【心に合わん気に合わん】 |
「心に合わん気に合わん(その一)」
(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)114~116ページより)。
明治20年10月24日、伊八郎三女”しか”が生れる。この”しか”が出生する前後の心勇講の雰囲気は、伊八郎を心勇講から追い出そう、或いは逃げ出さそうと、あれこれ策をもって迫られた時で、人間思案からするなら堪えられない立場と境遇におかれていただけに『たんのうの先生』と終生第三者にいわしめた伊八郎といえども、さすがに心悩ます事柄が次々あったようである。11月20日の伊八郎右の足の付け根障りにつき伺ったお指図にも、『さあさぁ身の内の処、この理はどういう処、大抵成る成らんの道も通り、一つは銘々の多くの中、その中まあどんと気がかり、あちらからもこちらからもどう、兄弟の中からもどう、さあすうきり何もかも苦がすうきりのがれたるで。さあ道は一筋であるで。さあ尋ねに来る。一寸一つの道の処、一寸伝えたる処、心に合わん気に合わん。これだけの道があれば、これだけのこうのう、さあいかなる処も道にじゅんじてのこうのう。ここをよう思案して伝えるよう。さあ兄弟の処も気にならんと思う。一人の処、先に話した通り、段々と心片付くについて、さあこれも心が休まるで、よって何かの処、よう思案してくれるよう』と、今日迄、たいていなるならんの苦労の道、たんのうの道を通ってきているのに、心勇講一部の者がお前を除外してどうこうと言っている。それを聞いて身内は不足をつけ、まだどうのこうのと言う、しかし一寸も案じる事はいらん、もうすっきり苦はのがれたるのやで。この道は神一条の道や。道にじゅんじてこそこうのうや。一人のところ、心にあわん気にあわんところもあろうが、これだけの道があるので、これだけのこうのうや。だんだん心かたづき心やすまる日もあるによって、ここのところをよく思案してくれるように』、と伊八郎の心中をよくご承知下されたうえでの心のおさめ方のおさしづをいただいたのであった。
このおさしづをいただいた日に伊八郎は、次のような日常心得を手記している。山田のにち/\の心得左に記す。一、にち/\に心定め、道は一条。一、助けの道は、あの人難し、この人ならと思う心のそのくべつ心を慎しむ。 一、我が通り来たる道のとふりから思案して人様に伝へるよう。と記してあるところからして、前述のお指図に感銘し、熟慮のうえ、我とわが身に堅く心に定めた日常心得であったようである。 |
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「心に合わん気に合わん(その二) 」
(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)116~118ページより)。
「このお指図をいただいて十日後、再び同じような意味のお諭しをいただいたのである。即ち同20年12月1日、伊八郎は前回と同じく足の付け根が疼くという理由から神意をお伺いしているが、その折のお指図にも、『いかなる処、さあさぁいかなる処よう聞き分けにやならんで。さあこれ迄のなんじゆうの道筋、さああちらからも、こちらからも、又、けんにょむない(註・思いがけない)処からもどう、その色々のむつかし処もすうきりとのがれたるで。さあ身の障りの処、さあ神の道については色々心尽して居ると思うのに、こうあちらこちらへこう障り付いては、どういうものやと思う処、世界中人間は一列兄弟、一列は神の子供や。そちの身も一人はいちぶんのし。神からは子供に難儀さしたい、不自由さしたい、困らしたいと思う事は更になし。人間も我が子三人五人八人が一人でも同じ事。親の心に隔てがあろうか。この理をよう思案してみよう。神の心に隔ては更になし。その隔てられる、隔てられん、隔てんならんの一つは前生種により、一つは我が心にもよる。さあ世界を見よ。不自由もあり難儀もあり、痛み悩みも色々ある。これから思案して何事もたんのうが第一。さあ何事にも理を尋ねようと思うなら、何なりと、さあ尋ねるがよい。
是より神様へ御尋ね申上る事柄左に、過日七日頃の御伺の御さとしの「道に応じてのこうのう」とおさとし下されたる事はもう一段わかりかね候故 一寸御伺、かどめ左に。
どんな事にも内々の事なら、三日送ろうと五日送ろうとまゝのもの。そとの事であれば、そりや二日送ろう三日送ろうは、言て居らりょまい。沢山な水にて、少しの濁り水を入れたとて何処濁りたようになし。この水は用いられよう。少し水ならば、少しの濁り水にてもこれは一面に濁ろう。この理をよう思やんしてみよう。心に合わん気に合わんという事は、いつも心に合わん気に合わんと言うて居た分にや。いつも心にも合わにや気にも合わん。その気にも心にも合わん処だけ取除いたなら、心にも合や気にも合う。さあここをよう思やんして、人の悪き処だけ取り除いて我が心包み、よき処だけ出して、何事も事おさめるよう』と重ねて心の治め方についておさしづいただいたのである。即ち神の心に隔てる心はない。隔てなければならないのは前生からの種であり、また自分の持前の心にもよる。世の中には不自由もあり難儀もあり、痛み悩みもいろいろあるところから思案して、何事もたんのふが第一なのだとお教え下さり、また、沢山な水に少しの濁り水を加えても濁りはしない。少しの水なら、少しの濁り水でもすべてが濁り水となってしまう。と仰せになって伊八郎の心の広さをお促し下さり、さらに心に合わん、気に合わんという事は、そう思ったり言っていてはいつまでも心も気持ちも合うわけがない。その気も心も合わないところを取り除いたならば心にも合い、気にも合うようになるところをよく思案して、人の悪いところを除き、自分の心でそれを包み、人の善きところを表に出して事を治め、人々を育ててゆくようにと懇切丁寧に、そして慈愛のこもるお言葉をいただいたので、このお指図のあとに伊八郎は、『この御伺ひの理を一々思案して第一心得」と附記している。終生第一の心得として肝に銘じてお言葉に添える努力をし続けたのである」。 |
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「心に合わん気に合わん(その三) 」
(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)118~120ページより)。
三女”しか”の出産は難産であった。産気づいてから三日目にやっと出産したというお産であった。そのため産後の日だちも思わしくなく、右お指図をいただいてのち五日後の12月6日に、山田”こいそ”産後すきやかならぬにつき、伺いお指図をいただいている。そのお示し下されているところは、『いんねんならどういう道もある。隔てられるのも一つは心にある。真実は十分受け取ってあるから、鮮やかな心になり、当座のことではなく生涯末代の心定めが大切である』と、妻の産後の身上を通してお仕込み下さっている。
前回のお指図伺いは伊八郎の足の付け根が疼くことから、またこれは妻”こいそ”の産後の日だちがすきやかでないことについて、お伺いしているのである。ところがお指図の内容は『何事もたんのふが第一』とか、『心に合わん気に合わんと言うて居た分にや、いつも心にも合わにや気にも合わん』或いは『人の悪き処だけ取り除いて我が心包み、よき処だけ出して』とお示し下さったように、身上についての伺いが、すべて心勇講内部の事情と伊八郎の苦しさをお察し下されてのお言葉が続くのである。伊八郎がいただくお指図の内容から当時の心勇講内部の状態を察知することができるほど、親心溢れるお励ましのお言葉の数々である。伊八郎を育てあげるための慈愛のこもる親の声であった。伊八郎としてもお仕込み下さる一つ一つのご神意に感じ、それに添わせていただくべく必死の努力を続けた。己が心に問うてはさんげし、心を立て直しては、また心勇講の土台たらんとして黙々とつとめ続けたのであったが、心勇講の周囲から見聞きすることは、心を曇らさざるを得ないようなことばかり、つい不足の心や不必要な遠慮の心を使ったのであろう。親神様も言葉を添えてお励まし下さるよほどの無理難題が続いたのであろう。お指図或いは山中忠七先生の扇の伺いによってお示し下さる神意の内容は、この頃常に「たんのふ」することを仰せ下さっている。また妻の”こいそ”の産後の身上も、この節あるためか、鮮やかにはご守護いただけず、翌年の五月頃までこの種のお伺い、お指図のくり返しが続くのである」。 |
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