教祖が元の理を説かれた理由」考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年2.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖が元の理を説かれた理由」について記す。

 2007.10.12日 れんだいこ拝


【天理教教理の格考】
 過ぐる「堪能の日々」において、教祖みきは、家族の「談じ合い、心の練りあい」を殊のほか重視していた。この頃のみきの教理の骨格を整理してみたい。みき教理は究極「元の理」(「泥海古記」とも云われる)に至り、この教義から「おつとめ」の作法が生み出されていくことになる。この順次次第を見ていこうと思う。

 付言すれば、小滝透氏は、著書「天理教QアンドA」の末尾で次のように述べており、絶賛を惜しんでいない。
 まとめますと、天理教の教えは、その根源にある人間存在への肯定を基本にして、現代世界の最も解決すべき環境の問題、戦争の問題、労働の問題等に大きな貢献を為す可能性を秘めたものと考えられます。天理教は個人個人のたすけはもとより、思想やシステムとしての世界救済論をも併せ持っているのです。

 植田義弘氏は、著書「理の研究」のはしがき文中で次のように述べている。れんだいこも実に実にと思う。
 概要/復元が叫ばれてから三十数年を経て、形の普請は立派に建ち並んでも、心のふしんの土台は据えられないままになっている。教理を研究しなくとも教祖にもたれて通っていれば間違いないと反問する人は、原典の神意は一切の立場や私心を捨て人間思案を忘れなければわかる筈はないこと、親の思いが分からないままに親にもたれ切っているのは幼児の姿に他ならないことを自分に問い直していただきたいのです。

 2003.8.24日再編集 れんだいこ拝

教祖が元を説かれた理由 ②
教祖が元を説かれた理由 ③
教祖が元を説かれた理由 ④
教祖が元を説かれた理由 ⑤
教祖が元を説かれた理由 ⑦
教祖が元を説かれた理由 ⑧
教祖が元を説かれた理由 ⑩

【教祖が元の理を説かれた理由】 
 おふでさきが、元の理を説かれた理由を次のように記している。
いまゝでに ない助けをば するからハ
元を知らさん 事にをいてわ
九号29
いまゝでも 知らぬ事をば 教へるハ
元なる親ふ 確か知らする
九号30
元なるの 親ふ確かに 知りたなら
とんな事でも 皆な引き受ける
九号31

 人間を創造したのは誰なのか。何のために造られたのか。どのようにして造られたのか。人間とは何かを、造り主自らが根源から説き明かす体裁で、ユダヤ-キリスト教圏の天地創造に比して遜色ないどころか、別系にして更に詳細な元の理が説かれている。
 天理教教典第三章「元の理」冒頭は次のように記している。
  親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろ(社)として、この世の表(おもて)に現れた、奇(く)しきいんねん(因縁)と、陽気づとめの理を、人々によく了解させようとて、元初(はじま)りの真実を明かされた。
 「おふでさき註釈29-51総註」は次のように記している。
 かぐらづとめの理を明らかにし、親神様の、この世人間創造のご苦心をお教え下さるために、元初まりのお話を詳しくお説き下されている。
 天理教教祖伝第八章「親心  元の理」冒頭は次のように記している。
 かくて教祖は、つとめの完成を急き込み、その根本の理を諭す上から、元初まりの理を、人々の心の成人に応じて、理解し易(やす)いように、順序よく述べられた。

 二代真柱は、「ひとことはな志 その三  此世始まりのお話」冒頭で次のように記している。
 おつとめは、よろづたすけ(万救け)のために勤められるものであり、よろづたすけとは、ひとり人間の身上ばかりではなく、農作や日本、世界の上にも及ぼされているのを申しました。言わば、人間身上なり、生活なりの上につき、あらゆるご守護を下さることをお述べ下されているのでありますが、何ゆえに、このおつとめに、このようなご守護の理をお教え下されているのでありましょう。それにはまず、この世初まりのお話を聞かせて頂くのが順序であります。と言うのは、教祖様(おやさま)は、 『おつとめによって、この世に再び人間をつくるのだ。更生さすのだ』 ということを仰せになっています。

 元初まりの親神様が、教祖様(おやさま)の口を通じて、人間創造の思召(おぼしめし)をお聞かせ下され、人間の心の掃除をして、人間創造当時と同じように、その後“ほこり”にまみれ、いろいろな勝手な“いんねん”を積んできた人間を、人間創造当時の如(ごと)き、無垢(むく)なものにつくり直す』 ことを仰せになっているのであります。 (中略) 『おつとめによって、その昔、ない人間を創造された時と同じように、この世で人間をつくり直す』、と仰せられているのであります。『心を澄まして、創造当時と同じように、“ほこり”にまみれない、楽しい人間と更生さすこと』、を仰せられたのであります。されば、おつとめの理を思案させて頂くためには、まず、この世初めのお話を聞かして頂くのが順序なのであります。

   教祖ご自身は何と仰っておられるのでしょうか。深谷源次郎先生(河原町初代)のお話では次のように語っている。(みちのとも大正10年3月号、「深谷先生の御話  深谷源次郎」より)
 神様(教祖)は、いつも私たちが行くと、人間を創(はじ)めた時の話をしなさる。そしてそのたびに、泣いて聞かして下さった。 『変わらぬのが天の理やで。米を植えたら米、麦を蒔(ま)いたら麦が生える。芥子(ケシ)の種には芥子の実がのる。この理をよう聞き分けておくれ。人間は、人間が産んで、独り大きいなって、偉くなれば、我が力で偉くなったように思うが、それは大きな間違いやで。人はどうでも、我さえ良くば、という心ではいかん。皆々、神様の可愛い子供や。我が身が可愛いように、人さんを可愛がってやっておくれ。我(が)があってはならんで。欲があってはいかんで。世の中に、火難に遭(お)うて裸で泣く者もある。盗難に遭(お)うて、難儀する者もある。何で、このような目に遭(あ)うか。この理を聞き分けておくれ。神は、可愛い子供に苦労さしたくない。皆の心意気が、ころっと違うからやで』と、聞かして下さった。

 山名初代/諸井国三郎先生のお話では次のように語っている。(山名大教会初代会長夫妻自伝(大正五年) 69pより)
 教祖ご在世中のお話といえば、大抵この泥海中のお話が多かったが、これをお聞かせになる前には、『今、世界の人間が、元を知らんから、互いに他人と言って嫉(ねた)み合い、恨(うら)み合い、我さえ良くばで皆な勝手々々の心遣い。甚(はなは)だしき者は、敵同士になって嫉(ねた)み合っているのも、元を聞かしたことがないから仕方がない。 なれど、このままに居ては、親が子を殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見て居られぬ。それでどうしても、元を聞かせなければならん』 ということをお話になり、それから泥海中のお話をお説きになり、しまいに、 『こういう訳ゆえ、どんな者でも仲良くせんければならんで』と言ってお聞かせになった。
 「天理教教祖伝 第六章 ぢば定め」は次のように記している。
 教祖は、〈大和(おやまと)神社の神職達に〉『親しく会う』と仰せられ、衣服を改めた上、直々お会いなされ、親神の守護について詳しく説き諭された。神職達は、それが真(まこと)なれば、学問は嘘か、と尋ねると、教祖は、『学問にない、古い 九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい』と仰せられた。神職達はあきれて、また来る、と立ち去った。
 教祖は、 『岐様(うを/いざなぎのみこと/岐魚)の鰭(ひれ)に五つの筋(すじ)がありた。これが五本の指と成りた』と仰せられますが、ここ最近の研究において、人間の祖先にあたるシーラカンスのような魚の胸びれや尻びれが、だんだんと手足に進化変化し、サンショウウオかトカゲのような姿で陸に上がった、ということが発表されている。
 「諸井政一集」の後篇84p、御講話傍聴録二より 
 火は火や、水は水や。何でもないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものの一つ。間違うたら、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。 さあ、そうなってきたら、いかな強欲(ごうよく)でも、悪気者(あっきもの)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れて、まず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と言う。「なむ」という言葉が先へ出るやろがな。「南無」は親々(月日/くにとこたち・をもたりのみこと)やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆これ「親の意見」やから、知らず知らず、親を呼び出して頼むというは、仏法というものを、人間の心 和(やわ)らげるために、教えておいたのやで』 と仰いました
 「みちのとも」大正6年9月号、宇田川文海「天理教と時世」より
  (前略) 教祖はまた、この理を一層分かりよく、 『届かぬ者や、足らぬ者を、届かぬ者じゃ、足らぬ者じゃ、と言うておくのではない。届かぬ者には、届いた者から届かすようにしてやってくれ。また、足らぬ者には、足った者から足らすようにしてやってくれ』、と。






(私論.私見)