元の理効能お諭し考5、夫婦の理、夫婦治め和合論。女房の口一つ、女房の口次第

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.1.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「元の理効能考お諭し考5、夫婦和合諭し」を確認しておく。ここで、「元の理」の元々の教理を確認しておきたい。この種の試みはまだなされていない気がする。

 2007.12.25日 れんだいこ拝


【夫婦の理合い、夫婦治め和合論。女房の口一つ、女房の口次第】
 「お道教理」では、この世のはじめだしは夫婦であると位置づけている。その夫婦は天地の理を象っていると云う。夫婦が陽気ぐらしの根本、基本であり、天の理である。人生の幸福のすべては夫婦和合の上に授けられるといっても過言でない。夫婦の治まり次第で、どんなご守護もいただけるとして、「この道は、夫婦の道」と云われているほど、お道教義では、夫婦和合、円満、協働を尊ぶ。これを陽気暮らしの基本としている。

 「二人の心を治めいよ 何かのことも現れる」(四下り目二ッ)は「夫婦の心を一つに結んで誠真実に治めて通れよ。一切万事喜ばしい親神の守護が現れてくる」と諭している。「夫婦心を一手一つに揃えてひのきしんをする。これが第一の物種になる」。ものだねとは、「一番必要な時に一番必要なものが何でも生えてくる、どんなめずらしいご守護もちょうだいできる種」のことを云う。この教理を頭で承知していながら、なかなか簡単に治まらないのが夫婦である。

 座り勤め地歌には次のように記されている。
 「このよの 地(ぢい)と天とを かたどりて 夫婦をこしらへきたるでな これハこの世の始めだし」。

 御神楽歌には次のように記されている。
 二人の心を 治めいよ
 何かのことも 現れる
四下り目2ッ
 夫婦そろうて ひのきしん
 これが第一 ものだねや
九下り目2ツ

 お筆先には次のように記されている。
 前生(せんしよ)の 因縁寄せて 守護ふする
 これハ末代 しかと治まる
一号74

 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「どんな男でも、女房の口次第やで」。
 「女はな、一に愛想と云うてな、何事も、はいと云うて、明るい返事をするのが第一やで」。
 明治9年1月12日昼頃、桝井伊三郎夫婦に対してのお話。(願いの筋なし)。(「おやさまのおことば」参照)
 「男、女のへだてないと言うても、男は男、女は女やで。へだてないと言うのは神様の御守護に男も女もへだてないと言うことやで。神様の御守護ということ忘れたらいかんで。男も女も同じだからというて、男が女のようになり、女が男のようになってしもうたら、道がのうなってしまう。何と言うても男は天や、女は地やで。天と地では大分ちがう、こゝの処よう思案しなけりゃいかん。

 夫婦が仲よう通らせて貰うにはなあ、どんなことあっても女は地やから天をたてゝ通らしてもらうのやで。天をたてゝ通らせ貰わにゃ地の理はなくなってしまう。地はどこまでいっても天にはとゞかんもの。こんなことはわかっているやろ。女が天に手をとゞかそうとするからけがをするのやで。女は台やで、女は台やで。台は大きなけりゃいかん。台がちいさいと、ひっくりかえるで。天のあるところ地がなけりゃいかん。この理よう思案しなはれや。

 女の通る日々の心使いは男より難しいで。ものゝ言い方、ものゝ聞き方、することなすこと一つ一つが男とは違う。男は男の通る道、女には女の通る道があるで。女の通る日々の心使いはなあ、むつかしいものや。女は常に嫁に行くときのような心をもって、その心忘れずに日々通らせて貰えばよいのやで。言うことによく注意して、棘(とげ)のたたぬよう、やさしく言わにゃいかん。女というものは、ついじゃけんなものゝ言い方をするものやで。男が聞いたら、あれでも女かいなあと思われるようなことやったらもう女ではないで。女の人は、ものゝ見方でも半分しか見ないものや。ものは両面見なけりゃいかん。障子一ツしめたりあけたりするのも座ってするものや。その動作は美しく見えるものやで。女は男と違い愚痴の多いものや。心で申し訳ないと思っているうちはいゝけれど、それが口にでるようになってしまうと愚痴になるのやで。不足の心持つのも男より女の方が多い。夫婦の中で、婦が不足の心を持って通っていると、その理は夫に移っていくで。女は常にやさしくなけりゃ女とはいわれんで。地のやさしい心が天を助けていくのやで。こゝの処よう思案しなけりゃ女はいかんで。

 女の人に随分無理を言うようだが、決して無理を言うているのやないで。女の心一つで家も国もほろんでしまうような事にもなるのやから、女は心して日々通らしてもらうのやで。婦は夫にさからわぬよう、何でもはい/\と言うて夫にしたがい、低い心で通らせてもらうのやで。低い心で通らしてもらえばあとは神様がつれて通って下さるで、なにも心配はいらん。はい/\と言うて通るのが損をするような考え持ったらいかんで。女は男に対してよく口ごたえするものや。その口ごたえがいかんのやで。それを言わずに心に治めて通ってくれにゃ女とはいわれん。こゝの処よう心に治めておきなはれや。神様は男も女もへだてなくつれて通って下さるのやから、心大きく持って日々を通らにゃいかんで。へだてなくつれて通って下さるのは、男と女が同じということではないで。御守護は同じであっても、男には男の理があるで、女は女やで。こゝの処よう思案しなけりゃいかん。

 女は男に無理を言われるとすぐに角(つの)を出すものや。角出して通ったらいかん。なんでも心に治めて通らして貰いなはれや。日々心に治めて通らしてもらえればこそ、女としての徳がつめるのや。女としての徳というのはなあ、内々丸く治まるという理になるのやで。女の心の使い方が治る理にも、おさまらぬ理にもなるのや。治めて通らして貰うのが女として第一の道や。無理を言ふているのやないで。女の通る道はむつかしいものやからよう心して日々通ってくれにゃいかんで。

 男の人にはなあ、神様のお話を聞いて貰わにゃならん。女の人には女の道をよう心に治めてもらわにゃならん。女の道と言うは一口で言えば真実の道やで。真実とは低いやさしい素直な心を言うのやで。低い優しい素直な心とは、女の人のためにあるような言葉や。男には低い心、親には素直な心、子には優しい心になって、日々通らして貰うのやで。女は常に、男という理に対してつとめさせて貰うのやで。その心忘れんよう日々通りなはれや。

 女の人は常に真実の心で通らして貰うていたら、必ず人はついてくるものや。それが女の人の真の通る道やで。女の人は、身びいき身勝手の多い心をつこうて通る、人にもたれすぎる、親に主人に子供に一生もたれて通ってしまうような日々を通る。人にあゝさせよう、こうさせようと思う心で通っているから、自分の身がたたなくなるような事になってしまう。こゝの処よう考えて通ってくれ。女の人はすることなすことにおいても、自分がすると人にもさせたくなるものやが、なんぼ人にさせようと思うても、なんにもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。この道は人にさせる道やないで、銘々一人/\が自分からつとめさせて貰う道やから、人がどうのこうの言うやないで。自分がつとめさせて貰う時でも、人にさせようと思う心持ったらいかんで。男の人に対しての心の使い方によって、その理のあらわれるのは、お産のときにようわからして貰えるのやで。お産は日々の心使いのあらわれではない、お産は病ではない、女は誰もが通る女の道なのやから、一つも心配はいらん。だが男に対しての心の持ち方考え方が、どのようになるやらしれんで。そのあらわれてくるのは女の病いやで、女がその病いでたおれるような事やったら神様に対して申訳ないで」。
 逸話228-229p「137、言葉一つ」。
 「教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、『内でよくて外で悪い人もおり、内で悪く外で良い人もいるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる』と。又、『伊三郎さん、あんたは外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように』、と仰せになった。桝井は、女房が告げ口したのかしら、と思ったが、いやいや神様は見抜き見通しであらせられる、と思い返して、今後は一切腹を立てません、と心を定めた。すると、不思議にも、家へ帰って女房に何を言われても、一寸(ちょっと)も腹が立たぬようになった」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇92「夫婦揃うて」 
 「梅谷四郎兵衛が入信して間のない頃、教祖にお目にかかると、『夫婦揃うて信心しなされや』、と仰せ下された。早速、妻のタネに、この道というものは一人だけではいかぬのだそうだから、おまえも共ども信心してくれねばならぬ、と話したところ、タネも素直にしたごうた。そこで先輩に教えられた通り、茶碗に水を入れ、おぢばに向かって、なむてんりわうのみことと唱えて、その水を二人で分けて飲み、お誓いのしるしとした」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇189「夫婦の心が台」。
 「平野楢蔵が、明治19年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、『教祖のことを思えば、我々三日や五日食べずにいるとも厭わぬ』と決心して、夏のことであったので、平野は単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは浴衣一枚ぎりになって、お助けに廻わっていた。その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、『この道は夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば打ち分け場所を許す程に』、とお言葉を下された、という」。
  稿本天理教教祖伝逸話編「32、女房の口一つ」。
 「大和国小阪村の松田利平の娘やすは、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせて頂いた。教祖は、「おまえの炊いたものを、持って来てくれると、胸が開くような気がする」と、言うて、喜んで下された。お食事は、粥で、その中へ、大豆を少し入れることになっていた。ひまな時には、教祖と二人だけという時もあった。そんな時、いろいろとお話を聞かせて下されたが、ある時次のように聞かせて下された。『やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえりなさい、と丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆と言うけれども、女房がああやって、丁寧に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで』。 やすは、23才の時、教祖のお世話で、庄屋敷村の乾家へ嫁いだ。見合いは、教祖のお居間でさせて頂いた。その時、「神様は、これとあれと、と言われる。それで、こう治まった。治まってから、切ってはいかん。切ったら、切った方からきられますで」と、仰せられ、手を三度振って、「結構や、結構や、結構や」と、お言葉をくだされた」。
 昭和13年2月号みちのとも「乾やす老婆の話」屑屋乍路の「女房の口次第」より。(屑屋乍路とは、高野友治さんのこと)
 「ある時、教祖様は、『どんな男でも女房の口次第や』、と申された。『他人から阿呆といわれるような男でも、家に帰って女房が、貴方お帰りなさい、と丁寧に取り扱ったならば、阿呆というた世間の人も、女房があゝやって丁寧に扱うところを見ると、あの男は偉いのかも知れんで、というやろ。どんな男でも女房の口次第やで』。また女房持たん男は一人前でないでとの趣きを申された」。

 お指図は次の通り。
 「夫婦の中と言うてある。夫婦皆いんねんを以て夫婦という」(明治24年11.21日)。
 「これ夫婦いんねん見て暮らす、見て通るいんねん、よう聞き取れ/\」(明治24年3.22日)。
 「夫婦の中と言うてある。夫婦皆いんねんを以て夫婦という」(明治24年11.21日)。
 「子供を育てるが役、夫婦も言う」(明治27年7.16日)。
 「夫婦の中たんのう一つの理、互い/\とも言う。さあこれより一つしっかり治めるなら、いかなる事も皆んなこれ思うように事情成って来るという」(明治30年7.19日)。
 「夫婦の中の事情、世上という、世界という理が映ればどうもならん」(明治30年7.19日)。

【元の理効能考お諭し考5、性交諭し】
 お道は、「夫婦和合諭し」を得意としており、中でも「性交」を真正面に見据えて説き分けしているところに白眉性がある。それは、日本古来の記紀神話のイザナギ男神、イザナミ女神の共同による「夫婦交合国生み譚」と通底している。「夫婦交合国生み譚」がどの時点で獲得されていたのか定かではないが、記紀神話に記述されている訳だから、少なくとも記紀編纂時点以前に遡って伝承されてきたものには間違いなかろう。私論は、大和王朝以前の出雲王朝御代に獲得されていた言語論と相関していると看做している。但し、本稿ではこの方面の言及は控えることにする。

 ところで、記紀神話では、世界史上の神話に例がない形で且つ長々と、イザナギ男神、イザナミ女神の共同による「夫婦交合国生み譚」が語られている。最初は柱廻りの逆によって、次に柱廻りの出会いの際の問答の仕方によって上手くいかず、それらの調整を得た後の夫婦交合によって国生みされたとしている。お道の「元の理教理」は構図的にこれを継承している。そういう意味では、お道教理は、記紀神話、あるいはそれ以前の大和王朝以前の出雲王朝御代の神話を正統に継承しているように窺える。私論は、ここにお道の「元の理教理」の真髄があると窺っている。しかし、このように説く者は稀である。更に、お道の「元の理教理」は、記紀神話の「夫婦交合国生み譚」に思案を凝らして独自のものに仕上げている。イザナギ男神を男ひながた、イザナミ女神を女ひながたとして、更に八柱の神々が被る形での「夫婦交合生命誕生譚」を導き出している。

 この「元の理教理」の神話的高度性、秀逸なる独自性がもっと注目されて良いように思われる。にも拘らず、「夫婦交合」即ち「性交」そのものを正面に据えて説き分けすると云う際物性によってか、教外からは淫し邪教論で一蹴されている。ならば教内はと云うと、「元の理教理」の素晴らしさを説くのに、進化論的合致性を論ずることが多く、これを逆に云えば「夫婦交合生命誕生譚」そのものを礼賛することが控えられている気がする。私論は、「元の理教理の夫婦交合生命誕生譚」を正面に据えて論じてみようと思う。「進化論的合致性」は補足ぐらいで良いと思っている。以下、「元の理教理」の意義が「夫婦交合生命誕生譚」にあることを立論してみたい。
 いったい、個の人生に於いて、世代を継ぐ人生に於いて、「夫婦交合」(以下、単に「交合」と記す)をどのように位置づけるべきか。このことの意義を正当に認識し学問すべきではなかろうか。極言すれば、お道教理は、「元の理教理」の「交合」シーンの説き分けに於いて、この世の奥真実の森羅万象一切を諭そうとしている。ここから全てが汲みだされるとして、その真意を伺おうとしている。しかし、本稿ではこの方面の言及は控えることにする。

 本稿で説くのは、そのような性交論による性教育論がもっと押し出されて良いのではないのか、それにより「交合の勧め教育」があって然るべきだろうし、「交合の際の留意教育」が為されるべきだろうし、逆のベクトルとしての「交合の控え教育」、「交合忌避教育」もあって然るべきだろう、それぞれの適宜の解が求められるべきだろう、と考えている。

 現下は、この提起がないままの「交合観」が氾濫しており、「元の理教理」から見れば逆方向の「同性交合観」が意図的故意に流布され横行させられているように思われる。現下は、「いびつな交合観の悪乗り」が煽られ、それが不断に電波にされており、そういう意味での悪しき洗脳が行われ、性犯罪を助長しているやに見受けられる。そういう訳で、ここでお道の「交合教理」を窺い、これを本稿に纏め発表しておくことにする。

 教外の者には分からないだろうが、教内に於いては誰しも「元の理」で聞き分けしている。その「元の理」では、まずは男女共通の身体と精神が創造されたことが告げられる。次に男神の所以として「男一の道具」、女神の所以として「女一の道具」が両者の「交合」宜しきように仕込まれ、人類発祥の地たる「ぢば」の甘露台の据えられている地点で、その超々昔に、十柱の神々の共同で南無南無南無の宿し込みが行われたと教えられる。云うまでもないが、「男一の道具」を「女一の道具」に宛がう形での宿しこみであり、その様子は「交合」そのものである。「元の理」では、これを生命の始まりの厳粛行為として拝察している。この「交合」が基本であり、その後も同様にして生命が継承され、それがひいては人類の始まり、今日までの人類の歩みに繋がっているとしている。「元の理教理」は、その遠大な生命の始まりにして繋がりの「元一日」として、記紀神話と同じ神名のイザナギ男神、イザナミ女神の共同による「交合」があることを踏まえた様々な諭しをしている。

 こうなると、お道教理は、イザナギ男神、イザナミ女神の共同による「交合」をズバリ称賛し、ここから人類の元一日が始まったとして、「交合」をそのままに拝察していることになるが、世界の宗教の中で、かような教理を持つものが他にあるのだろうか、私は知らない。恐らく他にはないのではないかと思う。仮にあったとしても、お道教理の年季にはるかに及ばない稚拙、あるいはお道教理から見て相当に歪んだものではないかと思う。

 お道の「交合」教理は出色である。それを、決して「淫」に偏らず、「聖」に偏らず、「二つ一つの理」で総合的共同的に拝している。ここに秀逸さが認められる。更に、「交合」時に働いている神々の働きのご守護が十柱の神々論で説き分けされている。そのようにして拵(こしら)えられた人間及び天地世界が、それらの神々の働きに気づき、その働きの意義を認め、これに感謝し、合わせて総合的な働きにも感謝し、その結果として神々の御働きにご恩奉じするよう教理化されている。これを最高儀式に於いて確認するのが、人類発祥の地たるぢばの甘露台の据えられている地点での鳴り物入りでの甘露台神楽づとめである。甘露台そのものも「元の理教理」を表象しているのは論をまたない。甘露台及び神楽づとめに言及すれば紙数を増すばかりとなるので、本稿ではこの面での考察を省く。

 以下、この「お道の交合観」が如何に素晴らしく凄いことであろうか、現代史的に有益なことか、これを確認しておく。

 一つは、端から男女が同格に且つ共同する関係に位置づけられている。「お道の交合観」は記紀神話と同じ系譜であり、これによれば、日本の古来智では男尊女卑は成り立たず、男女が対等に向き合い協同する関係で捉えられていることが分かる。よって、男尊女卑は外来系のものであり、古来よりの国産のものではないと云うことになる。国産のそれは男女和合助け合いを旨としている。

 その男女は、明確に性的機能差を具有しあって釣り合っている。男とは、「交合」時に流し込む側であり、女はこれを受け取る側である。この差をそのままに認識することが大事であり、この差をなきもののように同視化させるのは昨今の風潮であるが、お道教理からすれば排斥すべき流れである。男女とは、夫婦とは、互いの性機能の差を補い合う形で共働共補関係にある、これがお道教理の示す男女観である。こうなると、夫婦ひのきしんの最初の企てが夫婦交合であり、これを慈しみ励むべしと云う諭しになる。同性結婚は、お道教理上は「ありえない事象」と云うことになる。この観点からのお道の性教育がもっと精力的に奏でられるべきだろう。

 一つは、昨今は「性」の商品化が著しい。「性」の「聖」の面を捨象し「淫」の面をことさらにフレームアップしている。その上で、「性」の「淫」の面を価値化させ、これを金銭でトレードする傾向が強められつつある。その先にあるのは、いわゆる「性の暴走」であり、待ち受けているのは人格破壊であろう。こういう「性観」が執拗に洗脳流布されている。「お道の交合観」は、「交合」を正面から取り上げつつも、性の「商品」化を否定している。「交合」の裡に神の働きを見ようとしている。これは厳かなもので、「商品」化できるようなものではない。

 一つは、「お道の交合観」は、「性」の「淫」化一辺倒、「聖」化一辺倒の両方を否定している。清濁併せ呑むと云う謂いがあるが、そのような意味に於いて、「交合」を、「淫と聖を併せて掴む二つ一つの理」で総合的に拝している。体験上、経験上から云えることは、その通りであろう。「性の淫化一辺倒」が仕掛けられている現代に於いては、この御教えは貴重な光芒を放っているように思える。

 これにより、「元の理教理」に基づく性教育論が成立する。本来の性教育は、お道教理そのままに、性交自体の中に認められる聖の部分と淫の部分の「二つ一つ」の理解に基いて説かれるのが良い。この線から行われるのが望ましい。昔は、子供に性を教えることを忌避していたよう思える。この時代は、赤ちゃん誕生は鴻の鳥お運び論だった。後に性教育が登場し、その最初は花粉受精の雄しべ雌しべ論だった。その後はマネキン人形を使っての解説が取り入れられた。現在はどのレベルか分からないが、それなりに教えられているのであろう。但し、それがより良い方向に向かっているのかどうかは定かではなかろう。

 但し、問題は、これを如何ように取り上げ、如何に論じるかである。お道教理の反対方向に教育されているとしたら、それは痴呆教育であろう。(とりあえずここまで)

【天理教の色情因縁諭し】
 (天理教の恋愛観」参照)

 高野友治「御存命の頃 下巻101-102頁。
 小松駒吉が、泉田藤吉に連れられて、おぢばへ参拝し、教祖にお会いした。その時、教祖は、駒吉の顔をジッと見られて、『あんた幾つや』と仰った。駒吉は、「十八です」と答えた。すると教祖は、『若いなあ、若いなあ、若いなあ』と、三たび嘆息(たんそく)せられるように言われて、『慎みなされや』と、ひとこと言われた。駒吉は、はじめてお会いする教祖の前で、ただ感激に満ちて呆然としておった。その時、取り次ぎの山澤爲造が、別の部屋へ下がってきてから、「いま教祖が、『慎みなされや』と仰ったが、何のことか分かりますか」と問うた。駒吉が、「分かりません」と答えると、爲造は、「慎みなされとは、色情のことやで」と言ったという。

 堀越義男「幸せを求めて」104頁。
 小松駒吉先生(御津大教会初代様)が、コレラのご守護を頂き、お礼参拝に詣られたおり、教祖は、『小松さん、歳は幾つになられはりましたかや』と、お尋ねになられた。先生は、「十八歳になりなした」と答えられると、教祖は、『十八歳かや、若いなあ、慎みなはれや』と仰せられた。先生はその真意が、はっきりせんまま御前を辞された。すると取り次ぎの先生が、小松先生に、「それはなあ、若い人は心一つで、偉くも悪くも、どんなにでもなるのやから、色情と酒は心して通れ、という意味である」と説明して下された。(中略)人間の失敗、不幸は、この色情と酒が、九分九厘、原因をなしている。(中略)心すべきは〝一の道具の誤った使い方〟であると思う。
 堀越義男「幸せを求めて」99-100頁。
 教祖はある日、板倉〈槌三郎〉先生に、『板倉さん、一の道具の使い方、間違いなさんなや』とお聞かせ下されている。先生がある日、〈大和〉郡山の女郎屋に、おたすけに行かれた。さまざまと女郎屋の女将(おかみ)にお話を取り次ぎ、おたすけさせて頂いた。帰ろうとすると、女将さんは、「今日はまだ昼間で稼ぎがないので、すまんが二階に女の子がたくさんおるから、誰でも好きな娘と遊んでいって下さい」と言うた。先生はお若かったので一瞬心が動いたが、教祖のお諭しを思い出し、「ああ、教祖は、見ぬき見透しやなあ、危ない危ない」と、慇懃(いんぎん)に礼を言うて辞去されたという。
 「女郎のことについて、教祖は何か仰せにならなかったでしょうか」と、こちら(高野友治)の方から質問したところ、老婆(乾やす)は次のごとく語った。「『子供の売られていくのは親だすけ、気の毒なものや。親だすけと言うなら、〈悪〉因縁積むことはない』と申されました。それよりも、女郎買いに行く、放蕩息子のことを申されました。『あれは子が悪いのでない、親が悪いんや。親が細こうして通るから、子が、その金を使って融通する、親の〈悪〉因縁や。することをしい、人にあわれみをかけていくならば何代でも続く。することもせんで細こうして通る、大道に灰まくようなもの。それで、「長者三代なし」と言うのやで。することもせんで、人にあわれみもかけんで、細こう金を貯めて通ると、子どもが散財する。これは融通やで』と仰せになりました」。
 堀越義男「幸せを求めて」101-102頁。
 教祖は、ひとり言のように、『色情をつかって銭をとった者は、人間に生まれ変わることはできず、牛馬に堕ちるで。可哀想になあ』と仰せられたという。その場に居合わせた、乾やすさんは、教祖に、「それなら、岡場所(女郎屋)で働いている者は、みな牛馬に堕ちるのですか」とお尋ねされた。すると教祖は、『岡場所に働いている人にもいろいろあるで。「親のため、家のため」と言うて、余儀なく苦界に身を落とす者もいる。また、自分から進んで身を落とした者もいるで。親のため、家のため、身を落とした者は、牛馬には堕ちんで』とお聞かせ下されたという。自分から進んで苦界に身を落とした者は、口入屋(人買い斡旋業)の口実通り、「女郎になれば、朝はゆっくり寝ていられる。美味しいものは食べられる。きれいな着物を着られる。夜は、よい思いをさせてもらえる。あわよくば身請けされて、玉の輿ともなれる」そんな思いで女郎になるのであるから、「一の道具を使い誤っている」と言わねばならん。こうした行為の報いとして、不幸な運命に泣かねばならんのである。
 「みちのとも」大正5年9月号の澤田又太郎の一文。
 教祖は、『この世に一番美しい、一番きれいなものは、色情と金銭である。この一番きれいなものに、一番むさ苦(くろ)しい埃がたまるのや』と、お諭し下されたと、聞かして頂いたことがあります。
 「復元」第22号の教祖様のお話/梶本宗太郎の(大正6年6.9日、御母堂様に聞く) 。
 泥海世界 『めかけ(妾)を置く心の理は、泥海世界のときは、男女皆ごじゃごじゃ(混合)に住んでいたものであるからから、その時の癖が、今になお残っていて治らぬ』とのことである。
 上川孫兵衛(斯道分教会初代)入信時のお話「お道と私」 (上川米太郎より)
 教祖お話/『世の中の人達はな、「お金を儲けるのには、人の裏をかいてでも儲けたい、われさえよければよい」という心。儲けたら田買う、畑買う、山も家も買う、家の内が豊かになる。すると妻があるのに、「他に女が欲しい」という埃の心が湧く。金銭や物の埃は、返せば済むが、女や男の埃は、なすになされん、返すに返せん埃や。そうした、心の埃を払う道やで』。
 「洗心」第六号 ”六号活話” より(天理教洗心会、昭和2年10.25日発行)
 教祖ご在世当時のことである。『この男は因縁者やよって、おまえ、預かっといてやってんか』と言って〈教祖より〉一人の男を、森田さんが預かられた。その男を家において、ある日のこと。布教に出た帰りがけ、癪(しゃく)で苦しんで、路傍で倒れている一人の女をおたすけして、森田さんは自宅へ連れて帰って休まされた。翌朝になってみると、その女の姿が見えないのに驚いた。森田氏が、預かった男の部屋へ行ってみると、布団をかぶって寝ている。「早う起きんか!」。「えらいすまんこって、眼が見えへんねん」。「きさま、昨夜、あの女の人に手をかけたな」。「申し訳ございめえん(ございません)!」。「馬鹿者が、また因縁を出しやがったな」。怒ってはいながら、森田氏は諄々と教理を説いていられるうちに、男も懺悔(さんげ)ができたものか、不思議に眼が見えだした。せっかく教祖から預かっていながら、監督しくじった森田氏は、おぢばへ、その男を返された。しばらくは、おぢばに居たが、まもなく、その男はおぢばを出て雑魚売りをしていたが、三たび因縁を掘り出して女に手をかけた。そしてすぐに、彼は盲目と癪病が一緒に出た。お屋敷で、一緒に勤めた誼(よしみ)で高井老先生が、おたすけにも運ばれた。この男のことを教祖は、『一度二度は許すが、三度目はどうしてもいかん。放っておけ』と仰った。
  「新宗教 」大正5年1月号の深谷源次郎「男で御座んす」。
 ここへ、三人の盲女がこもっていた。二人はよくなっていったが、あとの一人はよくならない。それで、あとに残った一人が言う、「私は眼がよくなりません」。深谷源次郎「おまえさんはまだ、懺悔(さんげ)ができないからだろう」。「いえ、私は十分懺悔をしております」。そのことを教祖に申し上げると、『懺悔してると言うのなら、言ってやれ。そんなら明日、人のなかで恥をかかせてやると言ってやれ』。それからそのことを、その女に言うと、「私は懺悔をしている」と言い張って聞かない。教祖の仰るには、『それは忘れている。何年何月の十一日を思い出せ』。すると、その女は暫時(ざんじ しばらく)考えていたが、「あります、あります!」と叫んだ。「私は、商人の家に嫁入りして〝女将(おかみ)さん〟になったが、息(息子)と嫁との留守に、近所の若い者と一手になって子ができた。それを堕ろしました」。『それやから、盲目になるのだ』。「神様、よう知っていなさるな」。『神がなすのだ』。それを見ているから、どうでも我が精神をつくって、人を誑(たぶら)かすようなことはしてはならん。
 お指図は次の通り。
 「あちらへ、こちらへ、心を映し、皆んなこれだけ慎んで居たらよい、これだけ言わんとおこう、と慎み来たる。…中略… 天然自然の道を知らんか。神一条の道、皆な人間心勝手の道を、皆んなこれまでの道を聞き分けてくれ」。(明治21年11月14日)

 「互い/\の理は重々聞かさず/\の理は、とんと受け取れん。慎みが理や、慎みが道や。慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に」。(明治25年1月14日)

 「慎みが元である。明らかというは慎しみの心。一先ずは、怖き恐ろしいという日もありた。実は天の理、天の理は誠一つの理という。…中略… なれど心の理より起こる事は、皆な適わん」。(明治28年5月19日)

 「天然自然という処成る程と言う。銘々(めん/\)承知して居れば、どんな慎みも出来る」。(明治26年5月21日)

【世界平和家庭連合の御都合的なレジメ/考】
 「世界の宗教の結婚観」。
 愛の定義

●主体が対象に授ける情的な力 
●分立された二性の対象実体が再び合性一体化せんとする力

 愛における力とは何か?

 愛における力とは主体と対象が互いに相手に与えようとする情的な力である。情的な力とは相手に温情を施して相手を喜ばせることによって、自身も喜ぼうとする心の力のことである。ゆえに肉体的だけではなく精神的にも大人になり、相手を思いやるという愛が心の中に宿るようになって夫婦となれば、性はお互いの愛を深め子孫を繁栄させるための祝福となる。しかし時期が来ていないのに、快楽という結果だけを求めると、それを得られないばかりか、苦痛と苦い後悔を味あわなければならなくなってしまう。人間の心は肉体の刺激によって得られる喜びよりも真善美愛といった精神的要素によって得られる喜びがずっと大きいものである。

 男女の結合は単純な生物的結合ではなく、愛による人格的結合として、古来から多くの宗教では男女の結合を神聖視し、一定の宗教的儀式に従って結婚行事を行ってきた。

 キリスト教
 「あなた方は悪魔から出てきた者である。」(ヨハネ8/44)
 「家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10/36)
 「私のように一人でおればそれがいちばん良い。」(コリント17/8)

 上記のような聖書の記述を見ると、イエス キリストや使徒パウロが世俗的な結婚をよしとしていないことが分かる。またキリスト教には陽陰といった概念規定がないのでともすれば一切を善悪概念で説明しようとする傾向がある。より精神的なものが善で、より物質的なものが悪であるというようにとらえやすい。肉体や物質を神から遠く離れた汚れたものとみなされ、男女の性を意識した愛は愛の中でもランクが低いとみなされやすい。カトリックの神父や修道女は生涯独身を通さなければならず、結婚すると聖職を追われるのもその一例である。

 一方でキリスト教の結婚儀式は、婚姻による男女の結びつきは神により合わせられたものとして行われる。米国では1960年代に男女の愛と性をタブー視するピューリタン的道徳に挑戦するかたちでカウンターカルチャーとしての性革命が起こり、婚前交渉、婚外交渉が一般化し、同性愛も公然と自己主張を始めた。一部のキリスト教会では同性愛者の聖職者も現れるなどして、伝統的な道徳観念は変化しつつある。

 ユダヤ教
 ユダヤ教では、結婚を神聖なものとしている。結婚誓約式のことをヘブライ語でキドゥシン(Kiddushin)というが、神聖を意味するアラム語カドシュ(Kaddish)に由来する。

 伝統的にユダヤ教の結婚式はケトゥバと呼ばれる結婚誓約書にサインすることから始まる。サインの後、新郎は新婦のもとに行き、新婦のベールをとって、本当の新婦かどうか確認する。これは旧約聖書のヤコブが本当に結婚したかったラケルを装ってベールで顔を隠してやって来たレアと一夜を共にして結婚しなければならなくなった話から来るものである。

 結婚は聖なる契約であり、結婚の解消は神聖さを汚す行為と見なされる。妻の不義による離婚のような場合を除き、離婚する場合には、妻に対してかなり多くの補償金を支払わなければならない。

 仏教
 仏教は一切衆生は皆な仏性を備えており、男女は互いに愛して、結婚し、夫の道理、妻の道理を尽くしながら家庭を形成することを教えている。しかし一方では異性に対する愛を渇愛や愛欲として、物欲と共に捨てなければならないと教えてきた。原始仏教では人間は全ての愛着と憎悪を断ち切ることによってはじめて、一切の束縛から解放され、永遠の平安、完全な平和を得ることができると考えた。原始仏教は人間の欲望に対して否定的であり、倫理の面では禁欲的な立場を貫いている。真言密教では森羅万象をを金剛界と胎蔵界の二つに分け、男女両性に配している。理知の合一と男女の結合とを同一と見、交接を即身成仏の秘事とした。男女の性行為をも含め種々の外界の影を取り去るならば、欲望は清浄なものであると説いた。
 儒教
 男女は格位において差があるが、愛においては両者は平等であると教える。しかし実際の家庭生活において、権利は男だけに与えられており、女には従順と義務だけが要求されていることが多かった。

 愛が冷え、夫婦関係が破綻しても、子供のために家庭の枠組みだけは守るという儒教型家庭は、欧米の夫婦中心の家庭(夫婦の愛が冷めると、子供におかまいなくさっさと離婚する)に比べると利点をもっていた。何故なら夫婦の仲が悪くても離婚しないほうが子供にとってはよいことが明らかになってきているからである。儒教型の子供中心の家庭生活を守ってきたのはもっぱら女性だった。儒教型の伝統的家庭では、女性は妻として夫に、母として子供に仕えてきた。しかしその女性達が一方的な忍耐と奉仕を拒絶するようになり、儒教の結婚と家庭の伝統は崩れつつある。

 イスラム教
 結婚を重視し、コーランには結婚に関する規定が詳細に書かれている。しかし一夫多妻性など問題を抱えている。
 ヒンドゥ教
 教理上では男女間の愛を法と財産と共に人生の三大目的の一つとしている。しかしカースト制によって異階級間の男女の結婚は許されていない。 
 近代以後の女性解放運動
 宗教が教理上では女性を重視しながらも、現実的には差別待遇が長い間継続してきたために、それに対する女性達の積もり積もった不満が表面化することによって現れた。多くの国で女性解放運動の要求が法律に反映されるようになった。しかし家庭崩壊等の別な問題が起きるようになった。 
 世界平和家庭連合
 男と女はそれぞれ陽と陰として、創造主の中では心情の力を中心として合性一体をなしていた。その陽性と陰性が創造と共に男性と女性に分立されたのであり、従って心情によって、一体をなしていた本来の姿に戻ろうとする衝動が生じるのである。

 本然の世界では愛の秩序が厳格に守られるようになっている。家庭において祖父と祖母、父と母、息子とその嫁等、各代の夫婦の間にだけ異性の愛(すなわち性行為)が成立する。それ以外は父母の愛、子女の愛、兄弟姉妹の愛があるだけである。また不倫の愛も絶対にありえない。この家庭の愛の秩序を破壊したのがサタンである。サタンはアダムの配偶者となるはずのエバを被原理的な性的愛で誘惑して堕落させ、天道の秩序を破壊した。

 全ての被造物は神の個性真理体であり、従って全てが神聖であり、そこに汚らわしいものは何もない。とりわけ人間は神の完全なる似姿であり、それ故に人間は被造物の中で最も高貴で神聖である。従って人体の構成部分はいかなるものでも高貴なものである。人体の器官の機能は神の創造目的を実現させる目的をもっている。その中でも性器官は次世代の生命を創造する器官であり、神が創造した最も神聖な器官である。

愛の完成を結び間違い、結婚を誤ったので、神を中心として正していくべきである。

(私論.私見)
 当然に触れるべき日本神道の結婚観が記述されていない。癖のある書き方だと思いながら読んでみたが、最後の「世界平和家庭連合」の下りの記述で、お里が知れた。知らない情報もあるので参考にと云う意味で転載整理しておく。

 2018.6.1日 れんだいこ拝





(私論.私見)