おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.12.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで」を確認しておく。「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編、昭和49年8月発行)、「敷島の暗黒時代」その他を参照する。

 2016.05.28日 れんだいこ拝


【お指図隠匿問題~二代会長就任まで】
 山田伊八郎が、現在の敷島大教会の会長になるまでの経緯は茨の道だった。伊八郎は当時の心勇講の頃から周りの一部から心よく思われていなかったという。明治20年頃より、伊八郎を心勇講から追い出そう、逃げ出さそうとあれこれ策を以て迫られていた。そんな中で伺う指図での伊八郎への諭しは常に「たんのう」であった。「何事もたんのうが第一」(明治20年12.1日)、「成るよいくよう楽しみ一つ事情ある、先々たんのう理を見て暮するよう」(明治21年6.24日)と諭されている。伊八郎はどんな中も「たんのう一すじ」の心を定め逆境の道を通った。

 次のお指図で、親神様はこうした伊八郎の苦悶する心をしっかりと受け取っておられるのが分かる。「あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん」(明治22年11.7日)。伊八郎が次のように述懐している。
 いづれ成る程と思える日が来る事を、教祖が先に示してくれたからこそ、私も今を一生懸命踏ん張れる。その日を待ち侘びているからこそ、これからも信仰の火を絶やさず、神の赴くままに私は歩んで行きたい。その日が来たら「お前の生き方はそれでよかった」、「よくここまで来てくれた」と是非、自分に言い聞かせたい。

 明治24年11.1日、次のお指図を戴いている。
(前略)長くは先の楽しみ、短いは楽しみなし。(中略) さあサアこれ根のある花は遅なる。なれども年々に咲く。又枝に枝が栄える。根も踏ん張る。

 このお指図を頂いた伊八郎は、その強く頼もしいお言葉に感激し涙したという。その後も敷島内部で伊八郎への厭がらせが続いた。それが「敷島の暗黒時代」といえる程の問題にまで発展し、伊八郎は、剣ヶ峰の境地に否応なく立たされる事となった。それでも逃げずに通り抜けた伊八郎だからこそ神の目に叶ったのであろう。「さあサアこれ根のある花は遅なる。なれども年々に咲く」。その詳しい内容を述べていこうと思う。(「根のある花 山田伊八郎」、「それでよかった」参照)
 「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その一)
 (「山田伊八郎伝」166、174~177p)
(前略)かくて教勢は次第に各地に拡まっていったのであるが、□□会長出直し後ゆえに、後担任問題をめぐって人間心の暗躍、かっとうが城島幹部役員のなかで展開されてゆくのである。(中略)分教会の土地建物は伊八郎の名義であった。□□会長の時代に買収及び一部献納されたといわれる土地、またはそれ以後新たに買収した土地なども伊八郎名義となっていた。設立当時の役員任命の折、理事六人の末席理事であった伊八郎が、土地建物の名義人となっていたということは、それなりの理由、即ち建築主任としての功績ばかりか、相当の伏せ込みがあったからに違いない。ところが□□会長は出直す以前、伊八郎名義のこれらの土地建物の所有権を、嗣子□□庄作に名義を変更していた。素行良ろしくない庄作に、他へ売却されてはと案じた役員たちは、急ぎ名義の変更手続きにかかった。我こそ後任会長と自負する二、三の役員の中には、以前のように伊八郎名義に戻しては先々不都合と考えたのであろう。この名義を、一応本部教長様にお預けするのが賢明と発案し、事実、明治29年4月10日と、同年6月6日の二度にわたって教長の名義に致したき儀を願い出て、お指図をいただいたのである。これに対してお指図は二度とも、「十分計りて後々」と申されお許しが出なかった。結局、明治29年7月14日、山田伊八郎の名義に所有権を変更したのであった。

 こうした事情、動きが教会内部にあった時であるが、役員協議を重ねた結果、明治30年5月7日、城島分教会担任上村吉三郎出直しに付、後任山田伊八郎を以て願い出、お指図お伺いすると、 
さあサア尋ねる事情/\、一代事情どうなり通り、又一つどうもならん。事情心通り理が現われる。心得のためまで知らせおく。一時定める処、心置きのう定めてやるがよい。さあ受け取る/\

とのお指図お許しをいただいた。この「お指図」により、伊八郎は神様から敷島後任の許しを得た。だが、何を勝手に決めているんだと周りがこれに反対する。山田伊八郎に関する「お指図」を見ていくと、敷島の後継者に関する同じ伺いが二年に渡って続いており、山田伊八郎をさらなる逆境へと立たせる二年となったことが判明する。(「敷島の暗黒時代」参照)

 このお指図を願い出る前後について「増野正兵衛伝」に次のように書かれている。
初代会長であった□□吉三郎氏が明治28年11月病没せられてより、俄かに教会事情が百出した。元来□□氏は敷島の講名たる心勇講を組織した中心的な人ではなく、寧ろ二代会長であった山田伊八郎氏が、その首脳者であったのである。こういう因縁から、□□会長死後問題に就いて役員協議の上、山田氏を推薦し、明治30年5月7日神様の御許しまで頂いたのであるが、部内教会一般に何等の相談もなくして、勝手に後任会長を選出するは甚だ不都合であるといふので、随所に不平の声が高かった‥‥。

 お指図によって伊八郎が城島分教会担任としてお許しいただいたのだが、「勝手に選出するは甚だ不都合であると随所に不平の声」が出て紛糾が続いた。この時代の直属教会長の殆んどが分教会の役員であり、増野はこの年末より整理員になられたばかりで、「この時の城島事情」を詳しく知り得なかった。

 敷島大教会 「山田伊八郎伝」が次のように記している。
次期会長を自負する役員たちの人間心が主力となって親神が二代会長に山田伊八郎としてお指図お許しになった件は、おそれ多いことながら暗黙のうちに闇に葬ってしまったのである。このお指図隠蔽事情が、更に事情を複雑なものへと発展させることとなり、後担任をめぐって人間心の醜態ともいえる派閥乱立の暗黒の歴史が、延々二年余も続くのである。

 翌月6月18日、「城島分教会後担任山田伊八郎に願い」が出され、遂に「さあ許そ/\」とのお言葉で伊八郎が会長に任命された。「ぢばからこう言えば、そむく者はあろうまい。治まるものやろう」と仰せられたが、「伊八郎後任お許しの指図」が効かない事態となった。
 お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その二)
 (「山田伊八郎伝」177~180p)
 (中略)この年も終りに近い12月15日、後担任をめぐっての紛争事情をご心配下さった本部から、事情解決の為に城島分教会整理員として増野正兵衛、桝井伊三郎両先生をご派遣下さったのである。増野正兵衛、桝井伊三郎両整理員先生からこの日、□□会長以来、任命されてきた従来の理事、役員並びに席次等を全廃し、一括して「整理員」という名称で、順序もいろは順に、二十四名を改めて任命し、事情打開の一策とされた。序列を廃し、いろは順に任命しなければならなかったほどに、派閥なり勢力争いめいたものが多々あり、その事情の容易ならぬ当時の教会の空気や、両整理員先生の決意、ご苦労といったものが推察することができる。

 翌明治31年3月30日、「城島事情」の難題にとりかかり、各幹部役員の意見を聞いたり、調整につとめた増野正兵衛、桝井伊三郎両整理員先生は、その根深い事情を更に痛感なされ、城島分教会の整理上について願い(分教会の地所建物の名義を山田伊八郎の処、本部(増野正衛)に移す事情願い)のお指図をいただかれている。
さあサア尋ねる事情/\、年限の事情尋ねる。一つの事情どうなりこうなり治まりだけ治めて、一時の処どうなりこうなりの中に理がもつれ/\てどうもならん。あちらへこちらへもつれてどうもならん。年を明けたら何年という。本部より一つ整理という、治め方という。尋ねた理がある。そんならと言うてどうも下ろし難い。整理どころやない。あちらこちら理がこす。それ日が経つ。余儀なくという。治め方、整理、もうこれ出る日になって、それぞれの心治まるだけ順序の理は、つとめてやらにやなろうまい。

 「分教会の地所建物の名前山田伊八郎の処、本部の名前にする事情願い」。
さあサアまあマア尋ねる処、当分の処、あらアラの処、治まるまでそのまゝにして、長い年限やないから、そのまゝ治めるがよい。

 「増野正兵衛は当時の整理員なれば、増野正兵衛の名前にしましようや伺い」。
さあサア尋ねる処/\、まあ一寸仮名前、道の分かるまで当分仮名前やで。仮名前として。

 お指図は、「名義を山田伊八郎から本部(増野正衛)に移す」件につき、「治まるまでそのまゝ」、「道の分かるまで当分仮名前やで」と先送りするよう指図した。名義替えよりも会長任命が先決とお示し下されたのであるが、相当な事情があったようで会長が伊八郎に定まらない。次に伺いが立てられているのは少し経って翌年となる。
 「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その三)
 (「山田伊八郎伝」187~191p)

 明治32年2月20日(旧正月11日)、増野整理員先生が、いよいよ分教会役員全員を集めて、会長後任問題についての会議を開かれた。当日の会議録によれば、「明治32年2月20日(旧正月11日)午前会議」の参加者は次の通り。増野事務取扱員、才加志市松、森井熊吉、加見兵四郎、大浦伝七、村田五良平、鍵田忠治、山田伊八郎、植田勝造、植田長三郎、西岡岩太郎、新井庄九郎、峯畑為吉、清水虎次郎、森本喜三郎、川口善太郎、西岡平九郎、椋野岩治郎。次のように記されている。
 一、増野先生より 「本会整理、略ぼ行届きたるを以て、今後一層取締を充分にせざるべからず。(会議録は省略する)

 会議は、上のように後任会長を定めるについての増野整理員先生としての考え、方向を示され、「この際、どうでも担任を定めなければならないこと」、「担任を定めるには理の上から、会長として充分の資格ある者でなければならないのと同時に、人としても心勇講全体の生命財産を保護できる胆力ある人を選定すること」というその条件、選定の根本方針からゆくなら「増野先生に分教会長になっていただくより他にない」との結論に達し、三氏が代表して先生にお願いした。増野先生も「万やむをえずとあらば」と会長になることを一応ご了承になった。そして実務を担当する副会長選出の件は、指名するのはむずかしいので、教長及び桝井先生に相談のうえ決定して、陰暦正月23日(陽暦3月4日)大祭当日、即ちこの会議の12日後に正式に発表されることとなった。こうして増野先生は一応会長就任をお引き受けになって、本部へお帰りになったのである。

 ところがおぢばではこれが大問題となり、ついに本部員会議にまで立ち至ったのである。会議に結果、お指図によって神意をお伺いすべきであるとの結論に達した。この後任会長に関する会議が行われて四日後の2月24日、城島分教会長後任事情に付き、増野心得御願としてお指図をお伺いなされた。後任問題の席上、以前から事情の根深さ、複雑さを熟知されていた増野正兵衛先生は、推されるままに、後任会長を自分が引受けなければ治まりがつかないと判断なされたのであろう。「万不得止(ばんやむをえず)とあらば、とも角、了承せり」と、お引受けになったのだが、この件に関する反響が、本部に帰ったところ意外に大きかった為か、そのいきさつなり、後担任をご自分がお引受けなされてきたことについては全くふれられず、「後任者を□□前会長の系統にしなければならないものか、役員の主立った者の中から選び出してよいものか」、をお指図お伺いなされたのである。(つづく)
 「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その四)
 (「山田伊八郎伝」191~194p)
 (つづき)即ち「□□吉三郎出直し以来、芯なくして只今の処総整理員としてありますが、その後任定めるに付き、元□□の継統に致さんならんものでありますや、又は役員に主立つ者で定めて宜しきや、役員同等の者沢山ありますが、如何に致しまして宜しきや、増野正兵衛心得まで願い」とお伺いになった。

 明治32、2.24日、お指図は次のようにご明示下さった。
さあサア尋ねる事情/\、さあ始まり/\、さあサア始まり/\。一時もって教会と言う、一つ名おろす/\、元々理と言う中に理と言う理ある。これからみんなそれぞれ本部員一つ理以て順序研究初め、会議と言う。これが道理かそれが道理か、これ定まりたら皆な順序世界と言う。この事情一寸さとす。あちらにも分教会、こちらにも支教会、出張所、布教所、順序理と言う。一つ元ありて先々と言うは、皆な集いて/\今日の日、万事集る処、先々集まる理、一時今日と言う、明日と言う。成らん中どうせいとは言わん。順序/\理と言う。話しかけたる諭しかけたる、この理から始まるなら、どれがいかんこれがいかん分からんから、道、世界理、理はぢばと言う。世界幾筋もある。西もあれば東もある。北もある南もある。四方八方これ一つ聞さ分け(※原文通り)。これ一つ聞き分け。たゞ一人ひょっこり始めて、元は一寸したもの。その理から段々ある。よう聞き分け。成程つなぎなくばいかん。こらえ尽した理は、将来の理に受け取る。理という、皆な元という、何か無しに持って来る者はない。よう聞き分け。三歳の者も同じ事、生れ子も同じ事。よう聞き分け。生まれた時は親は誰やら彼やら分からんなれど、年限分かりかけば、親という事が分かる。順序治めてくれ。心得談じ今一時教会事情尋ねた処、そのまゝよし/\と言うて始め。その間に半季やそこいらつい日が経つ。これ一寸諭しおこう。

 「本部員談示なり分教会一同談示致しまして御願い」。
さあサアまあ一つぢば順序理、それぞれ日々詰め合い、又一つ話し合い、成る程これが順序やなあ、又先々一つ理を集める理がなけにゃならん。先々大望あれば皆な元は小さいもの、元に大きい理あらせん。段々諭せば分かる。分かればこれが治まりであろう。

 又押して、
さあサアこれ聞き分けにゃならん。どれだけ大望な事心尽す運ぶ心、一寸した話一寸した種から成り立ったる。よう聞き分け。何程いやしい者と思えども言えど、元という、そのもの尋ねて一つ事情。夜に入ってどちらへ行てよいやら道が分からん時に、三歳の童児に尋ねて、三歳の童児にでもあちらこちらと尋ねば、暗がりといえど分かる。何程辺所な分からん所へ行ったとて、尋ねても分からん。その時あっちこっちと言えば分かる。これだけ諭したら万事この通り。

 ただ一人ひょっこり始めて、元は一寸したもの、その理から段々ある」、「こらえ尽した理は、将来の理に受け取る」と仰せになり、また「皆な元という、何かなしに持って来る者はない、よう聞さ分け(※原文通り)。三歳の者も同じ事、生まれ子も同じ事。生れた時は親は誰やら彼やら分からんなれど、年限分かりかけば、親という事が分かる。順序治めてくれ」とまで仰せになり、伊八郎を後任会長にするよう暗示下された。このご神意について、増野は十分理解したと思うのであるが、なお治まり難き事情があった為か、このお指図に対して尚「本部員談示なり分教会一同談示致しまして、その上で決議致しましてよろしいですか」と再度お尋ねになっている。指図は「元の理というものは小さいものだけれど、その元をだんだんと諭せば皆も得心できる。得心すれば万事治まるもの」と仰せになり、更にまた「どんなに、いやしい者と思っていても、言っていても、またどんな辺所なわからん所に居ても、一寸した種からここまで芽生えてきた。その元という元であるべき者を尋ねさがすよう」お示し下さり、思召しの九分九厘までを仰せになって、十分皆の心を治めさすうえから、あと一厘を増野のお心にお委せになった。増野にとって困難な問題、重い理の問題であった為か、このお指図をいただいてのちもすぐにはお示しいただいた後任問題に着手することができず、「増野先生身上願いお指図伺い」するまで三ヵ月の時間を経てしまう。
 「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その五)
 (「山田伊八郎伝」196~199p)
 (中略)そうした折、増野先生は胸下がきびしく痛む身上から、どのようなご神意かとお指図を願い出て、その神意をお伺いになったのである。明治32年5月25日、増野正兵衛身上願いのお指図がそれである。
さあサア尋ねる、身上から事情から尋ねる。一名一人かかりて事情、万事の諭し、いかなる事であると思う。皆なそれぞれあいそうという。分からん/\から尋ねる。尋ねた事情誰の事やと思う、事情はならん/\ならんやない。万事分からにや尋ねやせん。抑えて了てはならん。夜の刻限にさとそうと思えども、何も分からん者では分からん。なれど成らん中にもそうぞう中にも中という。自由用という。面々事情あって身上障りから尋ねる。身上障り刻限さとす。中という理が難しい。難しいようにするのや。よう聞き分け。順序の理と諭してある。一つの曇りがある。曇り/\の中に大切という理がある。この順序をよう聞き分け。何でも彼でも刻限を以て知らす。まあ明日の事じゃ、一時に尋ねてくれるであろう。人々によりておくり/\のものもある。尋ねる刻限おくり/\で順序容易ならん曇り/\となる。小さいと思うたら違う。小さい理から大きくなる。これ明らかの道であろう。身上案じる事要らんで。天より与えたる指図を、よう順序の道を、皆な悟ってくれにゃならん。

 「尋ねる事情は誰々の事やと思う事情は、成らん/\やない。万事分からにや尋ねやせん。抑えて了てはならん」と仰せいただき、更に「順序の理と諭したる。一つの曇りがある。曇り/\の中に大切という理がある」と神意、指図とは逆の人間心を曇りという言葉でお諭しになられ、いさめられ「人々によりて送り/\て順序容易ならん曇り/\となる。小さいと思うたら違う。小さい理から大きくなる。これ明らかの道であろう」とて、その曇り心、順序をふまえぬ心くばりは、小さなこと、簡単なことと思っているかも知れないが、その曇りがかえって事情を複雑にして、大きな事情となってしまうのだ、と”容易ならない曇り”をご指摘になられた。さらに「天より与えたる指図を、よう順序の道を、皆な悟ってくれにゃならん」と、かつて明治30年5月7日のお指図、担任□□吉三郎死亡に付、後任山田伊八郎を以て御願「心おきなう定めてやるがよい、さあ受け取る/\」のお言葉を暗示なされていると解釈できる”天より与えたる指図”を悟るよう仰せになった。悟りようによっては、先の”曇り”のお言葉も、この30年5月7日お指図隠匿事情或いは「万事不得止とあらば兎も角了承せり」と会長就任を引き受けられたことを仰せになっておられるようにも拝察できる。

 明治32年5.25日、こうしたお指図お言葉に対して、増野が「城島分教会にかかりし事や、本部にかかりし事なるや」と、押してお尋ねになられたところ 、
さあサア尋ねにゃ分からん。事情で尋ねる。心に十分理を治め。兄弟なら兄弟の理を以て万事さとし合い、ほんに一寸の心の間違い、一日の日を以て大変、神の道の道理を以ていがみをさとせば、治まらんじゃない。身上悩み、身の内悩めば、皆の中一つ心になりて治めよ、順序の理。心一つ一日の日に心を治めてくれ。さあ何処じゃ彼処じやのないこのおさめよい理を以て早くつとめてくれ。

とのお指図であった。「ほんに一寸の心の間違い、一日の日を以て大変、神の道は、道理を以て歪みを諭せば、治まらんやない」と仰せになり、城島の事情を早く治めてくれるよう、おせきこみになられたのである。
 「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その六)
 (「山田伊八郎伝」199~202p)
  「早く治めてくれるよう」との切なる思召しに接した増野先生は、城島分教会の後担任選定については、既に時を待って解決できる問題ではないことを痛感なされた。そこで神意を更に悟るべく、5月25日のお指図を繰り返して拝読なされた。そのお指図の中に「一つの曇りがある」、「人々によりておくり/\て順序容易ならん曇り/\となる」と仰せになっている「曇り」とはどのようなことか、あれこれ思案なされたが思い当られなかったのか、どのように解釈させていただいてよいものか疑問に思われてか、

 六日後の明治32年5月31日、前増野のお指図より「段々本部役員協議の上城島分教会の事であろうとの事につき願い」(今分教会にては未だ会長定まらんにつき、後任とすべき人はたゞ今にて3名あります。山田伊八郎は古き人なり、また加見兵四郎は講社多分あり余程道のため尽力のせる人なり、又峰畑為吉は副会長の名もあり教会に余程功ある人なり。目下取定めに心配致し居ります。この処願い)前のお指図に曇りと仰せ下さったのは、如何なる思召しか、再びお指図お伺い)をなされた。

 明治32年5月31日、この伺いに対するお指図は、
さあサア尋ねる処/\、皆々の中であろう/\。聞けばつらい、見れば情ない。むさくろしい。よう聞き分け。一時以て指図、万事の理に背かんよう、理の中に住む限りにゃ育てにゃならん。育てる理がありて育つのやろう。皆の中慾が盛んであろう。曇りありては盛んとは言えん。罪あっては道とはゆおうまい。何か諭し合い、何か助け合い、この順序を以て治めてくれにゃならん。

 一寸して、
さあサアくどき話する。よう聞いてくれ。この道というは容易で出来たのやない、未だ/\判然の道とは言えようまい。よう聞き分けてくれ。一寸始めかけた時は、何を言うぞい、何をぬかすなあというようなものや。段々突き抜け、今ではどれだけのことに成りた。なか/\容易のことでなったのやない。もとほんの一寸の理から一人始め、二人始め、それぞれ順序から付いた道。元は何もなかったものや。一つ/\理を聞き分けて、よう/\細い道という。ほんにそれだけの日もあったか。年限道の理、他に聞いても成る程という。どれだけかたきものでも、道の理にはかなわんなあと言う。罪がある、曇りがあっては、世上からそら始めよったなあと言うやろう。ふじを待つは悪人じゃ。悪人は仇とせにやならん。この理から聞き分けてくれ。

 押して、「ただ今御聞かせ下されしは現場に御座りますや、又心得までに御聞かせ下されしや」。
さあサア尋ねる処/\、これから先という理もさとしてあれば、今迄のくどきもある。万事の処、仲よく順序、これ一つが第一。よう聞き分け。そもぞもでもあろうまい。俺が/\と言うてはなろうまい。これからよく一つ/\理を聞き分けてくれ。育てば育つ。やろうと言えば取らんと言う。やらんと言えばくれと言う。皆々それぞれこの理から調べ。何がどうとは言わん。心だけの順序を、一寸皆の者に知らしてをく。

 「理の中に住む限りは育てにゃならん。育てる理があって育つのやろう。皆の中慾が盛んであろう。曇りあっては盛んとは言えん。罪あっては道とは言えようまい」と曇りについて仰せ下さり、更に「もうほんの一寸の理から一人始め、二人始め、それぞれ順序から付いた道。元は何も無かったものや。一つ/\理を聞き分けて、ようヨウ細い道という」とて、再び元の大切さをお示し下さった。そして更に「どれだけかたき者でも、道の理にはかなわんなあと言う。罪がある。曇りがあっては世上からそら始めよったなあと言うやろう。不事を待つは悪人や。悪人は仇とせにゃならん」とのきびしいお言葉が続いた。

 これに対して増野先生は「ただ今御聞かせ下されしは現場に御座りますや、又心得までに御聞かせ下されしや」とお伺いになったところ、「これから先という理も諭してあれば、今までの口説きもある。万事の処、仲よく順序、これ一つが第一」とお言葉下さったのち「そも/\ではなろうまい。俺が/\がと言うてもなろうまい」と、自己の手柄、功績を表に出しては治まりにくいという道理を仰せ下さったのである。
(前略)面々勝手という理があってはならん。(中略)もう一遍協議をし直せ。向うにせいとは言わん。ぢばからこうと言えば、そむく者はあろうまい。治まるものやろう。

 またも神様からは、他の意見には一歩も引かなかった。
 「おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで(その七)
 (「山田伊八郎伝」202~206p)
 このお指図をいただいた同日、本部員先生方がご協議下さり、お指図の神意はおそらく城島分教会の後任問題をお仕込み下さっているのだろう、との結論に達した。そこで増野正兵衛先生は、再びこの件についてお指図お伺いをされたのである。この伺いをなされるに当り、増野先生は城島分教会整理員のお立場から、治まりやすいようにとお考えになり、三人の候補者を出し、お伺いの言上をなさっている。即ち、「分教会にては未だ会長定まらんに付き、後任とすべき人はただ今にて三名あります。山田伊八郎は古き人なり。又加見兵四郎は講社多分あり余程道のため尽力のせる人なり、又峯畑為吉は副会長の名もあり教会に余程功ある人なり。目下取定めに心配致し居ります。この処願」。このお口添えのなさり方からして、増野先生としては、加見兵四郎か峯畑為吉にお許しいただくことが、長らく続いた後任問題事情を、穏便に治めることになるとお考えになっていたように拝察できる。

 明治32年5.31日、この伺いに対してお指図は、
さあサア尋ねる事情/\、いかな事も万事尋ねにゃ分かろうまい。身の内障り付けたら尋ねる。尋ねたら指図の理に及ぶ。指図から協議を始めて。事情よう聞き分けてくれにゃならん。道理で諭そう。数々は言わん。道理を外せば切りのなきもの。道理に外れる理はない。この道はどういう処から始まったか。値打ちあるだけは誰でも買う。なれど、年限の理、心の道が無くば、理はなきもの。今はどんな所あっても、元というは小さいもの。なれど、なか/\の理やで。元分からんようではならん。ぢば始まった一つの理を聞き分け。指を折って数えてみよ。何年あと数えてみよ。二年や三年で成ったものではあろうまい。誰がどう彼がどう、面々勝手という理があってはならん。何ぼ賢こに生まれても、数えにゃ知りゃせん。聞かにゃ分からんで。どんな者でも、聞いて一つ、通りて一つ、年限重ねて一つの理という。何遍尋ねても分からせん。もう一遍協議をし直せ。向うにせいとは言わん。ぢばからこうと言えば、そむく者はあろうまい。治まるものやろう。皆々協議をしてくれにゃ分かろうまい。

 「道理で諭そう。数々は言わん。道理をはずせば切りのなきもの。道理に外れる理はない。この道はどういう処から始まったか、値打ちあるだけは誰でも買う。なれど、年限の理、心の道がなくば、理はないもの。心の道がなければ会長になる理はない」、と仰せになったのち、「元というは小さいもの。なれど、なか/\の理やで。元分からんようではならん。ぢば始めた一つの理を聞き分け。指を折って数えてみよ。何年後数えてみよ。二年や三年で成ったものやあろうまい。誰がどう彼がどう、面々勝手という理があってはならん。何ぼ賢こに生れても、数えにゃ知りゃせん。聞かにゃ分からんで。どんな者でも、聞いて一つ、通りて一つ、年限重ねて一つの理という」とて元は小さいようでも、大きな理があることをぢばの理にたとえて噛んで含めるようにお指図下さり、誰彼とそれぞれ自己主張をする勝手を戒められ「余程道の為尽力し、余程功あっても、教えにゃ知りゃせん、聞かにゃわからなかったのだ」、と心勇組初代講元が城島の元だと言うことが「何遍尋ねても分からせん、もう一遍協議をし直せ」との仰せであった。即ち、前々からの指図で諭しているのにまだ神意がわからず、三人の候補を出してきている。もう一度よく練りあい、神意を悟るよう、仰せ下されたのである。

 そこで再び本部員会議をお開きになり、伊八郎は心勇講の元始まりの講元であり、殊に明治14、5年以来ぢばに充分つくし運んでいる。そのうえ明治30年5月7日、既に城島分教会長の理のお許しをいただいていることでもあり、また夫人山田こいそは、教祖にもおつかえしてぢばに因縁も深く、再三のお指図お言葉からしても、伊八郎以外に後担任はない、との結論が出された。そこで増野先生より「山田伊八郎教会長に定めたき儀願」とお伺いし、お指図を仰いだところ
さあサア道というものは、一時に付いたものやない。一里届き二里届き、五里十里届き/\て道という。元は小さいものや。万事何かの処も、この心得を以て取り運んでくれ。

 このお指図を以て、伊八郎が二代会長に就任することに決定された。
 明治32年6.3日、 押して、「御諭により山田伊八郎を会長として心を寄せ仲好くという理をお知らせ下されますか」。<加見兵四郎倅秀二郎身上願>
 「おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで(その八)
 (「山田伊八郎伝」206~210p)
 ここに至るまでには、幾多の人間思案からくる策謀めいた迂余曲折を経てきたのであったが、「ぢばからこうといえば、背く者はあろまい。治まるものやろう」のお言葉の如く、本部員会議によって決められ、お指図お許しをいただいた増野先生は、このお指図神意に基き、城島分教会長は山田伊八郎に決定したことを分教会役員、直轄担任に正式発表なされる決意を固められたのである。伊八郎にその旨ご神意を告げ、また主立った役員達にもその由をあらかじめ伝え、お指図のお言葉を伝えて納得させた増野先生は、お指図お許しあって十二日後の明治32年6月12日、城島分教会全役員並びに直轄担任を分教会に招集された。そして会議の席上、お指図並びに本部員会議によって山田伊八郎を分教会長に決定したことを一同に申し渡されたのである。会議録に記録されている先生のご発言要旨は次の如くである。(省略する)
 増野先生から前述のご発言があってのち、出席者一同拍手して、一言の異議もなく、三年余にわたる無担任時代に終止符が打たれたことによる喜び心が満場を包んだのである。そこで増野先生は、今迄にいただいたお指図を一同に示され、その神意を懇々と諭し、更に、伊八郎を芯に戴き、協力し、一つ心で道の為に尽すよう、また皆々の心を一つにし、上下一致の肝要さを強調なされ、心合せて道を通れば、将来の城島の隆盛は必ず到来すると、諄々とお仕込み下さったのである。そして伊八郎に対して、一同が異議なく協賛したことを改めて告げられ、ご神意と悟った伊八郎はこれをお受けし、一同に就任するについての挨拶をしたのであった。明治32年6月12日のことである。(中略)

 6月18日、「城島分教会後任山田伊八郎に願い」。
さあサア尋ねる事情/\、さあ尋ねるも容易でない。順序一つの理、又あれアレ順序の理治まり治まる理に許そ/\、さあ許そ/\。

 「尋ねるも容易でない」、と仰せ下さる中にも「順序の理治まり、治まる理に」お許しいただき、伊八郎はめでたく「城島分教会二代会長任命のお許しお指図」をいただいた。このお許しいただいた日に、伊八郎は「家族共分教会へ入込み引越しの願い」を出し、同じく峯畑為吉家族も分教会へ入込み引越しを願い出、それぞれお許しのお指図をいただいた。(後略)





(私論.私見)