信者の教祖像証言

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.1.15日

【信者の教祖像証言】
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 一八一 教祖の茶碗

 「教祖のお使いになった茶碗の中には、欠けたのを接いだのがあった。私は、茶碗を見た。模様ものの普通の茶碗に、錦手の瀬戸物で接いであった。これは、本部の宝や。これを見たら、後の者は贅沢出来ん。お皿でも、教祖のお使いになったものの中には、接いだものがあった」と。これは、梶本楢治郎の懐旧談である。
 一九二 トンビト-ト

 明治十九年頃、梶本宗太郎が、七つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、「トンビト-ト、カラスカ-カ-。」と、仰っしゃって、「指を出しや。」と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨ-ッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。
 一九三 早よう一人で

 これは、梶本宗太郎の思い出話である。教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。それでも、「今やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボ-ロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、「早よう、一人で来るようになったらなあ」と、仰せ下された、という。私の弟の島村国治郎が生まれた時には、「色の白い、綺麗な子やなあ」と、言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。吉川(註、吉川万次郎)と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履(註、表を藺で編んだ草履)みたいなものをはいて、おいで下された事がある。教祖のお声は、やさしい声やった。お姿はスラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖はやさしい方やった。御腰は曲っていなかった。
 一九四 お召し上がり物

 教祖は、高齢になられてから、時々、生の薩摩藷を、ワサビ下ろしですったものを召し上がった。又、味醂も、小さい盃で、時々召し上がった。殊に、前栽の松本のものがお気に入りで、瓢箪を持って買いに行っては、差し上げた、という。又、芋御飯、豆御飯、乾瓢御飯、松茸御飯、南瓜御飯というような、色御飯がお好きであった。そういう御飯を召し上がっておられるところへ、人々が来合わすと、よく、それでお握りようのものを拵えて、下された。又、柿の葉ずしがお好きであった。これは、柿の新芽が伸びて香りの高くなった頃、その葉で包んで作ったすしである。
 一九五 御苦労さま

 「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。どんな偉い人が来ても、『御苦労さま。』 物もらいが来ても、『御苦労さま。』その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆、一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又、地方のゴロツキまでも、皆、信仰に入っている。それも、一度で入信し、又は改心している。」と。これは、高井直吉の懐旧談である。

 教祖は、「生き姿はのこさない」(ひながたとかぐらづとめ 369頁)と仰せになっていたようで、ご存命中のお姿の写真は撮らせていない。ご昇天後、会議によって、 「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」 に決まり、その写真が「二枚」現存する。但し公表されていない。しかしながら、ご長女「おまさ様」の写真と、 「たったひとり、おやさまの内孫であった、中山たまへの晩年の写真が、教祖のお姿を偲ぶよすがであると伝えられている」(ひながたとかぐらづとめ 369頁)。他の方法として、「教祖に直々にお会いなされた先達教弟方の遺される各聞書」などから、その面影をお偲びすることができる。
 稿本天理教教祖伝165-167頁が、教祖の面影について次のように記している。

 「高齢の教祖にお目に掛った人々は皆、譬えようもない神々しさと、言葉に尽せぬ優しさとが、不思議にも一つとなって、何となく胸打たれ、しかも心の温まる親しさを覚えた。教祖は、中肉中背で、やゝ上背がおありになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色もよく、鼻筋は通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差しであられた。お髪(ぐし)は、年を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真白であられたが、いつもきちんと梳(くしけず)って茶筅に結うて居られ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた。眼差(まなざ)しは、清々(すがすが)しく爽やかに冴えて、お目に掛った人々は、何人の心の底をも見抜いて居られるというのはこのような眼か、と思った。足腰は、大そう丈夫で、年を召されても、腰は曲らず、歩かれる様子は、いかにも軽ろやかで速かった。

 教祖にお目に掛る迄は、あれも尋ね、これも伺おうと思うて心積りして居た人々も、さてお目に掛ってみると、一言も承わらないうちに、一切の疑問も不平も皆跡方もなく解け去り、たゞ限りない喜びと明るい感激が胸に溢れ、言い尽せぬ安らかさに浸った。お声は、平生は優しかったが、刻限々々に親心を伝えられる時には、響き渡るような凛とした威厳のある声で、あれが年寄った方の声か、と思う程であった。教祖は、子供に対しても、頗(すこぶ)る丁寧に、柔らかく優しく仰せられたというが、その優しいお言葉に、ひながたの親としての面影を偲び、刻限刻限に親神の思召しを伝えられた。神々しくも厳かなお声に、月日のやしろとしての理を拝する。厳しく理を諭し、優しく情に育んで、人々を導かれた足跡に、教祖の親心を仰ぐ」。

 「復元創刊号」50頁の 梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」の「お目はすすどかった」。
 「教祖様のお目はすすどかった(鋭かった)。そらすすどい(鋭い)。眉毛(まゆげ)は白いように思わなんだ。目の力が、ようの者(他の者)と違う力があった。そこが人間やない」。
 「みちのだい第33号「教祖特集号」30-31頁」の梶本そのゑ (鍛冶惣支部長) 「優しいお声」(「」)。
 「宗太郎(そうたろう)父が、昭和二十六年「復元 第十八号」に「教祖様の思〈ひ〉出〈その他〉」として出しておられますうちより、二つ三つ、抜き書きさせて頂きました。
〇私は「教祖に物をもろうた」というようなことだけ覚えている。教祖は、蜜柑(みかん)を下さった。蜜柑の腹の方の筋を取って、背中の方から指を入れて、「トンビトートー、カラスカーカー」というのにして、『指を出せ』と仰るので指出すと、その上へのせて下さるので喜んでる、私は七つくらいやった。また、蜜柑の袋もろて(もらって)、こっちも真似(まね)して指にさして、教祖のところへ「ヒョー」っと持って行くと、教祖が召し上がって下さった。
〇神殿(つとめ場所)の方で、お菓子でもいただいたら、子供同士遊んでて、遊びながらいただいて、なくなったら、また教祖のところへ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしまって、なくなると、また走って行く。どうで(どうせ)〈自分が〉、「おばあちゃん、またくれ」とでも言うたのやろ。三遍も四遍も行ったように思う。それでも、「今やったやないか、というようなことは一度も仰らん」。また、「うるさいから一度にやろう、というのでもない」。食べるだけ/\下はった(くだはった)。白せんこ(はくせんこう/白雪糕/はくせつこう)か、ボーロか、飴のようなものやったと思う。大体、教祖は子供が非常にお好きやったらしい。山澤の母に聞くとそうや。櫟本の梶本へは、チョイチョイお越しになった。そのたびに、内の子にも、近所の子にもやるように、お菓子を袋に入れて持ってきて下さる。その巾着(きんちゃく)は、端切れを継ぎ合わせて巾着にしてある。角にして継ぎ合わせてある。赤も黄もある。そしてその紐(ひも)は、鉋屑(かんなくず)。それも、スーッと紙のようにして作ったのを、コヨリ(紙縒り)にして紐にしてある。それが巾着の紐や。「それは教祖が鉋屑で作らはったんや」と聞いた。その巾着は、今も中山家の蔵にある。山澤の母(ひさ)に、この説明は聞いた。
〇私は曽孫(ひまご)のなかでは男での初や。女ではおもとさんがいる。それで、『早う、一人で来るようになったらなあ』と仰ってくれはったという。
〇島村(父の弟/宗太郎の弟、国治郎)が生まれた時、『色の白い、きれいな子やなあ』と言うて抱いて下された。それは山澤の母にも、うちの母(ウノ)にも、よく聞いた。
〇吉川〈万次郎〉と私と二人、教祖の背中に同時に負うてもろうたことがある。そして、東の門長屋(もんながや)の所まで、お出で(おいで)下はったことがある。藤倉草履(ふじくらぞうり)みたいなもの履いて。
〇教祖のお声は、優しいお声やった。スラリとしたお姿やった。 顔は面長(おもなが)で、お政さん(教祖のご長女)は、ちょっと円顔(まるがお)やが、口元や、顎(あご)はそのままや。お政さんは、頑丈(がんじょう)の方(ほう)、教祖は、やさしい方(ほう)やった。腰は曲がってなかった。
〇教祖は、生の薩摩芋(さつまいも)の皮を剥(む)いて、「わさびおろし」で擦(す)って召し上がった。分量は、お齢を召していたから少しと思うが、時々召し上がった。時によると、煮たもの〈は〉召し上がらずに、そんなもの召し上がった。私は子ども心に見ていた。おいしそうに召し上がるので、櫟本の家に帰ると、真似して、お茶碗に一杯ぐらい食べた。

〇お隠れの時は、箱枕(はこまくら)やった。私は、お隠れになった時、亡骸(なきがら)の所へ連れて行ってもろた。そして、手を当てたらハッとした。冷たかった。その時、「息引き取ったら、こんなに冷たいものか」と思うた。それが、私にとっては初めての印象や。その時には、飯降〈政甚〉さんも、裏の叔父さん(梶本楢治郎)も、同じこと言うてる。 真柱さんが、いちいちお呼びになったのやろ。
             ×                 ×                ×
   教祖が御身をお隠しになりました時、宗太郎父は八才でしたので、お仕込み頂いた思い出はないと申しておりました」。
 「復元第18号」4頁の梶本宗太郎「教祖様の思ひ出その他」の「口元や顎はそのままや」。
 「教祖様(おやさま)のお声は、優しいお声やった。スラリとしたお姿やった。顔は面長で、お政さん(教祖のご長女)は、ちょっと円顔(まるがお)やが、口元や顎(あご)はそのままや。お政さんは、頑丈の方、教祖様は、やさしい方やった。腰は曲がってなかった。私の八つの時やもの。それに東京で芝居した時に、杖ついて来はるようにしたから、エライの怒ってやった。頭の髪は白かったと思う。(問、真っ白ですか。答、そういうように思う。)
 「復元創刊号」42頁の梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」の「中山まさ様に似ている」。
 教祖様のお顔は、会議所にご昇天の時の写真の中に中山まさ様(教祖ご長女)が写っており、その写真のお顔が教祖のお顔に似ておられる。

 「皆、平野楢蔵をして郡山に帰らしめ、同地〈の〉写真師を雇い来たりて、二十七日午前、御休息所に於いて、教祖のご臥褥(がじょく)のまま撮影せしめ、保存することにした」(天理教来歴記事)。皆の議によって、「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」に決し、平野さんが受け持って、写真屋を連れに〈大和〉郡山へ行きました。母様(中山たまへ御母堂様)の話では、「平野さんが引き受けて、山瀬文治郎さんが付き添って来られた」そうであります。 いずれにせよ、郡山から「本田(ほんだ)」という写真屋が来て、御休息所で、教祖様のお臥(やす)み姿を撮ったのであります。この由は「増野日記」にも、その日の項に記載されてあります(明治二十年二月十九日項)。「二月十九日(旧正月二十七日)、医師の診察をもって村役場へ死亡の届けなし、お墓地、埋め所、種々紛議もあり、一時止むを得ず、中山ご先祖のお墓地、勾田村頭光寺(まがたむら/ずこうじ)の墓地と決定、 郡山より写真〈屋〉呼びて、教祖〈の〉お写真を撮る」(下略)…この時のお写真は、「教祖様のお顔の方からと、御後頭(おんうしろあたま)の方からとの二枚」あります。

   が先日(昭和十一年二月五日)、高井〈猶吉〉さんの話では、『たしか、新建(しんだち)のお政やん(教祖ご長女)が、後ろから抱え起こしてお撮りしたものがあるはずや。お政やんが、こうして、しゃがんでいたのを覚えている。「まだ見える/\」と言うと、小さくなって、しゃがんでいたのを覚えている』とのことでしたが、「そんな写真、遺(のこ)っていない」と申しますと、「たしか、お政やんがお抱きしていた。……しかし、写真がないとすると、具合が悪かったので、結局やめたんかいなあ……」とのことでした。参考までに付け加えておきます。…

 「写真屋の帰る時には、一枚も持ち帰らんように裸にして調べた」と高井さんが話したので、「現像など、どうしたのか」と尋ねましたところ、「そんなこと皆、お屋敷でやらしました。帰りには、何一つ持ち帰らせませんでした」とのことでありました。原板などを買い取ったのは事実だろうと思いますが、その頃の本部で、現像などが出来たのか否か、ちょっと調べる余地があると思います。〔中山正善「ひとことはな志 その二」66-68頁〕より
  実際に「教祖のお写真を見せてもらった」という「中西牛郎氏の証言 」は次の通り。
 明治三十五年四月十五日は如何なる日ぞや。予れ(われ)編者はこの日、大和に於いて、我が教祖の御真影(ごしんえい)を拝し奉(たてまつ)ることを得たり。この御影(みかげ)の奉置(ほうち)せらるる場所と、拝影の栄を与え給いたるその人の資格と、この御真影の写し撮られたる事情とによりて、然(さ)なきだに(ただでさえ)尊くも、また懐かしく拝し奉る予れ編者に、さらに一層の感動を与えたりき。 ああ、語るも恐れ多きことながら、この御真影は明治二十年陰暦正月、すなわち、今年を去ること十五年前、教祖ご臨終ののち、即刻写し奉りたるものなり。 前代の偉人が死後、画工(画家)により多少想像を混じえて写されたるものとは事替わりて、写真術の最も進歩したる今代に写されたるものなれば、生きたる教祖そっくりそのままなり。 ただし、九十歳のご高齢にしあれば、お髪は白きこと雪の如く、お皺(しわ)は細かにして波に類すれども、八、九分の温和に、一、二分の威厳を添えさせ給い、静かに閉じたるお瞼(まぶた)には、五十年間、慈愛の眼をもって、我々人類を眺め給いたる面影を留め給い、穏(おだ)やかに緊(しば)りたるお唇には、天の福音(ふくいん)を授け給いたる名残りを遺(のこ)し給いぬ。しかも、このご臨終の数時間前までは、お弟子たちを枕辺(まくらべ)に招いて、千万年の後までも我々教徒、否、我々人類が記憶すべき、有り難きご遺訓を授け給いたるを憶(おも)い奉れば、ひたすら感泣のほかは無かりける。ああ、かかる尊き、ゆかしき御真影を拝し奉りたる予れ編者は、何をもってかこれが記念とすべきや。これぞ予れ編者が、この「教祖御伝記」を編し奉らんと感慨を起こしたる所以(ゆえん)にぞある。〔「復元第9号」2頁  中西牛郎「教祖御傳記」(明治三十五年稿)〕より
 「廣池千九郎氏の証言」。(〔「天理フリーフォーラム」資料コーナー⑵ 「廣池千九郎信仰日記 大正2年11月16日」〕より引用
 同(大正二年十一月)十六日、管長(初代真柱)閣下のお居間にて、御教祖(おやさま)直筆の、御筆先(おふでさき)十七号を拝見す。第一号は明治二年一月にて、十七号は明治七年の表題あり。 一号の始めには、御神楽歌(みかぐらうた)と同一なれども、各歌とも歌末の句は少々異なり居れり。 半枚に八行づつ記しあり。用紙は極めて粗末なり。 次にまた、内々(ないない)御教祖(おやさま)のお写真拝見を許されたり。これは極めて秘密にて、ご本部員といえども、これを拝せらるるもの稀なるに、拝見を許可さるは誠に有り難きことなり。恐れ多きことながら、これは御教祖様(おやさま)のご帰幽翌日のお写真にて、管長閣下(眞之亮)および令夫人(たまへ)および政子(おまさ)、久子(梶本ひさ)の四人、お枕元に付き添いあり。 御教祖(おやさま)のご容貌(ようぼう)は、右を下にして横に休まれ、顔は面長(おもなが)にて、頬(ほほ)は肉落ちていれど、お眼と眉は、天地抱き合わせの貌(かたち)をなして、宛然画(えんぜんか)けるものの如し。鼻筋通り口元締まり、耳太く額(ひたい)広く、まったく偉人の相を備えさせ給う。 管長閣下の、かの如く信用せらるるは、みな予が無我の状態に、お道のために日夜働くによる。その誠のあらわれしものと思わる。

   欄外
   閣下は予に対して「まったく神様の引き寄せ」と仰せられ、「教理完成の道具」と仰せられ、それがために予に、「今日は本部員中でも、二、三のほか見せぬものを示す。こちらにおいでなさい」とてお居間に案内、下(上)の記事の如きものを拝見せしめたり。

【教祖遺影考】
 中山正善「ひとことはな志 その二」66-68頁より。
 「皆、平野楢蔵をして郡山に帰らしめ、同地〈の〉写真師を雇い来たりて、二十七日午前、御休息所に於いて、教祖のご臥褥(がじょく)のまま撮影せしめ、保存することにした」。(天理教来歴記事) 皆の議によって、「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」に決し、平野さんが受け持って、写真屋を連れに〈大和〉郡山へ行きました。 母様(中山たまへ御母堂様)の話では、「平野さんが引き受けて、山瀬文治郎さんが付き添って来られた」 そうであります。 いずれにせよ、郡山から「本田(ほんだ)」という写真屋が来て、御休息所で、教祖様のお臥(やす)み姿を撮ったのであります。この由は「増野日記」にも、その日の項に記載されてあります(明治二十年二月十九日項)。 「二月十九日(旧正月二十七日)、医師の診察をもって村役場へ死亡の届けなし、 お墓地、埋め所、種々紛議もあり、一時止むを得ず、中山ご先祖のお墓地、勾田村頭光寺(まがたむら/ずこうじ)の墓地と決定、 郡山より写真〈屋〉呼びて、教祖〈の〉お写真を撮る」(下略)…。この時のお写真は、「教祖様のお顔の方からと、御後頭(おんうしろあたま)の方からとの二枚」あります。

   が先日(昭和十一年二月五日)、高井〈猶吉〉さんの話では、『たしか、新建(しんだち)のお政やん(教祖ご長女)が、後ろから抱え起こしてお撮りしたものがあるはずや。お政やんが、こうして、しゃがんでいたのを覚えている。「まだ見える/\」と言うと、小さくなって、しゃがんでいたのを覚えている』 とのことでしたが、「そんな写真、遺(のこ)っていない」と申しますと、「たしか、お政やんがお抱きしていた。……しかし、写真がないとすると、具合が悪かったので、結局やめたんかいなあ……」とのことでした。参考までに付け加えておきます。…

 「写真屋の帰る時には、一枚も持ち帰らんように裸にして調べた」と高井さんが話したので、「現像など、どうしたのか」と尋ねましたところ、「そんなこと皆、お屋敷でやらしました。帰りには、何一つ持ち帰らせませんでした」とのことでありました。原板などを買い取ったのは事実だろうと思いますが、その頃の本部で、現像などが出来たのか否か、ちょっと調べる余地があると思います。
 実際に「教祖のお写真を見せてもらった」という中西牛郎氏の証言。(「復元第9号」2頁、中西牛郎「教祖御傳記」(明治三十五年稿)より)
 明治三十五年四月十五日は如何なる日ぞや。予れ(われ)編者はこの日、大和に於いて、我が教祖の御真影(ごしんえい)を拝し奉(たてまつ)ることを得たり。この御影(みかげ)の奉置(ほうち)せらるる場所と、拝影の栄を与え給いたるその人の資格と、この御真影の写し撮られたる事情とによりて、然(さ)なきだに(ただでさえ)尊くも、また懐かしく拝し奉る予れ編者に、さらに一層の感動を与えたりき。ああ、語るも恐れ多きことながら、この御真影は明治二十年陰暦正月、すなわち、今年を去ること十五年前、教祖ご臨終ののち、即刻写し奉りたるものなり。前代の偉人が死後、画工(画家)により多少想像を混じえて写されたるものとは事替わりて、写真術の最も進歩したる今代に写されたるものなれば、生きたる教祖そっくりそのままなり。ただし、九十歳のご高齢にしあれば、お髪は白きこと雪の如く、お皺(しわ)は細かにして波に類すれども、八、九分の温和に、一、二分の威厳を添えさせ給い、静かに閉じたるお瞼(まぶた)には、五十年間、慈愛の眼をもって、我々人類を眺め給いたる面影を留め給い、穏(おだ)やかに緊(しば)りたるお唇には、天の福音(ふくいん)を授け給いたる名残りを遺(のこ)し給いぬ。 しかも、このご臨終の数時間前までは、お弟子たちを枕辺(まくらべ)に招いて、千万年の後までも我々教徒、否、我々人類が記憶すべき、有り難きご遺訓を授け給いたるを憶(おも)い奉れば、ひたすら感泣のほかは無かりける。ああ、かかる尊き、ゆかしき御真影を拝し奉りたる予れ編者は、何をもってかこれが記念とすべきや。これぞ予れ編者が、この「教祖御伝記」を編し奉らんと感慨を起こしたる所以(ゆえん)にぞある。
  廣池千九郎氏の証言
 同(大正二年十一月)十六日、管長(初代真柱)閣下のお居間にて、御教祖(おやさま)直筆の、御筆先(おふでさき)十七号を拝見す。第一号は明治二年一月にて、十七号は明治七年の表題あり。一号の始めには、御神楽歌(みかぐらうた)と同一なれども、各歌とも歌末の句は少々異なり居れり。半枚に八行づつ記しあり。用紙は極めて粗末なり。

   次にまた、内々(ないない)御教祖(おやさま)のお写真拝見を許されたり。これは極めて秘密にて、ご本部員といえども、これを拝せらるるもの稀なるに、拝見を許可さるは誠に有り難きことなり。恐れ多きことながら、これは御教祖様(おやさま)のご帰幽翌日のお写真にて、管長閣下(眞之亮)および令夫人(たまへ)および政子(おまさ)、久子(梶本ひさ)の四人、お枕元に付き添いあり。御教祖(おやさま)のご容貌(ようぼう)は、右を下にして横に休まれ、顔は面長(おもなが)にて、頬(ほほ)は肉落ちていれど、お眼と眉は、天地抱き合わせの貌(かたち)をなして、宛然画(えんぜんか)けるものの如し(注、そっくりそのまま描けるもののようだの意味)。鼻筋通り口元締まり、耳太く額(ひたい)広く、まったく偉人の相を備えさせ給う。 管長閣下の、かの如く信用せらるるは、みな予が無我の状態に、お道のために日夜働くによる。その誠のあらわれしものと思わる。

   欄外
   閣下は予に対して「まったく神様の引き寄せ」と仰せられ、「教理完成の道具」と仰せられ、それがために予に、「今日は本部員中でも、二、三のほか見せぬものを示す。こちらにおいでなさい」とてお居間に案内、下(上)の記事の如きものを拝見せしめたり。

 〔「天理フリーフォーラム」資料コーナー⑵ 「廣池千九郎信仰日記 大正2年11月16日」〕より引用  

   教祖は、『生き姿はのこさない』(ひながたとかぐらづとめ 369頁)と仰せになっていたので、ご存命中に、ご自身のお写真はお撮らせにならなかったようです。ご昇天後、会議によって、「ご昇天の教祖様(おやさま)を写真にお撮り申して、そのご風格を留めること」に決まり、その写真が「二枚」現存するようです。お隠れから「130年」経った現在においても、いまだに公表されていないので、今後もその可能性は低いと思われます。しかしながら、ご長女「おまさ様」のお写真と、 「たったひとり、おやさまの内孫であった、中山たまへの晩年の写真も、おやさまのお姿を偲ぶよすがであると伝えられている」(ひながたとかぐらづとめ 369頁) とあるように、「ご容貌はお二方のお写真から」、 またその他は、「教祖に直々にお会いなされた、先達教弟方の遺される各聞書などから」、その面影をお偲びすることができます。




(私論.私見)