教祖の千里眼、透視能力

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖の千里眼、透視能力」教理を確認する。教祖の透視能力、千里眼を語る逸話は枚挙にいとまないほどである。その一部を確認しておく。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【教祖の千里眼考
 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「異教徒の論難を指導された御教祖(その一)、異教徒の論難を指導された御教祖(その二)」を転載しておく。(昭和42年8月発行「史料掛報」第123号、「おぢば参謁記(二)」白藤義治郎より)

 異教徒の論難を指導された御教祖

 ※明治十四年旧六月上旬の某日、大阪真明組の講元井筒梅治郎、同講員、立花善吉氏、その他六七名の講員の協力を得て、上田藤吉氏を講元とする初期兵神真明組が結成されていた。これはその頃の御話であります。

 その頃、講元上田藤吉氏の向い宅に三好萬吉という按摩があった。十八年前からの盲目ではあったが、その何者をも助けずにおかない本教信者の上田方とは向い合せであるというところから、早くから立花善吉氏の御世話になり、その頃はお陰で眼の隅の方だけ見えるという大利益を頂いていた。講社結成後、間のない六月上旬の或る日であった。立花氏が引き続いて、その萬吉方へお助けに運んでいた際、突如和田宮の神主と、大神宮(黒住教)の教会主と、同教会の信者の三人が出向いて来て、立花氏に質問に及んで来たのである。時に立花氏は、堺安竜町の種市という、最初大阪真明講講元井筒氏に匂いがけしたという人を伴うて来て居たが、彼種市氏は、和田宮の神主等の凄まじい質問の気迫と難問に、早くも恐れをなして何時の間にかその席から逃げ出して居た。その他は上田講元を始め、めずらしい御利益を蒙った信者は数あったとて、異教間の論戦としては物の役に立つ者のないのは勿論である。そこで立花氏一人彼等の矢面に立って質問に応じたが、立花氏とて、異教徒との問答など嘗て為したる経験なく、只有難い一念から助け一条に勤めて居たので、論戦の用意などあろう筈がない。そういう訳であるので、彼等が歩調を合して奇襲して来る数々の質問に対しては、立花氏には殆んど何一つ返答ができなかった。そのために立花氏は、今までの先生の威厳もどこへやら、散々に悪口づかれて、その座に居たたまらん様にさえなった。そこで小用にかこつけて、密かに裏口から氏も亦抜けて出て、ハヤ船で大阪へ逃げ帰ったのである。然しながらそれは我ながらに余りにも不覚であった。かくの如き様子では、折角の数月の苦心も根底から覆されはしないかと思われるのであった。それが又残念至極で、神様に対しても何とも申訳なき次第と思われてならない。その思いが自ずと氏の風貌に現われて憂色に満ちて居た。それを見た井筒講元は、『今日は立花はん、えろう顔色が悪いな』と尋ねられたが、あまりの不覚に話されもせず、『とにかくお地場へ帰って来ますわ』と答えたのみで、すぐにお地場へと帰っていった。

 『立花はん、昨日は兵庫で具合わるかったな』。いきなり立ち迎えられた仲田左衛門先生から云われて、立花氏は度肝を抜かれてしまった。『エッ誰がそんな事云いましたか』と、どぎまぎしながらお尋ねすると、『今朝”親さん”が云わしゃったがな』とお答え下されて、すぐ御教祖様に御取次ぎ下さった。そこで立花氏は、御教祖に逐一(ちくいち)兵庫にありし事情を申上げたところ、御教祖様は、『立花はん、今度は手帖に控えて去(い)ぬのやない。心に控えてゆきなはれ』と、先ず仰せ下さって、御親(おんみずか)ら懇ろに質問の角目角目をお教え下された。そこで立花氏は、御教祖の御言葉どおり、その角目角目を、よく心に止めて大阪に帰り、それより直ちに兵庫に出向いて行った。然るに兵庫に来てみれば、さきの日の杞憂は事実としてあらわれていた。即ち『天理王命は論評に負けた。駄目だ』という風評が立って、単純な浜の住民共は大々的に反対に立ち、講社というも名ばかりで殆んど叩きつぶされ、只僅かに上田藤吉氏と三好茂八氏の妻かね女の二人のみが変らぬ信仰を持続して居てくれたに過ぎなかった。そこで立花氏は、再びその信仰の復活をはかろうとして、まずお講勤めを次々と進めてゆかむものをと、丁度あの事件のあった一週間目に、再びあの按摩の萬吉氏宅で、その御講勤めを始めたのであった。然るにその事を何処から聞いてきたものか、前質問者の一人、和田宮の神主が又やって来て、『どうもあんたは失礼やないか。前に質問に応じられず逃げて帰ったあんたが、どうして又天理王命のお勤めなぞをするのか』と、又も諤々の弁を振って詰問して来たのであった。然しながらこの度は、立花氏は少しもたじろがなかった。わざとしらばくれて『そんな事ありましたかな。もう一ぺん言うて見て下され』と、あの質問を繰返さそうとした。彼は前回処女の如き無力の立花氏に、今竜攘の撃力(りゅうじょうのげきりょく)あるを知らない。やや憤懣(ふんまん)に堪えぬという態度を示しつつも、得意になって前回の質問を繰返しかけたのであった。立花氏の策戦は甘(うま)く図に当ったのである。氏は、『そんな事ぐらい何でもない。それはこうこういう事やで』と、先日御教祖に教えて頂いた通り、前回とは打って変って、すらすらと明答を与えて行った。かくて一問は一問と見事に解釈されてゆく。その度毎に神主は、その豹変したる立花氏の叡智振りにすっかり感服してしまって、遂に、『神主自ら天理王命を敬拝し信者の世話をする』と兜を脱ぎ、論戦は立花氏の見事なる勝利に帰したのであった。しかも不思議な事には、御教祖の御教え下さった以外に彼は何事も質問して来なかったという。これひとえに立花氏の純一熱烈なる信仰もさることながら、それを指導して下さった教祖様の驚くべき神智の致す所であった。(中略)熱血性の浜の住民は、この見事なる立花の勝利に、再び三好かね女の夫である角力(すもう)の取締、三好茂八氏は、最大の熱心家となって布教伝道に助力してくれたので、講社は益々多大に増加し来り、ここ兵庫今出在家町地方は、見るもの聞くもの、『天理王命はありがたい神様である』の風説を以て満たされた。
 「ある時、京都の信者が一人、助けて頂いたお礼にと言って手頃の手桶を寄進して来た。教祖は、それをいつまで経っても使おうとはなさらなかった。高弟たちが不審に思って、巡教のついでに京都で調べてみた。すると、その手桶を買った代金が踏み倒されていた(※1)ことが判った」。(「教祖と手桶」、大正十一年十月発行「教祖と其の教理」(天理教同志会編」193pより)

 「途中で思案」(昭和三年四月発行「教祖とその高弟逸話集」(天理教赤心社)より)。
 「ある時、河内から一人の信者が帰って来て、教祖にご挨拶すると、『貴方様は龍田から帰んなはったな』と仰せになった。信者は不思議に思って色々考えた。そして龍田へ来るまではお地場の事を思っていたのが、ふと家の事を気にして居た事に気が付いて、初めて成程と合点がいった」。
 「祖母が中山重吉祖父(教祖の孫)に嫁いで間もない、ある秋晴れの日、せっせと張物をしていた祖母は、急にあたりがうす暗くなって来たのに気がつきました。おかしいな、まだ日没には間があるのにと思っている中に、視界がぼやけて何も見えなくなってしまいました。ビックリして折から来合せた飯降さと様にこの由を伝え、教祖のところへ走ってお伺いして頂きますと、教祖は、『なあ、こよしは先が見えんのやで。そこをよう諭してやっておくれ』とお言葉を頂いたそうで、さと様を通じてこのお言葉を聞かれた祖母は、その場に泣き伏しておサンゲされると、眼はすぐもとの様に御守護頂かれたのです。あまりの鮮やかな神様のお手入れに、ただただ恐縮するばかり。それもその筈、ついさっきも張物をしながら、夫のあまりのお人よしを繰り返し胸の中で不足していたのです。それに朝のうち他家から頂いた一升入りの赤飯を、祖父は一人でペロリと平らげてしまったのです。日頃のモヤモヤとした不足が一時に爆発して『もうこれまで。帰らしてもらおう。とても望みはない』と、離婚してかえる事を思いつめて張物をしていたところなのでした。教祖のお言葉が、骨身にこたえない筈はありません。若い頃は、こんな一幕もあったと聞かして頂くと、大変ほほえましく、なつかしく思われますが、祖母は、この節に、かたく心に誓うところあって、その後は夫を助け、身を粉にして活動されたと聞かして頂いております」。(「先が見えん」、昭和三十五年七月号(第十九号)みちのだい「先人の面影 年老いての手習いー中山こよし様ー」中山伊千代より。逸話篇125「先が見えんのや」に同内容の御話しあり)。

 「明治□年の頃なり。大阪真明組、井筒様、今川様など、備中国笠岡に布教し、追々信徒を結成せしかば、笠岡警察に於いては、大いに注目し、井筒、今川両氏の落度を挙げんものと、しばしば探索を試みしも、元より誠一つの道を説き、人を助くるのみにして、一文の謝礼だも受くるにあらざれば、何時かな、その意を果たす能わず。遂にその元を探らんとて、探偵、斉藤織造という者をはるばる大和に上らしめぬ。然れども、これまた悪行と認むるものなきにより、空しく帰りて、その由を復命せしが、真明組の布教益々盛んなるより、警察は、再び斉藤氏をして欠点を探らしむ。斉藤氏またこの行き必ず彼を召し取らんと深く心に期したり。やがてお地場に着するや、備中笠岡の信徒と称し、豆腐屋に宿泊して、しばしばお屋敷に入込み、教祖様に接し奉る。一夜神様の御話しあり。かしこ、ここに籠りある善男善女『それ刻限よ』と、我を先にと馳せ集まりて、御前に伺い候なせり。織造氏こゝぞと思いて、取り縄を改めつつ、馳せ向かいけるに、教祖様は諄々として、この世はじまりの次第より誠一条の御話しを説き示し給いぬ。御話し終わりたりとて、人々礼拝、退座するに際し、織造氏は、如何せんと、ためらい居りしに、教祖様は突然、『織造さん』と呼び給いぬ。斉藤氏は、折々御前に来るといえども、未だ一度も御意を得たる事なく、己れの姓名をも申上げたる事なきに、不意にお声を掛けられたるなれば、ギクリとして、「ハッ」と答えぬ。教祖様は、再び『斉藤さん』と声かけ給いて、『近う寄りなはれ』と仰せられぬ。恐る/\お側に近づき参りければ、教祖様、言葉柔らかにのたまう様、『斉藤さん、世の中というものは様々だすなあ。かねや太鼓叩いてナムアミダブツを唱えて世を渡る商売もありますなあ。そうかと思やあ警察というものがありますなあ。人をくくって、人を罪に落として、手柄やと云うて、これも商売だすなあ。その警察の中に探偵と云うものもありますなあ。世界であれは犬やと云いますやろ。人と生まれて、犬やと見下げられて通らにゃならんも、是もやっぱり商売だすなあ。世の中は、色々の商売がありますなあ』と。聞く斉藤氏、胸に釘を打たるゝ思いして、即座に、己の賤しかりしを恥じ、職を捨つるの決心をなせり。しかれど、その顔色を示さず、かしこみ謹みて、御礼を申上げ、なお御伺い事などして、御前を下がり、翌日は急ぎ、笠岡さして帰りけり。署長は、いぶかしげに、斉藤氏を迎えて『どうやったなあ』問いを起こしぬ。『いけません/\、到底いけませぬ。今川や、井筒でさえ、捕ろうと思うても捕れなんだが、捕れんはずです。元へ行って、段々探ってみれば、探れば探る程、結構な話しや。決して不都合はありません。先ず、あれをくくろうと思えば、署長さん、あんたやワシは、先に括られねばなりません』。『それは又どういう事や』。『なぜと申せば、こういう次第であります』と、教祖様に承りし一部始終の話を説き、胸に釘を打たるゝ思いをした事を述べ、『それにつき、私は今日限り辞職と決心致しましたで、よろしく願います。就ては一つ伺いたい事がある。私は大和の神さんという御方に、世界の人間は、増えているか、減っているか、と尋ねましたところが、『すべて増えているで。ただハワイという国だけは減っている。七分まで減ってしもうて今は三分しか残っておらん』と申された。それから、日本はいくら、支那はいくら、朝鮮はいくら、天竺はいくら、と悉く人間の数を聞いてきました。故に、これに間違いないでしょうか。調べて頂きたい。第一ハワイという様な国があるのですか』と云うと、署長はうなずき、答えて云う様『それは有る。取り調べてみよう』とて、後に政府へ対し、伺うてみしに、斉藤氏が聞取り来たりしと、少しも違わざりしにより心密かに感服し居たりと。斉藤氏は決心を実行して、職を罷(や)め、信徒の一人となりて、追々熱心の効を積み、明治□年□□の担任教師を拝命するに至れり。常に人に語りて、『ワシは御教祖様に犬やと云われて、よう/\結構に人間の仲間入りが出来て、この様に御徳を頂きました』と云えり」。(「斉藤織造氏の話」、「改訂正文遺韻」諸井政一著(道友社発行)283〜285ページより)。

 「老婆の曰く、『昔、大和の庄屋敷の神様と言ったお婆様の信心が、今の天理教さんになったんですてなあ。聞いて私はビックリ致しました。それで直ちに松阪(三重県)で一番大きいこの教会にお詣り致しました』と云う。更に当直員の『それは何故ですか。如何なる訳があるのですか』との反問に対し、老婆は次の如き物語りを涙ながらに語ったそうです。

 この老婆が娘時代、大阪に出て女中奉公を勤めたと云う。勤めるうちに脚気(かっけ)を病んだが、初めの内は少々不自由でも苦しくても我慢して主家の為に働いた。ところが病気は段々昂進(こうしん)して、遂に自分の為の用務も苦しくなったので、主家の人々の奨められるまゝに静養させて頂いた。そうしている中に追々快方に向かい、朝早く郊外に出て露を踏む事ができる様になった。常に働いている者が、何も仕事なしに養生しているということは、如何にも病気とは言いながら堪えられぬ思いから、一度親の許に帰ったならばと思い出すと、しきりに親許恋しくなって耐えかねたので、快く思われない主人に無理に頼んで若干の旅費を借りて、重い足を引きずりつつ漸く奈良まで辿り着いた時は、足は腫れ上がり胸は苦しく重患の身となったので、余儀なく宿をとって医師の診察を受けたところ、医師は『この病体で旅するなどとは元より無理であった。故に今より山越しの旅は勿論望み得ないことである』との説明に、余儀なく奈良に滞在する事と決めました。数日宿より医者通いしたところ、嚢中(財布の中)が心配になった故に、木賃宿に替えて一日も長く養生の出来得る方法を立てましたが、中々容易に出発でき得る見込みも立たぬので、非常な苦悩を感じて居る折柄、一人の遍路行者が同宿してこの苦衷を聞き、同情の余り教えられたのは庄屋敷の事でありました。行者が云うには、奈良より南二里半で丹波市村がある。その東四五丁の所に庄屋敷村というのがある。その村に中山家と尋ねて行けば直ぐに分かる。その家の神様に御助けを乞えば無条件で必ず助けて下さる故、いらざる苦労をせなくとも、直ぐに往ってお頼みなされと教えられた」。(「老婆の話その1 、 昭和十二年二月号みちのとも「教祖様に触れた人々」峯畑長太郎より。峯畑さんが大正七年頃に三重県の松阪支教会(今の分教会)にて当直の方より聞かれたお話し)
 「翌朝、木賃宿を出立し、重い足を引いて庄屋敷村の中山家の門前に立ちまして、事情を訴えて御助けを乞いました。御老婆様が出られて、『それは可哀相に、家の者と同じものを食べているなら暫らく養生さして上げる』と仰せられた。それからお世話になりましたが、何神様か知らぬが幾日経っても祈祷もされねばマジナイもして下さらぬ。針仕事をされたり、糸つむぎをされたりして、色々な話しを聞かされました。身は次第に軽くなりますので嬉しく感じますが、良くなってくれば早く国へ旅立つことが急がれてなりません。しかしお世話になっている手前、自分の方から出発さして頂く事は言い出しにくかったので黙って思い続けていました。或る日、偶然こうした事を考えました。今一度奈良に行って医者に診て頂き、旅立ちしても良いか否かを確かめようと。翌朝、奈良の宿に忘れ物があるという偽口実の下に出かけました。元の医者に見せたところ、『大変良くなったが、まだ山越しの長途の旅は無理だ』と言われ、帰路木賃宿に立ち寄り、暫らく休憩さして頂こうと身を横たえるや全身俄かに苦しくなり、その日は帰られず翌日も同様で、翌々日即ち三日目に、重い足を引きずり引きずり庄屋敷に帰り、何食わぬ顔で『大変遅くなりました』と色々申し訳した時、老婆様は突然態度を改められ、『何を言いなさる。人は知らぬが神はご存知です。かかりかけた医者ならトコギリ(充分、徹底、飽くまで)かかって来なされや』と言い放たれたので、大いに驚きまして正直に偽った事を御詫びして、又元通りお世話になりました。老婆様は私の余り退屈そうな様子を見られて、或る日近所から二台の糸つむぎの車を持ち来られ、私と向き合わせになって糸紡ぎを教えて下さいました。それから毎日向き合わせで、色々な話を交えながら仕事をしました。相当の長い日を経ますと、身上は殆んど元の健康に回復しました。或る日、老婆様は、『お前も早く親許へ帰りたいであろう。また親なども首を伸べて待っていよう。もう身は大丈夫。旅はできるであろうから、ボチボチ身支度の用意をなされ』と言われた時の嬉しさは、今もなお忘れる事はできません」。(「老婆の話その2」)
 「いよいよ出立の日となれば、朝から弁当を沢山拵えて下され、村の人で伊勢路に行商する人に道中案内を書かせてそれを渡され、又一包みの金を出して、『これはお前が糸を紡いだ賃金やで。たとえ少しでも旅をすれば大切である。遠慮はいらぬ。又これは私の寸志や、草履の一足でも買って下さい』と渡され、何から何までのお心尽しに、私は有難涙に濡れて別れました。庄屋敷の中山様は、私の忘れる事のできない命の親です。私は帰って間もなく縁付き、貧乏世帯にあくせく致し、最近この町に出ました。家の隅に三角の神棚を吊って、庄屋敷の神様と唱えて拝み、時々思い出す毎に花や水を上げて礼拝していました。ところがこの間近所の人と昔語りをする中に、私の話しを聞き入る人の中に天理教の信者の方が居られて、『その庄屋敷の神様とは今の天理教の教祖様である』と詳しく説き聞かされて、驚き入りました様な次第であります。誠に世間知らずの無学の者ほど情けないものはありません。そんな次第で早速御詣りを致し、御礼やら御詫びやらを申し上げました。今後もできる限りお参り致しますから、よろしくお教え願いますと言い、また今日は用向きの為め急ぎ居るので、と申訳して直ちに帰ったとの話でありました」。(「老婆の話その3」)

 「ある時、京都から、狂人(きちがい)が籠に乗せられてお屋敷に来ました。お側の人は、この事を教祖様に申上げると、『にせや/\。連れておいで』、と仰せ下されたので、注意して恐る/\付添の人も一緒に、教祖様の前に出さして頂いたところが、教祖様は言葉厳しく、『神が呼んで、神が入れたのやで。その金はいくらやったろう』、と仰せになりました。然るに、狂人はビックリして飛び上がり、ほう/\の体で籠にも乗らず、お地場から逃げて行ってしまいました。これは神様が、不思議、自由用の理を一同にお示し下されたもので、『姿人間、心月日や』、と仰せられたお筆先の通り、教祖様には全く月日が入り込んでござるのであるが、それでもハタ/\の人は信じられずに居る人もあったので、神の実在、月日入り込んで見抜き、見通し、自由用、自在の理という事をお示しになり、その都度/\にお弟子の人等をお仕込み下されたのであります。この狂人がニセを装うたというのには、こういう訳があるのであります。その当時京都には斯道会というのがあって、何番/\という番号をつけて盛んに布教していた。ところが天理さんは病気は何でも助けるというので、この狂人のお助けを家族の者から頼んで来たので、一生懸命お願いをさせて貰うていたが、狂人がます/\暴れるので余儀なく、細引きで縛って、籠に入れてお地場へ運んで来ました。それが前述の如く、『神が呼んで、神が入れた‥云々』、と仰せられたので慌てて逃げて行ってしまったが、実はその狂人というのは、親の遺言によって、その家の遺産を弟に分配してやらねばならなかったのでありますが、その財産が惜しいために、狂人の真似をして誤魔化そうとしたというのであります」。(「神が呼んで神が入れたのや」、昭和四年四月発行「教祖のおさと志」(天理教同志会編)より)

【教祖の透視能力考
 みちのだい第33号「教祖特集号」26−27頁の「井筒梅治郎の娘たね手記」は次のように記している。
 「教祖がいつもジッとお座りになっておられるので、祖父が、教祖、ご退屈でございましょう。一度どこかへお伴させて頂きましょう、と申し上げたところ、教祖が、『ちょっと、ここへ顔をあててごらん』、と仰せられた。祖父が教祖のお袖に顔をあてると、ちょうど牡丹(ぼたん)の花の旬で、見渡すかぎり牡丹の花ざかりだったとのこと。教祖は居ながらにして、どこの事をもご存知なのだと驚いたとのことである。

  ご本席様が、まだ“”伊蔵さん“”と呼ばれておられた頃、伊蔵様のご家族の生活が、あまり〈にも〉お気の毒なところから、皆々話し合って、頼母子講(たのもしこう)でもして伊蔵さんを助けようやないか、と相談をしていたところ、教祖は、『思惑あって苦労さしてあるのや。かまってくれるな』、と仰せられた。後になって“”本席“”という理を戴かれて、皆々、なるほどと合点がいった、とのことである。以上、たね母から聞いたことを書かせて頂いた」。
 みちのだい第33号「教祖特集号」27−28頁の植田つる (上田民蔵の娘、本部婦人) 「植田つる 手記」。
 「またある日のこと。教祖のお側へ行かせてもらったら、『民蔵さん、あんた、今は大西から帰ってくるが、先になったら、おなかはんも一緒にお屋敷へ来ることになるのやで』、と仰った。わしは百姓をしていて、男衆(おとこし)も雇っているし、子供もあることやし、そんなこと出来そうにない、と思うてたが、教祖のお言葉通り、子供の身上から家族みんな、お屋敷へ寄せて頂き、結構に通らせて頂いているのや、と申しました。その話、やはり母と一緒にお屋敷へ帰らせてもらった時、教祖の仰せられたのは、『民蔵はん、お屋敷は先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで』、と聞かせて頂いたことがあるが、教祖の仰せ通り、回廊の下をみんな往き来するようになった。それで父は、教祖はずっと先の見えんことを仰っているが、だんだんと仰せ通りに成ってくるのが誠に不思議なことや、といつも考え込むように申しておりました」。
 「97、煙草畑」。
 「ある時、教祖は、和泉国の村上幸三郎に、『幻を見せてやろう』、と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされた。幸三郎が、仰せ通り、袖の内側をのぞくと、そこには、我が家の煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えた。それで幸三郎は、お屋敷から自分の村へもどると、早速煙草畑へ行ってみた。すると、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていた。それを見て、幸三郎は、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏した。というのは、おたすけに専念する余り、田畑の仕事は、作男にまかせきりだった。まかされた作男は、精一杯煙草作りに励み、その、よく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたが、おたすけに精進する余り、一度も見に行く暇とてはなかった。が、気にかからない筈はなく、いつも心の片隅に、煙草畑が気がかりになっていた。そういう中からおぢばへ帰らせて頂いた時のことだったのである。幸三郎は、親神様の自由自在の御働きと、子供をおいたわり下さる親心に、今更のように深く感激した」。




(私論.私見)