別章【修験道について】

 (最新見直し2007.10.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2006.11.18日再編集 れんだいこ拝



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 修験道と山岳信仰(参考:春秋社発行「修験道と日本宗教」)                        

 修験道は,日本古来の縄文神道、出雲神道を濃厚に受け継いだ山岳信仰にシャーマニズム、仏教、神道、道教、陰陽道などが結びついたものと考えられる。

 山岳修行で体得した験力を用いて行う呪術宗教的活動を中核として いる。

 全国各地に霊山があり、修験者として葛城山の役小角、比叡山の最澄、高野山の空海等が知られている。大峰の金峰山や熊野には一山組織が形成され,数多くの修験者が集まるようになった。日光、白山、富士、木曽御岳、伯耆大山、石槌山、彦山など各地に修験霊山が成立した。  

 江戸時代に、幕府は,慶長十八年(1613)に修験道法度を定め,諸国の修験者を聖護院を本山とする本山派と,醍醐三宝院が統轄した当山十二正大先達衆(正大先達寺が12に減少)を中核とする当山派の両派に分属させた。

 本山派においては,各地の主要な修験者に年行事の職を与え、霞と呼ばれる一定地域での活動を公認した。  

 明治政府は慶応四年(1866)に神仏分離令を発し,明治五年(1872)に修験道を禁止した。その結果熊野 ,羽黒,白山,立山,英彦山などの修験霊山は神社化し,在地の修験者は還俗したり,氏神鎮守の神職となった。

 尤も修験道禁止令においては,修験者を本寺所轄のまま本山派は天台宗,当山派は真言宗に所属させた。また富士講は扶桑教・実行教,御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認された。  

 第二次世界大戦終了後には,旧本山派の本山修験宗・修験道,当山派の真言宗醍醐派,金峯山修験本宗, 羽黒山修験本宗,石槌本教など数多くの修験道教団が独立した。更に真如苑,解脱会など修験系の新宗教も 成立しました。また出羽三山神社,英彦大神宮など修験霊山の神社においては峰入などの修験道的な行事を行っている。

 大和の三輪山、諏訪神社の上社、金鑽神社の御室ガ岳,宇佐神社の御許山、御上神社の三上山など。

 〈三輪・伊勢と修験道〉  

 大和の東に位置する美しい神奈備カンナビの三輪山を御神体とする大神神社は,日本古来の山岳信仰の中心聖域となってきた。出雲神道と結びついており、大己貴命の幸魂サキミタマ,奇魂クシミタマを祀っている。

 崇神天皇七年には,大田田根子が祀ることによって,天皇の国土経営を助ける神となって行く。 爾来この大神神社は大田田根子を祖とする大神氏の氏神となる(『日本書紀』巻 五)。その後時代が下がって貞観元年(859)には正一位が贈られ,大和一宮とされている。因みに『令義解』の「神祇令」第一条において,大神神社は地祇の筆頭として, 天神の筆頭である伊勢と並ぶわが国の代表的な神社に挙げられている。  

 一方,伊勢の皇大神宮の起源は,崇神天皇六年にそれまで宮中の大殿に祀られていた 天照大神が皇女の豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祀らせたとの『日本書紀』巻五の記録を嚆矢コウシとしている。この笠縫邑の社は,現在大神神社の摂社である桧原神社とされている。三輪と伊勢は元々深い関係にあったと思われる。

 その後垂仁天皇二十五年三月,天照大神は皇女倭姫命に憑き,新たな鎮座地を求めて,大和の宇陀,近江,美濃を遊幸した後に伊勢国の五十鈴川の川上に鎮座される。これが内宮ナイクウ(皇大神宮)の起こりとなる。なお『日本書紀』の一書においては, その年十月に祠が度会に遷されたとしている。これに対して外宮の豊受大神は,平安時代初期に成る『止由気宮儀式帳』に拠りますと,雄略天皇の御代に,丹波の比治の真奈井に御鎮座の天照大神の御饌神の等由気大神を,度会の山田原に迎えられたものとされている。しかし,正史には何ら記されていないこれに加えて,外宮の神官が外宮の所在地の地名である度会と符合する度会氏であるのに対し,内宮の神官が新たな居住者を指すとも思われる荒木田氏であることから,外宮は,内宮の遷座以前にこの 地に居住していた土地の豪族度会氏の守護神であったとする説もある。何れにしろ六,七世紀頃には,大和の大神神社,伊勢の内宮・外宮が成立したと推測される。

 その後,仏教の浸透に伴って神社に神宮寺が設けられるようになる。伊勢における神宮寺の初見は,『続日本紀』文武天皇二年(698)十二月の条所載の斎宮のある 多気の地に在った神宮寺を仏穢を避けてか,度会郡に移建したとの記事です。その後天平神護二年(766)には,この神宮寺に丈六の仏像が安置されている。方三輪に於ける神宮寺の初見は,『延暦僧録』における,唐招提寺の別当を勤めた 鑑真から菩薩戒を受けた釈浄三が,天平宝治年間(757〜765)頃大神寺において三輪の 若宮の法楽のために六門陀羅尼経を講じた,との記載です。

 なお,時代は下がりますが 十二世紀前半頃成立の『今昔物語』巻二十には,天武,持統に両朝の仕えて功のあった 三輪の大田田根子を祖とする豪族大神高市麿が,大和国城上郡三輪の自宅を三輪寺とし たと記されています。それ故この神宮寺も大神神社と同様に,大田田根子を祖とする大 神氏によって祀られた寺であったと考えられるのです。因みにこの三輪寺には,本尊十 一面観音,脇士地蔵菩薩が祀られていました。  

 さてこうした奈良時代における当初の神宮寺の成立状況を観ますと,伊勢の神宮寺は 聖域就中ナカンズク斎宮の在所を避けて,その周辺部に移されています。一方三輪の神宮寺 の場合は,主神ではなくその皇子である若宮(王子)の法楽のために造られいます。た だ三輪においては,陀羅尼を唱えたり,悪疫退散を祈るなどの祈念がなされています。 その後古代末から中世初期になりますと,新たに修験的な遊行宗教者の手になる寺院が 造られました。三輪山においては,修験霊山において修行し,死穢の中において即身成 仏の秘印を授かり,護法を使役した遊行修験者慶円(1140〜1223)が三輪の別所に開い た平等寺,鋳物師や渡守と関係を持つ遊行宗教者の玄賓(818没)の庵などが成立してい ます。特に平等寺は,室町時代に近畿地方の主要な寺院に依拠した真言系修験の結社で ある当山三十六正大先達寺の一つに数えられています。

 一方伊勢においては,外宮の背 後の前山の世義寺や朝熊山の金剛証寺の経塚に観られるように,如法経(法華経)修行 や菩提のための修験的寺院が建立されている。このうち世義寺は十四世紀初頭に円海 によって中興され,後には当山三十六正大先達の重鎮となっている。また金剛証寺も 十五世紀初期に中興された。  

 こうした修験的な聖とは別に鎌倉時代には,南都の仏教を代表する貞慶(1155〜1213 ),重源(1121〜1195),叡尊(1201〜1290)なども伊勢参宮をしたり,三輪とも関わ りを持っています。尤も貞慶は笠置,重源は大峰,叡尊は醍醐と云うように,彼等にし ても,修験霊山において修行し,密教や神祇にも関心を持っていました。そして伊勢に おいては内宮の荒木田氏,外宮の度会氏の氏寺において法要を行っていました。中でも 叡尊は伊勢に弘正寺を開いて,金剛界・胎蔵界の大日如来を内外宮の本地として祀って いるのです。また通海(1305〜6頃没)のように,神宮祭主の大中臣家に生まれながら醍 醐寺において修行し,密教思想に則ノットって伊勢の神格を説明し,法楽のために読経や護 摩を修する者が出現しました。世義寺を中興した円海にしても,中央の密教僧の智円の 影響を受けている。

 伊勢において育まれた両部神道の思想は,三輪に大御輪寺を中興した 叡僧等によって三輪に持ち込まれる。彼が著した『大御輪寺縁起』は三輪と伊勢の同体を説き,三輪の神格や状景に関する両部神道的説明がなされ,やがて三輪流神道にと 結実して行く。因みにこの三輪流神道の思想や次第の中には,修験道と共通のもの が数多く認められる。

 一方伊勢においては,前山の世義寺,朝熊山の金剛証寺の 他に大和から伊勢への入口にあたる飯高郡丹生山丹生神社の神宮寺,熊野からの伊勢へ の入口の仙宮院など,神宮を取り囲むように周辺の霊山に修験の拠点が造られて行った。

 これらはまた,朝熊山,東大峰と通称される仙宮院など他界と結び付いたり,丹生のように水銀の存在を彷彿とさせる処です。しかもこのそれぞれにおいて修験的色彩の強い書物が創られたのです。 空海の開基伝承を記す朝熊山や丹生大神宮の縁起,役行者が開いたとする仙宮院の縁起,大神と大峰の言を記したとの記載のある世義寺に関わる『鼻帰書』などがこれですが,これらは何れも修験者が創ったと推測されるのです。

 そしてわが国の根源として独 鈷トッコを重視する『鼻帰書』,内宮・外宮を胎蔵界大日・金剛界大日に充当する『鼻帰書 』や『仙宮院秘文』,空海が虚空蔵求聞持法を修したとする朝熊山の縁起に観られるよ うに,その内容も『大和葛城宝山記』など修験霊山の縁起と類似しています。尤も内宮 ・外宮を胎蔵界・金剛界など密教的原理で説明する試みは,修験道のみでなく,両部神 道においてもなされている。

 伊勢において結実した両部神道の思想が,三輪に持ち込まれて修験的色彩の強い三輪流神道に成って行く。こうした両部神道や修験道にも共通する思想は,伊勢や三輪を拠点とした密教や神道に詳しく,修験にも関心を持つ僧侶等に よって創られた。これが三輪流神道や御法流神道にと結実して行った。



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参考文献




(私論.私見)