その他の埃教理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.7日

(れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.02.29日 れんだいこ拝


【その他の埃り一覧】
 事実を脚色して事実でない嘘云う埃りを云う。
追従  必要以上に相手に同調し上手を言う埃りを云う。
妬み  自分を卑下し、相手を必要以上に羨む埃りを云う。
罪口説(つみくぜつ)  悪意ある発言全般の埃りを云う。
悪口、陰口、
つげ口、小言
 罪口説(つみくぜつ)の内の悪口、陰口、つげ口、小言を云う埃りを云う。
ぼそぼそ話し  罪口説(つみくぜつ)の内の小さな声で秘密話しする埃りを云う。
 讒訴、讒言雑言(ぞうごん)  讒訴、讒言雑言(ぞうごん)する埃りを云う。
小さい心、疑ぐりの心  小さい心、疑ぐりの心が生む埃りを云う。
 喧嘩の腰押し

【その他の埃りその一、嘘】
 その他の埃り一は「嘘」。次のような教理になる。
 その他の埃りその一は「嘘」です。「嘘」の埃りと申しますは、***。「嘘」は、いわゆるウソツキの心遣いを云います。教祖は、「嘘と追従」をメダルの裏表のワンセットで捉えており、「月日には嘘と追従これ嫌い。その先なるは月日退く。これあかん」と仰せられています。

 「嘘」が埃りとされているところを深く思案せねばなりません。思うに、嘘の心も人間の天性のものであって、元々はなけりやならんものです。よって、これを正しく使い、邪(よこしま)に向かわぬよう心掛けねばなりません。

 日頃より「正直」を心がけて通るのが「嘘埃り払い」の秘訣です。
 「うそ」に関するみかぐらうた、お筆先は次の通り。
 今までハ 神の云うこと 疑うて
 何もうそやと 云うていたなり
一号42
 何もかも いかなはなしも 説くほどに
 何を云うても うそと思うな
 
三号24
 このよふを はじめた神の 真実を
 説いて
聞かする うそと思うな
三号68
 今までハ とのよなうそも 聞いていた 
 もふこれからハ うそハきかんで
十二号111
 これからハ うそをゆうたら その者が 
 うそになるのも これが承知か
十二号112
 月日にハ うそとついしよ これ嫌い 
 この先なるわ 月日退く
十二号113

 
次のような諭しになります。
 「神はべんちゃらはきらい」。
 「そこで、真実心定め、また心澄ますよう、この心澄ますのは、嘘と追従(ついしょう)言わんよう、また、欲に高慢ないように。これさいか、弁(わきま)えたなら心澄んである。何事も我が子に取りて思案せよ。子はどうでも、と思う親はなし。また、神様が罰当(ばちあ)ては更になし。‥ また、前に申す通り神が罰当て更になし。そのはづや、この人間を拵えたのは、この人間の、陽気遊山を見たさに拵えた人間やもの。また、世界中どこに隔ては更になし」。
 (山田伊八郎「教祖様御言葉」、「根のある花」、明治18.4.18日
 「嘘、追従、言わんよう。欲に高慢ないよう。人を悪う言わんよう、思わんよう。ただ立て合い、助けあい。この心、月日が受け取りたなら、百五十歳か、二百歳か、三百歳まで、病まず死なずに弱らずに、いつも十八歳の心にて、陽気ぐらしをさしたいとの神の急き込み」。
 (明治18.7.19日、教祖様御言葉「根のある花・山田伊八郎」所収)
 「神は嘘と追従これ嫌い」(明治22.3.10日)。

【その他の埃り二、追従】
 その他の埃り二は「追従」。次のような教理になる。
 その他の埃り二は「追従」です。「追従」の埃りと申しますは、***。追従」は、いわゆるおべんちゃらの心遣いを云う。  

 「追従」が埃りとされているところを深く思案せねばなりません。思うに、追従の心も人間の天性のものであって、元々はなけりやならんものです。よって、これを正しく使い、邪(よこしま)に向かわぬよう心掛けねばなりません。

 日頃より「真心」を心がけて通るのが「追従埃り払い」の秘訣です。
 「ついしょ」に関するみかぐらうた、お筆先は次の通り。
 真実に 助け一条の 心なら
 なにゆハいでも しかと受け取る
三号38
 口先の ついしよはかりハ いらんもの
 しんの心に 誠あるなら
三号39
 どのよふな 心もしかと 見ているで
 月日このたび 皆な分けるでな
十一号7
 口先の 追従(ついしょ)ばかりハ いらんもの 
 心の誠 月日見ている
十一号8
 月日には 嘘と追従 これきらい
 この先なるは 月日退く
十二号113

 次のような諭しになります。
 明治18.4.18日、「教祖様御言葉」より。
 「そこで、真実心定め、また心澄ますよう、この心澄ますのは、嘘と追従(ついしょう)言わんよう、また、欲に高慢ないように。これさいか、弁(わきま)えたなら 心澄んである。何事も我が子に取りて、思案せよ。『子はどうでも』と思う親はなし。また、神様が、罰当(ばちあ)ては更になし。‥また、前に申す通り 神が罰当て更になし。そのはづや、この人間を拵えたのは、この人間の、陽気遊山を見たさに拵えた人間やもの。また、世界中、どこに隔ては更になし」。
 明治18.719日、教祖様御言葉の山田伊八郎「根のある花」。
 「嘘、追従、言わんよう。欲に高慢ないよう。人を悪う言わんよう、思わんよう。ただ立て合い、たすけあい。この心、月日が受け取りたなら、百五十歳か二百歳か三百歳まで、病まず死なずに弱らずに、いつも十八歳の心にて、陽気ぐらしをさしたいとの神の急き込み」(明治18.7.19日)。
 「正文遺韻」171p「御はなし草稿 八埃の理」の「嘘、追従」は次の通り。
 「『嘘に追従(ついしょう)これ嫌い。欲に高慢大嫌い』と仰せられまして、嘘、追従を言わぬ者はない。また欲と高慢もない人はございません。皆な誰でも多いか少ないか心にありますから、行(おこな)いに現れますによって、嘘を言わんよう、お追従せぬよう、欲をかかんよう、高慢を出さぬように、日々注意することが肝要でございます。人間の凡夫心(ぼんぷしん)では、人に悪く言われると気持ち(気分)が悪い。良く言われると気持ち(気分)が良い。また、少しでも人の上に立つとか、人に立てられるとかすれば嬉しい。人の下に随(つ)いて通らにゃならん。また、人に貶(けな)されると忌々(いまいま)しい。これは、どうでも離れることのできぬ人情でござりますによって、自分もそうなら人もそうだ。よって、人のこと貶せば人も我のこと貶す。人の頭を押さえれば、人は反抗して、己(おのれ)の頭を押さえんとする。そこで、互いに踏みつけ合いになります。それ、内々も睦(むつ)まじゅうは通れぬようになる。よって神様が、『互い立て合い』と仰せられる。慢心出しては立て合えましょうか。人がヘタなことや、つまらぬこと言うたり、したりしたならば、貶さずに教えるように親切をかけ、悪いことを悪いと言わず、違うことを違うと言わず、こうしたらどうでしょうというように優しくして人を立て、人の足らぬところを補ってやるようにするのが誠真実(まこと)であります。そこで神様が、『あの人は足らぬ人や、あほうな人やと言うならば、足りるよう、賢(かしこ)いようにしてやってくれ』と仰せられます。『人間は神様の貸しもの』ということを聞き分けたなら、その足らぬ人や、あほうな人のことを笑ったり、謗(そし)ったりできますまい。何となれば、その足りぬとか、あほうやとか分かるのは、自分が神様のご守護を篤(あつ)く戴いているからこそ分かるのであって、決して自分の力ではない。自分の力のように思うから、人の足らぬのや、あほうなのが可笑(おか)しくなるのであります。そこで、『足らぬ者なら足してやれ』と仰る。力を添えてやらねばなりませぬ。『あほうな者は賢くしてやれ』と仰る。同じく心を添えてやるより他に道はござりませぬ。人間の力で、あほうを賢い者にできましょうか。決してできることやござりますまい。この理を聞き分けたら、人を踏みつけにも、蔑(ないがし)ろにもできやしませぬでしょう。この高慢心は、つのり募りて、親をも踏みつけにする。また、主人・妻をも踏みつけにする。遂には理を踏みつけ、神様をないもの同様にするようにもなります。そこで『ほこり』という、八つの中の第一終(しま)いのとめに置いて、お戒め下されたのであって、『高慢』は、一番出やすくて、一番ほこりが大きいのでありますから、よくよく日々に注意せんければなりません」。
 お指図は次の通り。

【その他埃りその三、妬み(ねたみ)
 その他の埃りその三は「妬み」(ねたみ)。次のような教理になる。
 その他の埃りその三は「妬み」(ねたみ)です。「妬み」(ねたみ)の埃りと申しますは、***。「妬み」(ねたみ)は、いわゆる***の心遣いを云う。これが「妬み埃り払い」の秘訣です。
 お指図は次の通り。
 「あちらから妬む。こちらから妬む。身が悩む、治まらん。‥あちらから妬む、こちらから妬むという理、治まり成らん」(明治23.3.17日)。
 「少しぐらい こんな事ぐらいという理は むさくろしい(むさ苦しい)。妬み合いという理が見て居られん。これで掃除は仕舞(しまい)。これだけ見分けんならん。見分けるには遠慮は要らん。遠慮するのは分からんからや。陰で言うは 十代罪と言う。陰で言うなら その者 直ぐに言うてやれ。身のためや。来る者に去ね(いね/帰れ)とは言わん、来ん者に来いとは言うやない。心で尽す者と、現場で尽す者と よう見分け。陰隔(かげへだ)ての理のなきよう」(明治24.1.29日)。
 「怨(うら)み悔(くや)みを持たず、心だけ改め。いかなるもいんねん(因縁)。早く事情定めてくれ」(明治25.5.2日)。
 「要(い)らざらん事、何も心を付けるやない。銘々でする事、どうも知ろうまい。是非はあろうまい。銘々の怨み、これだけの事を皆(み)んなよう思うてみよ。天然自然という處(ところ)成程(なるほど)と言う。銘々承知して居(お)れば、どんな慎(つつし)みもできる。これよう聞き分けておかにゃならん」(明治26.5.11日)。
 「笑うて暮らせば、何にも妬み恨(うら)みは 一つもあらせんで。よう聞き分け」(明治31.5.9日)。
 「第一妬む妬まれる、嫉(そね)む嫉まれる。この理ほど恐ろしい理はない/\。‥妬み合い/\、嫉み合い/\、これが見苦して、見苦してならん」(明治31.5.12)。
 「これまで人が出世すれば 妬む者は そらない。なれど心に理を思わねば、妬むも同じ事。人の出世、楽しんでくれにゃならん。ほんにこれでこそ道の理かと、楽しんでくれてこそ道であろ。人の出世、怨み嫉みは道でない」(明治32.2.2)。
 「あちらから妬み、こちらから妬み、ほこりの元。元は障りという」(明治33.5.17日)。
 「心 妬み合いするは、煩(わずろ)うているも同じこと」(明治35.3.14日)。

【その他埃りその四、罪口説(つみくぜつ) 「罪口説(つみくぜつ)言うはほこり」(明治20年4月 補遺)(【註】悪口・陰口、言いがかり、イヤミを言うなどの、悪意あるもの言い全般)。
 その他の埃りその四は「罪口説」(つみくぜつ)。次のような教理になる。
 その他の埃り四は「罪口説」(つみくぜつ)です。「罪口説」(つみくぜつ)の埃りと申しますは、悪口、陰口、文句、小言、讒言、讒訴、言いがかり、密告などの悪意ある発言全般を指す。「罪口説」(つみくぜつ)は、いわゆる***の心遣いを云う。これが「罪口説(つみくぜつ)埃り払い」の秘訣です。

 註、讒訴・讒言(ざんそ・ざんげん)とは、対象者の「足を引っ張ろう」、「蹴落そう」、「芽を摘もう」、「取って代わろう」などの心理から、事実を歪曲、捏造して、密告や流布をして、結果、相手を貶め、陥れる発言や行為を云う。
 お指図は次の通り。
 「罪口説(つみくぜつ)言うは埃り」(明治20年4月補遺)。
 註/「罪口説」(つみくぜつ)は悪口・陰口、言いがかり、イヤミを言うなどの、悪意あるもの言い全般を云う。

【その他埃り五、悪口、陰口、つげ口。小言】
 その他の埃りその五は「悪口、陰口、つげ口」。次のような教理になる。
 その他の埃り六は「悪口、陰口、つげ口」です。「悪口、陰口、つげ口」の埃りと申しますは、***。「悪口、陰口、つげ口」は、いわゆる***の心遣いを云う。これが「悪口、陰口、つげ口埃り払い」の秘訣です。
   創象10号「先人の咄」、高野友治「奥野道三郎氏から聞く」 の「人が悪口を言うたら」。
 「あるとき教祖は山本利三郎に仰いました。 『人が悪口を言うたら、その者の、後ろ姿を拝んで通るのやで。そうしたら、その者が、こちらの因縁を取って行って下さる恩人になるのやで』。 山本利三郎は、どんな事があっても腹を立てず、その人の後ろ姿を拝んで通っていたのであります。山本には“しま”という女房がいました。二人の間には可愛い男の子がいました。それなのに、どうした気の迷いでございましたか、“しま”は、他の男と割りない仲となったのであります。いつもの山本なら、どうなったか分かりませんが、この時には教祖から、『どんな事があっても腹を立ててはならん』、と教えられていたのであります。それで山本は女房の“しま”に、どうしても、その男を忘れられんと言うなら、その男の所へ嫁に行け。子供は私が引き取り立派に育てる。何の心配も要らん。また心配ごとができたら相談に来てくれ。神の子供、兄妹として、たすけ合おうではないか、と言って別れたのであります。“しま”はその後も山本の所へ、事情があると相談に来ていたそうです。その後、山本は教祖のお世話によって勝山小松と結婚致しました。この人は若くてきれいな人でした。それで河内(現大阪府東部)の人々は、山本は糟糠(そうこう)の妻(貧苦を共にした妻)を捨てて、若い嫁をもらった、と悪口を言っていました。本当の事情が伝わっていなかったのです。明治22年、山本が会長になり、中河分教会(現大教会)設立認可を大阪府へ申請した時、この悪口を投書した者があって、なかなかお聞き届け頂けなかったのだ、と聞かしてもらっています。それでも山本は、教祖の教えのままに通っていたのであります」。
 堀越義男「幸せを求めて」131-132pの「陰口、悪口言う人は」。
 「増井りん先生が若後家となり、くわえて失明の身上をいただいて教祖におたすけ頂き、子供さんは在るのにチョクチョクおぢばに参り、教祖のお世話をさせて頂いておられた折、村人たちは 、増井の若後家にも虫が付いたとみえ、子供を放ったらかして大和くんだり(大和の田舎)まで行っている。ひどいものや、と噂を流し、先生はいたく悩まれた。すると教祖は先生に、『陰口、悪口言う人は、あんたの前世の因縁を取ってくれる恩人やさかい、後ろ姿を拝んで通りなはれや』、とお聞かせ下された」。
 堀越義男「幸せを求めて」89pの「言うた人に傷が残るのや」。
 「教祖は、『人の欠点を言うと、言うた人に傷が残るのや。鉋(かんな)の刃が毀(こぼ)れると、鉋かけたら筋が残る。その筋が身上事情となるのやで』、とお諭し下されている。悪口は、刃毀(はこぼ)れの鉋で木を削るようなもので、鉋をかけても必ず削れぬ筋が残る。悪口は、削られない筋のようなものであって、そのところから腐れがくるように、人間の身上事情となって苦しまねばならんとの戒めである。言葉の使い方が分からんから、歯、口、肺などの、息一筋(ひとすじ)の道具に障りをいただく。痔(ぢ)は口の裏口で、みな、口の悪い人がなる病である」。
 堀越義男「幸せを求めて」61pの「やさしい言葉 」。
 「教祖は寄り来る人々にいつも、『惨(むご)い言葉を出さぬよう、切り口上、捨て言葉、愛想尽かしは、口が腐っても言うやないで』、とお諭し下されている。そして御自(おんみずか)らも、その通りの言葉を使い、雛型を遺されている。吉川万治郎先生が、教祖は天啓の折は、厳としたお声でお伝え下さるが、ふだんは小さな子供さえ腰の周りにまつわり付くような、やさしい声を出されていた、と自らの幼少の折、教祖にお会いして体験した印象を語っていた。温かい所、明るい所、穏やかな所に人も物金も集まり、成育し、栄えもする天然自然の姿を考えた時、教会在住の人の使う言葉は、相手を喜ばせ、勇ませる、やさしい言葉でなくてはならんと思う」。
 諸井政一集 後篇 御講話傍聴録 六〕「ほこりの提灯持ち 」。
 「教祖様(おやさま)に告げ口する人がござりまして、お家のこと〈や〉、「誰それはどう言うている、こう言うている、とさまざまの事を申し上げた。そこで教祖様(おやさま)仰るには、 『神さんな、そんなこと聞くな、聞くな、と仰るによってな、そんなこと言うておくれるなら、もう来ておくれなえ』、と仰せられて、それからあとで、側の者に仰るには、 『あら、ほこりの提灯(ちょうちん)持ちやで。他所(よそ)のこと持ち込む者は、また持って出るで。中言(なかごと)、悪告げは、ほこりの提灯持ち、と神さん仰るで』 、とお聞かせ下されました」。
 みちのとも昭和2年8月20号、布教要旨十五、春野喜一「ほこりや ほこりや」。
 「以前ある人が、教祖様(おやさま)のところへ行って、 あなたのことを陰で、こう言うている人がある、と言われたところが、 『聞くやない 聞くやない。ほこりや ほこりや』、と仰る。 『ある人が陰で、そんなことを言うているのかいなあ、と思うだけでもほこりがかかる。そんなこと聞くのやない。人の中言、言うのやない』、とこう言われて、他人の中言を一向にお取り上げにならなかったことがある」。
 お指図は次の通り。
 「さあさぁ罪々聞かすやない。心いずむ。神が乗らん。‥神が踏ん張る處(ところ) 、罪という罪すっきり聞かさんよう。一つの心という、神じゃない、心 人間心に映してある。罪聞かして どうなるとも計り難(がた)ない。思やん (思案)してみよ。僅(わず)かいんねん(因縁)、僅か治まり、雑言(ぞうごん)悪を馳(は)すと言う。一度は許そ。後一つ心許さん」(明治22.9.19日)。
 「多くの中に世界の道理、今一時、人を毀(こぼ)つでほこりが立つのやで。世上の道が狭く成る。人さえ毀(こぼ)たねば、人の事を悪く言うことはない。人を毀(こぼ)つで、あちらからこちらから人が眺める(ことになってしまうのや)。あの者この者が、何でも実々(じつじつ)の道を通るに、悪く言うたら、善き道とも、たすけ道とも言うまい。日々の道を通ろうと思うては、人を毀(こぼ)ったり、悪く言うてはどうもならん。人を毀(こぼ)って、何ぼ(なんぼ)道を神がつけても、毀(こぼ)つから 道をないようにするのやで。急く事情は要らん。偉い者に成ろうと思うたら どうもならん。皆たけ/\(丈々)の人間。偉い者に成ろうとて一時に成らん。人間一生と言うても、人間の一生の事は急いては いかせん。末代の道やもの。急いては いかせん。天然自然の道に基(もとづ)いて、心治めてくれるよう(明治23.2.6日)。

 【註】毀つ ー 壊す。削る。この場合は、人権や個人の体面、名誉、精神面などを著しく毀損(きそん)すること。悪口・陰口、讒訴・讒言ほかの言動。
 「さあさぁ又一つ話しやで。繰り返やし/\くどい話するで。さあさぁくどい話しとんと分からん。何かのところも始め掛ける。古い話から始め掛けるで。初め/\第一初め。不思議普請をするなれど誰に頼みは掛けん。皆な寄り合うてできたるなら人も勇めば神も勇む。不思議普請をするからは頼みもせん。ようようの事始め掛けた。世界雨が降る、難儀や、えらい年やなあと言う。こいら一つの理を思い、よう聞き分け。怪しい話しやなれど、皆なちゃんと寄せて締めて見よ。これからどんな普請せんならんかも知れん。本普請はいつの事やと思う。不思議の中で小言はこれ嫌い、陽気遊びのようなが神が勇む。余儀なきのところだけ済めばよい。するするでは初めの理が失う。神の書置きも反古になる。よう聞き分け。人間心なら人間の理を以てする。心揃うたら手を打つがよい。心に得心が行かねば、三日三夜猶予してあるから、又々尋ね出るがよい」(明治23.6.17日)。
 「心をみな純粋に治めてくれ。陰で言うより前で言え。いかん事はいかんと、影で見て、陰で言わんと直ぐ(すぐ/直接)に言え。陰で言うたら、重罪の罪と言おうがな」(明治23.11.22日)。
 「陰で言うは、十代罪と言う。陰で言うなら、その者直ぐ(すぐ/直接)に言うてやれ。〈自分の〉身のためや」(明治24.1.29日)。

【その他埃りその六、ぼそぼそ話し】
 その他の埃りその六は「ぼそぼそ話し」。次のような教理になる。
 その他の埃りその六は「ぼそぼそ話し」です。「ぼそぼそ話し」の埃りと申しますは、***。「ぼそぼそ話し」は、いわゆる***の心遣いを云う。これが「ぼそぼそ話し埃り払い」の秘訣です。
 お指図は次の通り。
 「心一つの理を以て、互い/\の心を持って、あちらでぼそ/\(ぼそぼそ)、そちらであらこら言えば 直ぐの道を通られやせん。心を皆 純粋に治めてくれ。陰で言うより前で言え。いかん事はいかんと 陰で見て陰で言わんと直ぐに言え。陰で言うたら 重罪の罪と言わうがな(言おうがな)」(明治23.11.22)。
 「万事(ばんじ)互い/\よう聞いて/\居るやろ。聞いたら道を違わんよう、違わさんよう。違わしては何にもならん。心に違う理が すっきり嫌い。‥罪はならんで。取り扱いのところ治まりてないから罪できる。心罪ないよう諭してくれ。毎夜/\のように諭してある。なれど、銘々理を拵(こしら)え、裏と表との事情がどうもならん。善き事も悪き事も裏表、取りよう聞きようによりて理が戦う。こそ/\話はすっきり要らんで。直ぐと/\大きい声で話し、陰々の話は要らん。‥兄弟の中/\と言うても、中に兄弟の理がある。ぼそ/\話はすっきり要らん。世上の理 世界の理は 心に治めて話もせにゃならん。内々気に済まにゃ済まぬよう 明らか話もせにゃならん。中に跨(またが)り要らん。心変わる理あろうまい。なれど、日々理を拵える。皆んな揃うた中で話しておくから ぼそ/\話は要らん。ぼそ/\話は ろく(碌)な事やないと思え。誰彼言うやない。そのまゝ(まま)直ぐに諭してくれ。こそ/\話は 罪を拵える台とも諭しおこう」(明治26.12.6日)。

【その他埃りその七、讒訴、讒言雑言(ぞうごん)】
 その他の埃りその七は「讒訴、讒言雑言(ぞうごん)」。次のような教理になる。
 その他の埃りその七は「讒訴、讒言雑言(ぞうごん)」です。「讒訴、讒言雑言(ぞうごん)」の埃りと申しますは、***。「讒訴、讒言雑言(ぞうごん)」は、いわゆる***の心遣いを云う。これが「讒訴、讒言雑言(ぞうごん)埃り払い」の秘訣です。
 お指図は次の通り。
 「さあさあ罪々聞かすやない。心いずむ、神が乗らん。席という、一日の心、一日の日、神が踏ん張るところ、罪という罪、すっきり聞かさんよう。一つの心という、神じゃない。心人間心に映してある。罪聞かして、どうなるとも計り難(はかりがた)ない。思案してみよ。わずかいんねん、わずか治まり、雑言(ぞうごん)悪を馳(は)すと言う。一度は許そ。あと一つ、その心、許さん」(明治22年9.19日)。

その他埃りその八、小さい心、疑ぐり/\の心
 その他の埃りその八は「小さい心、疑ぐり/\の心」。次のような教理になる。
 その他の埃りその八は「小さい心、疑ぐり/\の心」です。「小さい心、疑ぐり/\の心」の埃りと申しますは、***。「小さい心、疑ぐり/\の心」は、いわゆる***の心遣いを云う。これが「小さい心、疑ぐり/\の心埃り払い」の秘訣です。
 お指図は次の通り。
 「小さい心はやめてくれ。疑ぐり/\の心はやめてくれ。ほしい(欲しい)、をしい(惜しい)、うらみ(怨み、恨み)、そねみ(嫉み)の心はやめてくれ」。(明治28.10.7日)

その他埃りその九、喧嘩の腰押し
 『喧嘩の腰押し 神は嫌い』(喧嘩をそそのかす/後援、後押しする)
 〔創象 第10号 先人の咄 奥野道三郎氏から聞く 高野友治〕

埃りの言葉教理
  みちのとも昭和10年5.20日号 佐津川準「おめでたい心」。
 「教祖は、『“も”の字が嫌や』、と仰せられてある。それはそうですか。それでも‥、という、この“も”の字がお嫌いなのである」。

 要するに「言い訳」が嫌いと云うことであろう。

【我が身思案と我さえ良くばがあかんの埃】
 「我が身思案は」(大正十年三月号みちのとも「深谷先生の御話」深谷源次郎より)。
 「神様は何時も私達が行くと、人間を創めたときの話をなさる。そして教祖様は、その度に泣いて聞かして下さった。『変わらぬのが天の理やで。米を植えたら米、麦を蒔いたら麦が生える。ケシの種にはケシの実がのる。この理をよう聞き分けてくれ。人間は人間が生んで独り大きいなって、偉くなれば吾が力で偉くなった様に思うが、それは大きな間違いやで。人はどうでも我さえよくば、という心ではいかん。皆々神様の可愛い子供や。我が身が可愛い様に、人さんを可愛がってやっておくれ。「我」があってはならんで。欲があってはいかんで。世の中に、火難に遭うて裸で泣く者もある。盗難に出遭って難儀するものもある。なんでこの様な目に遭うか。この理をよく聞き分けておくれ。神は可愛い子供に苦労をさしたくない。皆の心行きがコロッと違うからやで』、と聞かして下さった」。

 「『も』の字」。
 「『親様は‘’も‘’の字がイヤや』と仰せられてある。『それはそうですが、それでも‥』と言う、この『も』の字がお嫌なのである」。





(私論.私見)