 」。
 (※史料掛報202号(昭和49年3月号)「史料について」山本徳雄より~
 (中略)「こふき話」の中に「はだやい」という御言葉が出て来ます。「かおは人間、からだは、うろこなし。人間のはだやい」。またその説明に後の方になってきて、「はだやい」という御言葉が出て来ます。「はだあい」というたら一般によく分かると思いますが、「はだやい」というと、これは大和の言葉であります。「はだやい」も「はだあい」に似ているから、大体意味は分かっていただけると思うんでありますが、あれは間違ったへんな言葉じゃなくて、大和の昔の言葉であります。

 この山田伊八郎文書の五頁に出ていますが、「へんなるの子」という言葉があります。これは教祖の御言葉の中では、非常に上手な上品な使い方やと思いますが、こういう御言葉、直接「へんなるの子」といいましても、男一の道具の名称であると、直に感じないわけであります。直に感じずにいまして、なかなか上手におっしゃっておられますが、大体大和方面では、「へのこ」とか「へんのこ」というように言い使いますが、それでは直にへんな感じがします。教祖のお使い方というものは、なかなか上手におっしゃっておられます。こうしたものが沢山あるんです。

 「いきどり」という御言葉も、これも「いきどおり」と申したらよくわかりますが、「いきどり」といいましたら本当の昔の大和言葉なんです。「いきどおり」と「いきどり」とよく似たもので、文字の使い方が仮名が一つ抜けてあるんやなと思うて読めば、それで通用するんですが、本当に昔はそういう「いきどおり」ではなくて、「いきどり」と使っておられるのです。


 「人をよぶ」ということも、山田伊八郎文書の十五頁の「こふき話」の中に出て来ますが、「人ヲよぶのに、ぜんだてもせずに、よびづかゑハせず」とおっしゃっておられます。「よぶ」といったらこれはもう広い地方に通用している言葉でありますが、大和で「よぶ」といいますと、招待するという言葉であります。招待するのもただ招待する来いというのじゃなくて、御馳走を準備して招待するというのを「よぶ」というんです。そこへ招待されて行くのをよばれに行ったというんであります。
(中略)人間でも人を招待(よぶ)のに膳立もせずに招待(よび)使いをせず、ということをおっしゃっておられます。御馳走をこしらえずに今でも人を招待(よば)んやろう。招待(よば)せんやろう。人を招待(よぼ)うと思ったら、先にちゃんと膳立をするやろ、御馳走をこしらえるやろうということを仰せ下さっているのであります。

 つまりそれはどういうことかといいますと、人間創造しようと思うた先に、人間の食物から作ったということをおっしゃっているのであります。「よぶ」というのは、おいといって人を呼ぶのではなくて、この「よぶ」は御馳走こしらえ、膳立して食物をこしらえて、来てくれというて招待(よぶ)ことを、「よぶ」とおっしゃるのであります。来てくれといって使いを出すことを、呼び使いというんであります。分かっておられる方は何でもない、分かりきったことでありますが、地方によってはこういう言葉も分かりにくいんじゃないかと思います。(つづく)
 「 教祖と大和言葉(その三)」。
 (※史料掛報202号(昭和49年3月号)「史料について」山本徳雄より~
 (つづき)それから八九頁に「けなるなる」という御言葉もあります。これも純粋の大和の言葉で、ちょっと現代の言葉から考えたらつまらん言葉のように聞えますが、そうではなく、「けなるなる」うらやましくなるということであります。天理王命様を信仰さしていただいている者は、百十五才定命として二十才の姿で二十才の心で通らしてやろうと、百姓なら肥をおかずに灰三合・土三合・糠三合、合わせて九合紙袋に入れて一晩おいて、翌日、本づとめにかけてそれに一升の水を混ぜて、藁のすべで一反の田圃へ蒔いたらとおっしゃってます。米四石五石まで作り取らしてやろうということをおっしゃる。そうすれば世界の人がけなるなって皆ついて来るやろう、信仰してくるやろうということをおっしゃるわけであります。この「けなるなる」という言葉もちょっと考えると、書き表したくないような、もう少し体裁のよい言葉を使った方がいいじゃないかと思いやすい言葉でありますが、これも大和の直の味の出る言葉なんであります。

 (中略)教祖の御言葉の中に「五代跡ヨリ」というのがあります。この前、白藤先生からいろいろお聞かせいただいたんですが、「五代跡ヨリ」という御言葉は、大和方面の言葉であろうと思うんです。「あとより」といいましたら以前ということであり五代前で、四、五日あとにといいましたら四、五日前にということであります。こういういい表し方がどの方面まで使われていますか。参考に申し上げますが、「あと」と申しましたら向うともいえますし、過去ともいえます。人によっては解釈しにくいと思うんであります。

 この文書の一〇四頁に「身内(みのうち)どしん」とおっしゃっています。「身内どしん」という御言葉がありますが、「身内どしん」というのは分かる方はよくお分かりいただけますが、「身内どしん」は人間を作る場所やというようなことをおっしゃっておられます。「どしん」というのは、芯を強めておっしゃっているのであります。ほん真中というような意味も含まれています。大和ではど根性とか、ど真中とか、土手っ腹とか、「ど」を付けて意味を強めておられるわけであります。「しん」ということに対して、ただ簡単な「しん」でないという深い意味を込めて仰せられています。ちょっと考えたら乱暴な荒削りの言葉で、本当に教祖がそんな言葉を使われるんかと思いやすいのであります。しかし簡単な言葉であるが、非常に意味を強めてあります。(つづく)
 「 教祖と大和言葉(その四) 」。
 (※史料掛報202号(昭和49年3月号)「史料について」山本徳雄より~
 (つづき) それから108頁にある「まめして」というのは、調合して配合してとか、かき混ぜ、混ぜ合わせることを「まめして」といいます。次に116頁に「何ドはろとおもへバ」とあります。これは山田伊八郎先生がおっしゃっていまして、神様が紙に息を掛けてこれをはれと言って下さった。「何ド」といいましたら、何かということであります。これは簡単な言葉であります。「かどへ以テでて」というのが同じ頁にあります。「かど」はよく分かる家の表ということであります。これはよく分かる。「万劫(まんご)末代」という言葉は、よく方々で使われるんじゃないかと思います。大和では昔の人は、よくこういう言葉を使ったんであります。末代という意味でありますが、それをもう一つ意味を強めておりますのが、「万」という字と永劫の「劫」、「万劫末代」と書いたらいいわけです。「まんごう」と言わずに「まんごまつだい」というんです。

 122、132、134頁に、「なか/\もなきせき込」という御言葉が出て来ます。「なか/\」というのは、相手の考え、思いを打ち砕いて、そして、もっと立派なと良い方に強調する場合に使います。なか/\、もっと悪い、というようには使いません。非常に良いということです。とても非常にというような意味を持ちまして、「なか/\此あいだ長々の事」とおっしゃっているところもあります。皆な同じで何でもないような、意味の一つもないような言葉でありますが、これも非常に意味を強めておっしゃっているのです。

 124頁に「一ヶ村、二ヶ村やそこらやない」という御言葉があります。これも一ヶ村、二ヶ村それ位の程度のことじゃない。もっともっとという意味を強め、範囲を広めた言葉であります。「そこらやない」は、その辺ではないという言葉によく似ていますが、全然違うんであります。

 それから、126頁に「たいらいちめん」とか「しよねん」とかありますが、これもやはり同じで、「たいらいちめん」といいますと、平らな場所一面というような直訳ではなくて、その辺一帯という広い広い範囲一面をおっしゃっているのであります。平らとか、高低あるとかは関係なく、その辺一帯という意味をおっしゃっているのであります。「しよねん」という言葉も出て来ますが、これも本性とか、魂とか、全精魂を打ち込んで、というような意味を持っています。

 こんな話を申し上げると果てしがありませんが、少し拾わしていただきましても、「じきもつ」とか「寿命」とか「幾々さき」とか「むこい/\」とか、向こうという意味は分かります。「むこい/\」という「い」が付いてくるのも、大和言葉の特徴です。「幾々さき」というのも、ずっと先、ずっと将来というような、よほど先の先までという意味を繰返し強めておられるんです。134頁に出て来ます。少し拾ってみたんですが、果てしなくこういうのが出て来ます。

 こういうように、大和言葉も若いお方でしたらある程度分かっておいて下さる方が、教祖の御言葉がよく理解させていただけると思います。言葉の中に当時の大和の人達の人柄など、非常によく分からしてもらえますし、昔庄屋敷村の隣に三島村というのがありまして、今もありますが、三島村には三島言葉という特殊な言葉があります。非常に変わっております。しかし教祖の御言葉は、三島言葉は少しも混じっていないように思います。大和言葉といいましても、大雑把に分けましても十幾つもあるでしょう。細かく言いましたらもっと沢山ありましょうが、地方地方によって随分違いますが、中でも史料に携わらしていただく者は、教祖の御言葉というものをよく分からしていただくことが大切やと思うのです。(後略)

 以上、昭和四十九年三月発行「史料掛報」202号「史料について」山本徳雄、11~17ページより
 (明治二十四年十月)教会設立と神殿落成を祝う開筵式を迎え、陣頭に立って神殿ふしんに精魂こめてつとめた伊八郎の心も苦労の数々があっただけに、責任を全うできた喜びに感激も大きかった。だが筆舌に尽せぬ窮乏の極みにあっての神殿建築であったし、既にこの頃、日々の神饌物を調達するのに事欠くほどの教会財政であっただけに、大きな借財を考えると到底安易に喜んでいられない、これからが大切なつとめやと伊八郎は自分にいい聞かせるのであった。

 (中略)~そうした当時、分教会に次々と起きた事情は更に窮乏に拍車をかけることばかりであった。これは当時の人達の真実を見定める為の親神のためしであったのかもしれないが、事実、この頃に城島分教会の将来に見切りをつけて離散、落伍していった人も数多くいる。こうした状態には、さすがの□□会長の豪気さを以てしても如何ともなし得ず、悩む心を発散させるためか、桜井の料亭「たば市」に三、四人を供に人力車を連ねて足繁く通い、その支払いはきまって伊八郎に廻ってきたという。古老の話によれば金策できにくい窮乏の極みにある時に限って、ことさらと思えるほど遊びに出たという。情ないそうした浪費、乱費の支払いも命ぜられるまま、たんのう一つにつとめた伊八郎であったが、内心の葛藤は大きかった。おそらく伊八郎自身、腹も立て城島を見限ろうと思わねばならないほどのこともあったろう。それをお戒め下さる親神様の手引きか、この事情が続く前後に二人の女児を出直させてしまっている。後日、伊八郎は「全くよくあの中を通り抜けられたものや。神様のお陰やった」と述懐しているほどである。(中略)


 理の親である□□会長に一役員、初代講元だった伊八郎としてではなく、今はただ事毎に邪魔者扱いにされている一役員にすぎないけれど、見るに見かねて諌めようと意見もしたようであるが、かえってそれが、逆にはげしく料亭に通う始末。時にはそのお伴さえ命ぜられる日もあり、会長にお仕えする立場にある伊八郎は、教会の極度の窮乏、わが家の日増しの困苦を考えるとき、断腸の想いでお伴をつとめたに違いない。伊八郎の子供達でさえどこからとなくそうした話を耳にし、何となくそうした空気が感じられたある時、長女の”いくゑ”が、「うちのお父さんまで、そんな所行かんかてよいのになあ」と、つい愚痴をこぼしたところ、丁度そばにいた□□”ちよ”会長夫人が、「あんたところのお父さんはなあ、決して好きで行ったはるのやないで、何もかもよくよくわかったはるのやが、だんだん会長はんの身を思うて、会長はんにお仕えしなければいかんという、その勤めの上から行ったはるのやで。このわしでさえ、すまんなあと、山田はんには、いつも陰から手を合わしていますのやで」と諭したという。





(私論.私見)