山田方谷の藩政改革考

 (最新見直し2010.05.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 二宮尊徳を知るにつけ同時代の農政家であった大原幽学を確認したくなった。次に山田方谷(やまだ ほうこく)を知りたくなった。ここにサイトを設けることにする。深沢 賢治の「財政破綻を救う山田方谷「理財論」―上杉鷹山をしのぐ改革者」(小学館文庫、2002.6)、「理財論 (山田方谷)」その他を参照する。

 2010.05.22日 れんだいこ拝


【方谷の藩政改革】
 1849(嘉永2).12月、45歳の時。方谷は、江戸藩邸において新藩主・板倉勝静(27歳)により松山藩の元締役兼吟味役を命ぜられた。以降、類まれなる藩政改革に取り組むことになった。幕末とはいえ、農民あがりの一介の儒学者の大抜擢は藩内に衝撃を与えた。上級の武士たちは激怒し、方谷を暗殺するとの噂も駆け巡った。しかし、藩の財政改革をもくろむ勝静は意に介せず叱咤激励し続けた。翌1850(嘉永3)年、46歳の時、藩主・勝静が藩政改革の大号令を発し、方谷が責任者となって藩政改革を断行することになった。これを確認する。

 新藩主・板倉勝静は白河藩主松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と幕府の要職をつとめた。しかし、幕府の重職を担うことによる出費が激しく藩財政の逼迫させていた。「藩財、家計引合収支大計」により藩財政の収支の試算をしたところ、備中松山藩の通常ベースの財政規模は約五万両であったにもかかわらず、藩の収入は約四万三千両に過ぎず、支出は約七万六千両もあり年間の収支不足は、三万三千両になっていた。藩の財政規模の約二倍に相当する十万両(現在の金額に換算すると約百六十億円)の借金を抱え、利息だけでも約一万三千両に達していた。加えて「武備一切金」や「異国船武備臨時金」といった多額の臨時的経費が計上されていた。参勤交代の際、「貧乏板倉が通る」と揶揄され、東海道の駕籠かきから「貧乏板倉の駕籠はかくな」と云われ敬遠されたほど備中松山藩の財政は危機的状況にあった。評者の解説では「松山藩の表高(公称)は5万石だが実高は2万石に足りなかった。藩の借金が大坂の蔵元を中心に10万両に上ることが判明し、毎年の入りの収入の5倍の債務があることを意味している」とも表記されている。以前の元締役は粉飾決算で借金に借金を重ね破産状態にあった。これを外部に隠していた。方谷は、この財政再建に向かうことになる。 方谷が説く理財論および擬対策の実践となった。

 その骨格となる大方針は次のことにあった。
まず「入るをもって出ずを制する」為に奢侈を禁じ、質実剛健を旨とさせた。次に、方谷自らが率先躬行し範を示した。次に経理の流れを情報公開し、不正の動きを差し止めた。これだけでは従来の諸改革とさほど異なるものではない。方谷の真面目は、次に「入る」の徹底化にあった。その為の有効にして実益のある諸改革を次から次へと手がけて行くことになった。これが後の明治新政府の殖産興業、富国強兵政策の先駆けとなったと云う意味で実に貴重な史実を刻んでいるように思われる。

 春、方谷はまず債権者が集中している大坂に出向き、銀主に対し藩の借金の返済期間をのばしてもらう交渉を開始した。方谷は、蔵元の商人を一同に集め、持参した帳簿を見せ、備中松山藩の財政状況を説明し、借金10万両の一時棚上げ猶予を申し入れた。「わが藩は、表高5万石であるが、実際は2万石にもみたない。このようなことを表ざたにすることはないのだが、この場は隠し遂せたとしても、借金が返済できなかったなら、信義にも劣る。借金は必ず返済する。踏み倒すつもりは毛頭ござらん。伏してお願い申す。その手立てだが、米に頼らず、産業を興せば必ず借金は返せる。借金を棚上げしてもらった間に藩の財務体質を正常化させ、そのうえで改めて新規事業に投資する。そして新規事業で得た利潤で負債を返済していく。その間は新たな借金は頼まない」云々と説明し助力を頼んだ。既に矢吹久次郎を盟主とする中国地方庄屋ネットワークの新資金ルートが約束されていた。大阪商人は、示した再建計画(産業振興策)が緻密であることに感応し、利子の免除、50年の借金棚上げ(返済延期)を承認した。

 新規事業の投資は「鉄」であった。備中にある豊富で良質の砂鉄を使って、この地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、釘、刃物、鍋、釜、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造した。当時の人口の80%を占める農家相手の農具としての備中鍬を商品開発した。備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬で、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに便利な鍬で従来品に比べて作業効率が良かった。これが大ヒット商品となった。


 
また、自ら開墾を行い、農産物の特産品づくりに精を出した。タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。ブランド品の誕生であった。他藩の専売制とは逆に生産に関しては生産者の利益が重視され、藩は流通上の工夫によって利益が上げるようにした。販売方法も苦心し、領内の産物は松山城下に集荷され、問屋を通じて高瀬舟で松山川(現在の高梁川)を下し玉島港に卸し、そこからは外国船を購入し自前の輸送船(蒸気船「快風丸」)を仕立てて江戸に物資を運んだ。板倉江戸屋敷で江戸や関東近辺(鍬は農村の需要が高かった)の商人に直接販売する方法を確立した。西国の藩は産物を大阪に卸すのが常識であったが直接販売に目をつけた。中間マージンを排除しすることで利益を上げた。売却代金は、江戸藩邸の公費に充て、以後、藩地からは資金を用達する必要がなくなった。余剰金が大坂の負債返却と藩地での永銭兌換の準備に充てられた。藩士たちに航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄もこの航海演習に参加したことがあるという)

 また、備中松山藩内に販売を司どる「撫育局」(ぶいくきょく)を設置し、収納米以外の産物の生産、流通、販売を藩の直営とした。商業が低く見られていたこの時代に藩直営の商事業を創造した。これを専売事業にすることで巨万の富を得た。

 並行して、大坂の蔵屋敷に担保に取られていた米を受け渡して貰い、領内に40ケ所の義蔵所を移設し、堂島米市場の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。実際に飢饉があった時に義倉所を開けて米を供出し、方谷が備中松山藩の参政(総理大臣)として藩政を任されていた20年間、藩内では百姓一揆が一度も起きず餓死者も出していない。近隣の他藩の農民たちは、備中松山藩の農民たちを羨んだと語り伝えられている。

 その後、藩札の信用回復にも手をつけた。商品売上資金で、いつの間にか不換紙幣となって民衆の信用を失っていた藩札(紙幣)を正価で買い戻した。三年後に回収した藩札711貫300匁(金換算で11,855両、現在の12億円)を河原にそっくり積み上げ、民衆が見守るなかで焼却した。「火中一件」と云われる。そのことで藩札が信用回復し、新藩札の永銭札には藩に兌換を義務付けた。その為に一気に流通し、経済活動が活性化することになった。信用度が増して「松山札は随一なる由」の評判が立ち、他国の商人や資金が松山藩に流れるようになった。新製の永銭札を資金として領民に貸し付け、産業を奨励し、その生産物を「撫育局」に納めさせた。

 他にも、農民からの取立てを減らし、飢瞳になれば真っ先に餓死していく農民に対して徹底した保護策をとった。新田開拓を奨励し、そこで取れた米には租税を徴収しなかった。そして、藩をあげての殖産興業によって財政が豊かになると税を軽減した。これが農民の生産性意欲を刺激した。減税したにもかかわらず米の生産は倍加し、藩の米蔵は満杯となった。商人の事業を活性化させ、見返りとして税を増やした。

 同時に藩をあげての大倹約令を断行した。上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、上級武士の俸禄を減らし節約を命じ、賄賂や接待を受けることを禁止した。これは、松山藩の藩士たちの反感を買った。「山だし(山田氏)が何のお役に立つものか。子(へ)のたまわくような元締。お勝手に孔子孟子を引き入れて尚このうえにカラ(唐)にするのか」。武士たちをさらに怒らせたのは辺境の地の農地開墾にあたらせたことであった。この為にたびたび命を狙われた。

 方谷自ら山間に移り住み率先垂範、農事に励んだ。また、方谷が賄賂をもらっているとのうわさが立ち、清廉潔白を示すために、方谷は、減俸率は他の藩士の倍として俸禄を中級武士並みにとどめ、方谷家の家計を他者に委任しガラス張り公開した。下級武士に対して、一種の屯田制を導入して農地開発と平行して国境等の警備に当たらせた。

 桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川、港湾などの公共工事を起こして貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。他にも、目安箱を設置して領民の提案を広く訊いた。犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。

 軍事、教育の改革を行った。画期的なのは、農民、商人などの民衆の教育に力を入れた。家塾13、寺子屋62は、近隣の大藩の数を上回った。そして、その身分に関係なく、優秀な生徒は藩士に取立て役人に抜擢していった。「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。それは、大きな力となる。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう」。農家出身ということもあり、農家の気持ちがわかった為政者であった。

 方谷は、1857(安政4)年、52歳で大蔵大臣の職を辞すまでの8年間に十万両の借金はなくなり、逆に十万両の蓄財ができた。改革は見事に成功した。上杉鷹山公の改革が百年越しの改革であったことを思えば驚異の治績を示したことになる。イギリスの経済学者ケインズ(1883-1946)に先立つケインズ政策の先行者であり、日本でのケインズ革命を実践したことになる。

 特徴的なことは、陽明学者としての方谷の才能がいかんなく発揮されたことであった。方谷は、朱子学を奉ずる幕藩体制が義に適った利までも卑しみ、結果的に正当な勤労による利益まで否定的に捉えてしまう欠点に気付いていた。これにより、当時の幕藩体制ではありえなかった藩(武士)による商業活動を臆することなく手がけることになった。これに対して非難の声を受ける事もあったが、この批判を一顧だにしなかった。これによって、松山藩の収入は20万石に匹敵すると云われるようになった。






(私論.私見)