その1-2 優しい丸い心、素直な阿呆になれ、三歳ごころの理、15歳まで子供の理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「優しい丸い心、素直な阿呆になれ、三歳ごころの理、15歳まで子供の理」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


優しい丸い心
 「No.97 教理随想(48) やさしき心」その他参照  

 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。
 むごい心を うちわすれ
 やさしきこゝろに なりてこい 
五下り目六ツ
一列の こどもハかわい ばかりなり
 とこに隔てわ さらになけれど
十五号69

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「逸話篇123」。
 「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」。

 教祖の逸話。
 「佐治登喜治良さんはお声を聞いたとたんに神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がして、身上も事情もないのに入信を決意したと言われています」(逸話篇146)。
 「御教祖は『いつも低い心になれ』、『優しい心になれ』と教えられたが、ご自身は信徒の前を通るにも必ず手を下げて、『御免なさい』と言って通られたという事である」
 (「低い心」、昭和四年二月五日号みちのとも「神の用木の光栄」種子田十郎より)。
 「明治16、7年頃のお話し。久保小三郎が子供の楢治郎の眼病を助けていただいて、お礼参りに妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のこと、教祖は赤衣を召してお居間に端座しておられた。取り次ぎに導かれて御前へ出た小三郎は、恐れ多さに頭も上げられないほど恐縮していた。しかし楢治郎は当時7,8歳のこととて気兼ねもなくあたりを見回していると教祖の傍らに置いてあったブドウが目に付いた。それでそのブドウをじっと見つめていると、教祖は静かにその一房をお手になされて次のように仰せられた。『よう帰ってきなはたなあ。これをあげましょう。世界は、この葡萄(ぶどう)のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先長く楽しんで通る道や程に』」。

 お指図に次のようなお言葉が為されている。
 「たんのう安心さすが優しき心と言う」(明治33.4.21)。
 「優しき者は日々満足。満足は小さいものでも、世上大き理に成る」(明治33.7.144)。
 「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み」(明治34.3.7)。
 「皆来る者には優しい言葉かけてくれ。…年取れたる又若き者も言葉第一、男という女という男女に限りない」(明治34.6.14)。
 「誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」、「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという、一つの理が治まるという、それ世界成程という」、「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという」(「おかきさげ」)

素直な阿呆になれ
 教祖は次のようにお諭し為されている。
正直は素直なる心。何事につけてもはい はいと言えば、素直な人やという。神様の仰ることを、疑い心あってははい はいという理ではない。疑いなくして、西を向けと言えばはいと言う。東を向けと言えばはいと言う。『「はい はいと言う心の理には(は)い上がるという理があるでと仰る。素直なる心の理が、身に徳のつく元。身が上がる理であるほどに。
〔諸井政一集 後篇  77頁〕より
 明治8年11月21日、辻ます、飯降さと、桝井さめ、村田かじ。(願いの筋なし)教祖の次のような御言葉があった。「人に呼ばれたらすぐにハイと返事をするのやで。あれやこれやとうけこたえするのやないで。すなおにハイと返事しなはれや。よばれた時ハイと返事をせんで、今外へ行くところやなんて返事したらいかんで。人間はなあ、みんなそんな返事をするのや。それでいゝと思うている。誠の中のほこりやで。神様に対しても同じことが言える。よう考えて見い、蛙の子はお玉やで。これはわかっているやろ。お玉は、自分は蛙の子やと仲々納得できないやろ。蛙とお玉は全然違うからなあ。お玉は何時までも鮒やどじょうと一緒に居たいと思うやろ。それと同じような事が人間にも言える。人間はなあ、人間として生きる道は考えて通るだろうが、神の子としての道が本当に通れるだろうか、ここの処をよう思案して見い。(行空き)暗いと思う前に、先ず灯りをつけることを考えにゃいかんで」。(「おやさまのおことば」/ 目次topへ

 「○教区取締の頃、喜多治郎吉先生から聞いた話し。『ここに火鉢があって、火が起ってる。その上で子供が喧嘩する。火で手をあぶってるのを横から押さえつけると熱い。しかし負けよまいとする。そうすると熱くてたまらぬ。しかし抵抗せずに、ハイと素直に下げたら押さえた手が滑って、押さえられた者は怪我せんが、抑えた者は怪我する』と言う話しを教祖様が仰った、と喜多先生に聞いた」。(火鉢の話」、「復元」第十八号「教祖様の思い出その他」梶本宗太郎より)。
 「教祖はいつも中山重吉さんに、『心はひろく、気は長く、つとめはかたく、身は上にもて』と仰せになったそうでございます」。(「心はひろく 」、平成五年十月発行(改訂新版)「教祖の御姿を偲ぶ」上村福太郎著(道友社新書)166ページより。中山もと様のお話し)。

 「<補足>(前略)私事で恐縮ですが、曽祖父に中山重吉という方がおられました。その重吉さんが教祖から頂かれたお言葉を、結婚式の次の日に父から教えて頂きました。我が家の家訓のようなものですが、それは、『心は広く、気は長く、勤めは固く、身は低くもて』というものでございます。~(後略)」。(平成十九年五月号(立教170年5月号)みちのだい「教祖に導かれて」中山幸子、37pより )
 「『神様、私どもはあほうでございまする』と申しましたならば、『さようかえ、お前さんはあほうかえ。神様には、あほうが望みと仰しゃるのやで。利口のものはつけん。人が小便かけたらならば、ああぬくい雨が降ってきたのやと思って喜んでいるのやで。人が頭を張れば、あああなたの手は痛いではございませんかと言って、その人の手をなでるのやで』と仰しゃる。『その通りに優しい心になるのやで』とお聞かせいただいております。『人がきつい言葉を言えば、我もきつい言葉にて、一言言われればその通り仕返しをするというのが利口やから、仕返しをするのやないほどに。あほうになって、その時には言われましても、あほうになって言い返しをせぬように。叩かれても叩き返しをせぬようにするのが、これが本真実の誠、真心である。それが利口であればなかなか、そのような心になっておりませんから、言われたならば言い返す、叩かれたら叩き返しをする。一つ叩かれたら二つも三つも叩く。一言言われたならば二言も三言も言い返しをするのが、利口の人の返しや。それをあほうになって、叩かれても叩き返しをせぬのが誠や。神様がお返しをして下さるのやという心になっているのやで』と神様のお言葉。『どうぞどうぞ神様、その人たちを救けてやって下さいませ』と、まだ神様へその人の事をばお願いしてあげまするのが、これが真実の誠であります」。(「あほうが望み」、昭和六十一年十二月発行・道友社新書26「先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん」97-99p)
 「御教祖様はなんぞの折、『悧巧やと言われたら、あかんのや。悧巧は神さんおきらいや。‥神さんは阿呆が一番お好きや』と、こういう事を仰せられたと聞かして頂いてます」。(「悧巧(りこう)と阿呆」、昭和五年九月二十日号みちのとも「はたらき」滑川廣之より)

【三歳ごころの理】
 「三歳ごころの理」について次のようなお言葉が遺されている。
 「心澄みきれ神同体」。
 「三才の小児といえば、気に入らねば無理を言う。心に適えばニコニコ笑う」。
 「同じ屋敷の内にも、欲気を離れた〈心が〉きれいな人もあれば、また、仏(ほとけ)のようになった人もある」。(増野道興「増野鼓雪選集第一巻」19-20頁、「神も仏もあるが」より)
   増野道興「増野鼓雪選集 第一巻」19-20頁「神も仏もあるが」 の「小さい神様 」。
 「神のような心の人、というのは、子供のような心の人、をいう。教祖は子供が来ると、『小さい神様が来た』、と仰ったことがある。子供というものは欲気(よくけ)のない、初心(うぶ)なもので、物を隠しても見えるように隠している。また、腹いっぱい物を貰えば、そのうえ欲しいとは言わない。ところが大人になると、腹いっぱい食ってもまだ、そのうえに懐(ふところ)に入れて持って帰るのである。子供のように欲気を離れておれば、神様と同じこと、である。お言葉にも、『心澄みきれ神同体』、と仰せられ、また、『三才の小児といえば、気に入らねば無理を言う。心に適えばニコニコ笑う』、とも仰せられた。三つ児(三才児)のような心になっておれば神様と同じことであるから、『同じ屋敷の内にも、欲気を離れた〈心が〉きれいな人もあれば、また、仏(ほとけ)のようになった人もある』、と仰せられたのである」。

 「当時聞いたところによると、教祖様はしきりにお勤めをおせきになる。しかるにお勤めをすれば警察がやかましかったので、お側の者がその由申上げると『神様がいわれるのに何が悪いのや』といわれるので「それは法と云うものがあるから、やかましいのです」と申上げると『判らんね、わしはいいことをしているのに何が悪いのだろう。神様がこうせいといわれているのに、どうしてそれが悪いのだろう』と至極簡単に考えられていたようです。然しその心は一点の罪けがれもない、三才の心よりもなお純な心で、誠神様の心であったのだと思っている」。(「教祖の三才心」、昭和二十一年一月号みちのとも「年祭と節・松村吉太郎先生と一問一答」より)。

  お指図は次の通り。
 「三才児(みつご)、生(うま)れ三才の心に成って、明日は楽しみ。…三才児 穏やかに暮らす。何よりそこで結構/\。こうして行かねばならん。まあまぁ三才児 三才心に成りて、三才の心に成って何も要らん、機嫌好(よ)う遊んで結構/\。心(こころ)心配ないよう改め替え」。(明治20.3月)
 「小人(しょうにん)という、小人一つの心になれば、小人三才の心というものは、何も心に掛けんものや。 三才までは 何にも分かり難ない。小人一つの心に思うて、すうきり(すっきり)心に思わんよう」(明治22.11.7日)。
 「小人というは、一才二才三才までは どういう事、人間心は さらにあろうまい」(明治22.11.9日)。
 「事情は 指図通り凭(もた)れつけ/\。万事(ばんじ)諭しおこう。よう聞き分けて、三才童児(どうじ)という心を以(もっ)て道治め」(明治30.12.25日)。
 「三才の理と言えば 心が浮かめば(原文まま)にま/\(ニマニマ)と笑う。気に合わねば無理を言う」(明治32.3.5日朝)。
 「さあさぁ皆々あれはどういう者、〈という〉人間心〈は〉持たず、内々人々家内一つの理、互い扶け合いという 親切合いという。こんな事した思わんよう、理のさんげ(懺悔)。三才小人なあと、優し/\心持って守護という」(明治32.10.18日)。
 「この道の中は こうなっても どうなっても、これ三才の子供という心に成ってくれにゃならん」(明治36.12.22日)。
 「生まれ児(うまれご)小児(しょうに)一つ心に成れ。生まれ児の心には 何も欲しいものは無い。生まれ三才、又ちょっと一つ心分かろうまい。さあ/\生まれ児は 持たせば持ち、持たさにゃ持たん。この理しっかり聞き分け」(明治40.1.20日)。

15歳まで子供の理
 「15歳まで子供の理」につき、次のように教理されている。
 「十五歳までの子供の悪しき病、不時災難は、両親の心の置き所が違うゆえ、心を直す意見なり。親は幹、根なり。子は枝なり。根さえ良くば、枝は益々栄え、花が咲き、実を結んで、楽しみなり。根悪しくば、枝が枯れること、これ天の理なり。自然のことなり。痛みや、悩みはその人の患いでも、家内に一人患えば、他人も心をくばり、心を労して患うなり。そして、その人に心を引かれて、家業も十分勤まらず、ゆえに家の患いとなる。これ、家内の人達の心に埃り積もり重なるゆえ、月日二神のご意見、立腹なるべし。

 親神様に助けを願うことならば、神の教えの道を守りて、家内の人々皆な互いに我が心を顧みて、十五歳より今までの心得違いを懺悔して、その後は、神の教えの道を守り、嘘と追従、欲に高慢なきようにして、必ず人を他人と思わず、皆な兄弟と思うて、互いに助けをする心と真実より入れ替えて願えば、その心を月日親神が受け取りて、よろず助けを下されることなり」。





(私論.私見)