天理大学憲章考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「井出くに考」をしておく。

 2007.12.28日 れんだいこ拝


【】
 平成28年3月3日、天理大学ふるさと会顧問 森井 敏晴「『天理大学憲章』の策定に向けて」。
 天理大学における「天理教性」の在り様を、現代という時代の流れの中で再度「ふり返る」作業を行う必要がある。

 天理教という宗教団体が運営する天理大学と、天理教の真柱様中山正善様が創設された天理大学の真の在り方を、再考し、創設者の思いにお応えすることへの強い問題意識の提示。

Ⅰ.「天理大学」設立の目的
1.「天理外国語学校」創設時の建学の主旨をふり返る

 大正14年(1925)2月、中山正善二代真柱が「天理外国語学校」を創設した。その目的は「学則第一条」に「天理教ノ海外布教ニ従事スベキ者ヲ養成スルヲ目的トシテ現代外国語ヲ教授スル所トス」と明記し、天理教の海外布教師養成のための外国語を教授する学校として創設された。同じ年に「天理女子学院」も上記の目的によって創設された。

 同年4月15日、104名の入学者のもと、「天理外国語学校」の第1回入学式が挙行された。続く4月23日には二代真柱様が成人に達せられたことにより、管長職を継承された。二代真柱様はこの4月23日の御誕生日をもって「外国語学校」の創立記念日として制定された。このことについて「第37回天理大学開学記念式」(昭和37年(1962)4月23日)において、次のようにお話しになっている。
  確か、その頃の天理中学というものが、文部省からの認可の日ですか、そういうものを基準として、1月15日という日を創立記念日にしていたように思うのであります。(中略)
その若気の至りの結果、何か自分では得心がいくようにこの記念日をきめたいという考えの上から、どうも私の誕生日をそれに当てたような気がするのです。その頃の私にしてみれば、これが一番学校の誕生日として、ふさわしいと思った。というのは、私の一生の間において、いわゆる海外布教の実をおし進めたい。言いかえると私の命にかえて、外国語学校というものをみていきたい。こういうような、甚だ不遜な考えを持っていたのであります。

 二代真柱はご自身のご誕生日を外国語学校の創立記念日とされたことについて、このように仰せになり、外国語学校の存在はご自身の「命」そのものであると自覚している、という固いご決意の程を内外にお示しになった。創設者は天理教の「真柱」でもある。天理教教団の中心のお立場である。そのお立場にある二代様が「私の命にかえて、外国語学校というものをみてゆきたい」として設立されたものであるならば、天理大学はまさに天理教の中心部から生まれ出たものであるとの認識が必要となる。この認識なくしては天理大学の現在と未来にわたる展望を語ることはできない。そうした意味で、天理教信者以外の大学関係者は、現在に至るまで、天理大学がそれらの人々の信仰と立場の自由を尊重してきたのと同じように、天理大学における「天理教性」を尊重することが求められる。

 昭和3年(1928)、「外国語学校」と「女子学院」の第1回の卒業以来、昭和17年(1942)に至る14年間に「外国語学校」から978名が、「女子学院」から65名がそれぞれ卒業し、その合計は1,043名になる。1,043名のうち、海外へ布教のために赴いた人数は368名であった。これは卒業生総数の35.3%に当たり、およそ3名に1人が海外布教に従事したことになる。これにより、「外国語学校」と「女子学院」はその創設の目的である「建学の精神」を全うしていたことが明確に認識できる。したがって私達が天理大学の現在を語るとき、その創設時代、先輩達は教祖の世界だすけの教えに殉じ、世界各地にその布教地を求め、身命を賭して海外に雄飛したという壮絶な歴史的事実が存在していたことを心に銘じなければならない。

 終戦直後の昭和23年(1948)4月、「外国語学校」、「女子学院」をその母体として、「天理外国語大学」の名称案のもと、「宗教学科」と「国語」を包含した「文学研究学科」の二学科からなる単科大学として設立認可申請を行った。しかるに「天理外国語大学」案は認可されず、やむなく「天理大学」案として申請し、24年2月に認められることとなった。その内容は「文学部」として宗教学科、国文学国語学科、中国文学中国語学科、英文学英語学科、仏文学仏語学科、独文学独語学科、朝鮮文学朝鮮語学科など各国の文学研究とそのために必要な語学の修得を行う学科が主であり、ロシア、イスパニア、インドネシアなどのいわゆる「外国語学科」はやむなく除かねばならなかった。(このうち朝鮮文学朝鮮語学科は天理大学創立時の昭和24年には発足できなかったが、1年後の昭和25年3月に認可の運びとなった。)こうして「外国語学科」を除く「宗教学科」と「文学研究学科」の二本の柱をもって「天理大学」はその創立を見るに至ったが、この時の森戸辰男文部大臣に提出された設立認可申請書には、次のように述べられていた。
 本大学は、天理教教義に基づく豊かな宗教情操教育の裡に、宗教学と国文学国語学並に諸外国文学諸外国語、及びそれを根底とする文化とを教授する単科大学として、一つには宗教に関する理論と実践とについて、古今東西の人類文化に亘って広くこれを教授研究すると共に、又世界各宗教と比較相対しつつ、天理教教義の真諦に触れることによって、一つの新しい宗教的視野を展開しようとするものである。二つには国文学国語並に諸外国文学諸外国語及びそれを基盤とする文学を教授研究することによって、世界諸民族に対する学術研究の進歩に貢献すると同時に、それ等諸民族との文化交流の重要なる責務の一端を果さんとするものである。従って本大学において育成せられる人材は、教養高い社会人としての天理教師(現在はよふぼく・教人を指す)、並びに天理教精神によって涵養せられた国際的文化人として、社会の各界各層にあって、その指導的立場で活躍する者であることが予想せられる。(『天理大学五十年誌』より)

 大正14年(1925)「天理外国語学校」創設時の学則に明記された「海外布教ニ従事スベキ者ヲ養成スルヲ目的トシテ現代外国語ヲ教授スル所」という文言を盛り込むことができなかった。その理由としてアメリカGHQが深く関わっていたことによる。認可申請書の提出先は表向き日本の文部省ということになっていたが、実質的にはアメリカGHQの承認が必要であった。昭和23年(1948)「天理外国語大学」案から「天理大学」に名称の変更をせざるを得なかったのは、GHQの指示を受けた日本の文部省によって、変更要請を受けたことによる。
 2.「天理外国語学校」創設時の建学の主旨への「復元」

 昭和26年(1951)9月、日本と連合国との間で「対日講和条約」が締結され、日本は「独立」を果たすことになる。その結果、文部省に対するGHQの圧力の減少もあって、その年の10月に天理大学はただちに「外国語学部増設認可申請書」を文部大臣に提出した。翌27年(1952)2月、「外国語学部増設」が認可された。新たに認可された学科はドイツ語、フランス語、ロシア語、イスパニア語、インドネシア語の五学科であった。この「外国語学部」増設の認可によって、「天理大学」ははじめて、大正14年「天理外国語学校」創設時の学則第一条「海外布教師養成」という設立主旨に添う大学として「復元」することができた。このことについて当時の堀越儀郎初代学長は次のようにその喜びを述べている。
 この度、文部省から天理大学学則改正について認可内定があった。その精神は、海外伝道を主として設立された天理外国語学校が、復活したものと思っていただければよい。戦後、教育界の改革が、外国語専門学校のとき大学に切り換えられ、本大学としても当然、外国語大学となるべきものであったが、その当時は語学大学の制度が認められず、文学部の形式で大学を設置したのだが、その後、語学大学が認められることになり、語学部を独立させて、本教における海外布教師養成という最初の設立主旨に返り、大学に増設したのである。講和条約の実施される現今、海外布教を目的とする本来の外国語学校の精神に返ったことは嬉ばしいことである。(『五十年誌』)

 これは「天理外国語学校」時代の創立主旨に「復元」したこと、このことはとりもなおさず体制の「復元」のみではなく、建学の精神の「復元」であることを表明したものであった。

 ちなみにこの時の学則第一条は次のとおりである。
 第一条 本大学は教育基本法及び学校教育法に則り、天理教教義に基づいて広く知識を授け、深く学芸を究め以て人類文化に貢献する人材を育成することを目的とする。特に外国語学部においては諸民族の言語並びに文化に関する高等専門の知識を授け、世界文化の発展に寄与する人材、殊に海外布教師を養成する、、、、、、、、、、ものである。

 昭和27年(1952)からさかのぼること26年、大正14年(1925)に創設した「天理外国語学校」の、学則第一条に謳いあげた建学の精神と、ほぼ同じ文言を盛り込むことができた。このことを一番喜ばれたのは創設者二代真柱様ではなかったかと思われる。二代真柱様は昭和30年4月の「天理大学創立三十周年記念式」の席上でのお言葉によく現れている。
 単に学則によっての新設、あるいは改まった学校という気持ちじゃなしに、空気において、伝統においてのつながりを感じとるということが、私、単に創立の関係者であるという意味においてだけではなくて、諸君の将来を思い、あるいはいわゆる学の精神を考えましても、当然結構なことと存ずるのであります。……続くということは、これは結構なことだと思うのであります。とともに、いかに切り替えたところで、切り替えのつかないものがあるのであります。

 創設者二代真柱様は終戦時の昭和20年(1945)、全教に対し間髪を入れず「復元」を宣言された。このことは本来の元を極め、根源をたずね、教祖の教えの本元に立ち返ることを意味するにとどまらず、昭和27年の「外国学部」増設時に「海外布教師を育成する」という文言が謳い上げられたことは、まさに天理大学を天理大学たらしめる「復元」であり、それは同時に、昭和20年の教団の「復元」と相俟って双方の「復元」が達成されたことを意味するものであった。

 3.「天理大学」における「特殊性」と「一般性」の融合

 もとより天理大学は「教育基本法」に基づき運営されるものである。このことは「学則第1条」に明記されているものであったが、二代真柱様は大学教育の「一般性」(公共性)と宗教教団が運営する大学の「特殊性」について、念を入れて昭和28年(1953)に、宗教学科生に対し、このように述べておられる。
 諸君は一般の学生生活のあり方の上に、天理大学の学生としての特質を完備してほしいということであります。即ち、各々が能力を発揮して、天理大学の特殊性、、、を一般性、、、の上に加えてほしいと思うのであります。(「成人会」発会式におけるお言葉)

 ここに言われる「一般性」とは、昭和22年に制定された「教育基本法」が平成18年12月に改定が行われたが、その第八条(私立学校)に「私立学校の有する公の性質、、、、及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ…その自主性を尊重し…」とあるように、「公の性質」を意味するものである。一方二代真柱様の仰せになる「特殊性」とは、同じく第十五条(宗教教育)に「宗教に関する寛容の態度、、、、、、、、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」とする定めに明確に準拠しているものである。それ故に「特殊性」とは「天理教性」と同義である。私達はこのことを強調されたことに、特別の注意を払わねばならない。

 したがって学校法人天理大学の設立目的が「教育基本法及び学校教育法に従い、あわせて天理教の信仰に基づく宗教教育を行うため、私立学校を設置することを目的とする」とあるのは、当然のことであろう。しかしながら「大学」には、さらに広い意味での学問研究の場が与えられている。その中でも、宗教教団が持つ大学の理念というものは、神の子としての人類が――宗教・思想・文化・言語・政治の違いによって、互いにコミュニケーションができない状況においてさえ、人類互いに兄弟であり――神の懐の中にあって、一つになりうることを実感できる研究分野の開拓、つまりその研究を通して、共同体としての人類が、地球規模での様々な問題の解決に立ち向かうことのできる「知」と「学」の樹立を目指すという使命が要請されるのであろう。そのためにも、あくまで「建学」の「特殊性」(天理教性)を中心に据えつつ、その上での「一般性」(公共性)との融合を求めなければならない。

 二代真柱様が示された「天理大学の特殊性を一般性の上に加えてほしい」というお言葉は、決して教団の長としての個人的意見ではなく、充分に法令をコンプライアンスされたご発言であった。したがって、天理大学におけるカリキュラムや課外活動計画の作成にあたっては、特に「特殊性」と「一般性」との融合にさらなる努力が必要であることはいうまでもない。

 4.創設者の「命」としての天理大学 

 5.三代真柱様と真柱様の平成四年の「改革」への御見解

 平成4年(1992)、天理大学は創立以来の大改革を断行した。その「新学部・学科開設記念式」が同年5月11日に行われた。この時の三代真柱様のお言葉は「これは改革というより復元である、、、、、、、、、、、、。復元でありながら前進の道を開いて天理大学の前身である天理外国語学校の創立の精神を一層発揮しやすいようにはかったものと考える」という前置きのもと、次のようにお話しになっている。
  天理外国語学校といえば、海外伝道のための語学教育がまず云々されるが、信条教育も重要な教育課題の一部分であったはずだと私は信ずる。このことは天理外国語学校が天理教の専門学校であるということを思うと当然だと言えば当然のことである。やがて、この当然のことが許されなくなった。やがて第二次世界大戦が終わり、国の教育制度が改まった。私は今にして思えば、天理語学専門学校を天理大学に昇格させた時、復元の機会があったと思えるのであるが、その時代はまだ国情が騒々しくて、世情におされてもう一つ思い切った教育内容を盛り込めなかったのではないかと推察している。思い通り盛り込めない内容というのは、本教の大学だから天理教の教義に基づいて教育する、という点が甚だ控えめだったように思われる。この度、旬がきたとでも言えるのか、天理教学がかなり比重を占める改革内容を見て、私はやっと創設者の建学の精神を涵養する道をつけることができた、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ことに対し、非常に嬉しく思う。

 先にも述べたように、戦中・戦後の混乱した状況の中にあって「天理外国語学校」も「天理大学」も、必ずしも創設者の強い思いを実現することが困難であったことを了解された上で、平成4年の「改革」は「改革というより復元である」と仰せられ、「やっと創設者の建学の精神を涵養する道をつけることができた」と喜ばれたのであるが、事実は必ずしもそのような改革ではなかったことが年を経る毎に明確になりつつある。平成4年の改革が「開かれた大学」(「天理時報」平成元年2月12日号)というスローガンのもと、現在の「創造」と未来の「形成」のみに重きが置かれ、「過去の地平」との「融合」、つまり「特殊性」と「一般性」との融合という創設者の理念を欠落した改革であったとすれば、それは「建学の精神」という過去の重要な教育遺産を切り崩すことによって成立した、いわば跛行性の強いバランスを欠いた改革であったということになる。もしそうであれば、天理大学は将来にわたり、宗教教団の大学であるが故の混乱を引きずりながら不幸な歩みを続けざるを得ないということになりはしないかと危惧するところである。
 
 天理大学は平成27年4月23日、真柱様御臨席のもと、創立九十周年記念式典を執行した。その席上真柱様は、前記の三代真柱様の御心を享け、「復元改革」に触れられ、次のようにお話しになった。
 平成4年の改革に当たり前真柱様が「このたびの改革は、復元のための改革である」とされた上で、教内大方の真実に報いる布教伝道に役立つ研究、教育の徹底を促されたことを常に心して頂きたいと思うのであります。復元への努力は、、、、、、、、いつの時代にも心がけなければならない、、、、、、、、、、、、、、、、、、ことであると思うのであります。時代と共に、その時代の考え方や社会の風潮に流されることによって、教えを自分勝手に歪めていはしないかが懸念されるのであります。大学にとって復元とは創設の根柢にある神一条の精神に徹して、世界の陽気ぐらしに貢献することを意味すると思うのであります。

 このお言葉は、平成4年の改革から24年後の現在に至るも「復元改革」の実があげられていない天理大学の現状に対し、創設者の精神に還るために仰せられた、三代様の「復元改革」とのお言葉を、真に享けて、それを実現するための体制づくりを暗に促されたと考えられるようなお言葉であった。このことをさらに考えれば、何故三代様の最初のお言葉から24年の経過ののち、再び「復元」に――それも二代にわたって――言及されたのか、このことを私達はどのように受け止め、どのようにお応えすべきか、熟慮の上何らかの具体性と継続性を伴った体制づくりをもって、お応えする必要があるのではないか。このことは現在の天理大学における喫緊の課題である。

 6.「天理大学」のあるべき「伝統」

 こうした状況に関連して、創設者ならどう御判断されたであろうかということは誰しも思うことであろうが、「外国語学校」から「大学」と名を変えた歴史的な流れに対する思いを率直にお述べになったお言葉がある。それは「天理大学四十周年記念式」(昭和40年4月23日)におけるお話しである。
  私自身にとってみれば、いわば大学という、天理大学というものは、40年前に誕生したのである。前の名は外国語学校と申しましたが、むしろ今日の場合にとって申しますならば、前の名ではなくて、幼名、、を天理外国語学校と言ったとお考え頂く方が、いいのではないか。長じて、、、天理大学と申すようになった。その間に名前の上に於いて、長じたか長じなかったか、外国語学校が幼くて大学が成長しておるか、そんなことはどうでもいいんでありますが、歴史的な意味から言うならば、幼名、、と成人名、、、と、かように考えて頂いて、その間の二つの隔たりというものを、二つの区別というものを附けないでほしいと言いたいのが、私の希望であります。伝統の起こり、、、、、、は、大学という名が附いてから始まるのではなく、創立された時から動くのが自然の勢いである。かように考えて頂きたい。

 こうしたお言葉から思うことは、一つの共同体が長い歴史を通して培いつくりあげてきた精神は、時代の移り変わりや思想の変化によって、後の時代の我々がその時の都合や恣意によって処理変更してはならないもの、それがあるべき「伝統」である、ということである。しかし伝統は長い歴史を包含している故、当然のことながら断絶や亀裂が生じることがある。それ故に、過去の伝統が発する「真理」が、現在の私達に「要求」するかすかな呼び声をしっかりと聞き取りつつ、それを現在の「状況」の中に「適応」してゆくこと、つまり過去と現在とが「融合」することなしには「普遍」は得られないということであり、逆に言えばこうして得た普遍性こそが、真の「伝統」ではないかと考える。したがって「伝統」とは、単純に過去から現在に連綿として受け継がれてゆくものではなく、断絶といういまわしきものを乗り越えつつも、断固としてそれを継承しようとする、魂の働きによって形成されるもの、ということができるのではないか。言いかえると、真の「伝統」を継承するという強固な意志によってこそ、現代的価値の高いあるべき姿を「創造」することができよう。こうして得た「伝統」こそ、過去の「再現」であると共に、現在における「創造」であり、過去によって規定されつつも、新たに未来を「形成」してゆくものである。したがって、創設百年に向けた天理大学の目指すべき目標は、一にかかって二代真柱様の創設の原点に立ち返り、その「復元」の道を目指された三代様の思いを吟味しつつ、さらに三代様の思いを享けて「お道の大学に相応しい大学になるように」と示された真柱様のお言葉にお応えするところにある。それは同時に「一般性」(公共性)と「特殊性」(天理教性)との、見事な「融合」を模索しなければならない使命そのものでもある。このことこそ、創設者の思いにお応えする私達のつとめである。このことを踏まえたカリキュラムや新しい天理大学の方向性などの分野の開発の努力なくしては、創設後九十年を経て百年を目指す大学の真の「復元」はあり得ないということは明白である。

 Ⅱ.天理大学の「特殊性」(天理教性)とその展開

 天理大学の目的は、実質的には、大正14年2月、中山正善二代真柱様が「天理外国語学校」を創設した時の学則第一条「天理教ノ海外布教ニ従事スベキ者ヲ養成スルヲ目的トシテ現代外国語ヲ教授スル所トス」を踏襲している。しかるに、昭和24年の開学時にはその条文を明記することができず、「第一条、本大学は教育基本法及び学校教育法に則り天理教教義に基づいて、、、、、、、、、、広く知識を授け、深く学芸を究め以て人類文化に貢献する人材を育成することを目的とする。」いう条文をもって目的とせざるを得なかった。こうして天理大学は開学されたが、昭和27年に「外国語学部」増設を申請するに際して、はじめて「海外布教師を育成する」ものであるとの条文を「復元」させることができた。ここにはじめて「天理教教義に基づいて」という文言と「海外布教師を育成する」という建学時の原一点に立ちもどる文言を加味した条文が策定されたのである。まさに「建学の精神」の「復元」である。天理大学開学以来3年目のことであった。
 1.創設者の「志」としての「特殊性」

 天理大学の「建学の精神」には、その創設時の創設者の強い思いが凝縮された「海外布教師養成」という文言が厳然として存在している。このことについて「私立大学の大学案内は、建学の理念、『志』を社会に訴える場として不可欠なものとなっている。『公』教育の担い手としての自己認識の表明であり、『志』に立って建学しているのであるし、『志』をもって社会的認知を獲得し、この伝統を糧として発展してきたのである。」(大西健夫、佐藤能丸編著『私立大学の源流―「志」と「資」の大学理念』、学文社、平成18年3月)とする見解がある。ここに言われる、私立学校といえども、「『公』教育の担い手としての自己認識」とは、「教育基本法」の定めによる「公」の部分をその基本としている、という意味の強調がある。それが創設者の言われる「一般性」という言葉になってあらわれる部分なのであろう。しかしこの著者は私立大学には「公」以上に、「志」の重要性を社会的に認知させる必要があることをはからずも強調している。創設者はこのことを「特殊性」(天理教性)という言葉で表現されたのであろう。この二つを違和感なく融合し、両立させることをもって、グローバルな社会に対応できる人格の形成に向かう教育を目指されたものである。創設者は、このことに関連するお言葉として、次のように仰せになっている。
官公立の学校には、それぞれ、公の人を教育するという、一つの役割を担っているのであります。私立の学校は、大学は必ずしも官立学校のお手伝いをする教育の庭である訳ではありません。官立の学校に対しては、国の必要とするような人材を養成するということがありますが、私立の学校には何らかの目的に適った人を、それぞれ育てていくのである。(「天理大学創立四十二周年記念式」昭和42年4月23日)

 2.創設者の「海外布教」は「陽気ぐらし」世界実現を目指すもの

 創設者が目指された「海外布教」(「世界だすけ」)という言葉は、大変幅の広い意味を包含している。この言葉の持つ意味を解釈してみると、深く広い本教の教義(教理)は、現代社会(世界)が目指している「グローバル」という表現では表しえない、新たな信仰的「信」の世界観と、深い真理性を包含していることがわかる。しかしこうした信仰的「信」も、実は異民族・異文化との関わりなくしては、真の理解に達しえないことを認識されていたからではないか。このことを考えるための重要なキーワードとして、次の教祖のお言葉が胸に響いてくる。
 せかいぢういちれつはみなきよだいや たにんというわさらにないぞや(十三号43)
 このお言葉には天理教教理の中核を担う重要な意味がある。「いちれつ兄弟」という教えは耳には快く響くものであろうが、いざ実行となるとこれほど困難なことはない。そのように人を愛し、そのように人を尊び、そのように人を大切にすることはお互い十分知ってはいても、血を分けた親子の仲、兄弟姉妹の仲でも、現実に遭遇する相克は誰でもが経験する。いわんや異文化の中で異民族同士が、兄弟の如き心で振る舞うことは至難のわざである。「海外布教」を通して長い異民族達との付き合いの間には、時として受け容れ難い関わりが発生し、理不尽な諍いが起こることがある。それは同民族・同文化の中で発生するものとは基本的に価値や質の異なるものとの相克である。そんなときにあっても、教祖はそれでも心の痛みに耐え誠真実をもってそれを越えよと教えられる。真の「いちれつ兄弟」の実践をその地において行うこと自体、それはもう一つの自己修行である。それは同質の集団の中では決してつかみえない貴重な痛みなのであろう。教祖の教えはしばしば同じ民族、同じ文化の中に生きる人々の中からよりも、異民族、異文化との関わりの中から、より真の教えの理解に到達できる真理や悟りが多数存在しているように思われる。創設者は「海外布教」という言葉・行為の中にこうした深い意味を読み取り、このことを通して人間完成に向かう一つの方向性として、それを大学教育の中に求められたのであろう。その意味では、今や「海外布教」という概念は、諸国家、諸民族、そして全人類の目指すべき融和、許し合い、寛容、扶け合い、献身、そして何よりも「陽気ぐらし」世界の実現という、人間世、、、界の最高価値を代弁する言葉、、、、、、、、、、、、、である、と言い変えてもよいのではないか。創設者は「海外布教師養成」という言葉を使いつつも、そこから生まれる思想、または人間として、「世間の荒波に揉まれた時の天理スピリットとして振り返っていただけるところの一つの根性」(「天理大学創立四十二周年記念式におけるお話」昭和42年4月23日)を持たねばならない使命といったものがにじみ出るように、教職員学生が理解することを期待されていたのではないか、こうした姿勢が信仰ある者もそうでない者も共に、いわゆる「天理教性」「天理精神」を身につける学びが行える教育を目指されたゆえんなのであろう。

 3.天理大学は世のあらゆる困難を越えるための「天理スピリット」を涵養する所

 創設者は、このことに関連するお言葉として次のように仰せられている。
  この大学は何か、教祖の、天理教の教祖の御理想を一つのバック・ボーンとして生まれて来たところの大学であります。現在は信仰があろうとなかろうと、、、、、、、、、、、、、その精神によって運営されておる学校に、承知の上で入学されたのが諸君である。この精神によって陽気な人間、、、、、となるようにするのが、諸君に対する私の希望であります。宗教学科の連中のみに言うのではありません。語学部の連中に言うのでもありません。体育学部の諸君に言うのではありません。どの学部におろうと、諸君は志した以上は、どんな苦節に当たろうとも挫折をしないという不屈の精神を、この大学に於て養っていただきたい。これが基礎教育と申しますか、基礎訓練と申しますか、他日布教の戦線に出て、或いは世界の荒波に揉まれた時の天理スピリット、、、、、、、として振り返って頂けるところの、一つの根性と相成るだろうと思う。魂と相成るだろうと思う。この不屈の精神、それを持場持場の学部に於て進めて頂きたいと願うのが、私のお願いなのであります。特に教内の諸君に対して一言致したい。勿論これは未だ信仰にお入りになっておらない諸君に対しても同様であります。当大学の一員として卒業された以上、人に対しては親切を以、、、、、、、、、、て旨にする、、、、、ということを身につけて頂きたい。(「天理大学創立四十二周年記念式」昭和42年4月23日)

 このお言葉は昭和42年4月のことであるが、二代様がお出直しになったその年のお言葉である故、まさに天理大学に対する最後のお言葉であった。それだけに一層の重みを伴って私達に迫って来るものを覚える。そしてこのお言葉は創設者として言い残さねばならないことを全て言いつくしておられるようにも思われる。すなわち、天理大学は「天理教の教祖の御理想を一つのバック・ボーンとして生まれて来たところの大学である。」「現在は信仰があろうとなかろうと、その精神によって運営されておる学校に、承知の上で入学されたのが諸君である。」「この精神によって陽気な人間となるようにするのが諸君に対する私の希望である。」「宗教学科、語学部、体育学部の全学部の諸君は志した以上はどんな苦節に当ろうとも挫折をしないという不屈の精神をこの大学で養っていただきたい。」「他日布教の戦線に出て、或いは世界の荒波に揉まれた時の天理スピリットとして振り返って頂けるところの一つの根性と相成るだろうと思う。」「この不屈の精神、それを持場の学部に於て進めて頂きたい。」「教内の諸君も、未だ信仰にお入りになっていない諸君も、当大学の一員として卒業された以上、人に対しては親切を以て旨とすることを身につけて頂きたい。」。まさに解説無用、熟読含味あるのみのお言葉である。

 こうしたことから、私達は天理教全体に対して、また信仰のない一般の方々に対して、次のことを呼びかけるものである。すなわち、天理大学こそは、教祖が御理想とされた「陽気ぐらし」世界実現に向かう人材の育成と、同時にその人材が「いちれつ兄弟」の実践のもと、人類の至福のために無くてはならない存在となるための教育を行う大学であること、そして祈りと献身、互いにたすけ合う生き方のもと、身近なところである親切な心、平和な家族愛から、地球規模の人類愛、争いのない平和な世界を目指す、高い人間性の価値ある教育を志向していることを、広く知らしめたいと願っている。

 Ⅲ.天理大学における「天理教性」の重要性

 1.天理大学の設立の目的がその「特殊性」「天理教性」を根幹に据えていることは繰り返し強調したとおりである。しかしながら、天理大学が多様な分野に関わる研究者の「知」と「学」の共同体であることは一般の大学と異なるものではないが、この大学に集まる関係者には、信仰と教育の融合を志向するという同一の目的意識が共有されることを期待したい。すでに天理大学の「天理教性」を十分に理解される方々はもとより、しかしそうでない方々でも天理大学の設立の目的である「建学の精神」を理解することにより、天理大学の個性ある存在価値を形成する役割を担っていただくことを心から願いたい。

 2.天理大学における教育は「天理教性」を踏まえた教育方針である故、その教授する内容は信仰と知性とが融合することによって形成される学問である必要がある。そのためには常に信仰と理性との対話を欠かすことができない。たえざる対話によって自ずと生まれてくるものの中に多くの真理を見出すことができるであろう。むしろこのことにこそ天理大学の本質が存在する。

 3.天理大学が「天理教性」によって人類に至福(「陽気ぐらし」の世界)をもたらす学問分野の開発を志向する研究者たちの共同体としての学問的機関であるためにも、構成要員(研究者と職員)は天理教の教え(真理)に対する敬意、神の子としての人間の尊厳に対しても、共通の認識を持つことが要請される。したがって「天理教性」を推進する意欲と能力を備えた要員を常に補充する必要がある。

 4.天理大学の創立が天理教の中心部から生まれ出たものであるという観点からも、教会本部と一般教会との相互の信頼、たゆみない密接な協力関係がなければならない。具体的には、将来教会長となる後継者や天理教の信仰を継続しようとする道の後継者の育成に対して、「教会」と「天理大学」が力を合わせて取り組まねばならないということである。それには常日頃からの「教会」と「天理大学」との対話が必要である。つまり、すべての教会長が「天理大学は私達の大学である」という認識を醸成する土壌づくりを決して軽視してはならない。

 5.何らかの理由により、天理教と大学の「天理教性」の維持に不都合な場面が現出された場合でも、天理大学の構成要員はその教義の高い真理性と、ゆるぎない強固な信仰とによって、それらに対応しうる最前線の砦としての役割を果たすという心構えを持つことが要請される。これが天理大学に課せられた使命である。そのためにも天理大学の構成要員は信仰者または「天理教性」に理解を示す人々によって構成されることが望ましい。このことは、天理大学の建学の精神を保持する上で欠くべからざることである。

 以上の「『天理大学憲章』の策定に向けて」の結語として、創設者がお出直しになる一年前の「天理大学創立四十一周年記念式」(昭和41年4月23日)において仰せられたお言葉を引いておきたい。学校には創立の精神があったということ、これを先ず思い返して頂きたい。だんだんと数がものを言うようになりますと、本来の精神が没却されて、数によって行動をとるような傾向になって来る。これは一種の教育ではなくて、盲動であります。大衆行動とでもいうものであります。即ち学校の創立の精神というもの、学というものの精神を没却して、自分達の抑制することのない欲望を満足さす集団である。というように学校が変わったとしたならばどうなるか。それでは教育というものは成り立たないと思います。このお言葉は創設者が天理大学の創設の精神を、あとあとまで確実に遺しつつ、それを踏まえた行動をとって頂きたいという非常に強いご意志が読みとれるものとして、大切なお言葉である。少し立ち入って考えるならば、何かこうした思いを言葉に出さなければならないような雰囲気を、天理大学全体の動きの中から、すでに感じ取られていたのではなかろうか。これは後年の平成の「改革」などを、その頃からすでに予見されていたお言葉なのではないかとさえ思われる。こうしたお言葉を通して、創設者の天理大学にかける熱い思いを、いやが上にも知らしめられる思いがする。それは「陽気ぐらし」世界実現のため「この世治める真実の道」として開かれた教祖の思いのもと、そのために献身的に貢献する人材の育成を願って創設された「天理大学」は、創設者にとっていわば「掌中の珠」のごとき存在であったのであろう。私達にはこの「珠」を丹精込めて磨き上げ、光り輝く「珠」に仕上げなければならない使命がある。いわんや、心ならずもではあっても、その「珠」に傷をつけるようなことは決してあってはならない、と銘記するものである。





(私論.私見)