その7 陽気遊山、陽気暮らし人生観

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理としての「陽気暮らし人生観」教理を確認しておく。

 2003.8.29日 れんだいこ拝


【陽気遊山、陽気づくめ論】
 お道教義では、親神の創造の時の御心に叶う人間の行き方の状態を「陽気遊山」と表現している。「陽気づくめ」とも云われる。「陽気暮らし」という言葉は教祖の教えの中にはないが、意訳すればそういう暮らし振りを親神が望んでいると考えられ、お道用語として定着している。「陽気遊山」は、陽気思想と助け合い思想を両建てした思想と拝することができる。

 仏教一般的な八苦道の教え、阿含宗の苦集滅道という四聖諦(苦しみの元が欲であり、欲をなくせば苦しみのない境地になれると説く)の「苦道の教え」と対極のそれであることが興味深い。西欧的「神との絶対的契約の教え」とも異なる。

 教祖は、「陽気遊山」への変革プロセスを次のように示されている。
誕生  「元の理」で調和の中から発生した生命体の本性を知り、人の喜びを楽しむように心を立て替える。
成人  「元の理」で「助けりゃ極楽、争そや地獄」の「天然自然の理」を知り、生活人となる。「朝起き、正直、働き」が肝要と教えられる。
陽気づくめ  「元の理」に相応しい世の中づくりの働き手になり、「世の立替、世直し」に向かう。

 ちなみに、「遊山」(ゆさん)の「遊び」には次のような性質がある。一つは、自発性。二に、無償性。三に楽しさ。四に共同性。五に簡素なルール。「遊山」とは仏教用語で、「禅宗で、一点の曇りもない晴れ晴れとした心境になって、山水の美しい景色を楽しみ、悠々自適に過ごすこと。また、他山に修行遍歴の旅をすること」(小学館の日本国語大辞典参照)を云う。これらの要素の上に成り立つのが「陽気遊山」であり、この境地にある時人は生き生きとして健康的、と愚考できる(松本滋「人間の元なるもの」参照)。 

 
天理教事典の「陽気遊山」(ようきゆさん)は次のように解説している。
 「陽気ぐらしと殆ど同じ意味で使われることがある。遊山とは、山や野に遊びにゆくことをいうが、この場合、文字通りの意味ではなく山や野に遊ぶときに味わわれる、楽しく晴れやかな心の境涯を陽気遊山と仰せになつたのであり、それは陽気ぐらしの心境を表現されたものとさとられる。事実、おさしづのお言葉に『陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで』(さ23.6.20)と仰せられている。つまり親神の望まれている陽気は、物によって手にいられるものではなくて、心の在り方一つによって味わうことのできるものだからである」。
                 
 「陽気暮らし」の意義につき、天理教教典92頁は、次のように記している。
 「親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である」。
      
 
御神楽歌には次のように記されている。
 いつも助けが せくからに 
 早く陽気に なりて来い
四下り目五ツ
 村方早くに 助けたい
 なれど心が わからいで
四下り目六ツ
 何かよろずの 助け合い
 胸のうちより 思案せよ
四下り目七ツ
 いつまで信心 したとても
 陽気づくめで あるほどに
五下り目五ツ

 お筆先には次のように記されている。
 これからハ 神がをもてい あらわれて
 山いかゝりて そふちするぞや
三号53
 一列に 神が掃除を するならば
 心勇んで 陽気尽くめや
三号54
 なにもかも 神がひきうけ するからハ
 どんな事でも ぢうよぢさを
三号55
 日々に 心勇んで 急き込めよ
 早く本道 つけた事なら
四号76
 真実に この本道が ついたなら
 末ハ頼もし 陽気づくめや
四号77
 月日には どのよな事も一列に
 皆なに教えて 陽気づくめに
七号108
 世界中 皆な一列は 澄み切りて
 陽気づくめに 暮らす事なら
七号109
 月日にも 確か心が 勇むなら
 人間なるも 皆な同じ事
七号110
 この世ふの 世界の心 勇むなら
 月日人間 同じ事やで
七号111
 この道を 上ゑぬけたる 事ならば
 ぢうよぢざいの 働きをする
十号100
 月日より この働きを しかけたら
 いかなこふてき 来たると云うても
十号101
 心より 真実ハかり 澄みきりて
 とんな事でも 親にもたれる
十号102
 この先は 世界中はどこまでも
 陽気づくめに 皆なしてかかる
十号103
 だんだんと この道筋の よふたいハ
 皆なハが事と 思うて思案せ
十号104
 今までと 心しいかり いれかへて
 陽気づくめの 心なるよふ
十一号53
 どのように 難かしくよふ 見えたとて
 陽気つとめで 皆な助けるで
十二号61
 月日より 真実思う 高山の
 戦い災禍 治めたるなら
十三号50
 この模様 どうしたならば 治まろう
 陽気づとめに 出たる事なら
十三号51
 これからは 心しっかり 入れ替えて
 陽気づくめの 心になるよふ
十四号24
 月日には 人間始め かけたのは
 陽気遊山が 見たい故から
十四号25
 世界には この真実を 知らんから
 皆などこまでも いつむばかりで
十四号26
 月日より 陽気づくめと いうのをな
 これ止めたなら 残念えろなる
十四号27

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「人が勇めば神も勇む」の諭し。
 「教祖様は、『世の中で何が一番の楽であるかと云えば、人の助かるのを見て楽しむほど真の楽はない』と仰せられたと聞かせて頂いて居るのであります」。(「真の楽」、 昭和十一年、第6回教義講習会講義録「一手一つ」梶本宗太郎より)
 「ある時、教祖仰せには、『恩を忘れぬのも、陽気暮らしの一つやで』と教え下さったとお聞きしています。次のお言葉も聞かしてもらっています。『陽気とは、良き心にいることや』。『皆な神のお陰、皆な親のお陰と喜ぶのが天の理』。『陽気遊山』。人を助けさしてもらう。有難うございますと云われる。いや、私が助けたのでありません。神さまがお助けして下されたのです、と神さまの偉大さを皆さまに知ってもらうようにする。それが陽気遊山や」(「奥野道三郎氏の話その7、恩を忘れぬのも」)。
 「教祖仰せには、『そのときには昼は晴天で、そよそよ風、雨は夜に降って、月六斎。夫婦の中には男の子一人、女の子一人づつ授ける。後は願い通り。働きは昼まで働いて昼から先は陽気遊びや』、と」(「教祖仰せには」、〔註〕高井直吉先生のお話の中から。昭和六十年四月発行「教祖おおせには」高野友治著(天理時報社)18-31p)。

 お指図には次のような御言葉がある。
 「むずかしい道は親が皆な通りたで。親の理思えば、通るに陽気遊びの理を思え」。(明治21.10.12日)
 「神が連れて通る陽気と、面々勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ真の陽気という。銘々楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。銘々勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで」。(明治30.12.11日)

(私論.私見) みき教理の「人生観=陽気暮らし」考
 「月日には人間始めかけたのは、陽気遊山が見たい故から」(十四号25)との思いから人間始めかけ、「世界中皆一列は澄み切りて、陽気づくめに暮らすことなら」(七号109)を望まれている「元の理」からすれば、人の生活目標は、そういう親神の思いに沿う「陽気暮らし」こそ望まれている、という諭しが導きだされる。「この世を初(はじ)めた神の事ならば、世界一列皆我が子なり」(四号62)「世界中一列は皆兄弟や、他人というは更にないぞや」(十三43)とあることからすれば、人は「兄弟姉妹のように助け合い」で生きていかねばならない、という諭しにもなる。

 この教えの白眉なところは、他宗との比較でよりはっきりする。仏教は、娑婆苦からの解放(解脱)を求めての悟りの道を教えている。ユダヤ-キリスト教教義の場合にはエデンの園での原罪が教えられ、神と人との契約関係による戒律が用意されている。そしてそれらにはいずれも、教義に忠実ならんとするならば、個人的な受苦修行を強いる規制強制的なものが敷き詰められている。

 「元の理」による「協働的陽気暮らし」の教えは、これらの教えとは全く違う。「山の仙人、里の仙人」という口伝も為されており、「里での仙人」生活こそ真価が問われているとも諭されている。他に、このような明るく楽しい無理のない教えがあるだろうか。

 明治14年2月7-8日、辻、村田、山沢に対する教祖直々のお諭し「教祖口伝」。
 「日々通らしてもろうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で神様によろこんでもらう道を通るのやで。神様によろこんでもらう道は真実だけや。真実というても、自分だけが真実やと思うていても何にもならん。真実とは、ひくい、やさしい、すなおな心をいうのや。自分でひくいと思うているうちはひくくはないで。やさしいというても、すなおというても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれるまでの道を通るのやで。素直というてもなあ、人の心をひくような素直は何にもならん。神様によろこんでもらえるような素直というは、親の言うなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで。やさしいというても、口だけでは何にもならん。ハイと言うたらすぐ行ってこそやさしいのやで。そうして何でもつとめさしてもらう心をひくいと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、よろこんで下さらんのやで。神様のお話をよく聞かしてもらうのやで。神様のお話とは親の声や。親の声というていい加減に聞いていてはならん。しっかり心に治めなはれや」。
 「真実の心というても、昨日も話をしておったのや、まるごとでなきゃいかんで。まるごととは全部や。一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人ひとりがさせてもらうのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳を積ましてもらうという心はいかん。これは我が身のためやからなあ。何でも人のため、我が心は人のよろこぶよう、人のたすかるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考えんでもよいのや。これがまるごとの真実やで。人に腹を立てさせて下さるな。親の心に添うと言うても、形だけやったらいかん、心を添わして頂くのやで。どんなに離れていても、心は親に通じるものやで。心を添わしてもらいなはれや。親々の心に添わしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむような事はないで。だが、いんねんなら通らにゃならん道もあろう。しかし親の心に添って通らしてもろうているのなら、何にも身上や事情やというて案じる事はないで。心倒さんように通りなはれや」。
 「この世に病いというはさらにない。心のほこりだけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案出すやない。人間思案捨てるには親の声だけがたよりやで。親の声を何でも素直に聞かしてもらわにゃいかんで。かりものという理知らずして、日々通っていると身上にお知らせ頂いても、なかなか御守護頂けないで。親の心に添うこと出来んかったら、どんな事で苦しい道を通らにゃならんかも知れん。そんな道通っているなら、何も神様のお話はいらん。神様のお話は、かりものということをよく分からして頂くために聞かして頂くのや。親の心に添わして頂くために聞かしてもらう話やで。お話を聞かしてもらっておきながら、勝手な道を歩むようであったなら、御守護やりとうてもやれへんやないか。ここのところ、よう思案してくれ。神様のお話を聞かしてもろうているのやから、日々を喜び勇んで、かりものという理をしっかり心に治めて、親の声をしっかり聞かしてもらい、親の言う通りにさせてもろうたら、どんな御守護もお与え下さるで。いらんと言うてもきっと下さるのやから、御守護頂けんと言うていたら申し訳ないことやで。親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで」。

 第十章 陽気ぐらし」参照。
 人が、親神の守護を受けつつ、親神の思召しのまにまに、明るく勇んで生を楽しむ境涯に日々生きる。これが陽気暮らしであり、きりなし普請(ふしん)である。子供の成人を待ちかねられる親神は、人々の陽気暮らしする様を見て共に楽しみたいと願っている。人々は、この親心にもたれつつ、『世界中皆一列は隔てない親神の子としての兄弟姉妹』という理を心に治め、相互に扶け合いながら、教祖のひながたの道をたどることが期待されている。人々が、この人の環共和国造りに勤しむならば、やがては全人類の心も入れ替り、世は自ずと立て替ってくる。世界一列の心が澄みきる時、助け一条の思召しが成就して 親神の守護が余りなく垂れ、ここに、人の世は未だかつてない神人和楽の陽気づくめの真正の平和世界、生気溢れる楽土が全うされる御代を迎える。

 思えば、人類社会は、今日に至るまで徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路をさすらい、弱肉強食の阿修羅の世に棲んでいる。こういう時代は人類創造の際に親神が望まれた世界ではない。人類の歩みをあるべき姿のところに戻すなり創造せねばならない。その道しるべが教祖の教える助け一条の道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える道である。真の平和世界は親神の理によってこそ築かれる。親神の道が人々の胸に正しく治められることにより、人々が互い扶けのつとめ合いに向かうことにより、親神の待ち望まれる陽気づくめ世界が創造される。

 惟うに、親神が、教祖を月日の社(やしろ)として現れ出でられるや、人間の陽気暮らしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召しを告げ、 専ら助け一条の道を宣べて、助けづとめを教え、又、息、手踊りの授けによって、一列助けを急き込まれた。『元の理』を説き、この教えを始めた所以を諭し、ここに親神を天理王命と称えて祈念することを教えられた。教祖が身を以てこれを証し、ひながたを示された。正に教祖ひながたは 道の生命である。

 人は先ず、身上や事情に手引きを頂き、親神を知る。更に、 身上はこれ皆な親神の貸しものなることを聞かされ、親神の守護を悟り、ほこりを払い、心の普請につとめる。かくして進む成人の道すがらには雨の日も風の日もある。その中を日々たんのうの心を治め、ひのきしんに勇む。そこへ治められた誠真実は自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。道の子は用木(ようぼく)を志し、授けの理を頂いて、助け一条にいそしみ、天の理を取次ぎ、道の先達となる。ここに不思議な助けの実が次々とあらわれる。かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気暮らし世界を創造する。親神の望まれる真の平和世界であり、 これぞお道の目標である。道の子は、親神の懐に抱かれ、ひたすら世界人類の平和と幸福を祈念しつつ助けの道に弥進む。





(私論.私見)