(前略)一手一つは同じことをすることではありません。むしろ、同じ目的に向かって、心と態度とを芯に合わせて、それぞれが与えられた立場のつとめを真面目に働くことから現れる親神様の御守護だと思うのです。これは「元初まりの話」の中に教えて頂いていると思うのであります。芯に心を寄せて、目的を果すべく働くのでありますから、足らんところが若しあれば、生ずれば、お互いに補い合って、不十分を十分とならせて頂く努力をしなけりゃなりません。芯に心と態度を揃えるということは、親神様、教祖の思召に沿わせることでありますから、要するに、その芯をくれぐれも間違わんようにすることが第一、大切であると考えて頂きたい。例えば、教会にあっては教会長を芯と、ある場合には考えることもありますが、その場合でも、関係者からは芯として、心を寄せて頂いても、寄せて頂く教会長そのものが、親神様、教祖の芯と同じように並ぶ芯になっちゃいかんと。分かりますでしょうか。私はそう思うのであります。芯として合わせてもらえるような努力を払わなかったならば、芯としての値打ちがないんです。いつも言うことでありますが、合わせてくれる人を捜し求め、合わせてくれる人を導くことを意識するよりも、自らが親神様、教祖を芯とする教会長である。教会を預かる教会長であるという意識を先に立てて、自らが今度は教会長であれば教会の芯として、メンバーから信頼され、心を寄せてもらえるような芯になることに心を置くことが先決問題だと申したいのであります。これは毎度/\繰り返している話なんです。治めようと知恵や力で考えるよりも、御守護によって治めて頂けるようになりたいものだと、つくづく思うのであります。もし御守護を頂けないならば、努力が足りないということよりほかに、私たちの考えようはありません。皆さん、今は昔と違って、上(かみ)を気にすることはありません。その昔、年祭の始めの頃はそういう様なことが意識されていたように皆さん方もご承知であろうと思いますが、今はそういう意味では何もお上を気にする必要はない。教理も何一つ隠さなくてもいい。堂々と話せる。それだけに気をつけなければならないと思いますことは、私は、それを話す時に、曲げないこと、真っすぐであること。自分という私の色をつけないこと。自分の悟りを話すことはいいでしょう。俺はこう悟るということはいいでしょう。しかしながら、自分流を誰にでも押しつけるということは考えなければなりません。こういう事を心に配って日々通ろうと思えば、先ず、自分自身が教理を間違いなく心に治める努力をさせて頂くということを先決として、日々を通らせてもらうことだと思うんです。教典にもありますが、親神様、教祖、ぢばはその理は一つである。その通りであって、それに並列して自分をその中に加えないように、私は注意をしなければならないと思うのであります。〜(後略)
(立教百五十六年四月二十七日(平成五年)於・第三十八母屋九階大広間「かなめ会報・総会特別号」より)
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