実践論その6 一名一人の理、一手一つ論、仕切り論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「一名一人の理、一手一つ論、仕切り論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


一名一人の理
 教理では、「一名一人の理」を説いている。信仰というものは銘々の「一名一人の信仰」であることを踏まえている。

 お筆先は次の通り。
 親子でも 夫婦の仲も 兄弟も
 皆なそれぞれに 心違うで
五号8

 お指図教理は次の通りである。

「人間といふは神の子供といふ。親子兄弟同じ中といへども、皆一名一人の心の理をもって生まれてゐる。なんぼどうしやう、かうしやうと云へども、いふた処が心の理がある」。(明治23.8.9日)

一手一つ論
 教理では、道人が心を一つに天の理に合わせていくことが最も肝心であるということを強調されている。お道では、心や性格、立場や経験など、何もかも違う人間同士が、親神様の教えに添って心を一つに結び合い、それぞれの立場で精一杯つとめることを理想としている。
 お指図教理は次の通りである。
 「皆な一手一つの理に運び、思わく通りよかったなあ。所々でも勇み、先々も勇み、真実も定めてするなら、皆な、この通り」(明治24.3.10日)。
 「一手一つに皆結んでくれるなら、どんな守護もする」(明治31.1.19日)。
 「一手一つという、これが第一理である。心の理と道の理と、しっかり合わせてくれにゃならん」(明治35.7.20日)。
 「皆な一手一つの心なら、一手の守護するわい。成らんところ助けてやるは神、親であるわい。これ聞き分け」(明治38.5.16日)。

一手一つの悟り方論
 「一手一つ・芯について(前真柱さんのお話より)
 (前略)一手一つは同じことをすることではありません。むしろ、同じ目的に向かって、心と態度とを芯に合わせて、それぞれが与えられた立場のつとめを真面目に働くことから現れる親神様の御守護だと思うのです。これは「元初まりの話」の中に教えて頂いていると思うのであります。芯に心を寄せて、目的を果すべく働くのでありますから、足らんところが若しあれば、生ずれば、お互いに補い合って、不十分を十分とならせて頂く努力をしなけりゃなりません。芯に心と態度を揃えるということは、親神様、教祖の思召に沿わせることでありますから、要するに、その芯をくれぐれも間違わんようにすることが第一、大切であると考えて頂きたい。例えば、教会にあっては教会長を芯と、ある場合には考えることもありますが、その場合でも、関係者からは芯として、心を寄せて頂いても、寄せて頂く教会長そのものが、親神様、教祖の芯と同じように並ぶ芯になっちゃいかんと。分かりますでしょうか。私はそう思うのであります。芯として合わせてもらえるような努力を払わなかったならば、芯としての値打ちがないんです。いつも言うことでありますが、合わせてくれる人を捜し求め、合わせてくれる人を導くことを意識するよりも、自らが親神様、教祖を芯とする教会長である。教会を預かる教会長であるという意識を先に立てて、自らが今度は教会長であれば教会の芯として、メンバーから信頼され、心を寄せてもらえるような芯になることに心を置くことが先決問題だと申したいのであります。これは毎度/\繰り返している話なんです。治めようと知恵や力で考えるよりも、御守護によって治めて頂けるようになりたいものだと、つくづく思うのであります。もし御守護を頂けないならば、努力が足りないということよりほかに、私たちの考えようはありません。皆さん、今は昔と違って、上(かみ)を気にすることはありません。その昔、年祭の始めの頃はそういう様なことが意識されていたように皆さん方もご承知であろうと思いますが、今はそういう意味では何もお上を気にする必要はない。教理も何一つ隠さなくてもいい。堂々と話せる。それだけに気をつけなければならないと思いますことは、私は、それを話す時に、曲げないこと、真っすぐであること。自分という私の色をつけないこと。自分の悟りを話すことはいいでしょう。俺はこう悟るということはいいでしょう。しかしながら、自分流を誰にでも押しつけるということは考えなければなりません。こういう事を心に配って日々通ろうと思えば、先ず、自分自身が教理を間違いなく心に治める努力をさせて頂くということを先決として、日々を通らせてもらうことだと思うんです。教典にもありますが、親神様、教祖、ぢばはその理は一つである。その通りであって、それに並列して自分をその中に加えないように、私は注意をしなければならないと思うのであります。〜(後略)
 (立教百五十六年四月二十七日(平成五年)於・第三十八母屋九階大広間「かなめ会報・総会特別号」より)

仕切り論
 一つの区切りをもって約束を結び、何でもどうでもの精神で進むこと。






(私論.私見)