ジャニー喜多川の生涯履歴考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ジャニー喜多川の生涯履歴考」をものしておく。

 2023.6.29日再編集 れんだいこ拝


 「ウィキペディア(Wikipedia)ジャニー Johnny喜多川」。

 1931年10月23日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市日本名:喜多川 擴(きたがわ ひろむ)。父:喜多川諦道。姉:メリー喜多川、兄:喜多川真一、姪:藤島ジュリー景子。
英語名:ジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)。2019年7月9日東京都渋谷区で没(享年87歳)。死因は解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。ロサンゼルス・シティー・カレッジ(LACC)卒業ジャニーズ事務所創業者。日本名は喜多川 擴(きたがわ ひろむ)[4]。英語名はジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)。「ジャニー」は本名ではなく、ショービジネス関係で知り合ったアメリカ人から呼ばれた愛称と言われ、英語名の愛称を自称としていた。1962年 - 2019年、(芸能プロモーターとして)ギネス世界記録「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」、「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」。第28回菊田一夫演劇賞「特別賞」

 成長するまでの主な育ちは日本である。父の喜多川諦道は仏教高野山真言宗米国別院の僧侶で、1946年2月から1948年2月までプロ野球チーム「ゴールドスター」のマネージャーだった。ジャニーは次男。日本と米国の二重国籍を持っていたため、ミドルネームがあった。姉はメリー喜多川、兄はアメリカ航空宇宙局アポロ計画の設計もしていた科学者だったが、1980年代に50代半ばで死去している。1933年に喜多川一家は日本へ移住し、大阪府大阪市で生活した。しかし間もなくして母親が死去。やがて太平洋戦争が勃発すると子供達だけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に疎開した。その後満年齢16歳まで日本で育った。

 第二次世界大戦終結後、満年齢16歳であった1947年に子供達だけでロサンゼルスへ移動し、現地の高校に入学した。高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとしてアルバイトを経験している。ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジに進学。

 1950年美空ひばりが育ての親・川田晴久と共にアメリカ公演を行った。そしてロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する。

 1952年に再来日し、アメリカ軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教授するために、日本でわずか11か月で朝鮮語を習得し、すぐ米軍側の板門店に出向き、1年2か月間に亘って子供たちに英語を教授した。再来日後はアメリカ合衆国大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として勤務。 

 アメリカ陸軍軍属として朝鮮戦争に赴いたこともあり、その自身の体験を2017年に自身が演出した舞台『ジャニーズ YOU&ME アイランド』で描いた。


【ジャニーズ事務所設立後】
 人物

 座右の銘は「Show must go on(ショーは何があろうと続けなければならない)」。芸能界では裏方に徹しており、世間に顔を知られることを極端に嫌っており、公になった顔写真は極めて少ない。通常、大手企業や有名企業のCEOの写真は、会社サイトや資料などで公開され、報道機関なども写真を持っており、他社もそれを使用できるが、ジャニーズ事務所はメディアに対して極めて強い支配力を持ち、日本のメディアは機嫌を損ねることを恐れ、顔写真を使用しないよう自粛していると指摘されている。BBCのジャーナリストのモビーン・アザールは、「成功して世界に知られた人物なのに、使用可能な彼の写真はごくわずかです。ここから分かることは、彼は何もかもコントロールする力を持っていたということです。その支配力は想像を超えます。自分の印象さえ操作できたわけですから。マイケル・ジャクソンだって自分の好まない写真が出回ることを止められなかったし、英王室やダイアナ妃だって報道をコントロールすることはできませんでしたが、喜多川氏にはそれを可能にする力があった。彼の好まない写真や記事を載せれば切られる。日本で、何人もの人からそう聞かされました。これはとても問題です」と述べている。ジャニーズ事務所では、身長170cm以下の者を優先して採用していた。

 1960年代初頭、喜多川は自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。そのチーム名は、「オール・ヘターズ」「オール・エラーズ」を経て、「ジャニーズ少年野球団」となった。ある日、雨で野球の練習ができなくなり、このチームのメンバーの中から渋谷区立代々木中学校の生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。そして、そこで鑑賞したミュージカル映画『ウェストサイド物語』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した。

 1962年(昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成する。最初は東京都豊島区・池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に在籍をしていたが、1962年(昭和37年)6月にジャニーズ事務所を創業。創業当初は渡辺プロダクションと業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、1965年(昭和40年)には事務所が正式に構えられる。1964年にはジャニーズ事務所が、「新芸能学院」と授業料の支払いと、喜多川による所属する未成年男子への猥褻行為を巡って裁判となったが、当時は同性愛へのタブー視と重なり、あまり真剣にとらえられることはなく、広く問題にならなかったという。
 男性アイドル事務所として成功
 1960年代後半~1970年代

 日本の芸能プロの草分けともいえる渡辺プロダクションの渡辺晋とほぼ同世代であるが、活動の開始は大きく出遅れたこともあり、先行する大手プロダクション群を凌駕し始めたのは1980年代に突入してからである。ジャニーズ事務所の始まりは、事務所黎明期である1967年デビューの「フォーリーブス」、1971年デビューの「郷ひろみ」らに始まる。郷は1973年には新御三家と呼ばれるなど、一躍トップアイドルの仲間入りを果たす。だが1975年、ジャニー喜多川からの過度な寵愛に反発してジャニーズ事務所を退所し、設立4年目のバーニングプロダクションを選択して移籍した。フォーリーブスは1978年に解散している。

 1980年代

 1980年代には、「たのきんトリオ」・「シブがき隊」・「少年隊」などの3人組アイドルをデビューさせた。しかし、いづれも人気を得たものの、数年間のアイドル活動後は個人での活動に移行していった。1987年には、7人組アイドルグループ「光GENJI」をデビューさせた。光GENJIはローラースケートで踊りながらアクロバティックなライブを行うという、これまでにない革新的なアイドルグループとして注目され、非常に大きな成功を収め、現在の男性アイドルグループの基礎となった。しかし活動期間は8年と、現行のアイドルと比較してやや短命に終わった。光GENJIが短命に終わった理由として、デビュー時期から爆発的に売れたため仕事に奔走しており、トークやお笑いなどのスキルを習得する時間がなく、アイドルブームが去った1990年代の芸能界に適応できなかった事、個々では活動せずに常に7人全員で活動していたためメンバーの人間関係に問題が生じた事、止まる暇もなく全力疾走で駆け抜けてきたため疲弊し切っていた事などが挙げられている
 1985.8.11日に大阪の新歌舞伎座で幕を開けた舞台「森の石松」主演の近藤真彦の応援のために少年隊とともに翌12日の日本航空123便に搭乗する予定だったが、初日に近藤が開く記者会見に来てほしいと要請を受けて大阪入りを前倒しにし、少年隊は東京に残った結果この墜落事故を避けられた
 1990年代

 1990年代には「ジャニーズらしくないグループ」が目立つようになり、SMAPを個性的なマルチタレント型グループとして売り出した。SMAPは当初は光GENJIのように歌をメインにしたアイドルグループを目指していたが、当時はまだ光GENJIが人気であったこともあり、1991年のCDデビューから1993年頃までは人気が出なかった事から、バラエティー番組と両立するスタイルを模索していった。SMAPは既存の失敗を踏まえた上で、光GENJIの路線からグループ性を発展させた路線へと展開し、ライブだけでなくバラエティー番組でも活躍できるアイドルとして注目を集め、個性的なメンバー達の掛け合いにスポットを当てることに注力し、かつ短命に終わらない持続性を持ったグループとして大きな成功を勝ち取った。SMAPのデビュー後にもバンド形式のTOKIO、年齢差のある個性派アイドル集団であるV6、関西系の二人組ユニットであるKinKi Kids、王道的アイドルを目指すが次々にデビューし、SMAPに続くバラエティー番組でも活躍できるアイドルグループとして着実に成功を収めていった。

 1999年10月、週刊文春が、14週連載で喜多川氏による性加害の追及を始めた。一連の特集記事で、「芸能界で多大な影響力を持つジャニー喜多川氏がスカウトした未成年男子に対して優越的立場を利用し、性器を弄んだり、肛門性交するなどの虐待をしていた」と報じた同年11月、喜多川氏側は名誉を傷つけられたとして文春側に約1億700万円の損害賠償など求め提訴。裁判沙汰になる。一審は喜多川氏側が勝訴したが、東京高裁は2003年に性加害を認定。最高裁も喜多川氏側の上告を退けた。
 2000年代

 2000年代にはKinKi Kidsに続く二人組ユニットであるタッキー&翼、V6や嵐に続くワールドカップバレーのイメージキャラクターとしてデビューしたNEWS、関西出身者だけで構成される関ジャニ∞、ジャニーズ異色のワイルドグループであるKAT-TUN、メンバー全員が平成生まれであるHey! Say! JUMPなど、個性的なグループを続々とデビューさせた。

 2000年、自民党衆院議員(当時)の阪上善秀氏がジャニー喜多川氏の性加害問題を追及し、警察庁や厚労省(当時は厚生省)の官僚たちに対し、「ジャニー喜多川社長が若い男性タレントに性的虐待をしている」と追及した。
 「ジャニー喜多川社長は、少年たちを自宅やコンサート先のホテルに招いて、いかがわしい行為を繰り返しておるという内容のものであります。なぜ少年たちがこんな行為に耐え忍んでいるかといえば、ジャニー喜多川社長に逆らうと、テレビやコンサートで目立たない場所に立たされたり、デビューに差し支えるからというのであります」 。 

  そして、独自の調査で手に入れたというジャニーズ事務所に所属していた少年の母親の手紙を紹介した。
 「うちの現在高校2年生の息子も中3の冬にオーディションに合格し、約1年間ジャニーズジュニアをしていました。(中略)息子から聞いたのは、オーディションに受かってから初めてレッスンに行ったとき、先輩のジュニアから、もしジャニー喜多川さんから、ユー、今夜はホテルに泊まりなさいと言われたとき、それを断ったら次から呼ばれなくなるから我慢しろと教えられたそうであります」

 前年の1999年に週刊文春がジャニー氏の性加害問題についてキャンペーン報道を展開していたとはいえ、国会の場でここまで具体的に言及するのは異例だった。だが、“メディアの沈黙”もあり、この質疑は大きく取り上げられることはなかった。阪上氏は2019年11月に72歳で死去している。
 週刊朝日2000年4月28日号で、「国会質疑されたジャニーズ問題 自民党議員が質問」としてこの質疑を取り上げ、阪上氏が「ジャニー氏は親代わりで児童を預かっているのに性的な行為を強要するのは児童虐待にあたる」として厚生省、警察庁などに見解を求めた様子を記している。だが、記事の終盤にはこうつづられている。
 「盛り上がりに欠ける質疑だった。委員会終了後、阪上議員は記者会見を開いたが、翌日、報道したメディアはほとんどなかった」。

 当時の官僚たちは阪上氏の質問にどう答えたのか。議事録を元に再現する。阪上氏は「児童福祉法第34条第6号は、児童保護のための禁止行為を挙げている。ジャニー氏はこの法律に違反しているのではないか」と当時の厚生省児童家庭局長に迫った。それに対して、局長はこう答弁した。 「同条の第6号には『児童に淫行をさせる行為』が規定をされておりまして、『淫行』とは、判例によれば、性交そのもののほか性交類似行為を含むというふうにされております。(中略)ご指摘の個別事案につきまして、それを判断するための情報がございませんが、一般論といたしましては、児童に対しまして今申し上げたような性交類似行為をするということは、児童福祉法34条の6号に違反しているというふうに考えられると思います」。


 追及は警察庁にも向けられた。阪上氏は「ジャニーズ事務所に対して警察庁も厳重注意を勧告されたと聞いておりますが、それはいつのことであったのですか」と問いただした。当時の警察庁生活安全局長は、「厳重注意、始末書をとった日時は、ちょっと手元に資料を持ち合わせておりませんが、間違いなく厳重注意、始末書処分をいたしておるところでございます」といったんは答弁したが、同局長は後でこう言い直した。 「厳重注意をいたしましたのは飲酒と喫煙の関係でございまして、淫行ということではございませんので、その点、修正をさせていただきます」。その後、阪上氏は「今後警察庁としてどのように追及、捜査するのか」とさらに追及したが、局長は「今後とも、少年の健全育成のためにあらゆる施策、各種の法令を適用する」などと明確な回答を避けた。藤島ジュリー景子前社長、東山紀之新社長はともに、ジャニー氏の性加害について「裁判は知っていたが、弁護士が悪いと(メリー氏から)聞いていた」と繰り返している。
 2002.3月、東京地裁判決。東京地裁が文春側に計880万円の賠償命じる 。
 2003.7月、東京高裁控訴審判決。賠償額を120万円に変更。元社長によるセクハラ被害の真実性を認める。
 2003(平成15)年、第28回菊田一夫演劇賞「特別賞」受賞。授賞式には堂本光一を代理人として参加させた。
 2004年、ジャニーズ側の上告を最高裁が棄却し判決確定。
 2010年代

 2010年代には少年隊以来の3人組ユニットであるNYC、光GENJIを彷彿させるローラースケートを武器にしたKis-My-Ft2、セクシー路線のSexy Zone、ジャニーズ初のDVDデビューとなったA.B.C-Z、関西出身者のみで構成されたジャニーズWEST光GENJI以来となるファンタジー路線を主題にしたKing & Princeなど、原点回帰してこれまでの成功事例を取り入れつつも新たな要素を加え、所属タレントの活躍の場を広げていき、男性アイドルの礎を築いた。

 2011.7月、東京都渋谷区内の自宅マンションに見知らぬ男が侵入し、喜多川を締め出して30分以上に亘って篭城するという事件が起こった。喜多川は34階建てタワーマンションの最上階に居住していたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難などの被害はなかった
 2011(平成23)年、ギネス・ワールド・レコーズが「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」と「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」に認定。ジャニー喜多川はそれまで「自分の写真を決して公開しない人物」として有名であったが、この受賞に際し自身の公開用肖像写真を初めて撮影した
 2012.5.3日、中国への進出を報道陣の前で表明するも結局頓挫した。
 2012(平成24)年、「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」としてギネス認定を受けている
 2013.1.27日、JOHNNYS' World:Top of the J Pops(ジャニーズ・ワールド:トップ・オブ・ザ・Jポップス)(NHKワールドTV)。喜多川の功績を称える特別番組。
 2015.1.1日、蜷川幸雄のクロスオーバートーク(NHKラジオ第1放送):番組の記念すべき第1回のゲストとして出演。メディアに登場しない喜多川の肉声が収録された珍しい番組となった
 死去  
 2019年(令和元年)6月18日午前11時30分ごろ、自宅で体調の異変を訴え、救急搬送された。同日、Twitter上にて「ジャニー喜多川が緊急搬送され、入院した」という趣旨の書き込みが発信された。情報はすぐに拡散され、6月19日には、東京スポーツが喜多川の緊急搬送について報じていた。6月22日、まとめサイトが「ジャニー喜多川が死去した」という内容の記事を配信した。同記事には、ジャニー喜多川が死去したと断定できる情報源について記載されておらず、死去に関する情報についても曖昧な内容であった。これ以降、喜多川の容体に関する情報がインターネット上でさらに拡散された。7月1日、ジャニーズ事務所は喜多川が解離性脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血で倒れ、入院し治療を受けていることを発表

 7月9日午後4時47分、東京都渋谷区の日本赤十字社医療センターでクモ膜下出血により死去した。7月12日、子会社・ジャニーズアイランドの渋谷区に所在する稽古場において「家族葬」が行われ、司会を務めた国分太一 (TOKIO)・井ノ原快彦 (20th Century) はじめ「子供達」と称する事務所タレント150名に見送られた。9月4日、東京ドームに於いてジャニーのお別れの会が開かれた。二部制で開催され、午前の関係者の部では約3500人の芸能関係者が、午後の一般の部では約8万8000人の一般人が参列した。安倍晋三首相は「お別れ会」に、業績を称賛し人徳を讃える弔電を送った
 2019(令和元)年、第61回日本レコード大賞「特別音楽文化賞」受賞。没後に追贈される形となり、同年12月30日の発表会の際には愛弟子の近藤真彦が代理で受け取った

 ジャニーズ事務所は創設初期から、社長の喜多川が事務所に所属する未成年男子達に対して猥褻な行為を行っているという噂があり、1960年代に行われた民事裁判では、猥褻行為に言及され、証言もあり、1999年の週刊文春の特集記事を名誉棄損として喜多川とジャニーズ事務所が訴えた民事裁判では、喜多川による、事務所における絶対的に優位な立場・権力を利用した元ジャニーズ事務所所属の未成年男子へのセクハラ行為(今でいう性的虐待行為)の証言の真実性が認定され、判決が確定しているが、日本で広く問題になることはなく、一部出版社でのみ報じられていた。性的虐待を受けたという元ジャニーズJr.や元ジャニーズの告発本や証言、雑誌による取材記事、週刊文春との民事裁判を踏まえると、1960年代から2010年代まで約50年に渡り、ジャニーズ事務所の中で、喜多川による未成年の所属タレントへの性的虐待が続いていた疑いがあると指摘されている

 喜多川の性的虐待疑惑は、日本で長年に渡り看過され続け、週刊文春などの一部を除き、関係者と報道機関は沈黙を守り、無視し続けてきた。ジャーナリストの松谷創一郎は PRESIDENT Online で、これはジャニーズ事務所の業界支配があったからであり、喜多川個人の問題というだけではなく、構造的に読み解く必要のある問題であると指摘している。ライターの高橋ユキは、ジャニーズ事務所は男性アイドルを供給し運用するビジネスモデルで巨額の利益をあげており、喜多川が目をかけている少年、気に入った少年をデビューさせることと、喜多川による彼らへの性的虐待とが極めて密接に結びついた構造になっていたと指摘している
 喜多川とジャニーズ事務所側は、週刊文春の記事が名誉毀損であるとして民事訴訟を起こし、2000年代初頭には裁判が続いた(詳細はジャニー喜多川の性的虐待疑惑を参照)。東京高裁がジャニー喜多川の性的虐待を認定し、『週刊文春』の本件に関する一連の報道は名誉毀損には当たらないと判決が下り、ジャニーズ事務所は最高裁に上告したが、2004年に上告棄却され、高裁判決が確定している。日本のテレビ各局は公共放送であるNHKを含め、この判決について全く報道せず、新聞では、朝日新聞、毎日新聞、地方紙の中国新聞が小さくベタ記事を掲載したのみで、裁判で「ジャニー喜多川による少年への性虐待の事実はあった」という証言の真実性が認定されたことは詳細に解説されることはなく、メディアの大部分がジャニーズ事務所に忖度して報道せず、社会的な問題になることはなかった。このような日本の報道機関の行動の結果、何があったか知る人は日本社会にほとんどおらず、ジャニー喜多川は社会的に弾劾されることはなく、引き続きジャニーズ事務所を運営することを許され、「国の宝」として崇められ続けた
 2023年3.18日、死後も国内メディアの沈黙が続く中、世界の大メディアであるBBC(イギリス国営公共放送)によるドキュメンタリー1時間番組「Predator: The Secret Scandal of J-Pop(邦題:J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)」(喜多川の児童性的虐待疑惑を追うドキュメンタリー番組)放映「ジャニー喜多川は強姦魔である」、「ジャニー喜多川は少年達を連続強姦した」と述べ喜多川氏の性加害問題を報じる。
 4月12日には元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトさんが日本外国特派員協会で会見して被害を告白した。 以降、実名での被害の証言者も現れ、日本でも問題が表沙汰になりつつある。 
 5月14日、藤島ジュリー景子社長が動画で騒動について謝罪。  
 5.21日、東山紀之が「サンデーLIVE‼」でジャニーズ事務所改称の可能性に言及。
 5.26日、ジャニーズ事務所が再発防止特別チーム設置など発表。
 2023年5月、NHKのクローズアップ現代「“誰も助けてくれなかった” 告白・ジャニーズと性加害問題」。喜多川の児童性的虐待疑惑を追う日本では初めての特集番組。
 6.12日、再発防止特別チームが会見。
 8.4日、国連人権理事会の作業部会が政府に被害者救済を要請 。
 8.29日、再発防止特別チームが会見し調査結果など発表。ジュリー社長には辞任要求。
 故ジャニー喜多川元社長による性加害については、被害が拡大した背景に“メディアの沈黙”があった。同事務所の櫻井翔、小山慶一郎が同局報道番組のキャスターに起用されたことを受け、「必要以上に慎重になったケースがあった」ことも明らかに。2018年に当時同事務所に所属していたタレントが強制わいせつの疑いで書類送検(その後不起訴)された事件では、報道の現場が書類送検の事実をつかみながらも、報道幹部が「報じることに必要以上に慎重になった」。
 9.5日、ジュリー社長が退任し東山紀之が社長に就任。
 2023.9.7日、創業者の故ジャニー喜多川元社長による性加害問題で、ジャニーズ事務所が東京都内で記者会見を開き、藤島ジュリー景子社長(57)が5日をもって退き、所属タレントの東山紀之(56)が新社長に就任したことを発表した。記者会見で、東山紀之新社長がひときわ険しい表情を見せた場面があった。記者から「元Jr.が出した書籍の中で東山新社長の性加害について言及している点がある。それについての事実確認を」と自身の性加害疑惑を指摘されると、「僕が、ということですか?」と2度聞き返した。その上で「僕はしたことはないです」、「Jr.に対してですよね?」、「僕はしたことがないです」と強い口調で2回、同じフレーズを繰り返し、自身の疑惑を完全否定した。

 創業者の故ジャニー喜多川元社長による性加害問題を巡り、ジャニーズ事務所が7日に開いた記者会見で、東京新聞の望月衣塑子記者が東山紀之新社長に対して約10分以上質問した。

 東山は会見で、自身の性加害疑惑について「僕はしたことがないです」などと否定を続けた。これに望月記者が、東山から性被害を受けたとする元Jr.の書籍を挙げて「自身のセクハラやパワハラの話になると、元Jr.の本について中身も読まずになぜ分かるのかなと思う」と指摘した。東山は「ネットで読みました」と答えたが、望月記者は「私も少年隊は好きだったのでショックだったが、Jr.たちに自身の陰部をさらして『俺のソーセージを食え』と言った。やられた方は覚えている」「忘れているのかもしれないが、ある種の加害を連鎖的にやってしまったのではと感じる」「ご自身がJr.に加害をしていたとしたら、それを今どう感じるのか」などと約4分にわたり追及。東山は「覚えていないことも本当に多い。したかもしれないし、していないかもしれないというのが本当の気持ち」と答えた。その後も繰り返し質問は続いたが、最後は司会者が「質問は1問まででお願いします」と遮る形で強制的に終了となった。
 10.1日、ジャニーズ事務所の新体制発表(予定)。




(私論.私見)