根のある花

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.12.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2018.6.28日 れんだいこ拝


【「根のある花」】
 「根のある花(その一)
 (昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)150~154ページより )。
 (明治24年10月)教会設立と神殿落成を祝う開筵式を迎え、陣頭に立って神殿ふしんに精魂こめてつとめた伊八郎の心も苦労の数々があっただけに、責任を全うできた喜びに感激も大きかった。だが筆舌に尽せぬ窮乏の極みにあっての神殿建築であったし、既にこの頃、日々の神饌物を調達するのに事欠くほどの教会財政であっただけに、大きな借財を考えると到底安易に喜んでいられない、これからが大切なつとめやと伊八郎は自分にいい聞かせるのであった。(中略)そうした当時、分教会に次々と起きた事情は更に窮乏に拍車をかけることばかりであった。これは当時の人達の真実を見定める為の親神のためしであったのかもしれないが、事実、この頃に城島分教会の将来に見切りをつけて離散、落伍していった人も数多くいる。こうした状態には、さすがの□□会長の豪気さを以てしても如何ともなし得ず、悩む心を発散させるためか、桜井の料亭「たば市」に三、四人を供に人力車を連ねて足繁く通い、その支払いはきまって伊八郎に廻ってきたという。古老の話によれば金策できにくい窮乏の極みにある時に限って、ことさらと思えるほど遊びに出たという。情ないそうした浪費、乱費の支払いも命ぜられるまま、たんのう一つにつとめた伊八郎であったが、内心の葛藤は大きかった。おそらく伊八郎自身、腹も立て城島を見限ろうと思わねばならないほどのこともあったろう。それをお戒め下さる親神様の手引きか、この事情が続く前後に二人の女児を出直させてしまっている。後日、伊八郎は「全くよくあの中を通り抜けられたものや。神様のお陰やった」と述懐しているほどである。(中略)

 理の親である□□会長に一役員、初代講元だった伊八郎としてではなく、今はただ事毎に邪魔者扱いにされている一役員にすぎないけれど、見るに見かねて諌めようと意見もしたようであるが、かえってそれが、逆にはげしく料亭に通う始末。時にはそのお伴さえ命ぜられる日もあり、会長にお仕えする立場にある伊八郎は、教会の極度の窮乏、わが家の日増しの困苦を考えるとき、断腸の想いでお伴をつとめたに違いない。伊八郎の子供達でさえどこからとなくそうした話を耳にし、何となくそうした空気が感じられたある時、長女の”いくゑ”が、「うちのお父さんまで、そんな所行かんかてよいのになあ」と、つい愚痴をこぼしたところ、丁度そばにいた□□”ちよ”会長夫人が、「あんたところのお父さんはなあ、決して好きで行ったはるのやないで、何もかもよくよくわかったはるのやが、だんだん会長はんの身を思うて、会長はんにお仕えしなければいかんという、その勤めの上から行ったはるのやで。このわしでさえ、すまんなあと、山田はんには、いつも陰から手を合わしていますのやで」と諭したという。





(私論.私見)