いわゆる知識人の天理教批判の位相考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.6.4日
(れんだいこのショートメッセージ) |
いわゆる知識人の知性からすれば、天理教は淫祀邪教で、今日的な意味でカルト教団視されてきた。当時の知識人の西洋事大主義が良く現われていると云えよう。以下、識者の批判的天理教観を確認しておく。 2007.10.25日 れんだいこ拝 |
【明治14年7.17日の「大坂新聞」紙面での宮武外骨氏の論評】 | |||
宮武 外骨(みやたけ がいこつ)(1867.2.22日〈慶応3年1.18日〉 −1955〈昭和30年〉7.28日)は日本の明治・大正期のジャーナリスト。政治家や官僚、行政機関、マスメディアの権力腐敗を言論追及した。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えた。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設している。 | |||
|
【外骨より二十年後、中江兆民の論評】 | |||
|
【幸徳秋水の論評】 | |||
|
【天理教ないしは教会本部批判史】 |
「天理教6.教団への指摘」参照。 |
「応法の道」、戦後の「復元」評価考 現在の宗教法人天理教教会本部と中山みきの教えは明らかな違いがある。明治期の「応法の道」と呼ばれる諸改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張は歪曲され権力に迎合した。それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っている。宗教学者の島田裕巳や村上重良、ライターの早川和広らは、そもそもみきは教会公認および設置運動に否定的であった、神意ではなかったと批判している。 稿本天理教教祖伝考 天理教教会本部が編纂した稿本天理教教祖伝は、立教以後のみきの神性を強調し、人間性は問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々を救済する活動のさまざまな現れでしかなかったとしている。ジャーナリストの青地晨は、著書『天理教 百三十年目の信仰革命』の中で、神がかりの時点からのみきが既に神だと見られ、苦悩や希望などの人間的感情が伴わないという教義の解釈は、みきは自己判断の能力を失い、神に操られる人形に等しいことになると述べ、稿本天理教教祖伝の教祖観に疑義を唱えている。天理大学付属おやさと研究所教授の幡鎌一弘も、教祖の50年の「ひながた」と中山みきの現前性(存在証明)の二つに支えられて、教祖死去の明治20年で終わる稿本天理教教祖伝の枠組みそのものが、中山みきの物語を狭めているのではないかと述べている。 天理時報の獣肉賎民食記事考 機関誌である天理時報に「国民は采食主義で鳥と魚は食べたが、獣肉(牛、馬、羊、豚)などは賎民以外は決して食べなかった」と差別的内容とも受け止められる内容の記事を載せたところ、部落解放同盟からの批判を受け、発行翌月に問題の号を回収する事態となった。差別問題に対する理解不足の反省から、天理啓発委員会より「天理ろくぢ」という冊子が発行された。なお「賎民以外は決して食べなかった」は歴史的事実にも反する(日本の獣肉食の歴史)。 八島秀雄教学考 教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長の八島秀雄が1970年代後半に教団批判を展開しており、1979年には櫟本分署跡保存会を発足させ代表となっている。1985年12月に教会の機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し、教祖が教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱したため、翌年に教会長職を罷免されている。その後、八島が教会から立ち退かなかったために、八島と宗教法人天理教との間で裁判が行われている。 この裁判の中では1991年5月31日に東京地方裁判所にて、元天理教表統領清水国雄が「八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。また、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない」という内容の証言を述べている。八島教学とは八島の著書『中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々の逸話が否定されている。この八島の異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部の機関紙『あらきとうりょう』149号で、唯物論的で教祖の実在からかけ離れていると批判し、史料と合わせて反駁していほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。 植田義弘教学考 みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘は多数の著書の中で、現在の教団の原典に対する態度を批判している。特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された」という稿本天理教教祖伝の記述は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を湾曲化して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。 また、これに関連して嘉永6年(1853年)、みきの五女・こかんの「浪速(現在の大阪)での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾が生じている。 芹沢光治良の教団本部批判考 また天理教との関わりが深かった小説家の芹沢光治良は著書『教祖伝』にて、教団成立を認めず、真の信仰世界を求めている教祖中山みきと教団を作ろうとする弟子との理念の衝突に関する描写によって、教団批判の立場が見られる。また「教団というものは、神の教えにも、人間の信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている。1987年に発表された『神の慈愛』でも、天理教で教祖中山みきの死後、「をや」の言葉を取り次いだ人が本席と呼ばれる飯降伊蔵のみであることに触れ、飯降の死後、存命の教祖は教祖殿に納まり、教祖の言葉を取り次ぐ者も天啓者も現れないとして、天理教の指導者である真柱が神の代理者となり、真柱が中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会に公布した、という内容を述べている。 弓山達也の天啓者不在論考 宗教学者の弓山達也はこのことに関連して著書『啓のゆくえ―宗教が分派するとき』でほんみちやほんぶしん、おうかんみちなどの宗教団体が天理教から分立したことについて、特に飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ、中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している。 |
(私論.私見)