【山田伊八郎文書より】 |
「山田伊八郎文書より(その一) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)94~97ページより)。
明治十八年五月十八日(旧4.4) 神様仰せ。続いて伊造様にて御話
明治18年旧3月29日より少々幾栄(いくえ)に身のさわりつき、同30日より倉之助に身にさわりつく。同4月1日の日、神様参詣致す。神様にも身のさわり。御膳あがらずよふに承り、御礼だけ致し、そのまま戻り。又4月3日朝ヨリ辰造にも身にさハりつき、翌4日朝ヨリ、こいそが腹ヲ痛み、この同日神様参詣致す。神様ハさあぱりと(さっぱりと)耳がきこゑず、筆にしるし、御め(目)にかけ。神様の被仰ルにハ(おうせらるには)、『こふおふぜ〔い〕(こう大勢)身にさわり付いていると、伊造さんにたのめ』。それより伊造様に願ひ(い)、伊造様にて神様が御さがり被下(くださる)。御噺しにハ、
『さあ/\こゝわ(は)しいかりと(しっかりと)、聞きわけにやならんで。さあ、いまになにもたべん。どふゆふものやろふ〔と〕思うている。この子供二人のところ何も案じるやないで。さあ、すうきり(すっきり)案じるやない。又、腹の痛みの所も、さあ何も案じるやない。さあここに内々の処に、さし当り今に不自由している者があるし、さあ、これはどうもならん。たった一ッの処、きがつかず、しいかりと聞わけにやならんで。さあ日々の処、何事も物のひらきを付けたなら(※物事に対する思い開きをつけること。もの事に対する考え方を広く大きな角度から考え改めること)気が勇む。陽気になる。この日々の処、さあぱりとどうもわからず。亦先々の処もしいかりとせにやならん。ここに亦、親々の心もさあぱりわからん。こゝに、是前世の持越(もちこし)モあり、さあ、いまの事でさい(さえ)わからんのに、前生の事は猶もわからん。是とても、日々の処、すうきり心いれかへて、さあさぁ、さんげふ(え)/\』。 |
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「山田伊八郎文書より(その二) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)98~101ページより)。
明治十八年五月二十四日(旧4.10) 神様御話
明治18年旧3月28、9日ヨリ倉之助身にさわり付き、同4月十日神様ヱ(へ)参詣いたし、神様の御噺しにハ
此本(ほん)元々なるハ天地わからず、海山わからず、水土わからず、たいらいちめんに泥の海。それを、人間の成人に応じて天地海山わかりかけ、水土わかりかけ、この世界がでけ。そこで、どふど(どうぞ)皆一列ハかわい斗り(ばかり)、助け一条。それ故に内外(うちそと)のへだてない。また世界にハ神様が罰(ばち)当てやと云うているが、必ず神が罰あてハ更になし。この世界中一列の人間ハ皆々我が子也。何事も我が子に取りて思案せよ。万事の事ハ皆な分かる。また今度の助けハ世界中の百姓ヲ一の助けにかゝる。こい(肥)とゆふハ、はい(灰)三合、土三合、ぬか(糠)三合。この九合ヲ本づとめにかけて、内からためしたら米四石、五石、六石迄、つくりとらすなら村方ハその田地けじふ(けじょう、作物の出来具合)おみて、いちにでてくる程に。また、再度くる者ハ申すにあらず。すれバ世界ハ豊かになる。そふしたならハ(ば)人間も皆々心が勇むなり。この世界中、人間の、万事仕事皆々この処より教え仕込む。 |
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「山田伊八郎文書より(その三) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)102~104ページより)。
明治十八年六月二十九日(旧5.17) 神様の仰せ
明治18年旧5月17日、家内無事ニテ五月秋しまい、その御礼参り。その上ニテいくえ身体え、こまい物がいばい(いっぱい)でけ、それをかいかいがり、この御身さわり。山田伊八郎私金玉長々かきやぶりの跡ヲ、ウツキ(うづき)、この身のさわり。神様へ御窺がいそうらえば、神様の仰せニハ、別にむつかしよふにハおっしゃらず。
刻限に咄しヲ聞かしたさの手入れ。どこも悪のふてハ暇惜しみをするであろ。この手入れト云うハ、百姓の一に助けたさの咄し。ゆわん事に分かろまい。家内、日頃、小供ハ親が知らんであろう。これヲ誠ト思えば、百五十歳が、百七八十歳が、二百歳もいきたとて、やまず、しなずに、よわりなきよふの道ヲ教えたい。そふして若き年寄(としより)、男女にかぎらず。この道ヲつけて、このいきすがたヲこしらえ、唐天竺の人ヲ参詣ヲつけて、これヲみせて陽気ゆさんの暮らしをさしたいとの神のせき込み。又~(※後略する) |
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「山田伊八郎文書より(その四) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)118~120ページより)。
明治十八年七月二十六日(旧6.15) 神様の仰せ
明治18年旧6月13日ヨリ、倉之助が熱が強く食たべす、同14日の日、私の左の手首にさハりつき、翌15日、参詣致す。神様に御窺い候得ハ、神様の仰せにハ、
何も案じる事ハ更になし。一寸要向(用向き)がでけた故、一寸呼んだ。その用向きと云うハ何もむつかしい事やない。この用向と云うハ、この世界中、人間ハ、地天わからず、水土わからず、東西もハからず。月日と云う名もない処より、このかんろふ台の処から、この世界なり、人間をこしらい。皆なにもかも万事の仕事教え。今度はだめの教えなり。今迄見たよな、ふわふわしたよな事でハどうもならん。今度ハしいかりと、にんじゆふの心定めなり。神楽づとめも、神楽さい、かづいたなら(頭にかぶる。頭上にいただく)、直(じき)に神様ヨリ直ニ(すぐに)手をつける。今迄ハ、かんろふ台をだしたなら、直ニ(すぐに)上(かみ)からきて取払う。今度だしたなら、万後(まんごう、万劫)末代、引込〔む〕事せず。そふして、百姓を一に助けたさの神の急き込み。この咄し、聞(きか)したさの神の要向き。
この咄し、ことづけハ、ことつけ(ことづけ)。また聞(ぎき)ハまた聞(ぎき)。そこで何もかも、どふせ、こふせハ更にゆわんで。又、世界中、人間に、誰彼にかぎらず、よびつかいする事ハ更にゆわんで。そこで、何もかも、よふ思案(しやん)をしてくれるよふ。とくと思案を/\。けふまでハ、何の道やら、しれなんだ。これから先ハ、道をしらする。この道ハ、神の思惑は(ば)かりやで。何をゆ〔う〕とも一寸にしれんで。なに事を、ゆ〔う〕てもこれをけさんよふ。これ止めたなら息が止まるで。これからわ神がしいかり入こんで、何をゆうとも、するともしれんから、そこでことわりゆ〔う〕ておきます。 |
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「山田伊八郎文書より(その五)」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)122~129ページより )。
明治十八年八月三日(旧6.23) 神様の仰せ
一
明治18年旧6月十日頃ヨリ倉之助がヲナカ(お腹)がとふり(とうり)、同二十日すぎ相成候共とまらず、同23日早天ヨリ山田伊八郎、妻こいそ、同倉之助、右三人参詣致。神様ノ仰せにハ
とふともふせき込とゆふハ、百姓一じよふの事なか/\もなきせき込み。それせきこみと云うハ、はい三合、ぬか三合、土三合、この九合ヲかん袋へ入れテ、本づとめにかけて、是ヲ一駄かわりきく。今迄ハ、一反に付き、米三石とゆふたなら上よんなか(よのなか)とゆい。そふして、なに事もつとめ一条。真実これヲまことと思うなら、田一反ニ付き米四石、五石迄。亦、水なん、火なん、風なん是から更ニなし。年々につくりとり。雨とおもうなら雨、又、そよふ/\風(そよそよ風)と思うなら、そよふ/\風。万事ハ自由自在。人間の思う通りなり。そうして一ヶ村、ニヶ村やそこらやない。世界中、百姓、是ヲ一に助けたさの神のせき込み。亦つゞきにハ国の本ぞん。その国の本ぞふと云うハ今迄ヨリ心すませとゆふたが、今の事なにも知らずにするハそのままや。そこでこの咄シヲ幾何度モきかせとの事。そこでしっかりと心ヲ定メ。亦いんねんの者ハ幾何度もくるであろふ。この咄しヲ聞てしんじつ心定メル事。その心神が受取りたなら。この咄し、いつの事のよふにおもうなよ。何時其国の本尊(ほんぞう)初メルヤラシレン。亦、この世界中、人間一列に上かみとゆふている。その上ハ、五代跡(あと)ヨリ、その伯父、伯母、兄弟、いとこ迄、只今老母神様御身にかかりたる人々、草ふかい処えおとしてある。そこで、どこからどんな者が来るやしれんで。そこで今の上たるは、二号
本もと/\なるハ地天分からず、水土分からず海山分からず、たいら一面どじょうばかりや。そのどぢよふ九億九万九千九百九十九匹、どぢよふ。月日両人様、食てしまい。このしよねんを段々出世をさして、これヲ人間の玉しふ(たましい)。このかんろふ台のぢばで、三日三夜に宿し込み。このみ様の腹に三度宿り。最初にハ五分から生レ、九十九年立(たち、経ち)漸く三寸なり。亦二度目ハ五分から生レ、九十九年立ち三寸五分なり。三度目亦五分から生レ、九十九年立ち四寸になりた時、もうこうして段々五分から生まれ、五分、五分と成人をして五尺の人(にん)になると思(おぼ)しめされ、にんまりわろふて、よろこんで、み様もすぎゆかれ。それより鳥類、畜類、虫けだものに八千八たび生れかわり。その中で、申(さる)が一人のこり。その申の腹に男五人、女五人ト、五ッみよと(夫婦)生レ。そのいつ(五ッ)みよとから五人宛(ずつ)生レ、五五二十五人生まレ。その二十五人から又五人ッゝ(づつ)生レ、六十人余モ生レルどふりにて、段々この人間も増え来ル。ようよう八寸になりた時、漸々ちいとたかびく(高低)少シわかりかけ。又それより三尺になりた時、漸々水土わかりかけ。それより段々と地天わかりかけ。又、水土わかりかけ。又、追々海山わかりかけ。その成人(せゑぢん)に応じ、万事わかりかけたり。そふして、成人(せへじん)に応じものもゆいかけ、ぢき物(食物)すくのなる(少なくなる)。又、この世界中のぢぎふ(じぎょう、地形?)ハ、日様の御体故、むこい/\段々ト行(ゆき)テ、食物くいまハり(食いまわり)行テ、成人に応じ、地の上あがり。 |
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「山田伊八郎文書より(その六)」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)130~135ページより )。
明治十八年八月十八日(旧7.9) 老母八十八歳神様の仰せ
明治18年旧5月頃ヨリ、いくえ女、倉之助この両人へ。いくえがおなかとふしバ(とうせば)、倉之助が熱が強く、毎々願ヲかけバご利益(りやく)あり。いくえのお腹治(なお)りすれバ、又程なく倉之助がヲナカがとふし。亦、いくえが熱が強く、この両人の子供に、あちらこちらい(へ)身にさわりつき。それより同7月8日、豊田村中田佐右衛門様、山本与平宅ニテ身にさハり付く。同8日昼後ヨリ神様へ出所。その夜に神様に御窺い。翌9日、亦、御窺候得ハおきよ、いくえ、倉之助、竹田村山口善平一件ニ付き、谷村お熊より田中徳平、忍阪村(おつさかむら)杉本一件、この六点ヲ伊造様〔に〕御願い。又老母八十八歳〔の〕年、この神様にも子供二人御窺。神様の仰にわ、翌九日
一、ほん元々ハ、地天わからず、水土わからず、海山わからず、たいら一面に泥かい(海)でありた。その中に魚と巳(み)とがいた。魚ト云うハげけふ(ぎぎょ、ぎ魚)と云う魚也。巳ト云うハたち魚みたよな、みいふでありた。これが人間の種、苗代(なわしろ)。辰巳(たつみ)国さつちの命様ハ亀。戌亥(いぬゐ)月よみの命様ハしやち〔と〕ゆふ魚。東、雲よみの命様ハうなぎ。未申(ひつじさる)かしこねの命様ハかれふ(かれい、鰈)とゆふ魚。この魚、皆な月日両人様くてしもて(食うてしもうて)、あぢわい、心みて是ヲ、にんげんの身〔の〕内へ仕込(しこむ)。なか/\この間(あいだ)長々の事、容易な事でない。それより、かんろふ台の処にて、三日三夜に宿し込み、三年三月とゞまりていた。それより、うみをろし(産み下ろし)。是迄の何の仕事、亦、何にても、皆なこの処ヨリ皆な教えしこみ。こふして、咄しすれば、みぢかいよふにあるけれど、なか/\よふいな事でない程に。この道具衆も、皆々、とくしんさすに、こふゆふ(こういう)世界い、こしらい(拵え)、亦、こふいふ人間をこしらいたなら、幾々さきわ(ゆく/\先は)、元の家敷へ連れ帰りよふきゆさん遊びをさす程にと、ゆふて承知をさして、皆な月日両人。
一、おしゑ、しこみ
その道具衆ハ、皆な今、この家敷へつれかいり、ぞんめふにて(存命にて)、おわします也。亦、神様の仰せにハ、昨日ヨリ、内(うち)ノもん(門)にて、はりばんしてごさるそ〔う〕な(御座るそうな)。何が気にいらんやらとゆふて、色々に御くどき有之(これあり)。 |
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「山田伊八郎文書より(その七) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)144~147ページより )。
明治十八年十二月二十六日(旧11.21) 神様御話
明治18年旧11月20日夜十時頃、こいそが安産致す。又、去ル10月19日頃より初終(しょっちゅう)腹が痛み、又安産後モ跡腹(あとばら)痛み、翌同11月21日御礼参り致す。神様に御窺候えば、神様の御噺にハ
なか/\この度の事ハ、一寸の事でハない程に。今ハこの世のはじまりや。元、地天わからず、水土わからず、海山わからず。このない世界、ない人間こしらえたも同じ事。こん度のも、もんかたない事教えたい。こん度の教えも同じ事。今はこの世の始まりや。今迄ハ我が身ばかりを願うていた。今度は、世界中、百姓を助けたいとの願いするよふ。百姓の助けとハ、灰三合、土三合、ぬか(糠)三合。この三ざん九合、一駄のこい(肥)にして、一反に付き米四石、五石迄作りとらせたい。そして嘘と追従云わんよう。欲に高慢ないよふ。世界中ハ一列皆な兄弟、他人と云うハ更ニなし。只互いの立てやい、助けやい。この一筋の心、月日に受け取りたなら、百五十歳が二百歳が三百歳になりたとて、病まず、死なずに弱りなきよふ。これも、とふたい(とうとい、戸主人の意)人やなし。よけ/\の者やなけねハ(ば)、又よけ人(よけびと、次男以下のこと)にても心すまねバどうもならぬ。その心すみ切りたる者ハ、国の本そんとして、唐の唐人まで、さんけへ(え)つけさす。 |
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「山田伊八郎文書より(その八) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)149~150ページより)。
明治十九年二月十三日(旧1.10) 飯降伊蔵様神様より御下り御話
翌旧十日ハ福田善三郎頼母子(たのもし、頼母子講の略。一定の期日ごとに定めた額の掛け金を出し、所定の金額の取得者を抽選や入れ札などで決め、全員が取得し終わるまで続けること。無尽)につき、金預り主・新田与治平、山田伊八郎この両人迄相係り。じつは原告人ハ平石新造殿ヨリ奈良勧解(かんかい、和解を勧める。和解勧告)詞訴致シその出日、旧正月十日奈良勧解出所致す。その帰りがけ、神様へまハり飯降伊造様ニ御願い。この伊造様、神様より御下り被下(くださる)。その御噺しにハ、
さあさぁ去ル明治十八年夏ヨリ四方八方ヨリ差掛りたる(さしかかりたる)心のやすまるとゆふハ、よる/\ねているま(間)だけ。さあさぁあちらこちらへ、そのかよう処、これヲ思案せよ。さあさぁ何も案じる事ハいらんで。さあこゝをよふ思案して、さあ何も案じる事ハいらんで。 |
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「山田伊八郎文書より(その九) 」
(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)158~159ページより)。
明治十九年三月二十九日(旧2.24) 神様の仰せ
翌二十三日父の金玉がいたみ、同日晩私の金玉も大井ニ(おおいに)いたみ、それより翌二十四日参詣すると願ヲかけ、直ニ善快(ぜんくわい、全快)致す。同日参詣いたし、神様御窺。神様の仰にハ
長々の道であるで、この道ハ、どんな道もある。不自由な事もある。難儀な処も越さんならんで。それにこれハどうゆうものであるやしれん。あちらからも、こちらからもゆいかけられ。たゞの一ッも是ハとゆふ事なし。この身のさハりの所も、今迄に身内へしらしてあろふ。これヲよふ思案せよ。元ハいざなぎの種。いざなみの腹一ッ。どこのいづく(※いづこ(何処))でも同じ事。身に二ッなし。是ヲよふ思案せよ。元いざなみの腹から人間ハ皆な生レ。そこで、我が身あの身とゆふなり。 |
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