元の理効能考、お諭し考3、生きる意味目的の理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「元の理効能考、お諭し考3、生きる意味目的の理」を確認しておく。ここで、「元の理」の元々の教理を確認しておきたい。この種の試みはまだなされていない気がする。

 2007.12.25日 れんだいこ拝


【「お陰さまで」の「元の理」諭し】
 「おかげとは親の陰」参照。
 教祖は、「おかげというは親の陰やで」と仰せられた。「親の陰徳を頂く」、これが「お陰」だと云う。即ち、親不幸では「お陰」を頂くことができないと云うことになる。

 親といっても色々ある。例えば、産みの親、育ての親、道の上からの理の親、教えの親、技術を習う職の親方、教育の上からは先生というように、親といっても「身の親、枝の親、教えの親」がある。「親孝行の道」とは、産みの親、育ての親、教えの親、導きの親、仕事の親、信仰の教祖のお蔭で今日の自分があるとして恩返しする道を云う。この途上で「お陰」を受ける。「お陰さまで」とは、このことを云う。

【「元の理」による人が生きる目的と意味考】
 或る日の、れんだいこの「元の理説法」を披歴する。

 れんだいこの知人のN氏がうつ病になったとの知らせが入った。N氏は70歳目前の初老である。若い頃、うつ病履歴があるが既に50年を経過している。まことに良くできた妻を得て円満な家庭を築き、子供3人を育て上げ、今では孫にも恵まれている。マイホーム兼仕事場の持ち家に住み、個人事業主として順調に経緯している。れんだいことも三十年来の仕事繫がりがある。現在、特段の悩みストレスがあるようには思われない。そのN氏が運転中に突如記憶を喪失する形で追突事故を起こし、以来運転を控えていると云う。信頼のおける医者を探し薬を服用していると云う。れんだいこは連れ合いと毎週水曜日には日帰り温泉浴に行くことが多く、或る日のこと、これにN氏夫婦を誘った。この時の、車中でのれんだいこのお諭しである。行きはよもやま話しをして、帰りの道中で、れんだいこ式説法に入った。

 世に宗教は五万とある。その中でも、天理教教祖・中山みき教理は格段に秀でている。れんだいこがそう評価する理由は、中山みき教祖が、「元の理」と云う人類創世記譚で、人の生きる目的、意味を説き明かしたことにある。考えて見れば、宗教家たる者、哲学者たる者、思想家たる者は、第一等的にこの難題の解明に向かうべきではなかろうか。実際には、この超難題に挑んだ者を聞かない。仏陀釈尊の空の論理があるが、「人の生きる目的、意味、意義」についての直接説法ではない。イエスキリストの愛の哲学、然りである。その他その他の有益な教学が世に出ているが、「人の生きる目的、意味、意義」について直接諭した説法を知らない。独り中山みきが説き明らかにしたことになる。れんだいこは、そのできばえが素晴しいと高く評価しており、みき教理の白眉中の白眉性がここにあると思っている。これを説いて聞かせよう。

 もっとも、そのみき教理も、人が何の為に生きるのかについては語っていない。語るのは、人はどのように生きるべきなのかについてである。これを考えるのに、「何の為に生きるのか」については百人百様のものがあるべきで、一筋一様の生き方にすべきではないとの弁えによるものと思われる。よって、「何の為に生きるのか」については人さまざまで良いとしているように思える。そうなると問題は「人はどのように生きるべきなのか」と云うことになる。これについては方程式のようなものがあり、主として心得違いを諭す形で説いて聞かせている。この分別が素晴しいと思う。

 で、その奥義を先に述べると味気ないので一緒に考えてみよう。人はどのように生きるべきなのか、生きる上で何が大事なのか、大事にすべきなのか。車中でこう問うた。れんだいこの連れ合い、N氏夫婦からそれぞれ意見を頂戴した。解答が出るたびに、「それはどうかな」、「なかなか良い線だな」とかコメントして、もっと相応しい言葉がある筈だとして更なる推敲をお願いした。これを運転中にやるので、聞きながら聞き流す方法でやり取りした。この時の会話が面白かったらしく盛り上がった。いろんな意見が出た。

 そうこうしているうちにN氏夫婦の家が近づいたので、そろそろ結論に入った。「元の理」によれば、「人及び人類の生きる目的、意味、意義」はどのように説かれているのだろうか、これを確認する。まず、元々のこの世には泥海ばかりであった。その状態の中、月日親神はこれを「味気なし」と思し召され、「一つ人間というものを拵えて、そのものが陽気遊山し喜ぶ様を見て自分も楽しみたい」と思し召された。これが人及び人類及びの世界の創造へ向けての発案である。このことが「お筆先14の25」に次のように記されている。「月日には 人間始めかけたのは 陽気遊山が 見たい故から」。これをもう少し補強すると、「お筆先7の108、109、110、111」で次のように説き明かされている。「月日には どのようなことも一列に 皆なに教えて 陽気づくめに」、「世界中 皆な一列は 澄み切りて 陽気づくめに 暮らすことなら」、「月日にも 確か心が 勇むなら 人間なるも 皆な同じ事」、「この世の 世界の心 勇むなら 月日人間 同じことやで」。

 これによれば、人及び人類は、創造主の月日親神が泥海ばかりの中で「味気なし」と思し召され、人間を拵えて、その人間が陽気づくめに暮らす様を見て「共に楽しみたい」と意図して人及び人類及び世界を創造したことになる。これを逆から申せば、人たるものは、誕生のその刹那においてそもそも陽気暮らしするよう遺伝子にインプットされていると云うことになる。であるならば、人は、親神のこの思いに叶う生き方をするのが素直で理に適っていると云うことになる。この諭しがどれほど重要なことなのかは、人がどのように生きるべきなのかについて正確な指針を示していることにある。このことは案外と大事なことである。現代は、こういう肝心な問いがないままに人が情報洪水下で押し流されている。その結果、内向的な人は無気力に、外交的な人は他者に暴力的に関わろうとしているように見える。

 教祖教理によれば、人はそもそもにおいて、創造主たる親神の創造思惑に叶うよう生きることが条件づけられており、これを本能としていることが指針されていると云うことになる。親神の思惑が正しいかどうかの詮議は別のものであり、その詮議に拘る必要はない。人の遺伝子の中にインプットされているものを知り、それに従うのが一番自然で和めるとしたものだろう。そこから導かれているものが「陽気」である。「陽気遊山」、「陽気づくめ」、「陽気暮らし」と語られている。その日々の作法として「陽気づとめ」なる教えと神楽踊りが用意されている。

 この教説が如何に素晴しいものであるのか。これを確認してみたい。これを分かり易く例えて見ると、神様が宇宙のどこかで寛(くつろ)いで茶の間でテレビを見ている姿を想像してみよう。神様は、「人間劇場」と云うチャンネルに合わせて視聴している。このチャンネルでは世界各地の人間の生活模様が写しだされている。親神は、テレビに映る人間の様子を眺めている。人間が「陽気づくめ暮らし」のサマを見せれば、創造の意図通りであるとして共に楽しむ。逆に、人間が「陰気づくめ暮らし」のサマを見せれば共に悲しむ。人と神とはそういう心情一体関係にある。前者を神人和楽と云い、後者を神人陰鬱と云う。

 最近、うつ病の人が増えている。これは神の創造目的に反しており神には耐え難い事態である。かく理解すれば、人及び人類は早急に陰気暮らしから転換せねばならない。これが人としての生き方の務めである。と云うことになる。そうとならば、人をして陽気にせしめるものと陰鬱にせしめるものとを要因分析し、それぞれ相応しく対処せねばならないと云うことになる。では、人をして陽気にせしめるものは何か。人をして陰鬱にせしめるものは何か。結論的に述べれば、人は他の人を幸せにさせるべく助け合いに向かう時、その人も相手も幸せになる。しかして陽気になる。逆は逆である。考えて見れば、人の身体の造りそのものが助け合いである。身の内の助け合いの如く、世の中助け合いに向かえば、自ずと人も世の中も勇み、勇みが陽気を生むようになっている。逆は逆である。

 ここで気づくことがある。最近うつ病の人が増えている。N氏以外にも喰うに困らない人の間にも増えつつある。うつ病は典型的な「時代の映し鏡」であり、陰鬱な人が拵えられるような社会環境になりつつあり、これに応じて量産されつつあるのではなかろうか。これは既に社会問題ではなかろうか。それが文明病ならまだしも、意図的故意な社会政策で「世の陰鬱化」が進められているのではなかろうか。一体、親神の創造目的に反するこのような政策を誰がはびこらせようとしているのだろうか。決して偶然ではない気がする。こう問う必要もあるが本稿では問わない。結論として、こういう時代だからそういう世の風潮に流されず、今こそ世界に滅多とない良薬である教祖の御教えに耳を傾け、素直になり、生き方を改造すべきである。目標は北斗七星の如く指示されている。陽気暮らし人生、その涵養手法である助け合いお役立ち人生に向かって邁進せよと。

 文章にすると、どうしても写実的に書けない。そういう限界があるが、ここに記したような話しをしながら日帰り温泉の旅となった。連れ合いもN氏夫婦も初めて聞かされた良い話し、楽しい一日だったと云ってくれたがお世辞ではなかっただろうと思う。

 2013.4.5日 れんだいこ拝

【陽気本元の理】
 「勇む安んず喜ぶ楽しむ、この四つ一つが、陽気心。陽気とは心臓安んず、肺は喜ぶ、胆は勇む、肝は楽しむ、この四つに腎臓を入れて五臓と云う。腎臓は夫婦交合の時情を発する源なり。情を催す時の心を志(し)と云う。行うて仕となる。仕はしにて仕ると云う。仕は四合わせなり。首より上にては目耳鼻口。首より下にては手足臍一の道具四つ合う也、志は嬉しと云う心なり。天地親様の陽気に合わぬと云うは人間の欲が深い故。足る事を不知、足能の理が治まらぬ故なり。皆な埃りにて心身を害する。神は早く陽気になりてこいと仰有るは、陽気は神の心、誠を云う。足納は是十分と云う理也と仰せられる。不自由を十分と足納は心の道通り何も十分になる」。

麒麟鳳凰の理
 「この世に話しだけで誰も見たることなし麒麟鳳凰と云うものあり。きりんは大龍王の変化なり。ほうおうは大蛇神の変化なり。天皇の尊体を御龍体尊顔と云い御載り物を御龍輦と云う。又御鳳凰輦と云うは皇后の御召し物の名也。皇后御出入りの御門を日の御門と云う也。麒麟とは尊き鱗と云う理、天皇の御怒りを逆鱗ましますと云う鱗逆立つ理なり。天啓によって諭されたるに、月様元々御姿である。日様元々御姿は大蛇神と諭されたり。大龍王とは大理王の意味を含む。大とは一人と書く、一人と申す理。理とは王に里と書く。この天地間は里である。里は国土なり。里を治むるは王である。王は国に一人である。一人を以って天地を治めるのである。王とは天地人の三つのこと。この天地人の三つを一本の真柱楫を以って固める、治むる故、王なり。一つの頭を頂いて主なり。天子、天皇、明御神と申す国土の始め神也。故に天地と共に窮まりなき天津日嗣を一筋に受け継がせ給うのである故に尊顔を御龍顔御龍体と申し上ぐるは月日を象りて申すなり。

 皇統連綿として天津日嗣を継がせ給うは即ち神の力也。故に皇上は臣民いわゆる俗人と異なりて君臣の分を天より定め給い、日本は神国として乱れず、万世一系にして国土安寧に治まるべき国体也。宝祚は天壌無窮にして、君主が神の名代として上に立たせ給わざれば人間社会は太平に治まらざるなり。故に君に不忠は即ち神に不忠也。従って親に不幸は神に不幸なり。

 我が国は神世の古より神の定め給う君臣の分定まりて、天理によりて歴代一系の神統は天の自由用を以って立たせ給い統治し給うべき神の御国なれば、外国の皇室及び国体とは全くその徳が異なるもの也。日本は、神の御心にのっとり忠孝を重んじて人道の根義とする世々にその義を守り来たれる君主国にして世界に二つなき国体にして万国に誇るべき神国即ち世界の根元の国と云う事なり。将来、日本が世界の主宰として統一すべき国である事は天啓によって明らか也。わが国体は昔より神国と云うは元々人間世界創めの元の国、根の国にて神因縁の深き魂が日本に住む故。

 神の系と云うて例えば神の毛色が外国の人とは異なるが如く精神も異なり日本魂と云う気風が神の気を有する国。神を敬い上を立てる互いに立ち合い人を大切にする上下相互いに仁義礼智信等の誠即ち神の御心を定規として代々其の美徳を保ち世界に比類なき国体也。

 元来我が国は神道と云うて古来の御方又その時代に於けるいわゆる英雄賢人を神と祭り来たれるが勿論、その御方々の御在世中に働かれたる功績誠が即ち神であるから、その御方は神に相違ないのである。よってその神社仏閣に月日入り込み霊験あり御守護下されたるものなり。

 一例を申せば楠公は一身を捧げて誠忠を君に尽くされたる御方、その大なる至誠が神である、故にこれを後世の鏡として神と祭る即ち臣民の手本雛形也。これの誠忠を我々が守れば守護は生き通しの月日が守護下されて神徳を授け給うものなり。皆なかくの如く人体と現われたる御方の働かれたる真実誠より貴きものなし又後世に神に祭り尊う御方の神魂は即ち此の世に代々現われて神徳を保ち栄えて居らるゝ証拠なり。故に日本は数多の神を代々その神魂が出て居る神国なり。

 その神国の中に生まれながら誠なき人を害し国家を害する如き人間は魂が神魂でない証拠或いは牛馬の魂より人間に上って居る魂も多くある。九億九万とあるは九十九万九千九百九十九人これだけの魂は元いざなみ様の直接腹より出た故、神因縁深し故に、この度は前世の因縁寄せて守護する、これ末代しかと治まると仰せ下さるは魂を分けて下さる事なり。しかして魂とは即ち心故心次第にて神は分けらるゝものゆえ、心は人間の自由なり。心次第にてなき因縁も付いて来る、有る因縁もなくなる。如何な因縁も末代の因縁が付く故に聞き分け出来ぬものは牛馬界に落とさるゝ事なり。皆な心通り心の道が因縁となるゆえ神は教えを敷きて霊救の恩寵を垂れ給い雛形を作りて心を磨かせ給う。神様には誰に隔てはない憎い子供は一人もないが、神因縁あって用木に使おうと思うても間に合わぬ者は使えぬ心違えは仕方がない」。


【陽気本元の理】
 「昔より色々の法とか術とか易学、人相、骨相、或いは九星学、世が進歩するに従いて物理化学が進み、或いは哲学、心理学、或いは千里眼とか催眠術とか種々の研究が進んで来て居る今日であるが。神言に術やとか法がえらいと思うなよ。心の誠これが真実法やとて誰がするとは思うなよ、この世創めた神の成す事、人間はあざないものであるからに珍し事を法なぞという、これまでもこの世初めてない事を大抵月日が教え来たれど、この度はまだその上に知らぬ事、何も真実皆な云うて聞かす、と仰せ下さる通りで、皆な神の誠より時代/\に教えられ、成人に応じての仕込みである。皆な天理が根である。これ等全てのもの学問一切枝葉である。末を知って本を知らざるは社会状態今日なり。故にこの根本宇宙の真理を明らかにして真に人心を救済し、社会の平和幸福を進め、いわゆる安心立命を得るには天理の神教によらさればならん。御教祖は身の内借り物の理が分かれば何かの事も鮮やかと仰せられた。世界中に分らん暗い事はなくなるのである。例えば如何に易学人相学等が達者であっても我れが心を作る道我れが天徳を得て助かる事が出来ざれば、一時的助けの道也。永久に一般人心を向上し救済し真に神徳を得る事が必要なり」。





(私論.私見)