かくて、教祖は、日々にお話あり、それを取次たる者をして、筆に誌せしめられたのであり、皆、取次にお聞かせ下さるのであります。又、“おふでさき”の終わった頃から増える刻限話や、錦の仕事場たる本席の刻限話等も、こふき≠ノ関係あるものと考えられ、こふき&法にて、取次をお仕込み下されていることと、察せられるのであります。又、観点を替えて、こふき≠ニ称せられる写本の現れ初める頃は、丁度、“おふでさき”の停った頃であります。忘れるから筆に誌しておいたとお教え下され、親しくお筆をおとり下された“おふでさき”は、教祖の八十四、五才たる明治十四、五年頃に停り、その頃から、刻限話≠ェ増してくること、並びに、聴聞の信者層にも、筆の執れる人が増してきたこと、等から推量して、こふき≠ヘ“おふでさき”に次いでなされた教話伝達≠フ方法と考えられるのであります。
従来こふき≠ノ対しては、古記≠フ文字を多く用いられて来ました。しかし、この文字は、当初から使われていたのではなく、寧ろ、後年になってから、使われ出したと思われる節が多く、必ずしも、こふき≠フお言葉は、古記≠ニ当てるとは、限らないと思うのであります。此世始まりのお話≠ェこふき§bの初めにある所から、その頃の信者中の有識者が、古事記%凾フ連想より、古記≠ニの文字を当て、その文字によって、こふき§bが代表称名とされて参ったように思われるのでして、十八年本の小松本に使われていた当字(あてじ)に、明治二十年以後ノ古記ヲ貫書(ぬきがき)ス≠ニありましたように、明かに、古記は古い記≠ニいうよりも、こふき≠フ音を写したものであり、写音の当字にすぎないと、考えられるのであります。
以上のような諸要件から、私は、所謂泥海古記≠ヘ、此世始まりのお話≠指すという、従来からの常識なり、今日迄の私自身の解釈に、あきたらぬものを感じたのであります。これは、古記≠フ文字にとらわれ、その字義にとらわれてこふき≠フ語義となした憾(うら)みを感じたのであります。こふき≠フ音を古記≠フ文字に写したという事よりも古記≠フ文字にとらわれて、こふき≠フ意味を極限したと考えるに至ったのであります。そして、古記≠ヘこふき≠フ写音であり、文字には大した意味を考えぬ方が本来の意味を生かすものであり、先にのべたこふき≠フ内容なり、対象を取次の仕込み≠ノおいて考えるとき、寧ろ、こふき≠ヘ口で述べられたお話を記(しる)≠ウれた書き物を意味し、“おふでさき”に対してのこふき=A即ち、教祖の親しく筆を執られた書物に対して、教祖が口で述べられ、取次を仕込む上から、筆執り学人(ふでとりがくにん)として、一は取次に筆を執らしめ、一は取次の話の台本とされたものと考えられるのであります。即ち、親しく誌された“おふでさき”に対して、口授して書き取らしめられた記(き)≠こふき≠ニ呼ばれたものであり、強いて字を当てれば、口記≠フ方が寧ろ、本来の意味を写す文字ではないかと考えるのであります。
以上、半年にわたりましたこふき≠ノついての叙述は、この字義を探ろうと考えたからなのであります。そして、口記≠ノ及び、教理説述の方法として、口に、筆に、或は行いに≠ニ述べてあります教典の説明に、更に加えて、口授されて書き取らされた∞こふき≠フ一方法が考えられ、かく考えますと、“おさしづ”も亦(また)、こふき≠フ一つであると考えられるに至ったのであります。(後略)
昭和三十二年七月発行「こふき≠フ研究 成人譜 その三」(中山正善)153〜159ページより
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