関根豊松考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3)年.2.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「関根豊松考」をしておく。

 2007.12.28日 れんだいこ拝


【関根豊松の概要履歴】
 「ウィキペディア関根豊松」その他参照
 関根豊松(1881-1969)は、天理教の愛町分教会(名古屋市千種区春岡通)の創始者(初代会長)である。天理教史上有数の男性カリスマの一人である。天理教では、傘下に50以上の教会をもち、本部に希望した分教会だけが大教会と認められる。愛町分教会は規模からすれば他の多くの大教会をはるかにしのぐのであるが、関根豊松が大教会となることを希望しなかったので、組織上では分教会でありながら、実際は天理教の大教会をはるかに凌駕する分教会となっている。正確な信者数はわからないが、参考までの数字を挙げると、1987年の教祖百年祭には十万人団参を打ち出し、十三万人の参拝を達成している。

【関根豊松の生涯履歴】
 「ウィキペディア関根豊松」その他参照
 1881年、東京の日本橋で誕生。
 億万長者の家に生まれたが、産まれる前に両親が離婚、産まれてからも両親とも育児放棄されたため、親戚や奉公先などで育っている。育ての親も転々と変わった。 奉公先も次々に倒産していき、幼少期から辛苦・難儀が多かった。
 14歳のとき、天理教の講社に加入する。
柏木 関根先生は、何歳ぐらいから道を信仰したのかね。
関根 十四歳のとき、麹町の講社へ加入されましたが、話を聞いて教会に通った
のは七、八歳の頃からです。親からほとんど面倒をみてもらえず、人手で
育てられたから、教会へ行っていた方が多かったようですね。
 18歳のとき、麹町支教会に住み込み道一条の信仰生活に入る。
 21歳のとき、「手でさすっただけで病人が治る」と有名になっている。本席・飯降先生からおさずけの理を拝戴されたのがその後なので、おさずけの理を戴く前から神徳による不思議な力を体得していたことになる。
 道一条になって、不思議なたすけをするようになった二十代のある日、目を患ってなかなか良くならず、家系をたどり、何代か前に親も子も妻も捨てて江戸へ出て、高利貸しをして一代で巨万の富を築き、晩年は愛人を置いて失明した人こそ前世の自分ではないかと思い、もしそうなら一代その通り返しに徹して、物乞いに落ちるいんねんを自覚し、そんな中でもやりきりますから、その証拠を目にいただきたい、とお願いしたら目が治った不思議体験をしている。
 徹底して理の親(親教会の教会長)への孝行を四代貫いた。大教会の土地を買ってお供えし、普請にも大きく尽くされた。
 大正12年4月、43歳の時、大森町支教会長を拝命する。
 支教会に住み込みをしていた方の兄嫁を誘惑した云々などの言いがかりをつけ られるという節(不幸な事件)にあう。この件をきっかけに支教会の二大会長職を辞任する。
 一家で東京を離れて愛知県の知多半島の半田の岩滑へ行き単独布教に入る。
 なお白い目で見られる中を親に尽くし切った。理の親が満足するまでさせていただこうと尽し、理の親への孝行に徹しきられた。
 この布教時代も子ども達を含めて筆舌尽くしがたい苦労を経る。
 大正14年12月、単独布教3年後、愛町宣教所(後の愛町分教会の前身)を創設する。
 専門の髪結い、着物仕立人を教会に置く。
 昭和42年5月28日、伝記本「因縁に勝つ 関根豊松傳」が発刊される。本来は、天理教愛町分教会創立後40周年記念として上梓されたもの。
 昭和44年1月22日、天理教愛町分教会・初代会長関根豊松翁「出直し」(享年89歳)。
 追悼集「初代会長様を偲んで」。「初代会長様五年祭」。(共に非売品)。愛町の機関紙「愛町月報」。
 高橋「赫ける神人 愛町初代会長 関根豊松先生」。

【身だしなみ、躾】

 関根豊松は、薄化粧をしていた。記録には、次のようにある。

 色白で華奢な体つきのせいか、普段の物腰は女性的で、薄化粧することもしばしばであった。髪は少々薄かったが、頭にはヘアー・トニックをつけ、櫛で髪をきちんと溶かし、洗顔の後、化粧水を肌にぬり、眉毛をペンシルで書くのである。着物を着る時も自分で下着からきちんと着こなした。若い頃は日舞を習っていたこともあり、踊りが大好きで、興が乗ると、皆の前で踊りを披露することもあった。「坂東豊」という坂東流の名前も持っていた。このように関根には女性的な要素が多分にあった点にも注目したい(『天理の霊能者』、p182)。
 初代会長夫人・関根治子が次のように述べている。

 思いもよらぬおシャレな一面も

編集 話題は変わりますが、会長様のおしゃれについてお聞きしたいのですが…。
奥様 会長様は思いもよらぬおしゃれな方でしてね。頭にはヘヤートニックをきちんとつけられ、櫛目正しく頭を整えられます。洗顔の後は、化粧水を肌にぬられ、眉毛もペンシルで書かれます。なかなか左右対称にならなくて困りますがね。(笑い)それからお着物もご自分からあれが着た い、これが着たいなどとはおっしゃいませんが、私がこんな柄がお好きじゃないかな、と考えて作らせて頂くのですが、着物を着られる時も下着からきちんと着こなしをされます。さすが昔「坂東豊」という芸名を持たれたことがあるだけに違いますね。会長様は派手好きでとても陽気な方でした。
編集

会長様のお好きな食べ物は何でしたか。

奥様

好き嫌いは絶対ありませんでしたね。でも焼きイモがお好きだったようです。

編集 会長様がお口に出されないことと、されなかったことは主にどんなことでしょうか。
奥様 □にされなかったことは「おなかが空いた。」ということですね。されなかったことは、「居眠り」と「あぐら」です。(同上、p153)
 また日頃、身だしなみのよい方であったのは申すまでもありませんが、髭はいつもきれいに剃られておりました。会長様にも気分の悪いときはあられたと思いますが、キチンと剃られていました。私は根っからのきれい好きなのだと思いましたが、神様にお仕えするのだと言うことと、疲れておられる時等は、信者によけいな心配はかけてはいけない、という心遣いからであったと思います。髪ばかりでなく、日常生活全ての面で、神様と信者の中に立ってお通り頂いたわけでございます(『初代会長五年祭』、p96)。

 また或時は、会長様のお口から、「母さんや、今度何処か温泉へ行こうと思う」と思いがけぬ言葉を頂いたのです。お遊び事、温泉旅行などなされたことも、聞いたこともないのに、と思いました。そして会長様がおっしゃるのに、「温泉に行く時は必ずAさん(その頃会長の愛人であるかのように振る舞っていた人-熊田注)を連れて行くからね。行ったらお前は気をきかせて座をはずすんだよ」とおっしゃいました。その時の驚き、全身の血が一度に下がり、谷底に突き落とされる思いでした。(「初代会長五年祭」p73)

 それから会長様がお車に乗られる時は、絶えずじっと外を見ておられまして、あくび一つもなされないし、絶対居眠りをなさらなかった。これには私もびっくりしましたね。ちょっと真似できないことですよ(運転手談-熊田注)。(「初代会長を偲んで」、p313)

 会長様は粋なお好みでしたからお召し物のお仕立てにはなかなかと細心のご注意があり、寸法に細かくご指示ご注意を頂いて、私は女でもここまで寸法の細かいお心づかいの程に気がつかなかったことが恥ずかしく思えました。着物の着こなしの上手下手は矢張り寸法の取り方と仕立て方によるものであることを感じました。(「初代会長を偲んで」p153)。


【日本舞踊の影響】
 関根豊松は、子ども時代から日本舞踊を嗜んでいた。関根豊松の薄化粧や粋好みには、かれが江戸っ子であったことと、なによりも彼が日本舞踊を嗜んでいたことが大きく関係していると思われる。関根豊松の弟子に対する厳しい「仕込み」には、日本舞踊という「芸道」の厳しい躾の伝統の影響を受けていたという側面がありそうである。弟子達は厳しく「仕込まれた」からこそ、関根豊松没後も愛町は衰退しないのだろう。
柏木  ところで、関根先生は踊りが上手だったが、いつ頃習われたのかな?
関根  こんな話を聞いているのですよ。麹町二代会長の久保清次郎先生が非常に酒好きで、夜の二時、三時までも飲んでおられて、その相手でよく踊られたということを…。
森井  名取りまでいったのですか。
関根 さあ、阪東豊という芸名で若いころ習われたようです。
柏木  また好きでもあったんだね。
森井  たとえば、いまの愛町に残っているきびしい行儀作法やしつけは、関根先生の修業当時のものが残っているように感じるんです。踊りの世界でも、そういう作法はきびしいですからね。
柏木  関根先生の伝記『因縁に勝つ』に載っている先生直筆の目本画なんかも、あれは素人離れしている。たいしたものだ。
中山 専門家の腕だよ。あの絵は。
森井  関根先生は信仰面でもさることながら普通の人間としても、ほかに類を見ないほど人生経験豊かな人でした。
柏木  それだから人がみなついて来たんだよ。暖かいところがなかったら、人はついて来ないからねえ。
関根  うちの会長は小さい七、八歳の頃から奉公先を転々と変わったが、一面大変な腕白だったそうです。
森井 では、話題を変えまして、関根先生は“黙って座ればピタリと当たる”というくらい何事でも見抜き見透しで、ピタリとおっしゃった。なんでも聞くところによると「六十歳くらいまでは六〇暫ぐらいだったが、最近になってほとんど当たるようになった。」とか…。
谷岡  「私も信仰を始めた当初はそうじゃなかったが、六十年、七十年と長年信仰をさせて頂くうちに、そうなった。」とおっしゃった。
森井  純粋に“信仰一条”で身につけられたものですね。
中山 はじめから神様のようになられたのではなく、長年の修業、色気、食気、欲の深い因縁を通り抜けて、あそこまでなられるには、まさにたいした偉人だ。
谷岡 会長さんは、晩年になってからは何一つ自分の思うことがかなわないことはなかった。そして、晩年澄みきった心になられたと思う。
柏木 そうなるまでの道ゆきに、相当の道が通ってある。人情の機微を、知っておられるもの。それがわからねばおたすけはできん。その人の悩みを助けられんからね。
 (同上、pp.40-41)  

 また、私が芸事の師匠として小さい時から師事しておりました人に「民丸」というお師匠さんがありました。芸はなかなか達者な人で、とりわけ私を可愛がっていろいろな芸を仕込んでくれました。こうして一生懸命仕込んで、自分の子供にして跡をとらせようと思ったらしいのですが、親戚も反対で、私も気が進みませんでしたので、これも断ってしまいました。みんなこうして断ったのは、神様がさせなさらなかった、としか考えられません。』

  会長様の日本舞踊は皆様もご承知の通り「阪東豊」という芸名があり、お続けになってみえれば、今日の人間国宝的な存在だったろうと思います。学校は二、三年ほど行っただけで、九才の頃から奉公に出されました。

 (「因縁に勝つ」p15)

 天理教愛町分教会初代会長・関根豊松氏は、日本舞踊を介して、日本文化の<粋>の伝統を体現していたように思われます。ファツションについても、贅沢はしなかったが、独自のこだわりがあったようです。
 「会長様は粋なお好みでしたからお召し物のお仕立てにはなかなかと細心のご注意があり、寸法に細かくご指示ご注意を頂いて、私は女でもここまで寸法の細かいお心づかいの程に気がつかなかったことが恥ずかしく思えました。着物の着こなしの上手下手は矢張り寸法の取り方と仕立て方によるものであることを感じました」(「初代会長を偲んで」p153) 。

【水垢離信仰】
 水垢離、みずごり。古代の呪法の一つである。熊野神社の呪法の一つとして古代から行われていた。
 http://www.tanabe-kanko.jp/midokoro/dessin/dessin06.htm
熊野詣と水垢離、潮垢離 引用しよう。

 江川児童公園内「潮垢離浜旧跡」碑
 かつて神仏にお参りする際、しばしば全身に水を浴び、身を清めることをした。これを「垢離(こり)を取る(掻く)」といった。熊野に参詣する人々が、道中の随所で水垢離、潮垢離を取ったことが、書き残された日記でわかる。それは熊野詣に欠かせないものとなっていた。上皇や貴族たちは、出発前の数日間、特設された精進屋にこもるならわしだったが、その間にも何度かの水垢離を取っている。

 泉田藤吉は、あだな「熊吉」。水垢離をしていて、教祖から叱られた逸話がある。彼は止めた。中川よしは水垢離の常連・常習者。夫弥吉も常習者。関根豊松。水垢離の常連・常習者。東中央大教会初代柏木庫冶本人は水垢離しなかったが、奥さんは、水垢離した。

【関根豊松の霊能】

 関根豊松は神業的なお助けをされ続けた。やがて手で擦らなくても祈念で病気を治したり、人の過去未来も見通す力や予知する力なども身に付き、「どんな病も治してしまう生き神様」と教内のみならず中部全県で有名になり真柱(天理教のトップ)からも「天理教中の至宝」と讃えられるようになった。

 「愛町の門をくぐった者はみなたすかる」。
 往年の関根先生はその人の姿形を見ただけで前生なにをしてきた魂(因縁)なのか?をズバリと言い当てたり、天井のネズミの動きで関東大震災を予言したりとまさに神人の如く伝説的な逸話を数多く残している。
 信者からは実際に「生神さま」とも、「教祖中山みきの生まれ変わり」とも、「今教祖」とも称されていた。関根豊松がもし新宗教を起こしていたら、日本有数の教団になっていたと断言してよい。それほどその霊能力と組織力はずばぬけていたのである。関根を頼ってくる病人は基本的に誰でも治した。「治してやるよ」という言葉を発するだけで、どんな重病人も必ず治ったという。またその手で撫でるだけで難病・奇病の類いまですっきりと平癒するのだった(豊国1998、p178)。
 「お若い頃の苦労話は折にふれお聞かせ頂いたのですが、数々のご苦労の中に、どうして悪い心が出ないのかと人間として不思議なくらいでした。日々の生活におかれましては、奥様とも楽しそうにいつも万才のように、頓智を働かせては面白いことをおっしゃってみえた会長様が、一旦神殿で教理のお話をなさる時は全然別人のような厳しさに変わられました。かといって会長様は「僕の蔭でしていることを障子に穴をあけてのぞいて見ていてごらん。何をやっているか。」と信者さんの前でいつものように言われましたが、日々の行動におかれましては、一つ一つが我々では到底真似のできないことばかりでした」。(「初代会長様を偲んで」p116)
 「天理教の救済法には大きく分けて二通りある。ひとつは中山みきの教理を順々と説き、相手が納得することによって助かるというもの。もう一つは相手がその場では半信半疑か、あるいはすぐに理解できなくても霊能で有無をいわさず治してしまうというものである。天理教の主流は前者の方法がほとんどである。いや、現場ではそれがすべてと言っても過言ではない。前者は本人に霊能がなくても相手が話を納得すればそれだけで多少なりとも霊験があらわれるとされているから、基本的には誰でもできるわけであるが、それだけにそれなりの徳と真実がなければ効果は薄いともいわれる。一方、後者は誰にでもできると言うものではなく、中山みきの霊能を自分のものとして体得していなければどうにもならない。関根豊松はそんな極めて稀な後者の代表例であった」。(豊嶋泰國『天理の霊能者』インフォメーション出版局、1999年、p180)。


 前者と後者は別種のものではなく、後者は前者の極端な形であろう。近代医学でいうプラシーボ(偽薬)効果は、治療者のカリスマ性に左右される。関根豊松は、それだけの大カリスマだったということだろう。では、関根豊松のカリスマ性は、どのようにして確立されたのだろうか。

 関根は生前、教祖の雛型の道を踏めば誰でも自分と同じように奇跡的な徳の力をいただくことができると教え諭していた。

 「教祖の雛型を踏まずに、教祖同様の不思議な奇跡をみせていただく道理はありますまい。この教会は皆さんが助かってくださるので、人々は不思議と申されますが、不思議とおっしゃる方が不思議ですよ。私たちは教祖の道を継ぐ弟子です。弟子は、教祖のなさったことを真似たらよいのです。教祖の雛型はわかるものではなく、踏むべきものです。私は教祖の雛型を踏ませていただこうと、日夜努力しました。その結果がいつの間にか今日の姿になっただけですよ」(『天理の霊能者』、p193)


 中山みきの教祖「雛型の道」を日夜努力して「踏む」ことによって「徳の力」が身につく、と説明していたのである。

 「関根豊松は小柄(身長一四七センチ、体重三七キロ)であったため、一見優男風であったが、神のことになると、ものすごく厳しい人間であったという。人間の情愛についてはきわめてやさしかったが、神一条のこととなると人が変わったように厳格だったのである。弟子の対してはなおさらのこと峻厳をきわめ、少しでも怠けたり、道にはずれたようなことをすると、鉄拳制裁も辞さないほど徹底的に仕込んだという。弟子が小柄の豊松の前で数時間にわたって平伏しつつ、教化を受けるという光景も珍しいことではなかった。関根の長時間におよぶ訓話中、役員や弟子が膝をくずしたり、居眠りでもしようものならば、顔色を変えて怒り「今すぐ出ていけ」とか「即刻家へ帰れ」とか痛罵した。それは早く一人前にしたいという親心だったとされる」(豊国、p182)
 関根豊松の神のことに関する厳格さは、金銭面でも発揮されていた。
 「愛町の会長様が特に厳しかったことは、公私を混同するなということ、さらに神一条のことに私事をはさむなということであった。おさづけを取り次いで身上がたすかったり、助言して事情がたすかっても、たすけたのは神様だから、神様にお礼すべきなので、途中で人間が受け取ってはならない、とやかましかった。見るに見かねて会長様へと差し上げた場合は受け取られたが、神様第一の線は固く守らせたのであった。『神の道を人間がままにするのが、これが残念やで。この残念返したことならば、待てしばしがないから、これを承知してくれ、とおやさまは仰せになった』と、しばしば引用された。おたすけ先ではお茶一つ口にしてはならないし、物一つ神様へお供えする以外は受け取ってはならん、とされた。神様のご用中はいつでもどこでもそうあるべきだった。人間が勝手をすると、お勝手元不如意となり、生活にも事欠くようになる、と教えられた。おたすけ以外の場合は、お茶だけは許された。『お道で知り合ったお互いは、物や金銭のやりとり、貸し借りは絶対にしてはならないよ』」とやかましかった。お道を私事に利用することがいかに怖いか、実例をもって示された。違ったら、理が吹いて、ごまかせるものではなかった」(渡部2007、pp24-25)。また、愛町では直会もないし、酒も出ることはない(同上、p47)

 おたすけの名人といわれていた泉田藤吉→茨木基敬→上田善兵衛→久保冶三郎→関根豊松。泉田藤吉→中川よし→八島よし→八島英雄。

 北大教会の系統の道は次のような流れ。
 北大教会→麹町大教会→錦江大教会→大森町大教会→愛町分教会。

 北大教会→麹町大教会(上田善兵衛・加賀美)。(陶宮術仲間)→(久保冶三郎夫婦)に道をつける。

 麹町大教会→錦江大教会(初代・寺門きみ)。(麹町信者・降旗) が、(寺門宗太郎・きみの弟)のチフスの時に寺門家に神様祀りこむ。病気たすからず。寺門きみは関根豊松の実母。十八の年妊娠中に嫁ぎ先の関根家を飛び出し離婚。豊松を寺門家において男に走る。寺門家はきみの父母、きみと陶宮術の信仰を厚くしていた。きみは陶宮術により自分が晩年を不幸になると知り、それをたすかる道は天理教よりないと実家の天理教に入信。夫・岸本の反対のために、天理教布教目的でありながら、静養という名目で、大森海岸に転地した。

 錦江大教会→大森町大教会(寺門きみ)→(守屋すず) *ただし、錦江サイドの記述による。『この大森静養中に、「にをいがけ」した守屋家は、現在大森町大教会の一家であり、守屋すずとともに布教に専念し、入信者には、現在大森町部内の教会長になっているものもある』(天理教事典・p651) 関根豊松は、23歳までは「寺門豊松」。信仰の本線ならば、麹町→錦江→愛町という事になる。そして、大森町そのものが、本来は錦江の部属となるべき教会を併合している。
 関根豊松は、自分の愛町の理の親は麹町だとしている。錦江の「寺門」の系列であるのに、育ての親を無視し、且つ実の親である錦江初代を無視している。本来は、愛町は大森町か錦江を上級としているはずのところ麹町を上級と断言している。系統信仰と言いながら骨肉のごたごたがあった姿が見えている。

<参考文献>
 2020.6.8日、熊田一雄(宗教文化学科准教授)「天理教の男性カリスマの薄化粧をめぐって」(愛知学院大学人間文化研究所所報46号原稿(2020年9月刊行予定))。

『因縁に勝つ』天理教愛町分教会、1967年

『初代会長様を偲んで』天理教愛町分教会、1970年

『初代会長五年祭』天理教愛町分教会、1974年

『稿本 天理教教祖伝』天理教道友社、1976年

豊嶋泰国『天理の霊能者』インフォメーション出版、1999年

渡部与次郎『神に近づく道』養徳社、2007年

弓山達也『天啓のゆくえ-宗教が分派するとき』日本地域社会研究所、2005年





(私論.私見)