山田方谷は湯原温泉、下湯原の真賀温泉、鷺の巣温泉(岡山県加賀郡吉備中央町竹荘492-2)を訪ね湯治していたことが伝えられている。
山田方谷の履歴考 |
更新日/2018(平成30).4.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、山田方谷(やまだ ほうこく)の履歴を確認する。今後どんどん書き換えて、れんだいこ史観で綴り直すことにする。 2010.09.21日 れんだいこ拝 |
【山田方谷の履歴総評】 |
幕末期の儒家・陽明学者。備中松山藩を財政危機から救い、備中聖人と称された。幕末の混乱期には苦渋の決断により藩を滅亡から回避させることに成功。方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。方谷は号。
山田方谷記念館 〒719-3507 岡山県新見市大佐小南323−3 0867 98 4059
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【山田方谷の履歴その1、山田方谷の出自と家系】 |
1805(文化2)年、2.21日、父・五郎吉、母・梶の長男として、備中国松山藩領阿賀郡西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方村)で生まれる。旧城下町の高梁市街から北に約13キロ、ひと山越えれば新見市と云う奥まった山あいの村である。この地は現在では岡山県北の小都市である備中高梁市になっている。市街地の北のはずれの海抜430mの臥牛山(がぎゅうざん)山頂に国の重要文化財である松山城の天守閣がそびえ街を一望している。松山城は日本で最も高いところにある典型的な山城として貴重な文化遺産となっている。
方谷の諱(いみな、本名)は球、あざなは琳卿、通称は安五郎、幼名は阿璘(ありん)、号は方谷。父・五郎吉重美は農業に加えて菜種油の製造、販売を家業としていた。母は梶(西谷家)。山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。五郎吉はお家再興を願う念強く、方谷はこの期待を背負うことになる。この年、ナポレオンが皇帝即位。 山田家は、源平合戦の武功で備中国のこの地へ勢力を得た武将の家柄であった。戦国時代を毛利方として潜り抜けている。江戸期に武士を捨て帰農している。備中松山藩からは武士並みの家格(郷士格)を認められ、造り酒屋を営むなど有力な素封家だった。方谷の3代前の曽祖父が訳あって刃傷沙汰に及び、人を殺めた罪により全財産没収の上、所払いされた。事件から19年後、方谷の祖父の代に許されて故郷へ戻っている。両親は方谷に山田家の再興を期待し育てた。 |
【山田方谷の履歴その2、成長期の様子】 |
1806(文化3)年、父の五郎吉が太宰府天満宮に参拝している。
1807(文化4)年、3歳の時、この頃より母から毎日字を習うようになり、3歳で漢字を覚えものにしている。 1808(文化5)年、4歳の時、大書した雄潭(ゆうこん)な額字を作州木山神社に奉納するなど才能を発揮する。間宮林蔵・樺太探検。 1809(文化6)年、5歳の時、貧しくとも教育熱心な両親によって親元を離れ20キロ離れた新見藩の安養寺に預けられ、 儒家の丸川松隠(1758-1831年)の塾で朱子学や詩文を学ぶ。 1810(文化7)年、6歳の時、方谷の評判を聞いた新見藩の六代藩主・関長輝に招かれ、面前で揮毫を披露する。 1811(文化8)年、7歳の時、佐久間象山が春日潜庵に生まれる。 1812(文化9)年、8歳の時、妹、美知、没す。新見藩の丸川松隠塾に入塾する。 1813(文化10)年、9歳の時、丸川塾にて神童といわれるようになる、なぜ学問をするのかと客に聞かれ、四書の一つである「大学」の重要な一節「治国平天下」と答える。林富太郎生まれる。 1814(文化11)年、10歳の時、弟の平人生まれる。 1815(文化12)年、11歳の時、初めて方谷自作の漢詩「得家書」をつくる。この年、過ぎた玄白の「蘭学事始」成る。 |
【山田方谷の履歴その3、母、父が相次いで逝去す】 |
1818(文政元)年、14歳の時、8月27日、母・梶が病で没す。このため父は方谷の学問を断念させ家業を継がせようとするが方谷の師丸川松隠に説得される。漢詩「述懐」(この詩はこの後明治・大正時代の教科書に載る)をつくる。その一節は次の通り。「父母の恩と天地の恵みは極まりなく、いつの日にかこの恩に報いられることか」。父五郎吉、西谷近(37歳)と再婚する。 1819(文政2)年、15歳の時、父・五郎吉が病気になり、訓戒十数条を方谷に残す。7.4日、父五郎吉没す。頼山陽が松山に遊学している。 1820(文政3)年、16歳の時、父の五郎吉が逝去する。訓戒12条を遺す。儒学の精神を究めようとする方谷だったが、14歳からの一年ほどの間に母と父と相次いで死別した為、西方村の生家に帰り、叔父の辰蔵に代わり家業の菜種油の製造販売を継ぐ。方谷の率直な告臼によれば、家業の煩わしさ、俗物たちと明け暮れた「悔恨の」七年間を経験することになる。但し、この時の事業経験が後の藩政改革の際に活かされることになる。 |
【山田方谷の履歴その4、家業と学問に励む】 | |||
1821(文政4)年、17歳の時、新見藩士の若原氏の女(若原進、16歳)をめとる。進昌一郎が生まれる。 1822(文政5)年、18歳の時、家業と学問に励む。「山田方谷全集」の「山田方谷年譜」は次のように記している。
この頃のことを次のように記している。
米沢藩のその財政改革によって名君と評価されている上杉鷹山が他界する。 1823(文政6)年、19歳の時、後に松山藩の藩主となる松平勝静が奥羽白河城に生まれる。2月、幕府が異国船打払令を出す。 1825(文政8)年、21歳の時。12月、方谷の学問の名声広まり、松山第6代藩主の板倉勝職(かつつね、1803-49年)の耳に入り呼び出しを受け、奨学金(二人扶持)をいただく。「山田方谷全集」の「山田方谷年譜」は次のように記している。
1826(文政9)年、22歳の時、長女の瑳奇が生まれる。 |
【山田方谷の履歴その5、京都遊学期】 | |
1827(文政10)年、23歳の時、 妻と生まれたばかりの娘・瑳奇(さき)を残し、家業を義母や弟に託して第1回京都遊学に向かう。方谷の留学は京都へ3回(1827、29、31-33年)、江戸へ1回(33-36年)に及ぶことになる。方谷はこの時の心境を9歳下の弟・平人宛ての手紙の中で次のように吐露している。
第1回目の京都留学は、師の丸川松陰の勧めで寺島白鹿(生没年不詳)に学び、春から歳末まで過ごす。蘭渓禅師と唱和する。年末、帰国する。この年、西郷隆盛が誕生している。 1829(文政12)年、25歳の時、3.23日、第2回京都遊学(春から秋まで)で寺島白鹿に学ぶ。9月、遊学から戻る。12.23日、藩主勝職より苗字帯刀を許される。12.28日、8人扶持を給せられ中小姓格に上り、藩校有終館会頭(教授)に抜擢される。城下に家も授かった。この年の5月、松平定信没す。 1830(天保元)年、26歳の時、3月、師の丸川松隠に従いお伊勢参りに出かけ伊勢神宮を参拝する。4月に帰国。6月、家を城下の本丁に賜る。藩の平穏と五穀豊穣を祈願する旗行列が誕生。伊勢おかげ参りが大流行する。12月、藩校有終館会頭を辞める。 1831(天保2)年、27歳の時、2.10日、郷里の西方に帰った留守中、藩主から賜った本丁の家が火事で焼失、有終館も類焼、藩から松連寺の一室での謹慎を命じられる。3.10日、謹慎が許される。7月、2年間の許しを得て、第3回京都遊学(夏から2年半)に上り、寺島白鹿(鈴木遺音?)門に入る。春日潜庵らと交わる。この時、陽明学に出会う。王陽明の伝習録から朱子学と陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し正しい学び方を修得する。朱子学を深く学び且つ陽明学に向かう内在的契機を会得する。この年の8.4日、京都に出立する方谷を見送った師の丸川松隠が没す(74歳)。孝明天皇生まれる。 1832(天保3)年、鈴木遺音(撫泉)鈴の門にも出入りし、尊王攘夷派の中心人物であった春日潜庵とも交わる。 1833(天保4)年、29歳の時。秋、王陽明の「伝習録」を抄して自序文を作る。白鹿との対立と和解。10月、大塩平八郎の「洗心洞剳記」を奥田楽山に送り、藩中に紹介を促す。12月、3年間江戸で学ぶことが許され、京都から江戸に入る。江戸行きを知った弟平人から家業の困窮を訴える手紙が来る。この年、木戸孝允生まれる。天保の大飢饉続く。 |
【山田方谷の履歴その6、江戸留学期】 |
1834(天保5)年、30歳の時。正月、江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斎(1772-1859)の門下に入る。 佐藤は幕府の昌平欝(しょうへいこう)の塾長という学界の巨頭にして、表向きは官学の朱子学を講師して.いたものの、実際に信じるところは陽明学で、陽明学者として"東の一斎、西の大塩"とも称されていた。方谷は、陽明学の神髄は「誠意」であるとの確信を持つ。この時、後に吉田松陰の師となる佐久間象山と出会っている。一斎の私塾の門をたたいた方谷は、全国から集まった俊英のなかで瞬く間に頭角を現し塾頭になった。「一斎門下の二傑」と呼ばれたのが陽明学の方谷であり、あと一人が朱子学を信奉する佐久間象山だった。二人は毎晩のように議論をして日本の行く末などを論じ合った。その激論を心配した塾生が一斎に問うたところ、にっこりと笑って「暫くほっておけ」と云ったと伝えられている。象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったと云う。7月、松崎*堂を訪ねる。9月、遊学の期限となり、藩主の帰城にお伴して帰藩する。この年、天保の大飢饉続く。近藤勇生まれる。 1835(天保6)年、31歳の時、同門の佐久間象山と日夜激論をたたかわせる。岡山藩の陽明学者・熊沢蕃山に傾倒崇拝する。この年、福沢諭吉、坂本龍馬、土方蔵三が生まれる。 1836(天保7)年、32歳の時。正月、大小姓格に上がる。5.14日、長女瑳奇没す(享年11歳)。9月、藩主・板倉勝職(かつつね)が参勤交代で国元に戻るのに伴って、一斉塾を退き帰国する。その時、一斉に「尽己」(「おりれを尽せ」)の書をいただく。10月、有終館学頭(校長)に命じられ、藩主から御前丁に家を賜る。有終館は凡そ50m四方の敷地に大講堂を備えた本校舎と武道場から成る。教職員25名、生徒250名。大小姓格に抜擢される。「理財論」、「擬対策」を書く。この年、全国的飢饉となり、各地に一揆、打ちこわしが頻発する。福沢諭吉、坂本竜馬、土方蔵三生まれる。 1837(天保8)年、33歳の時、大塩平八郎の乱が起こる。徳川慶喜生まれる。 1838(天保9)年、34歳の時、家塾「牛麓舎」を開校する。有終館が藩士教育をする藩校だったのに対し、身分の別なく有為の人材の結集に努めた。牛麓舎一期生として恩師・寺島白鹿の子の義一、進昌一郎、大石隼雄、林富太郎、寺島義一らが入門する。 1839(天保10)年、35歳の時、正月、弟の平人に長男耕蔵(方谷の養嗣子、号は知足斎)が誕生する。春、備中松山城下で火災がおこり、有終館が二度目の類焼に遭う。方谷が仮の藩校の再建に向かい再建される。この年、高杉晋作が生まれる。 1840(天保11)年、36歳の時、アヘン戦争勃発。この年、渋沢栄一、久坂玄瑞生まれる。 1841(天保12)年、37才の時、水野忠邦の天保の改革始まる。 |
【山田方谷の履歴その7、新藩主の板倉勝静(かつきよ)に登用される】 |
1842(天保13)年、38歳の時。6月、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫の孫にして寛政の改革の主導者であった松平定信の嫡男の陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)の八男として生まれていた勝静が30歳の時、備中松山藩勝職の婿養子(養嗣子)となる。松山第6代藩主の板倉勝職(かつつね)の松山藩は「奢侈と淫らな行為を重ね?」ることにより財政悪化を進行させ、且つ男児がいずれも早世したため「お家存続」の配慮から、松平定信の孫に当たる板倉勝静を養嗣子として迎えたものと思われる。8月、三島中州(倉敷市出身)が方谷に従学する。 1843(天保14)年、39歳の時、三島中州、矢吹久次郎が「牛麓舎」に入門し、方谷に従学する。他にも進鴻渓(新見市出身)が参集する。 1844(弘化元)年、40歳の時、松平定信の孫である板倉勝静(かつきよ)が世子として入封する。方谷が板倉勝静に講義をする。 1845(弘化2)年、41歳の時。3月、世子の勝静に従い、領内を巡回する。池田草庵が来訪する。 1846(弘化3)年、42歳の時。近習役を兼ねる。この年、徳川家茂・和宮生まれる。 1847(弘化4)年、43歳の時、4月、一番弟子の三島中洲を連れて岡山の津山藩へ赴き、洋式砲術役の天野直人に新しい洋式砲術を学ぶ。また庭瀬藩火砲指南役の渡辺信義に火砲術を学ぶ。妻の進と離婚する。冬、京都から帰ってきた平人が医師として開業する。 |
【山田方谷の履歴その8、藩政改革期】 | |
1849(嘉永2)年、45歳の時、4月、再び津山藩で砲術を学ぶ。閏4月6日、藩主板倉勝職が引退し、勝静が家督を継ぎ7代目の新藩主となる。周防守と改称する。8.23日、前藩主の板倉勝職が没する(享年47歳)。11月27日、弟の平人が病で没す(36歳)。12.9日、勝静に松山藩の元締役兼吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に取り組む。 幕末とはいえ、農民あがりの一介の儒学者の大抜擢は藩内に衝撃を与えた。上級の武士たちは激怒し、方谷を暗殺するとの噂も駆け巡った。しかし、藩の財政改革をもくろむ勝静は意に介せず叱咤激励し続けた。 1850(嘉永3)年、46歳の時。帰国した勝静が藩政改革の大号令を出し、藩政改革を断行した。勝静は白河藩主松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職をつとめた。しかし、幕府の重職を担うことによる出費が激しく藩財政の逼迫させていた。方谷が財政状況を調査すると、松山藩の表高(公称)は五万石だが実高は二万石に足りないこと、そして藩の借金が大坂の蔵元を中心に10万両に上ることが判明した。以前の元締役は粉飾決算で借金に借金を重ね破産状態にあった。これを外部に隠していた。方谷は、この財政再建に向かうことになる。「事の外に立ちて事の内に屈せず」とする方谷が会得した陽明学の要諦を実践して行った。概要は「山田方谷の思想と施策考」に記す。 方谷による藩政改革(上下節約、負債整理、産業振興、紙幣刷新、士民撫育、文武奨励)によって、1857(安政4)年、52歳で大蔵大臣の職を辞すまでの8年間に十万両の借金はなくなり、逆に十万両の蓄財ができた。改革は見事に成功した。イギリスの経済学者ケインズ(1883-1946)に先立つケインズ政策の先行者であり、日本でのケインズ革命を実践したことになる。方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた20年間、藩内では百姓一揆が一度も起きず餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。 この年、義母の近没す。 1851(嘉永4)年、47歳の時、「これからの備中松山藩には軍制の改革と洋式砲術の導入が必要である」として「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制による洋式銃隊「里正隊」を創設した。西洋の力を認め、「これからの備中松山藩には軍制の改革と洋式砲術の導入が必要である」として、イギリスの最新式の銃で装備した。教練についても西洋式を取り入れ軍事教練を実施した。この頃、大砲を鋳造する。これにより、松山藩は財政改革とも相まって富国強兵藩として注目されることになった。松山藩の兵制は後に長州藩の奇兵隊のモデルになった。長岡藩でも模範にされた。6月、板倉勝静が江戸幕府の奏者番に命じられる。 1852(嘉永5)年、48歳の時、松山藩郡奉行に任命される。民政改善に努め、松山に撫育所、江戸に産物方を設置する。買い上げていた旧藩札を買収し、高梁川河川敷にて焼き捨てる。新藩札「永銭」を発行する。農兵、銃陣を編成する。この年、後の明治天皇生まれる。 1853(嘉永6)年、49歳の時、干害のため藩の貯倉をあけて米を緊急無料配布し餓死者を防ぐ。10月、大坂に赴き、銀主の加島屋、千草屋と商議する。この年の6月、ペリー艦隊が浦賀に来航する。 1854(安政元)年、50歳の時、藩の総理大臣(参政)に就任、元締兼藩執政となる。娘、小雪生まれる。小雪の母(荒木主計の姉)と離婚。この年の3月、日米和親条約調印される。 1855(安政2)年、51歳の時。土民撫育の三急務を論じている。玉島の海上で松山水軍の砲撃練習をする。この頃、山田方谷が歯に衣を着せず徳川幕府崩壊を予言し「前途は滅亡しかない」として藩主勝静に幕閣の地位をただちに捨てるよう進言する書を差し出している。しかし、藩主は、「徳川氏とともに倒れん」との激した手紙を国元の方谷に送っている。10月、江戸へ行く。11月、帰国する。この年の10月、江戸に大地震起こる。 1856(安政3)年、52歳の時、年寄役助勤に就き藩政に参与する。郡奉行も引き続き兼務する。再婚し、3度目の妻みどり(吉井家、39歳)を迎える。藤森弘庵が来遊する。 1857(安政4)年、53歳の時、松山藩の元締役を辞任する。後任に大石隼雄が就く。5月、藤森弘庵来遊する。8月、板倉勝静が幕府の寺社奉行を兼務することを命じられる。 1858(安政5)年、54歳の時、幕府が日米修好通商条約に調印する。9月、「安政の大獄」始まる。長州藩の久坂玄瑞(げんずい)が来藩し、松山川中州での松山藩の軍事教錬の光景を見て、「わが長州はとてもかなわない」と脱帽した。36万石の長州藩が5万石の備中松山藩に軍備の面で劣勢と認めたことになる。高杉晋作の奇兵隊の創設は1863(文久3)年のことであるが、それには久坂から寄せられた目撃情報が大きなヒントになっている。10.25日、徳川家茂が14代将軍となる。11月、備中松山城外の要地に在宅をすすめ、土着志願をつのる。長州藩士久坂玄瑞が来遊し、桔梗河原(高梁川中洲)で行われた銃陣の調練を衆人に混じって視る。 1859(安政6)年、55歳の時、2.2日、板倉勝静が、安政の大獄の件で大老井伊直弼に意見したことが発端となり奏番者件寺社奉行を免職される。4月、希望して西方村長瀬の一軒家に移住し土着政策を自ら実践する。邸隅に草庵を設け、無量寿庵と称す。゜ 7月、越後長岡藩士の河合継之助が来遊する。越後長岡の英雄河井継之助が日記「塵壷」のなかで、松山藩の庶民教育の高度さに絶句している。驚くべきことは、武士が支配する士農工商の身分制度も否定していた。内弟子となった河井継之助が驚いたのは、何のけれんみもなく自分の高弟を次々に藩の要職に就けていたことであった。高弟のほとんどが農商の出身だった。藩の総理大臣の重職にありながら、家禄は家老に準じ、藩政改革に乗りだすにあたっては他の藩士の倍の減俸を自己に課し、清貧どころか困窮一歩手前まで追い込んで範を示している。家計を公開し、上に立つ者は私利私欲を離れ、自らを律して生きていかなければならないことを身をもって教えた。「誠」を奉じ、陽明学を実践した。 10.27日、吉田松陰刑死す(30歳)。 1860(万延元)年、56歳の時、再び藩の元締役に再任される。亡き弟の平人の息子・耕蔵を養子にして後継ぎとする。方谷は、河井継之助が松山を去るに際し、河井に請われて与えた「王陽明全集」の巻末に「至誠惻怛」(しせいそくだつ)と記している。その意は、まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)があれば、やさしく(仁)なれる。目上にはまことを尽くし、目下にはいつくしみをもって接せよ。河井継之助は、戊辰戦争で負傷して亡くなるとき、次のような言葉を残した。
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【山田方谷の履歴その9、幕末維新期】 |
1860(万延元)年、56歳の時、3月、桜田門外の変が起きる。3月、河井継之助が長岡へ帰る。継之助は長瀬から対岸へ渡り、方谷に向い河原でひざまづいて数度礼をして去った。10月、大石隼雄元締役をやめ、方谷、再び元締役を兼務する。 1861(文久元)年、57歳の時。2.1日、勝静が再び奏者番兼寺社奉行に任ぜられる。これにより方谷が江戸へ向かう。2月、江戸で藩主の勝静の政治顧問となる。勝静が井伊直弼に意見したことが認められ再び奏番者兼寺社奉行に返り咲く。4月、病気を理由に顧問を辞任し帰国する。5月、元締役を辞任する。御勝手掛を命じられる。療養の為、作州の湯原温泉に入浴する。6月、有終館制を革新する。この年、和宮親子内親王が将軍徳川家茂に降嫁する。 1862(文久2)年、58歳の時、1.15日、坂下門外の変起こる。3.15日、藩主の板倉勝静が老中に任命され外国事務を担当する。4月、方谷は再び勝静の幕政顧問として召しだされ江戸に赴く。米製の洋式帆船「快風丸」を横浜で購入する。7.6日、一橋慶喜を将軍後見職とする。7.9日、福井藩主松平慶永を政事総裁職とする。閏8月、勝静が福井藩士横井小楠に時事に関する意見を聞く。方谷も列席する。11月、方谷が登城して将軍家茂に謁見し、勝静を通して攘夷を進言する。12月、顧問辞職、隠居を許され家督を譲る。但し、年寄役に準じ、大事の時は参与することを命じられ、隠居扶持を賜わる。暫く江戸にとどまる。準年寄役に転ず。 1863(文久3)年、59歳の時、2月、江戸より帰国する。板倉勝静が上京する。3月4日、将軍徳川家茂上洛する。勝静も随う。4月、一度帰藩し、再び京都に召し出され勝静の顧問となる。4月、孝明天皇が石清水八幡宮に行幸し、攘夷祈願する。京都における勝静の顧問に再任される。この頃、強く勝静に老中辞職を進言するが実現せず。老中格小笠原長行(ながみち)が約2千人を率いて、大坂に上陸。入京は阻止され,免職。5月、顧問を辞任する。6月13日、徳川家茂、江戸へ帰る。勝静も同行する。6月、方谷は許されて京都より帰国する。この時、勝静が将軍家から拝領した袴を下賜される。意見の異なる勝静に抗議して登城を拒み、長瀬の自宅にこもる。松山藩士の谷兄弟が新撰組に入隊している。8月17日、天誅組の変(27日壊滅)。8.18日、公武合体派が尊攘派を京都より追放する8.15政変起こる。 1864(元治元)年、60歳の時、長瀬対岸の瑞山(水山)を開墾し、草庵を構える。6.18日、勝静が老中職を免職される。7月、第一次長州征討が起こり、勝静、山陽道先鋒を命じられる。7.11日、佐久間象山が暗殺される。7.19日、久坂玄瑞が禁門の変で自刃する(26歳)。11月、方谷が長州征伐出兵をした後の留守部隊の指揮を任命される。頼久寺に入り、郷兵を部署に配置する。 1865(慶応元)年、61歳の時、正月、勝静が凱旋帰国し、方谷は留守部隊の指揮を解かれ頼久寺に寓する。5月12日、第二次長州征討が起こる。10.22日、勝静が再び幕府老中に任命される。伊賀守に改称。再び顧問となる。勝静は幕府とともに倒れる覚悟を将軍に告げる。この年、薩摩藩と長州藩が連合する(薩長同盟成立)。 1866(慶応2)年、62歳の時、4月、備中騒動(倉敷浅尾騒動)が勃発し、方谷、一隊を率いて出陣する。野山口(現・加賀郡吉備中央町)を守る。7.20日、将軍徳川家茂が大坂城で没す(享年21歳)。勝静が窮地に立つ。8.14日、方谷、勝静の諮問に応じ、長州藩存置の三策を列陳する。8月21日、征長停止の沙汰書が出される。12月、徳川慶喜が15代将軍職に就任する。12.25日、孝明天皇が死去する。 1867(慶応3)年、63歳の時、4.14日、高杉晋作没す(29歳)。6月、方谷、藩命に従い京に上り、今後の方針について勝静の諮問に応え補佐する。但し、意見が合わなかった。8月、帰国を許される。勝静から短刀を賜わる。母の墓を作り直し碑文を読む。 |
【山田方谷の履歴その10、「大政奉還上申書」原文を差し出す】 |
10.14日、徳川慶喜が天皇に「臣慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二……」で始まる「大政奉還上申書」を差し出した。この上奏文は慶喜が若年寄の永井尚志に命じて起草させたと伝わっているが真相は違うようだ。矢吹家に方谷から送られた「我皇国時運の沿革を観るに……」という密書が現存しており、内容はもちろん字句も上奏文と酷似している。これによれば、上奏文の作成につき慶喜から筆頭(首席)老中の勝静にご下問があり、勝静からさらに方谷に相談がなされ、方谷が起草したことになる。この事実が知られていない。10.13日、方谷が原案を作成し、その下書きを勝静から渡された永井らが「我」を「臣」に変えるなどなど一部をへりくだった表現に変え、翌日の14日に京都朝廷に差し出されていることになる。方谷から久次郎にあてた密書には決まって「早々御火中」という指示がある。読み終わったら、ただちに燃やすようにとの指示である。だが、なぜかこの密書にはその文字が見当たらない。方谷は、この密書を歴史の記録として残したかったのではなかろうか。中央政局の動きは一気に加速する。 11.15日、坂本竜馬暗殺される(33歳)。12月、愛娘、小雪を矢吹久次郎の息子、発三郎に嫁がせる。12.9日(1868.1.3日)、討幕派は王政復古の大号令下る。幕府などを廃止する。長岡藩では、藩主・忠恭が隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や河井継之助らは公武周旋のために上洛する。継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。12月、徳川氏善後の策について、朱墨に分書し、意見数十条を勝静に献ずる。 |
【山田方谷の履歴その11、鳥羽伏見の戦い以降】 |
1868(慶応4、明治元)年、64歳の時。 1.15日、大政奉還ののち鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争が起こる。この時、事故で右目を失明しながら剣は新陰流師範の腕前で、「容貌魁梧(かいご)、膂力(りょりょく)絶人」と評されていた備中松山藩士の熊田恰(あたか)は松山藩の剣術師範にして藩主・板倉勝静(かつきよ)の親衛隊長を務めていた。板倉は時の老中として将軍/徳川慶喜を補佐していた。戊辰戦争で形勢を損じた幕府軍はひとたび大阪城から脱出、江戸へと帰ることになった。老中の勝静は徳川慶喜とともに続いて日光、奥州を経て箱館へ向かうことになったが、江戸逃避直前、熊田は藩主から帰藩を命じられ、藩兵150余人を引き連れ大阪湾を出航した。その後、新政府軍が大坂城に入り、城は炎上させられ灰塵に帰した。小舟に分乗した熊田らの一行は途中散りじりになりつつも全員が帰着した。熊田家は、玉島港近くに本瓦ぶきの門を構えていた玉島の旧柚木家住宅/西爽亭(さいそうてい)で藩主「御成り」の屋敷に戻って留まった。 時局急転し、朝廷は岡山藩などの周辺の大名に松山藩を朝敵として討伐するように命じた。備前岡山藩や近隣の大軍が押し寄せてきた。備前岡山藩が美袋に本陣を構えた。その謝罪文案に、藩主を誹謗する「大逆無道」とあり、藩儒の山田方谷が激怒、自刃も覚悟し義憤を発した。家老格の大石隼雄が美袋の備前岡山藩本陣で号泣し訴え文言を改めさせた。 抗戦か恭順か。藩論は真っ二つに割れた。戦えば、最新西洋銃で装備した備中松山藩の農兵は勝利する可能性が強かった。それは、方谷の教えを受けた河井継之助が越後長岡藩に方谷式軍隊制を導入し、薩長の官軍を六度も敗走させていることからも推測される。しかし、藩主不在の状況のなかで代行決断を迫られた方谷は時局を鑑み、主君勝静の意に従わなかった。官軍と戦うよりも国土が焦土化するのを憂い、或いは松山の領民を救う為に無血開城を決断した。「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」と述べ、1.19日、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることを約して松山城開城を朝廷軍に伝えた。これにより勝静が世子勝全に家督をゆずる。松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。正月18日、備中松山征討軍に無血開城する(備中松山城を鎮撫使(岡山藩)に開城)。 これにより、熊田隊の存在が危うくなった。帰城を願い出た熊田は自宅に止まるよう指令されていた。松山城明渡し完遂後、玉島を巡る緊迫が増した。「拾の一隊は正に釜中の魚のごとく、戦火を恐れた町内は避難の群れが右往左往し、---戦機はすこぶる迫っていた」(「増補版高梁市史」)。松山藩の重臣達は、主君の命で百五十余人の藩士を伴って海路玉島に戻っていた熊田拾らの寛大な措置を願い出た。隊士らは謹慎し、武器を倉庫に納めて武力行使の意志のないことを示した。が、岡山藩の使者は受け入れず、責任者の首級を求めた。恭順を貫く松山藩は寛大な措置を求める一方、「やむを得ず熊田自決」方針を固めた。1.20日、岡山藩勢の包囲網が敷かれ、熊田恰(あたか)の自決を待つだけとなった。 1.22日、熊田が玉島の旧柚木家住宅の西爽亭で自刀させられる(享年44歳)。遺書「全く、私一人の不調法。これより死をもってお詫び申し上げ奉り候。なにとぞ百五十余人の御助命くだされ」。これを「玉島事件」と云う。熊田は道源寺(高梁市和田町)に墓葬された。生地の玉島では備中松山藩ゆかりの羽黒神社境内に熊田神社が祀られ、毎年5月「熊田祭」が催されている。松山藩は家老格を追贈し、敵将だった岡山藩主/池田茂政も「重臣の亀鑑」と称賛して遺族に金15両と米25俵を贈った。 4.25日、近藤勇が斬殺される(35歳)。4月、勝静親子の流転始まる。徳川慶喜が江戸城を明け渡して後、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。もはやこれまでの状況に追い詰められた勝静は、方谷らの策でプロシア船に乗船し江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は群馬県の安中藩に御預けの身となった。江戸幕府がたおれ、江戸が東京にあらためられた。 5月、伊木鎮撫総督より白麻一疋を贈られる。8.16日、河井継之助没す(42歳)。 |
【山田方谷の履歴その12、明治維新期】 |
明治新政府は、朝敵側とみなされていた山田方谷に入閣を願った。方谷の理財の才、陽明学の真髄会得の学が注目されたからであった。しかし、方谷は、老齢と病、郷学に専念することを理由に断っている。しかし、方谷に対する新政府の上京出仕の督促は激しい。方谷の心境を察して矢吹久次郎が動いた。彼は方谷の母の里である小阪部(岡山県大佐町)に広大な屋敷と土地を求め、塾の施設として方谷に提供した。かくして、老いたる炎の陽明学者方谷は備中松山藩を後にした。明治維新後、大久保利通、木戸孝允が三顧の礼をもって明治新政府に迎えようとした。結局、招聘をすべて断り、仕官せぬまま一民間教育者として全うすることになる。
この間、山田方谷を師と仰ぐ河井継之助は新政府軍本陣に抗し、長岡藩を奥羽越列藩同盟に加盟させ北越戦争へと突入する。長岡城を廻る攻防戦に活躍し奮戦するも、武運つたなく破れ会津へ向けて落ちのる。8.17(10.2)日、戦闘で受けた破傷風により死去した(享年42歳)。 1869(明治2)年、65歳の時、長瀬塾舎を増築し子弟教育につとめる。5.11日、土方歳三戦死(35歳)。5月、勝静が江戸で自首、自訴(明治5年に許される)。6月、藩籍奉還が行われる。9月、松山藩は板倉勝弼を藩主とし2万石で再興なる。10月、改称の命により藩命が高梁藩となり勝弼が高梁藩知事となる。長瀬の塾舎を増築して子弟教育に努める。 1870(明治3)年、66歳の時、5月、丸川松陰の墓(新見雲居寺)を参り拝す。10月、小阪部(現阿哲郡大佐町)に住居を移転。引き続き弟子教育につとめる。以後、この塾には全国から数百名の若手が勉強に集まる。「古本大学」を講義する。進昌一郎、川田剛が高梁を去る。 1871(明治4)年、67歳の時。正月、東京から帰国した川田甕江の訪問を受ける。2月、勝弼、東京府貫属を命ぜられる。3月、再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。3月、林富太郎狂死す。7.14日、廃藩置県が断行される。高梁県となる。8月、明新舘(現・真庭市真鍋)の開校に臨み、「大学」を講義する。 1872(明治5)年、68歳の時。正月、勝静が特別の特旨をもって禁固を解かれる。1.29日、小雪没す(19歳)。7月、勝弼より二人扶持を給せられる。8月、三島中洲、高梁を去り東京へ向かう。11月、外祖父母を葬る金剛寺域に小庵を営む。方谷庵と命名。 |
【山田方谷の履歴その13、閑谷(しずたに)学校の教壇に立つ】 |
1873(明治6)年、69歳の時。2月、臥牛亭の移築を行う(当初蓮華寺境内後、八重籬神社境内)。2月、方谷は岡山藩主池田光政が17世紀に岡山県伊里村に開いた由緒ある閑谷(しずたに)学校の教壇に初めて立つ。閑谷学校は、1670(寛文10)年、岡山藩藩主・池田光政によって創立された日本最古の庶民教育の為の学校である。以後、春と秋にそれぞれ一か月、陽明学を講義することになる。大原孫三郎、中川横太郎等々が閑谷学校で学んでいる。10月、征韓論破れ、西郷隆盛ら下野する。10月、閑谷に赴き、王陽明の説による「孟子養気章」を講義する。12月、知本館(現・久米郡美咲町大戸)に赴く。「大学」を講義する。閑谷学校は閑谷精舎の名称で再興された。松山城廃城。この年、地租改正行われる。小田県商社創立さる。矢吹久次郎が頭取となる。 1874(明治7)年、70歳の時。佐賀の乱起こる。台湾征討。11月、蕃山村の草庵に鎌田玄渓と遊び、玄渓の韻に和して詩を賦す。11月、小野組倒産。12.23日、温知舘(現・久米郡美咲町行信)の開校に臨み、論語を講義する。12月、島田組倒産。 1875(明治8)年、71歳の時、4月、高梁にて勝静と再会する。勝静の長瀬での宿泊は3日にわたる。10.14日、矢吹久次郎没す(46歳)。 1876(明治9)年、72歳の時。神風連の乱、秋月の乱、萩の乱起こる。4月、母の実家西谷家の再興がかなう。7月、最後となる閑谷に赴く。8月、知本館を経て小阪部に帰る。これが最後の出張となる。11月、勝静、特旨をもって従五位に叙せられる。12月、病気が重くなる。 |
【山田方谷の履歴その14、逝去】 |
1877(明治10)年、73歳の時。2月、西南の役起きる。西郷隆盛軍が士族の最期の抵抗を試みる。5.26日、木戸孝充没す(45歳)。5月、病勢再び進み、耕蔵が長瀬より小阪部に来て付き添う。 6.22(26日?)日、小南の金剛寺境内にある小阪部の草庵にて死去(享年73歳)。枕元には王陽明全集と、勝静から賜った小刀、二年前に急死した矢吹久次郎の形見のピストルが安置されていた。(終焉の地となったここに勝海舟の題字による遺跡碑が建てられている) 6.29日、西方村の墓地(現・方谷園内)に葬られる。法号、方谷院深文純徳居士。7月、勝静、上野東照宮祠官を拝命する。8月、三島中洲備中高梁に帰り方谷の墓をおがむ。9.24日、西郷軍は城山において全滅し士族の反乱が終結した。10月、中洲東京麹町に二松学舎をおこす。この年、勝静は上野東照宮の祠官(しかん)となり、余生を静かに送った。また、勝弼や三島中洲、川田甕江(いずれも方谷の弟子)の協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立を行っている。 1889(明治22).4.6日、勝静は67歳で没している。 |
【湯治客としての山田方谷考】 |
山田方谷は湯原温泉、下湯原の真賀温泉、鷺の巣温泉(岡山県加賀郡吉備中央町竹荘492-2)を訪ね湯治していたことが伝えられている。
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(私論.私見)