伊八郎と父・伊平との確執

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.12.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.05.28日 れんだいこ拝


【伊八郎と父・伊平との確執】
 「一の筆(その一)、敷島の初代の入信と講元預け問題について(その三)よりつづき
 (昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)94~96p )
 そうした伊八郎とは逆に、政治的手腕を巧みに駆使した人事構成を大胆になし、人々を勇ます雰囲気作りにたけた吉三郎は、生き生きとして講活動の指揮をとり、その勢いはまさにすさまじいものがあった。だが、そうした勢い、熱心な活動力、統率力のあらわれではあるが、講元就任わずか一年後の明治19年2月18日(陰暦正月15日)の出来ごと、即ち心勇講の一団、三百名ほどがてをどり練習の総仕上げとしておぢばに参拝した。ところが当時は官憲の迫害きびしい時で『参詣人お断り申し上候』との札がかけられていた。そして本部の先生方の『このままお帰り願いたい』とのお言葉に大部分の人は心残りながらもそのまま帰ったのだが、一部の熱心家が残り、門前の豆腐屋こと村田長平宅で太鼓をたたいて賑やかに手踊りをつとめた。このおつとめの声を耳になされた教祖は、『あれは心勇講の人たちやなあ。心勇講の人はいつも熱心や、心勇講は一の筆や』との勿体ないお言葉を賜ったのである。飯降先生がこの『一の筆』のお言葉を一同に伝え、教祖にご迷惑がかかるからとて、その十二下りを途中で制止なされたのであるが、その教祖のお言葉にますます勇み立ち、おつとめを続けたのである。このことが89歳のご高齢の教祖に三十年来の酷寒のなか、櫟本分署の板の間で召しておられた黒の羽織を上夜具となされ、ご自身のお履物を枕にして十二日間も最後のご苦労をおかけすることになったのである。

 伊八郎にとってもこの出来ごとはまさに晴天のへきれきであった。常日頃、講活動の寄り合いや、手踊り練習などの会場や時間さえも知らせて貰えぬ淋しさ、口惜しさも、ただひたすらに神一条に専念し、たんのうの心を治めていたのであったが、やぶ入りで大豆越の山中宅へ行っている留守中のこととはいえ「わしがみんなと一緒に行っておれば、こんな無茶なことはさせずに思いとどまらせることができたのではないやろか‥‥」と思う時、前もって講活動を知らせてくれぬ歯がゆさ、腹立たしさをこの時ほどきつく感じたことはなかった。講元を預けたことも後悔せざるを得なかった。そして、教祖に対して自分の誠の至らなさ、また初代講元としての責任を痛感し、申しわけなさに身も心もすくむ思いにかられ、ただただお屋敷にむかって土下座し、涙にむせびながらお詫び申しあげるばかりであった。~(中略)」。
 「一の筆(その二)
(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)96~98ページより )。

 お見舞いのため、山中忠七先生と共にお屋敷に参詣したのは、明治19年の3月12日のことである。その折、教祖は二人に対して『戻りてから今日で12日目になる。それより毎日寝どうし、耳は聞えず、目はとんと見えず、どこへはたらきに行くやらしれん。それにおきてるとゆうと その働きのじゃまになる。ひとり目のあくまで寝ていよう。何も弱りたかとも、力おちたかとも必ず思うな‥‥』と仰せになり、おいたわしさに恐縮する伊八郎に対して、寝返りもできないお身体とおなり下されながらも、忠七先生と伊八郎の手をおつまみになり、『外の者で寝かえるのもでけかねるよふになりて是だけの力あるか』とまで仰せになって、傷心の伊八郎を逆にお励まし下されたのである。

 89歳のご老体であらせられながら、おそれ多くも長期間厳寒のさなか、最後のご苦労をおかけした為、お帰りになって後、毎日寝たっきりで、耳は聞えず、眼はとんと見えなくなったとおっしゃる教祖のお言葉。伊八郎はおいたわしさ、申しわけなさに断腸の思いで聞かしていただくと同時に、そのあとに続く親心こもるお仕込みのお言葉を肝に銘じ、教祖のお心にぢかに触れた想いにかられ、感泣しつつ筆に誌すのであった。『‥‥この世界中に、何にても神のせん事、かまわん事は更になし、なん時どこから、どんな事をきくやしれんで。そこでなにをきいても、さあ、月日の御はたらきやとおもうよう‥‥』。

 なにを聞いても、見ても、みな神様のお働きによるものや、と仰せ下さっている。不足をしては神様に申しわけがたたない。自分の不徳をお詫びし、真のたんのうをするのやな、と□□講元に対する心の曇り、情けなさの思いをすっきりと捨て、わが不徳故にと伊八郎は心を立て替え、胸の掃除に努力をするのであった。だが親神の望まれる真の悟り、成人の心にはなかなかに成り切れず、人間思案もそう容易に伊八郎の心から抜けきれるものでもなかった。最後のご苦労をおかけした心勇講の事情によって、身も心もいまだ静まらぬ伊八郎であったが、親神のおせき込みは間断なく伊八郎の周囲にお知らせ下さるのであった。(伊八郎と父・伊平との確執(その三)へとつづく)」。
 「伊八郎と父・伊平との確執(その三)
(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)98~101ページより)(伊八郎と父・伊平との確執(その四)につづく)。
 「(一の筆(その二)よりつづき)

 家に盗人が入る事情や、伊八郎夫婦の身上をはじめ子供たちの次々の身上お障りをいただいてはお屋敷に参詣し、その都度、飯降伊蔵先生からお言葉、お仕込みをいただいては神一条の精神をお育ていただくうちに半年がすぎていった。明治19年、秋もたけなわの10月20日頃のことである。父伊平の左手首に小さな腫物ができたのである。当初は本人はもとより伊八郎もさして気にとめるほどのものではなかった。ところが腫物は次第に大きくなり、痛みも激しさを加えていった。以前から大師信仰に熱心であった伊平からしてみれば、わけもわからん「庄屋敷の神さん」を信じて家業に精出さぬ伊八郎を不満に思っていたのであろう。何かにつけて伊八郎に辛く当り、お道の信仰にはあくまで反対という態度をくずさぬ伊平であった。そんな伊平であったが、この腫物の激痛にはさすがに堪えかねたのであろう、伊八郎夫婦の再三のすすめに応じ、この10月23日、伊八郎に伴なわれておぢばに参拝し、おたすけを願い出たのである。伊八郎にしてみれば、ここで鮮やかにご守護をいただき、頑固一徹、お道を理解しようとしない父に真の神様の有難さを味わって貰い、自分の信仰する神様を父に認めてもらいたいと思った。そしてきっとたすけて下さると信じた。だが神意は別の所にあってか、伊平の腫物は参拝して帰ったその夜から逆に痛みが激しくなり、その苦しむ姿は尋常ではなく、周囲の目にあまるものがあった。

 翌々日の25日、再びお屋敷に参拝し、飯降伊蔵先生に、父伊平の身上おたすけを乞い、その神意をお伺いした。お言葉は意外にきびしいもので、その要旨は、『反対してきて何年になる。もうわかりそうなものや、この道を聞きわけねば一寸の身上が大変なことになる』とのおさとしであった。病んで苦しんでいる父に、この神意を伝えることは、父の考えや通り方ではたすかりにくい、間違っているとは、息子として取次ぎにくいところであった。だが伊八郎は真剣に伊平の心の切り替えを願い、心を治めて貰い、たすかっていただこうと懸命にお話を取次いだのだが、伊平が頑として聞き分けなかったのか、腫物はさらに大きく広がり、悪化していった。なんとかご守護いただく道はないものかと、31日も再びお屋敷に参詣し、飯降伊蔵先生を通じておたすけを願った。『‥‥段々の日定の道ははこべども、心の日定すうきりわからん。この身さわり、一寸の事が大へんの事になる、さあここをよふ思案してみよう、ふるき所のさんげの取のこし』と、伊平の今迄の考え、通り方をさんげするよう前回同様お仕込み下さったのである。伊八郎もおたすけ人の立場にたって懸命に父に取次ぐだけではなく、家内中で心当るところの「さんげの取り残し」をあれこれ思案しては、心を定め、お詫び申しあげてはお屋敷への祈願参拝の回を重ねて伊平の全快を祈りつづけるのであった。

 12月20日に参拝した時も神意をお伺いしているが、その折のおさとしも、『家内ノ内にふじゆうなものがある、さあいかなる処なり。さあ是はどふしてやしらん、信仰をしかけてからこねんなり、是はどうしてやしらん、家内中心思ひ詰め、それが理を理にせまりての事であり、よ程むつかし。さあ一寸のあいだである』。『信仰をしはじめてからこのようになるのはどうしてやろうと家内中が思いつめることが理を迫らせている』とのこの神意のきびしさ、父伊平に対してだけでなく、信仰して以来今日までの自分達の心の持ち方、心勇講に対する考え方「どうしてやしらん」と思う心をお戒め下さるうえから親の身上にお知らせ下さり、もう一歩さらに理一条に立ち切れ、と自分にお仕込み下さっている神の声と悟った伊八郎は、己れの未熟さ、届かなさをこのお言葉によって痛感したのであった。
 「伊八郎と父・伊平との確執(その四)
(昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)101~105ページより)。
 手記の中に、『さあそれから昼夜共色々家内の心しらべ、段々むつかしなり。旧12月9日(1月2日)神様へ参り又飯降様に御願 神様ノ仰にハ』とある。それこそ夜となく昼となく、家内中で談じあい、神意のきびしさ、理に立ちきらねばならぬこと、また今迄の考え方、不足のさんげをし続け、思い当る節はどんな些細なことも反省しあい、伊平の身上平癒を家族揃って真剣に祈り、願い続けたのである。だが、伊平の身上は悪化してゆくばかり。伊八郎夫婦は、神意の容易でないことを感じると共に、自分たちの信仰の幼なさをつくづくと感ずるのであった。格別のご慈悲をもってお助けいただきたい。何とか痛みだけでもお救い下さい。痛みにもだえ苦しむ父の姿を見るに堪えず、足はひとりでにおぢばにむかっている伊八郎であった。

 年は明けて明治20年1月3日、激痛に苦しむ父伊平の身上お助けをお願いする為、伊八郎は手踊りたすけの人たちに集まって貰い、朝から鳴物を入れて少しでも痛みがおさまることを念じて真剣なお願いづとめ、十二下り手踊りをつとめるのであった。午後3時頃には、伊平の身上迫ったことを聞いて分家の辻、新宅の山本らの家族も駆けつけ、上田音松、大東宇市郎と次々伊平の身を案じて山田家をおとずれ、夜には大豆越村から義父山中忠七先生も病床を見舞って下された。心勇組の初期の人たちも枕元に集り、共々祈り続け、それぞれさんげし、神のお働きを願った。そのさんげの主たるものは、吉三郎に講元を預けてのちの家族、親族が受けた心勇講講元よりの数々の仕打ち、追い出し工作に堪えかね、心勇講から身を引こうと幾度か思ったその心をそれぞれの立場で反省し、また伊八郎を信奉する余り、吉三郎に従いにくい一部の熱心家たちの信仰的迷いに対する育て方についてもさんげし、更にはそうした人達の信仰を遅らせる結果となった講元預けの事情に関する反省など、お詫びすべきことは多かった。伊平にしても、伊八郎に対して何かと辛く当ってきたことを詫び、伊八郎も父の想いに添えなかった不孝を詫び、それぞれの心が一つとなって重ねてきた埃と不足を反省し、心から神様にお詫び申しあげ、心のわだかまりをすっきり掃除をしあった伊平と伊八郎であり、”タカ”、”こいそ”そして親族たちであった。

 翌1月4日、伊平はそうした胸の掃除をした一族に暖かく見守られながら、70歳で出直したのである。お道反対に徹した伊平であったが、息を引き取るに当って伊八郎はじめ皆々の心の立て替えに大きな力となって出直していった。伊八郎は、心勇講にお引き寄せ下さる神意をこの節によってさらに深く悟り、どのように心勇講内で冷遇されようとも、ただひたすら神意に添う日々を通りたいと考え、己れの迷い心を一掃するのであった。しかし長年の間、父の意にそわずに通った不孝を、息子として心からお詫びすると共に、亡き父もやがてわかって貰える日が来ることを信じて、さらに道を歩む心をきめた伊八郎であったが、神一条、理一条に通ることのむつかしさも身にこたえて感ずるのであった。


 この伊平出直しの節もその一つではあるが、講元を□□吉三郎に預けるについては、伊八郎も十分考えたうえで決断したことであったが、そのあとに次々とおみせ下さる家庭の身上、事情や伊八郎をとりまく周囲の人々の講元を預けたことによって生ずる不平や不満などは、伊八郎の予想をはるかに越えるものであった。伊八郎にとって、そうした複雑な心勇講の事情もさることながら、我身我家だけでもめまぐるしいほどの事柄が山積しがちであったが、そうした身近なことに心を奪われることなく、教祖からお教えいただいた人たすけを第一義とし、その活動は小休止せず続けられていた。(中略)~そんな伊八郎ではあったが、そのおたすけ活動もしばしば頓挫せざるを得ない大きな節を迎えるのである。※この後、明治20年2月18日(陰暦1月26日)の教祖が現身をかくされる大節へと話が続くのであるが、省略させて頂きます」。





(私論.私見)