おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.12.23日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで」を確認しておく。「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編、昭和49年8月発行)、「敷島の暗黒時代」その他を参照する。 2016.05.28日 れんだいこ拝 |
【お指図隠匿問題~二代会長就任まで】 | |||||
山田伊八郎が、現在の敷島大教会の会長になるまでの経緯は茨の道だった。伊八郎は当時の心勇講の頃から周りの一部から心よく思われていなかったという。明治20年頃より、伊八郎を心勇講から追い出そう、逃げ出さそうとあれこれ策を以て迫られていた。そんな中で伺う指図での伊八郎への諭しは常に「たんのう」であった。「何事もたんのうが第一」(明治20年12.1日)、「成るよいくよう楽しみ一つ事情ある、先々たんのう理を見て暮するよう」(明治21年6.24日)と諭されている。伊八郎はどんな中も「たんのう一すじ」の心を定め逆境の道を通った。 次のお指図で、親神様はこうした伊八郎の苦悶する心をしっかりと受け取っておられるのが分かる。「あちらへ廻り、日々の処、三十日と言えば、五十日向うの守護をして居る事を知らん」(明治22年11.7日)。伊八郎が次のように述懐している。
明治24年11.1日、次のお指図を戴いている。
このお指図を頂いた伊八郎は、その強く頼もしいお言葉に感激し涙したという。その後も敷島内部で伊八郎への厭がらせが続いた。それが「敷島の暗黒時代」といえる程の問題にまで発展し、伊八郎は、剣ヶ峰の境地に否応なく立たされる事となった。それでも逃げずに通り抜けた伊八郎だからこそ神の目に叶ったのであろう。「さあサアこれ根のある花は遅なる。なれども年々に咲く」。その詳しい内容を述べていこうと思う。(「根のある花 山田伊八郎」、「それでよかった」参照) |
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「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その一)」 (「山田伊八郎伝」166、174~177p)
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「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その二) 」 (「山田伊八郎伝」177~180p)
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「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その三) 」 (「山田伊八郎伝」187~191p) 明治32年2月20日(旧正月11日)、増野整理員先生が、いよいよ分教会役員全員を集めて、会長後任問題についての会議を開かれた。当日の会議録によれば、「明治32年2月20日(旧正月11日)午前会議」の参加者は次の通り。増野事務取扱員、才加志市松、森井熊吉、加見兵四郎、大浦伝七、村田五良平、鍵田忠治、山田伊八郎、植田勝造、植田長三郎、西岡岩太郎、新井庄九郎、峯畑為吉、清水虎次郎、森本喜三郎、川口善太郎、西岡平九郎、椋野岩治郎。次のように記されている。
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「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その四)」 (「山田伊八郎伝」191~194p)
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「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その五) 」 (「山田伊八郎伝」196~199p)
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「お指図隠匿問題~二代会長就任まで(その六)」 (「山田伊八郎伝」199~202p)
またも神様からは、他の意見には一歩も引かなかった。 |
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「おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで(その七)」 (「山田伊八郎伝」202~206p)
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明治32年6.3日、 押して、「御諭により山田伊八郎を会長として心を寄せ仲好くという理をお知らせ下されますか」。<加見兵四郎倅秀二郎身上願> | |||||
「おさしづ隠匿問題~二代会長就任まで(その八) 」 (「山田伊八郎伝」206~210p)
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(私論.私見)