異教徒の論難を指導された御教祖
※明治十四年旧六月上旬の某日、大阪真明組の講元井筒梅治郎、同講員、立花善吉氏、その他六七名の講員の協力を得て、上田藤吉氏を講元とする初期兵神真明組が結成されていた。これはその頃の御話であります。
その頃、講元上田藤吉氏の向い宅に三好萬吉という按摩があった。十八年前からの盲目ではあったが、その何者をも助けずにおかない本教信者の上田方とは向い合せであるというところから、早くから立花善吉氏の御世話になり、その頃はお陰で眼の隅の方だけ見えるという大利益を頂いていた。講社結成後、間のない六月上旬の或る日であった。立花氏が引き続いて、その萬吉方へお助けに運んでいた際、突如和田宮の神主と、大神宮(黒住教)の教会主と、同教会の信者の三人が出向いて来て、立花氏に質問に及んで来たのである。時に立花氏は、堺安竜町の種市という、最初大阪真明講講元井筒氏に匂いがけしたという人を伴うて来て居たが、彼種市氏は、和田宮の神主等の凄まじい質問の気迫と難問に、早くも恐れをなして何時の間にかその席から逃げ出して居た。その他は上田講元を始め、めずらしい御利益を蒙った信者は数あったとて、異教間の論戦としては物の役に立つ者のないのは勿論である。そこで立花氏一人彼等の矢面に立って質問に応じたが、立花氏とて、異教徒との問答など嘗て為したる経験なく、只有難い一念から助け一条に勤めて居たので、論戦の用意などあろう筈がない。そういう訳であるので、彼等が歩調を合して奇襲して来る数々の質問に対しては、立花氏には殆んど何一つ返答ができなかった。そのために立花氏は、今までの先生の威厳もどこへやら、散々に悪口づかれて、その座に居たたまらん様にさえなった。そこで小用にかこつけて、密かに裏口から氏も亦抜けて出て、ハヤ船で大阪へ逃げ帰ったのである。然しながらそれは我ながらに余りにも不覚であった。かくの如き様子では、折角の数月の苦心も根底から覆されはしないかと思われるのであった。それが又残念至極で、神様に対しても何とも申訳なき次第と思われてならない。その思いが自ずと氏の風貌に現われて憂色に満ちて居た。それを見た井筒講元は、『今日は立花はん、えろう顔色が悪いな』と尋ねられたが、あまりの不覚に話されもせず、『とにかくお地場へ帰って来ますわ』と答えたのみで、すぐにお地場へと帰っていった。
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