「病のもとは心から」。 |
「案じる心が身上になるのやで」。 |
「病というても身上に障りつくは二分、あと八分は神経や。ふところに少しでも持っていたら、施してやってくれ。心勇めば身も勇む」。 |
「身上事情を病いと言うやない。病いというは日々の心のあらわれ、身上事情は前生もあるのや。病いというてさらにない。心のほこりだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案を捨てたら、そのまま通れる。人間思案を捨てるには、親の声だけがたよりやで。親の声、何でも聞かしてもらわにゃいかん。無理と思うな無理とおもうな、きっと連れて通るほどに」。
ちなみに、出典は不明であるが、吉田兼好の「病を受くる事、多くは心より受く」という言葉がある。 |
「身上事情の中、勇んで通るから神が守るのや。もうあかんと思うのが人間心やで。人間心捨てにゃ身上事情の中は通れんのや」。 |
「身上事情の中は通り難いやろ、その中を通るのや。通れんと言うやろ。もたれる心あったら通れるのや」、「身上事情は結構やで。身上事情のうては道は通れんのや。 その中、勇んで通るのや。親の声一つがたよりやで。親という理忘れたら道はないで」。 |
「『身上があるで、食うものはじめ、万事入り用である。身上があるで、田地、田畑、金銭をも、欲しいと云うのやろう。そこで、万物は、身上に付き添えて貸したもの』と仰る。身上を借りて、その上よろずの財をもうけたる者、拵えたる者、心ばかりでは、何一つもできやせん。この理よう聞き分けねばならん。教祖様仰るには、『分からん子供が分からんのやない。親の教えが届かんのや。親の教えが隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ』と、くりかやし/\何万べんとも数限りなく聞かして下された。おかげによって、分からん人も分かり、助からん人も助かり、難儀する人も、難儀せぬようの道をお付け下されたもの」。
(「分からん子供が分からんのやない 」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社)260-261p、御講話傍聴録8) |
「神様は、『人間身上は“病む日に病む”と思うな。災難ある日に災難あると思うな。日々月々年々に、知らず知らずに積んだ埃(ほこり)が、天然自然の理に治まって現れ出るのや』と仰る。
『息子も娘も一生、息子や娘やない。十五歳からこちらへの心は誰が遣うたか、他人が遣うたのやあるまい。みな自分が遣うたのやろう。その心が現れ出るのや』と仰る」。(「牛馬論考③」)
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「教祖口伝<◆明治17年4月12日、松村に対する教祖直々のお諭し>」。
「神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、よふきゆさんをみたいゆえ人間心で通る人間もある神のざんねん、親の心はたすけたい一条やで。人間思案を捨てて、さしづ一つの理をもって通りたなら、身上事情で苦しむようなことはない」。 |
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教祖口伝<明治8年から約10年間の、側な者に対する教祖直々のおさとし>◆明治18年5月3日、村田、辻、橋本、前川。
「身上事情を病いと言うやない。病いというは日々の心のあらわれ、身上事情は前生もあるのや。病いというてさらにない。心のほこりだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案を捨てたら、そのまま通れる。人間思案を捨てるには、親の声だけがたよりやで。親の声、何でも聞かしてもらわにゃいかん。無理と思うな無理とおもうな、きっと連れて通るほどに。身上事情の中、勇んで通るから神が守るのや。もうあかんと思うのが人間心やで。人間心捨てにゃ身上事情の中は通れんのや」。
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----義理と人情の立て分けについて。
「人間心捨てたら理は立つのや。人のような心遣うて通りたがる、それで理の立つはずがない。情をつぶして、殺して、親の心に添い切るのや。それで情のつぶれるような事はない。案じ心がいかんのや。よう思案して通れ」。 |
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教祖口伝<明治8年から約10年間の、側な者に対する教祖直々のおさとし>◆明治18年6月8日、高井 |
教祖口伝<明治8年から約10年間の、側な者に対する教祖直々のおさとし>◆明治18年7月20日、辻、村田、枡井。
「身上事情の中は通り難いやろ、その中を通るのや。通れんと言うやろ。もたれる心あったら通れるのや」。 |
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教祖口伝<明治8年から約10年間の、側な者に対する教祖直々のおさとし>◆明治18年8月3日
「身上事情は結構やで。身上事情のうては道は通れんのや。 その中、勇んで通るのや。親の声一つがたよりやで。親という理忘れたら道はないで」。 |
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「病というは心から」(昭和四十八年八月発行「山田伊八郎文書~教話」359-360p)。
「身は借り物の体。心一つが我がの理。この借り物の体、病い一つもない、病ひと云うは心から。御話しを聞いても真の心に理が治まらねば何もわからん。そこで世上世界では病みわずらいも色々。又不自由難儀と云うも色々。又は因縁が現れ出て憂いている者も色々。この因縁の理が現われるのは、大き事にも現われてあれば、又は、一家の内に現われてあるものもあると御聞かせになりてある。そこで是を世界と云うては一寸わかりにくい。日本だけでと云うても、まだ広くてわかりにくい。それでは一国だけでと云うてもまだわかりにくい。それでは一郡だけにと縮めたら、まだわかりにくいとあれば、その一村で、まだその新村やなしに大字にて。さあこれで、二代、三代前からの事、思案してみよ、と御聞かせに成りて有ります。又、富に金がたまると云うは、その家にきづがでけるとか、人に不足ができるとか、不足な子ができるとか、何なりと不足ができて、たまりだしたら、金と云うものは沢山できるもの」。
※このお話は教祖のお話と教話が混在したものであるが、その境界線が曖昧である為、あえて原文のまま紹介させて頂きました。そのつもりでお読み下さい。 |
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