原理論その5 世界一列皆な神の子、人類は一列兄弟姉妹観

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、お道教理としての「世界一列皆な神の子、人類は一列兄弟姉妹観」教理を確認しておく。

 2003.8.29日 れんだいこ拝



【世界一列皆な神の子、人類は一列兄弟姉妹観】

 みきは、人間は一列平等に親神の深い愛情を込めて創造された存在であるという観点に立たれて、これをまずは家族に承知させようとしていた。 

 お筆先では次のようにお記しされている。

 この世を はじめた神の ことならば
 世界一列 皆な我が子也 
四号62
 一列の 子供可愛い それゆえに
 いろいろ心 尽しきるなり
四号63
 このことも 何も教えて 早々と
 神の心の せきこみを見よ
四号64
 段々と 子供の出世 待ちかねる
 神の思惑 こればかりなり
四号65
 世界中(じゅう) 神のたあにハ 皆な我が子
 一列は皆な 親と思えよ
四号79
 月日にハ 皆な一列ハ 我が子なり
 可愛い一杯 思うていれども
八号60
 世界中 一列は皆な 兄弟や
 他人と云うは さらにないぞや
十二号43
 しかと聞け 高山にても 谷底も
 見れば月日の 子供ばかりや
十三号26
 それ知らず 月日云うこと 皆な消して
 後は人間 心はびかる
十三号34
 世界中 一列は皆な 兄弟や
 他人というは 更にないぞや
十三号43
 この元を 知りたる者は ないのでな
 それが月日の 残念ばかりや
十三号44
 高山に 暮らしているも 谷底に
 暮らしているも 同じ魂
十三号45
 この世界 高山にても 谷底も
 親のたにわ 子供ばかりや
十四号53
 このたびは 何でもかでも 真実の
 親の心を 知らしたいから
十四号54
 これさいか 確かに承知 したならば
 いつまでいても 陽気づくめや
十四号55
 月日にハ 世界ぢううハ 皆な我が子 
 可愛いいゝばい 思うていれども
十七号68

 教祖のお諭しは次の通り。
 「(神の目には)世界一列皆な我が子、世界中一列は皆な兄弟。天皇も人間、我々百姓も同じ魂」。
 「世界一列の人間は皆な神の子や。何事も我が子のこと思うてみよ。ただせ可愛い一杯のこと。親は、何にも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びなるのやないねで。子供の楽しむのを見てこそ神は喜ぶのや」。
 「親神にとっては世界中は皆な我が子。世界中一列は皆な兄弟姉妹(きょうだい)や。他人というは更にない。一列を一人も余さず助けたいのや」。

 お指図は次の通り。
 「天然自然銘々に誠さい定め、実(じっ)さい定め。身の處(ところ)心なくしてならんなれども、銘々兄弟姉妹。これはこうじゃ、神の指図、神を恨(うら)むことは少しもない」(明治20.3月)。
 「この道は皆なきょうだい(兄弟姉妹)やという理を聞かして置こ。なれど、隔てられるも隔てるも、皆な銘々の心通り。きょうだいという理を聞き分け」(明治21.6.15)。
 「大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そう成る。親が怒って子供はどうして育つ。皆な、親(月日親神/教祖)の代(かわ)りをするのや。満足さして連れて通るが親の役や」(明治21.7.7日)。
 「この世に親という理は銘々の二人より外(ほか)にもう一人(いちにん)あろうまいがな。皆々々聞いておけ」(明治21.8.9日)。
 「さあさぁ小人(こども)/\は 十五才までは 親の心通りの守護と聞かし、十五才以上は皆な銘々の心通りや。さあさぁよく聞き分け」(明治21.8.30日)。
 「さあさぁ神さんと思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあさぁ銘々心から痛むのやで。銘々の親の心に背けば幽冥(ゆうめい) 」(明治21.9.18日)。
 「これまでにも諭したる處(ところ)、子の夜泣きは、親の心からという事は分かりあろう。さあさぁ銘々内々には、尋ねるまでやあろうまい。小人の處、何遍(なんべん)知らせども同じ事、どうせいこうせいは言わん。世界から日々出て来る事情を眺め。不自由するのも、これその理はあろうまい。この理を早く聞き取れ」(明治21.12.31日)。
 「他人が他人やない。身が身やない。これ一つ聞き分けたら、何かの事情も皆な分かる」(明治27.1.22日)
 「神が表へ出て珍しい助けをする。皆な他人と言う。他人を寄せて兄弟一つの理。神が日々使うて居る。神が支配をして居るやこそ治まってある」(明治27.3.5日)
 「反対するのも可愛我が子、念ずる者は尚のこと」(明治29.4.21日)
 「同じ兄弟の中に、合うの合わんのと言うようでは、道を捨ててほかして了(しも)うたも同じことやで」(明治32.5.14日)
 「同じ五本指の如く、兄弟の中なら、どの指噛んでも身に応えるやろ。あちら起こして こちらを倒そうという理あろまい」(明治32.12.27日)
 「ある時ご本席様が、辻忠作氏に、『神様が今年は米が高くなる。けれども、神が不自由なしに連れて通ると仰る』とお話になった。辻さんは家へ帰るなり米を買い込まれた。すると左の肘(ひじ)に大きな腫れ物(はれもの)が出来た。痛んで仕方がないので、教祖のところへ伺われると、『人間は皆きょうだいや。人に肘喰らわすような事してはならんで』と仰せになった。けれども辻さんは、何のことだか分からなかった。それで重ねて伺うと、『伊蔵さんから聞いたことがあるやろ』 と仰せられて、それで米のことであることが分かった。するとすぐ、『みな売って、人々に恵んでやれ。その心になれ』と仰せられた。辻さんも、『これは悪かった』と懺悔(さんげ)せられると、腫れ物は、すぐに吹き切った。そのとき教祖は、『少しでも心が異なったら「しるし(印)」が付くで』と仰せられた。辻さんは帰って、米をお売りになった。それで儲かったので、その利益(りえき)だけ、人に施された。それでも後まで、肘に傷が残ったとのことである」(みちのとも 大正13年7月5日号 巻頭  神言と辻氏)。

(私論.私見) みき教理の「人間観」考

 近代民主主義の人間観は人格の独立を基本としている。人格の独立は、歴史的には信仰的規制からの分離と政治権力による規制、弾圧に対する抵抗運動の流れで獲得されてきた。教祖みきの教義は、「(神の目には)世界一列皆な我が子、世界中一列は皆な兄弟」、「天皇も人間、我々百姓も同じ魂」という観点を打ち樹てたことにより、各自の人格の独立を認め、親神の思し召しに叶うよう処世するのを促したが、そこには規制的強制的なものはない。してみれば、近代民主主義の権利義務的人間観とも異質なのだが、結果的に近代民主主義の自律的人間観に非常に近いところに位置しているということになる。但し、無条件的に自律しているのかと云うと、そうでもないように思われる。いわゆる政治的世間的柵(しがらみ)に対しては自律的であるが、親神の思惑に対しては「一途な聞き分け」を要請しているように思う。ここら辺りが「みき教理の真骨頂」であろう。

 2016.6.27日 れんだいこ拝






(私論.私見)