ジャニー喜多川の美形男児ヘのグルーミング性交考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ジャニー喜多川の生涯履歴考」をものしておく。

 2023.6.29日再編集 れんだいこ拝


 事務所所属の未成年男子への性的虐待疑惑

 ジャニーズ事務所は創設初期から、社長の喜多川が事務所に所属する未成年男子達に対して猥褻な行為を行っているという噂があり、1960年代に行われた民事裁判では、猥褻行為に言及され、証言もあり、1999年の週刊文春の特集記事を名誉棄損として喜多川とジャニーズ事務所が訴えた民事裁判では、喜多川による、事務所における絶対的に優位な立場・権力を利用した元ジャニーズ事務所所属の未成年男子へのセクハラ行為(今でいう性的虐待行為)の証言の真実性が認定され、判決が確定しているが、日本で広く問題になることはなく、一部出版社でのみ報じられていた。性的虐待を受けたという元ジャニーズJr.や元ジャニーズの告発本や証言、雑誌による取材記事、週刊文春との民事裁判を踏まえると、1960年代から2010年代まで約50年に渡り、ジャニーズ事務所の中で、喜多川による未成年の所属タレントへの性的虐待が続いていた疑いがあると指摘されている。

 喜多川の性的虐待疑惑は、日本で長年に渡り看過され続け、週刊文春などの一部を除き、関係者と報道機関は沈黙を守り、無視し続けてきた。ジャーナリストの松谷創一郎は PRESIDENT Online で、これはジャニーズ事務所の業界支配があったからであり、喜多川個人の問題というだけではなく、構造的に読み解く必要のある問題であると指摘している。ライターの高橋ユキは、ジャニーズ事務所は男性アイドルを供給し運用するビジネスモデルで巨額の利益をあげており、喜多川が目をかけている少年、気に入った少年をデビューさせることと、喜多川による彼らへの性的虐待とが極めて密接に結びついた構造になっていたと指摘している。

 喜多川とジャニーズ事務所側は、週刊文春の記事が名誉毀損であるとして民事訴訟を起こし、2000年代初頭には裁判が続いた(詳細はジャニー喜多川の性的虐待疑惑を参照)。東京高裁がジャニー喜多川の性的虐待を認定し、『週刊文春』の本件に関する一連の報道は名誉毀損には当たらないと判決が下り、ジャニーズ事務所は最高裁に上告したが、2004年に上告棄却され、高裁判決が確定している。日本のテレビ各局は公共放送であるNHKを含め、この判決について全く報道せず、新聞では、朝日新聞、毎日新聞、地方紙の中国新聞が小さくベタ記事を掲載したのみで、裁判で「ジャニー喜多川による少年への性虐待の事実はあった」という証言の真実性が認定されたことは詳細に解説されることはなく、メディアの大部分がジャニーズ事務所に忖度して報道せず、社会的な問題になることはなかった。このような日本の報道機関の行動の結果、何があったか知る人は日本社会にほとんどおらず、ジャニー喜多川は社会的に弾劾されることはなく、引き続きジャニーズ事務所を運営することを許され、「国の宝」として崇められ続けた。
 2023年3月、死後、BBC(イギリス公共放送)による2023年3月のドキュメンタリー番組「Predator: The Secret Scandal of J-Pop(邦題:J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)」放映。喜多川の児童性的虐待疑惑を追うドキュメンタリー番組。

以降、実名での被害の証言者も現れ、日本でも問題が表沙汰になりつつある。

 2023年5月、NHKのクローズアップ現代「“誰も助けてくれなかった” 告白・ジャニーズと性加害問題」。喜多川の児童性的虐待疑惑を追う日本では初めての特集番組。
 「奇多川チンぽしゃぶりしゃぶられ及び及びケツ穴掘り掘られ」。

【服部吉次さん(俳優・音楽家)】
 「【驚愕スクープ】ジャニーズ性加害構造の萌芽は70年前に…一晩で5人の少年の間を渡り歩いた“軽井沢事件”の全貌 【独占インタビュー】 服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)」、あまりにも残酷 ジャニー喜多川氏、家族ぐるみの仲だった作曲家・服部良一氏の当時8歳の息子に性被害発覚で激震!NHK朝ドラ『ブギウギ』に思わぬ余波も」。
 加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一(1993年死去)の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の後編です)  
 8歳の頃、ジャニーズ事務所創業者・ジャニー喜多川氏(2019年死去)から性被害を受けたことを、「日刊ゲンダイ」で告白した。服部家とジャニー氏は、古くから家族ぐるみの深い付き合いであることが知られていただけに、世間には激震が走っている。
 英国の公共放送・BBCは今年3月、ドキュメント番組『The Secret Scandal of J-Pop』を放送し、ジャニー氏の所属タレントに対する性虐待問題とそれを黙殺してきた日本メディアの闇を徹底追及。これを受け、2012~16年の間、ジャニーズJr.として活動していたカウアン・オカモト氏が4月、都内の日本外国特派員協会で記者会見を開き、ジャニー氏から15~20回ほど、性被害を受けたことを明かしたのだ。「その後、古くからジャニー氏の性虐待問題を追っていた『週刊文春』(文藝春秋)には、元Jr.が毎週のように実名・顔出しで登場し、被害を訴えています。そんな中、昭和歌謡の父と呼ばれる故・服部良一氏の次男・吉次氏が『日刊ゲンダイ』で、小学2年生の頃、ジャニー氏にオーラルセックスをされたという衝撃の経験を告白。
 ≪パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって≫
≪何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる≫

 など、当時の被害の詳細を明かしており、そのあまりにもショッキングな内容に、言葉を失う読者も少なからずいるようです」(スポーツ紙記者)。そもそもジャニー氏と吉次の父・良一氏の出会いは、70年以上前に遡る。1950年、良一氏は歌手・笠置シヅ子氏(1985年死去)とともにアメリカ巡業ツアーを行ったが、そのロサンゼルス公演で、2人のお世話をしていたのが現地で育ったジャニー氏だったという。「当時19歳だったジャニー氏は、良一氏や笠置氏にいたく可愛がられていたようです。その後、アメリカ兵として朝鮮戦争に赴いたジャニー氏は、帰還してから、よく良一氏の自宅に遊びに来るように。吉次氏にとっては“優しいお兄ちゃん”的存在だったといいます。そんなジャニー氏に性的な行為をされたとあって、そのショックははかり知れません。ネット上では、吉次氏の勇気ある告白に敬意を表するという声とともに、ジャニー氏、またジャニーズ事務所への批判が噴出。吉次氏が現在78歳であることを踏まえ、一体どれだけの被害者がいるのかと呆然とする人も多数見受けられます」(前・同)。一方、服部家とジャニー氏の関係は、たびたび美談として、メディアに取り上げられてきた。
 ジャニー喜多川氏に弄ばれたあとはどうしたのですか?
 「なぜそうなのか、説明するのは難しいのですが、それからもジャニーとの関係は2年半くらい続きました。彼は毎週土曜日に来て、そのたびにまた私と一緒に寝て同じ行為を繰り返すんです。たぶん1年で30回くらいでしょうか。秘密の快感と引き換えに、罪悪感は大きくなるし、体によくないという直感も働く。ましてそれが両親にバレたらジャニーが怒られるだろうということも分かるんです。その頃、ジャニーは『ジャニーズ少年野球団』という、少年野球チームを持っていて、服部家にもそのチームの子どもたちを連れて遊びに来ていました。彼の運転する車はテールの長いアメ車のクライスラー。それに乗ってドライブするのですが、昔の環状6号線なんか道路の高低が大きいので、まるでジェットコースターに乗ってるみたいで、みんながはしゃいで大騒ぎしたことを覚えています。これはよく知られていることですが、雨で野球の試合が中止になった時、ジャニーと東京ジャニーズのメンバーが映画『ウエスト・サイド物語』を見に行って、ジョージ・チャキリスのダンスシーンのカッコ良さにしびれてしまい、『これからは歌と踊りだ!』とジャニーがひらめいたといわれていますよね。父の諦道氏も野球とショービジネスにたけていたからそのあたりは血筋でしょう」。
  ■彼を野放しにした日本社会の閉鎖性

 なぜ家族が気づかないのでしょう。
 「よく言われますが、私の場合ももしかしたら家族が気づいていたのかもしれない。でも、それを体裁が悪い、不都合なことは隠す、という日本的な閉鎖性があったのかもしれない。それが結果的にジャニーを野放しにしたのではないでしょうか。1965年にジャニーズ事務所が独立した頃もジャニーやメリーも服部家に出入りしていましたが、私とのことは何もなかったかのような振る舞いだし、そもそも彼も少年愛の年齢ではもうなかったからでしょう。私も、記憶の底に封じ込めてしまったのでしょう。そのほうが気持ちが楽ですから。ただ、その頃ジャニーズ事務所というジャニーにとっては、“趣味”と実益を兼ね備えた“格好の場所”が確保されたわけで、新たな被害者を生み出すことになったのを防ぐことができなかったのは忸怩たるものがあります。余談ですが、高校生の頃、演劇部の稽古で深夜になることもあって、そんな時なんか、母がジャニーを呼んで『車の運転頼むわね』と、成蹊の演劇部の部室まで迎えに来させるわけです。さすがに彼も憮然とした顔をしていましたが(笑)。私が大人になってからも、ジャニーは父の主催するコンサートなどにマメに顔を出していました。私はアングラ劇団で役者をしていましたが、生活のために一度だけ兄の克久が音楽を担当した少年隊のミュージカルに出させてもらったことはあります。その時も、『いいよいいよ』とジャニーは二つ返事だったそうです。ただ、慰労会と称した乱痴気騒ぎで若い女優たちをホステス扱いするような世界とはなじめず、それっきりでした」。
 「少年野球団」と父の別荘での乱行

 ジャニーズ少年野球団との交流は?
 「同じ頃、ジャニーの車で『少年野球団』のメンバー3人と僕の友だちの総勢6人で父の軽井沢の別荘に1泊旅行することになったんです。大人はジャニーだけ。同行した私の友人Mは今でいうジャニーズ系の美少年で、父の誕生パーティーに彼を呼んだ時に、たまたま来ていたジャニーが彼を見てぞっこんだったようです。『あの子も連れておいで』と言われたので一緒に行くことになりました。父のコテージは和室と洋間の2部屋。和室が寝所で、両サイドが2段ベッド(4人)で畳に4人分の布団が敷けるから8人は泊まれるんです。夜、トランプ遊びをした後はジャニーのお定まりのコースです。部屋を暗くして布団に入ったら、気配が伝わってくるんです。『あっ、始めたな』って。まず2段ベッドの野球少年たち、そして同級生、それから僕。まるで『鴬の谷渡り』みたいに、一晩で5人の間を渡り歩くなんて彼にしてみれば夢の饗宴だったでしょう。大人はいないし、やり放題。ただ、それから数十年後にM君にこの時の話を聞いたら、こう言われました。 『あの時、怖くて外でしくしく泣いていたら、隣のコテージの女性が異常を感じたようで、僕に“どうしたの?”って聞くので途切れ途切れに今自分が体験したことを話したら、そのお姉さんが部屋にいるジャニーを問い詰めたんだ。ジャニーは弁解したけど、彼と同じくらいの年齢のお姉さんは、かなり怒っていた』と。このことが両親に漏れたら、おそらくジャニーは服部家にも出入り禁止になっていたでしょうけど、言い逃れして事なきを得たのだと思います。この事件後も、ジャニーは服部家に出入りしていましたし、私も何食わぬ顔で接していましたから」 。
 父の葬儀の時、「うちに泊まっていきなよ」と声をかけられ…

 ジャニー氏は良一氏の葬儀にも参列されたとのことですね。
 「父・良一が亡くなった時、私が喪主である兄の代わりに葬儀を取り仕切っていたのですが、お通夜の時、ジャニーが『よっちゃん、明日の本葬も大変だろう。うちのペントハウスがあるから泊まっていきなよ』と言うので、いわゆる『ジャニーズの合宿所』の最上階に泊まりました。ぼくの妻と子供たちも一緒。トイレ、和室、プレールーム、風呂場などすべての部屋にテレビがある広大な部屋でした。妻は『こんなことしてくれるのは今度は有吉に食指を動かしてるのよ』と言って、葬儀の時も片時も有吉から目を離さなかったみたいです。有吉は12歳でしたから」。
  ■“PTSD被害”を再生産した罪  

 結局ジャニー氏はどんな人だったのか?
 「マメで気が付くし、気くばりの人。片付けも一人でみんなの分をさっとやるし、いいオジサンであるのは確かです。でも、ステージに立つ夢を抱きながらジャニーズ事務所の門戸を叩いた少年たちの心と体を傷つけむさぼるように快楽にふけった罪は許せないです。これはあくまでも私見であり、飛躍しているかもしれないけど、彼は日系2世として朝鮮戦争に従軍してるし、アメリカでの日本人差別も経験している。彼もPTSDに苦しみ、それは性加害という形で発現されたのかもしれないと、一度は彼を戦争の被害者の一人として許す気になった時もあります。  しかし、戦争によるPTSDの被害を知るようになるにつれ、彼はPTSDを再生産し、幾何級数的に増殖するシステムを構築してしまった。その現実が見えた今、彼の罪深さは計り知れないと思います。私自身、その時のPTSDに苦しみながら、なぜ70年間も告白できなかったのか。あらがえなかった、沈黙してしまった、それがジャニーの性被害を育み、果ては主要メディアの沈黙にまで手を貸してしまった。引き返せない歳月を取り返したい。マスコミの糾弾はもっと厳しくあってしかるべきだと思います」。
 「2016年11月9日付『日本経済新聞』の『私の履歴書』では、良一氏の長男であり、吉次氏の兄にあたる作曲家・服部克久氏(2020年死去)が、服部家とジャニー氏の交流について明かしています。やはりジャニー氏は、ジャニーズ事務所名誉会長を務めた姉・メリー喜多川氏(2020年死去)と一緒に、服部家に入り浸っていた時期があるそうで、その縁から克久氏は、フォーリーブス出演のミュージカル『少年たち』で音楽を担当したとか。家族ぐるみの付き合いは長年にわたり、ジャニー氏は良一氏の葬儀で親族席に座り、愛用のピアノまで譲り受けたといいます。なお、そのピアノは、ジャニーズの舞台で使用されることもあり、2012年上演の『新春 滝沢革命』では、滝沢秀明氏が演奏を行ったそうです」(ウェブメディア編集者)。
 朝ドラにジャニーさんのモデルが登場の可能性?

 良一氏が亡くなった1993年の『NHK紅白歌合戦』、少年隊は自身の持ち歌ではなく「服部良一メドレー~紅白バージョン~」を披露していたが、「それも服部家とジャニー氏が懇意な仲であったからこそ実現したのでは」(前・同)という。「また以前より、良一氏の曾孫がジャニーズJr.として活動していたのではないか……といううわさもあり、服部家とジャニー氏は切っても切れない仲のようです。そんな中、ジャニー氏が吉次氏に性加害を行っていたなんて、あまりにも残酷。服部家の関係者も、今回の告発には大きなショックを受けているのではないでしょうか」(前・同)。
 吉次氏の訴えは、「NHK関係者にも激震を走らせたのではないか」と指摘するのは、さるエンタメ誌編集者だ。同局は今年10月から、連続テレビ小説『ブギウギ』を放送予定。同作は、笠置シヅ子氏をモデルにしたフィクションで、彼女のメイン作曲家である良一氏を模した“羽鳥善一”というキャラクターも登場する。「その“善一”役を草なぎ剛さんが演じると情報解禁された次の日に、吉次氏の性被害告発インタビューが配信されたんです。これには、NHK関係者もかなり衝撃を受けたと思います。なお、同作はあくまでフィクションですが、良一氏と笠置氏のアメリカ巡業は、当時異例のことだっただけに、劇中で描かれる可能性は高い。ただ、その際、2人に大きく関わったジャニー氏をモデルにしたキャラクターは、性加害問題が取り沙汰されている状況だけに、登場させることは難しいのでは……」(前・同)。SNS上では、『ブギウギ』で描かれる世界の背後に、性虐待があったことを知り、≪見る気がしない≫と訴える人が散見され、また草なぎに対しては、同情の声も寄せられている。果たして吉次氏の告発は、『ブギウギ』に何らかの影響を与えるのだろうか。
  ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。
 1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)

【郷ひろみ】
 郷ひろみ (ジャニーズ所属者)。メリー喜多川に「私に(郷ひろみを)やらせてください」と頼んだところ、メリーより許可を得ての移籍となった。 フォーリーブスの江木俊夫書の中で、「ジャニーズ事務所に最大の利益を与えたのはSMAPだろうが、ジャニー喜多川さんが今でも理想のアイドル像として思い描いているのは郷ひろみだろう」と述べている。

北公次
 ジャニーズ事務所の草創期、1960年代に人気絶頂だったグループといえば67年に結
成されたフォーリーブス。北公次、江木俊夫、おりも政夫、青山孝史。2009年に青山、
12年に北が亡くなったが、青山の葬儀の際、北がこう呟いた。「花輪のひとつぐらい贈ってくれてもいいのに」。北の死去後、「北公次はこうして逝った」を連載したが、これが書き出しだった。フォーリーブスが解散したのは78年、ジャニーズに残ったのはおりもだけで、北はグループ結成前からのジャニーズ事務所の暴露本「光GENJIへ」などを出し、ジャニー喜多川とも疎遠になっていたが、事務所を支えたメンバーへのねぎらいがないことに「冷たい」と悔しさをにじませた。そして12年に北が肝臓がんで亡くなる。

 1988年、の死の直前、死期を察した北は、告白本「光GENJIへ」を刊行。1時間の北の語りと街の声で構成されており、一部で大反響となり、翌年、同名のビデオが発売された。
 中学を卒業して集団就職で名古屋、大阪、東京へと流れ、ジャニー喜多川と出会ったのは日劇ウエスタンカーニバルだった。当時、大人気だったグループ、ジャニーズの「付き人にならないか」と誘われ、ジャニー喜多川の住まいだった四谷のお茶漬け屋の2階に住むことになる。美少年だった北を「触りに来たりとかそういうことがありまして。  

 その後、当時、アメリカ大使館に勤めていたジャニー喜多川は昼間の休憩、食事の時間になると帰ってきて「体にキスしたり、僕自身……を舐めたりとか、そういうことをやって……仕事に戻る生活が続いた」。
 ジャニー喜多川、
メリー喜多川に向けメッセージをつづっていた。
「本当に本当にありがとうございました そして最後にどうしても言わせて頂けるなら、ジャニーさん、メリーさん ありがとうございました」。
 2023.6.18日、「亡き北公次の“肉声ビデオ”で語られているジャニー喜多川の生々しい性加害」。

【元ジャニーズJr. 石丸志門氏証言】
 週刊文春 2023年7月6日号、「週刊文春」編集部「ジャニーさんがお尻に自分でクリームを塗って…」元ジャニーズJr. 石丸志門氏が求められたおぞましい性行為」。ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川氏による性加害問題。生前は小誌「週刊文春」など一部メディアしか報じていなかったが、彼が死去して4年が経ち、その優越的な地位を利用した"性加害の実態"が被害者の口から次々と明されるようになった。今回、元ジャニーズJr.の石丸志門氏(55)は、ジュニア時代にジャニー氏に肛門性交を強要されたことを明かした。

 合宿所に泊まるようになってすぐに口腔性交の被害
 田原俊彦に憧れていた石丸氏は、中学2年だった1982年1月、オーディションを経てジャニー
ズ事務所に入所した。少年隊のバックダンサーのほか、『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京
系)や、1984年のドラマ『年ごろ家族』(TBS系)にレギュラー出演。1985年に退所するまで、第
一線で活躍したジュニアだった。石丸氏が「合宿所」と呼ばれる、当時原宿にあったジャニー氏の自宅マンションへ呼ばれるようになったのは、入所から1カ月ほどが経ったときだった。「合宿所に行けるようになるには、ジュニアとしての信頼を得なくてはならない。だから新米ジュニアは憧れるんです。一生懸命レッスンを頑張って、ジャニーさんに『合宿所行きたいです』とアピールしていました」。合宿所は当時、田原俊彦、近藤真彦、川崎麻世らレコードデビューしたアイドルが住んでいて、個室を持っていた。一方、出入りするジュニアはジャニー氏の部屋の隣の布団を並べた「雑魚寝部屋」で寝ていた。石丸氏はレッスン前日の土曜に合宿所に泊まるようになり、すぐに口腔性交の被害にあったという。「マットレスの下のほうから足をマッサージしてきて、手がだんだん上がってきて……。若いので身体が反応しちゃうんです。すごく違和感はあるんですけど、射精して気持ちいいという感覚もある。でも相手は男性だし、どう捉えたらいいんだろうと。眠れないですよね。整理がつかなくて」。
 性被害の代償として仕事も得た

 隣には別のジュニアが寝ている。だが、「眠ってはいなかった」という。次は自分の番かもしれない、と思うと眠れないからだ。「3回泊まったら1回の確率で当たるみたいな感じ。3年間、ほぼ毎週行っていたので、50回くらいは経験していると思います」。性行為があった翌日、「はい、タクシー代」とジャニー氏は3万円ほど、お金を渡してくるのが常だったという。アイドルとしての成功を夢見ていた石丸氏は、代償として仕事も得た。

 2022.7.9日、「KinKi Kidsとジャニー喜多川氏を結ぶ「愛」 デビュー25周年で語られた「3人」の現在」。
 あれほどジャニーさんが近くにいるグループはない

 2022年7月でCDデビューから25周年を迎えるKinKi Kids。そして、この7月9日で亡くなって3年となるジャニーの創業者・ジャニー喜多川氏。この稀代の事務所総帥は数多くいるジャニーズタレントの中でも、特にKinKi Kidsに目をかけてきたとされる。自分たちのことをジャニーズ事務所で「浮いている」と感じてきたというKinKi Kidsの2人はジャニー喜多川氏にどんな思いを託されたのか。『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)の著書がある霜田明寛氏が綴る(一部敬称略)。

 この7月でKinKi KidsがCDデビュー25周年を迎える。同時に7月というのは、彼らにとって、育ての親であるジャニー喜多川氏を喪った月でもある。ジャニー氏は2019年に他界した。ジャニーズ事務所の創業社長・ジャニー喜多川氏に10代から50代までの全ジャニーズタレントを育成し続けてきたかのような印象を持つ方も多いかもしれない。もっとも、氏が主に手掛けてきたのはタレントたちの創成期にあたる時期であり、特にCDデビュー前のジャニーズJr.の育成に力を注いできた。そんな中にあってKinKi Kidsは異色の存在だ。KAT-TUNの亀梨和也はKinKi Kidsのことを「あれだけデビューしてからずっとジャニーさんが近くにいるグループはない」と語っていた。自身がバックダンサーとしてKinKi Kidsの出演する歌番組に行くと、ジャニー氏が演出し、意見を言っていた様子を覚えているという。自身が指導をされていた時期にも「KinKiのお2人の名前がジャニーさんの口から出て物事を説明されることが非常に多かった」と言う。誰にも渡したくなかったんだと思う堂本光一自身も「デビューするとジャニーさん(が)離れちゃうところ(も)あるじゃないですか。だけどKinKiの現場には必ず来てくれた。ずっと」と振り返る。その思い入れは2人の入所直後からで、なんとジャニー喜多川氏自ら2人の現場マネージャーを務めていたほどだったという。

 かつて、ジャニー氏は「100年にひとりの逸材がここには2人いる」と語っていたといい、その才能への惚れ込み方は尋常ではなかったようだ。デビュー曲に関しては、ジャニー氏のこだわりが強く、すんなりと決まらなかった。結局、他の候補曲を却下した末に採用された「硝子の少年」を作曲した山下達郎は「ジャニーさんは本当に2人のことを誰にも渡したくなかったんだと思う」と語っていたという。この種のエピソードは枚挙にいとまがなく、出会いから晩年にいたるまで、ジャニー氏が思いを注ぎ続けてきたKinKi Kids。では、彼らこそ、王道のジャニーズアイドルと呼べるのだろうか?
 ジャニーズのど真ん中をいってるわけじゃない

 実は、堂本剛は「僕も光一も、ジャニーズのど真ん中をいってるわけじゃないから」と自分たちを認識しており、「もともとKinKi Kidsがジャニーズ事務所の中で浮いている」とまで言っている。ではアイドルという言葉と照らし合わせるとどうなのか。堂本光一は自分たちの楽曲に関して、次のように語っている。「そんなに明るい曲がない(苦笑)。明るくなりきれないというか、マイナー調というか、暗くなっちゃう」。「KinKi Kidsというグループは、幸せな歌を唄ってても、心中ソングだってよく言われるんですよ(笑)」。そんな彼らの“暗さ”に関しては、自分たちはもちろんのこと、ジャニー氏も認識していたようで、堂本剛は「もともと2人とも決して明るい性格ではないし、社交性が高いわけでもないから。ジャニーさんからも『なんでそんなに暗いの?』ってよく言われていたし」と語っている。とはいえ、その暗さも含めて彼らの魅力であるはずだ。何より、90年代にジャニーズ事務所初めてのミリオンヒットを飛ばし、その後もギネス記録を含め圧倒的なセールス記録を更新し続けてきた。加えてジャニー氏の愛を存分に享受する身でありながら、どうして自分たちをジャニーズの王道ではないと言うのだろうか。

 ジャニーさん自身が嫌がってた

 堂本剛の直近のインタビューにおけるジャニー氏に関する発言を見てみよう。「世間には“ジャニーズってこうだよね”っていうイメージがあると思いますけど、その決めつけをジャニーさん自身が嫌がってた節はすごくある」。そして、「決めつけることでアイドルの可能性を窮屈にもしかねない」と剛は加えている。ジャニー氏だけでなく、ともに事務所を大きくしてきた姉のメリー喜多川氏の思いも汲みながら「きっとジャニーズっていうものが、いつしか想像と離れたものになってきた部分が多少あったんでしょうかね」とも推察する。さらに、成功を収めたあとも、そこに安住せずに、常に新しいものを求め続けた創業者の心情をこう慮って語っている。「人っていうのは進化したいんですよね。時代がどんどん変わっていって、はやりも変わっていって、そこに順応はしていくねんけど、価値観だけは凝り固まっていて、なかなか変わらない。それをどうにかしたいなと思う部分があったんじゃないかな」。ジャニー氏の思いを汲むことは、世間に定着した“ジャニーズっぽい”という価値観に迎合しないこと。KinKi Kidsは、そういった固定観念から常に逸脱する存在であることを運命づけられた2人なのかもしれない。

 別の取材で堂本剛は「KinKi Kidsって、ジャニーさんが事務所の中でも初めてのチャレンジをいろいろさせたがったデュオでもあるんです」と明かしている。関西からのデビュー、レコード会社の設立、ギネス記録など、今では当たり前になっているものの、実はKinKi Kidsから始まったというジャニーズ史上の画期的な出来事は数多い。さらに剛はKinKi Kidsのことを「ジャニーさんのある種の理想を託された」とも語っている。つまり、堂本剛は“ジャニーズ事務所の王道であることに自信はないが、ジャニー喜多川の理想を託されたことには自負がある”のだろう。では、実のところ、KinKi Kidsに限らず、ジャニー氏自身が理想とするタレント像とはどのようなものだったのだろうか? 堂本光一はこう語っている。「ジャニーさんがやってきたことって、『自己プロデュースができるタレントを作る』ってことなんですよ。自分の見せ方は自分で考える。誰にもプロデュースさせない。そういうタレントを作ろうとする人だから」。堂本剛はこうだ。「アイドルでありながらアーティストであるという形を生み出したい気持ちがジャニーさんからにじみ出てました」。プロデューサーであり、アーティスト。実際、KinKi Kidsの2人はデビュー間もない頃、ジャニー氏に「君たちは2人ともプロデューサーだからね」と言われたという。
 芸術家として捉えていますよ

 こうしたアイドル像こそ、ジャニー氏にとっての理想だったのだろう。ジャニー氏自身も、生前、こう語っている。「僕はタレントをアーティスト、芸術家として捉えていますよ」。さらに、自分の死後について尋ねられた際はこう返していた。「うちのアーティスト は自分でマネージャー業もやっているわけですよ。最初は付き人もほとんど付けない。だから、もし僕がそういう形になっても、自分たちでちゃんとマネージングできるように育てているんです」。自分をマネージングできる、というここでの「マネージャー業」という言葉はプロデューサーという言葉に近いものだろう。アイドルであり、プロデューサーであり、アーティスト。そのジャニー氏の理想像を、2人はソロでも体現している。堂本剛は2002年に、ジャニーズ事務所史上初の自身による作詞作曲でソロデビューをしている。シンガーソングライターをやらないか、というのはジャニー氏の提案だったという。ソロ活動は今年で20周年を迎え、作詞作曲のみならず、ライブ演出やグッズにいたるまで、プロデュースも自ら行っている。堂本光一は、ジャニー氏の作・演出のミュージカル「SHOCK」に5年間出演したのち、2005年からは自らが構成・演出を務める形での「Endless SHOCK」に刷新した。作曲もおこない、作品は権威ある「菊田一夫演劇大賞」を受賞し、現在の上演は1900回を超えている。

 これからもKinKi Kidsは3人で

 実はまだCDデビュー前、2人が世間の注目を浴び始めた15歳の頃、将来のことを聞かれこう答えていたことがある。「いま、暇をみて詩を書いてるんだけど、いつか自分の作詞した曲を歌えたらいいなと思っています」(堂本剛)。「歌、ダンス、演技、ぜんぶ好きだから将来はミュージカルをやるのが目標」(堂本光一)。2人に多大なる愛を注いでいたジャニー氏のことである。2人の希望を知らなかったわけがないだろう。もしかしたら、この取材にも現場マネージャーとして同席していたかもしれない。そして今25周年を迎え、堂本光一はこう言っている。「我々ができること、やりたいことをやってきてるだけ。そのスタンスはこれからも変わらない」。そして堂本剛はこう語っている。「自分たちにしかできないことをやりなさい。ジャニーさんの天の声が聞こえてくる」。ジャニー氏が亡くなって3年が経った。これからも、KinKi Kidsは2人+「天の声」1人の3人で、他人の決める“ジャニーズらしさ”から逸脱し、進化し続けていってくれるのかもしれない。
 霜田明寛

 1985年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニヲタ男子」。就活・キャリア関連の著書を執筆後、4作目の著書となった『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)は3万部のヒットに。また『文化系WEBマガジン・チェリー』の編集長として、映画監督・俳優などにインタビューを行い、エンターテインメントを紹介。SBSラジオ『IPPO』凖レギュラー。




(私論.私見)