助け論その1 つとめ論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.12.7日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「つとめ論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【つとめ論】

 お道教義では、「おつとめ」が重要な意味を持つ。教祖は、「つとめの理が神」とも宣べている。してみれば、「おつとめ」とは、「おつとめ」によってたすける心と行いを知ることで本当の信仰に目覚める手引きとも拝することができる。「つとめ」につき、仏教では、「お経を読み、念仏、お題目を唱える」ことを意味する。教祖の説く「おつとめ」は、「元の理つとめ」と「お願いつとめ」に分かれる。「元の理つとめ」とは、「元の理」を象(かたど)った「つとめ」のことであり、教祖が語った創世神話(元始まりの話)に貫かれている「理」を汲み取り、その元一日に立ち帰ることで生命の始原力を得ようとしているように思われる。

 教祖は、神が原始の海=泥海の只中から人間を創り上げた軌跡を克明に語った。ここでは、神が神人和楽を実現すべく、気の遠くなる時間の中で人間を創造していった様が描かれている。この話を通じて、教祖は、人間の根源的存在理由を解き明かした。そして、その誕生の地を「親里」と呼んだ。
 
 生命が生まれるための調和を十に分析して説明されている。人間の本性にはこの調和を保って喜ぶ性質がある。人の喜びを見て楽しむ性質がある。助け合わないといづんでしまう心と身体になっている。これが人間の本性であると教え、自覚を促した。この理を「おつとめ」によって象徴して教えた。「陽気勤め」とは、人間がその本性にあった働きをして、陽気づくめの心で難渋をたすけて皆の喜ぶ世界に世直しする生き甲斐を求めるつとめのことを云う。南無転輪王を思念し、人間更正の方途を明らかにしたのが「おつとめ」と拝察することができる。

 「おつとめ」には次のような社会思想的意味もある。即ち、これまでの世は弱肉強食の、倒し合い、支配する者とされる者とが差別的に関わり合う世界であるが、「おつとめ」が内在させている思想を学べば、ピラミッド型の支配秩序社会から「かんろだいを中心とした地球儀のような球体秩序を社会」への転換を望むようになり、それも無理にするのではなく自然に理解して納得した上での世直しに向うことになる。そういう「生き方の切り替え転換」まで鼓動させている。

 更に云えば、そういう「生き方の切り替え転換」し転輪王の心になって難渋をたすける人となった道人の日々の生命力の源泉として「つとめ」が意義づけされている。

 御神楽歌には次のように記されている。

 四ツ ようこそつとめに ついてきた
 これが助けの もとだてや
六下り目四つ
 五ツ いつもかぐらや 手踊りや
 末では珍し 助けする
六下り目五つ

 お筆先には次のように記されている。
 この先は 神楽づとめの 手をつけて
 皆な揃うて つとめ待つなり
一号10
 皆な揃うて 早くつとめを するならば
 そばが勇めば 神も勇むる
一号11
 立毛が 勇み出るよと 思うなら
 神楽つとめ 手踊りをせよ
一号14
 このつとめ なんの事やと 思うている
 よろづ助けの 模様ばかりを
二号9
 この先ハ 段々つとめ せきこんで
 よろづ助けの もよふばかりを
二号21
 つとめでも 初め手踊り 又神楽
 一寸(ちょっと)の細道 つけてあれども
四号74
 これからは この世始めて ないつとめ
 段々教えて 手をつけるなり
四号90
 このつとめ 世界ぢううの 助け道
 をしでもものを ゆはす事なり
四号91
 日々に つとめの人衆 しかとせよ
 心しづめて 早く手をつけ
四号92
 このつとめ 何の事やと 思うている
 世界をさめて 助けばかりを
四号93
 この道が 確か見えたる ことならば
 病の根は 切れてしまうで
四号94
 この世ふを はじめかけたも 同じこと
 めづらしい事を してみせるでな
六号7
 このよふを はじめてからに ないつとめ
 またはじめかけ 確かをさめる
六号8
 今までに ないことばかり 云いかけて
 よろづ助けの 勤め教える
六号29
 日々に 早くつとめを せきこめよ
 いかなる難も 皆な逃れるで
十号19
 どのような 難しくなる 病でも
 つとめ一条で 皆な助かるで
十号20

 つとめさい ちがハんよふに なあたなら
 天のあたゑも 違う事なし

十号34
 どのように むつかしくよふ 見えたとて
 陽気つとめで 皆な助けるで
十二号61
 このほこり 掃除するのハ むつかしい
 つとめなりとも かゝりたるなら
十三号22
 神が出て 世界ぢううを 働らけば
 どんなつとめも 恐みないぞや
十三号55
 早々と 心揃うて しいかりと
 つとめするなら 世界をさまる
十四号92
 つとめても ほかの事とわ 思うなよ
 助けたいのが 一ちよばかりで
十六号65

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 教祖が、つとめの振り付けを教えられた時のお諭し(稿本天理教教祖伝95頁)。
 「このつとめで命の切り替えするのや。大切なつとめやで」。
 明治10年11月3日朝方 辻忠作 仲田儀三郎 山澤良治郎。(願いの筋なし)。
 「人にあゝさせようこうさせようと思う心使うて通っていたら、我が身が立たなくなるで。人にさせる道やない、自分からさせて頂く心にならにゃいかん。自分がつとめさせて貰うから人がついてくるのやで。つとめると言うても人にするのやない、神様につとめさせて貰うのやで。神様にやで。人間はなあ、人が人をどうするこうすると言う事は出来ないのやから、なんぼさせようと思うていても動かすことできん。だから自分からつとめさせてもろうて、その理をうつしてやるよりほかにないで。自分がつとめさせてもらうと言う理ほど結構なことないで」。
 お指図には次のような御言葉がある。
 二代真柱は、「ひとことはな志 その三  此世始まりのお話」冒頭で次のように述べている。
 「おつとめは、よろづたすけ(万救け)のために勤められるものであり、よろづたすけとは、ひとり人間の身上ばかりではなく、農作や日本、世界の上にも及ぼされているのを申しました。言わば、人間身上なり、生活なりの上につき、あらゆるご守護を下さることをお述べ下されているのでありますが、何ゆえに、このおつとめに、このようなご守護の理をお教え下されているのでありましょう。それにはまず、この世初まりのお話を聞かせて頂くのが順序であります。 と言うのは、教祖様(おやさま)は、『おつとめによって、この世に再び人間をつくるのだ。更生さすのだ』 ということを仰せになっています。 『元初まりの親神様が、教祖様(おやさま)の口を通じて、人間創造の思召(おぼしめし)をお聞かせ下され、人間の心の掃除をして、人間創造当時と同じように、その後“ほこり”にまみれ、いろいろな勝手な“いんねん”を積んできた人間を、人間創造当時の如き、無垢(むく)なものにつくり直す』 ことを仰せになっているのであります。 (中略) 『おつとめによって、その昔、無い人間を創造された時と同じように、この世で人間をつくり直す』 と仰せられているのであります。 『心を澄まして、創造当時と同じように、“ほこり”にまみれない、楽しい人間と更生さすこと』 を仰せられたのであります。されば、おつとめの理を思案させて頂くためには、まず、この世初めのお話を聞かして頂くのが順序なのであります」。
 中山正善「こふきの研究」所収、桝井伊三郎(ますいいさぶろう)「神の古記」108頁。
 「よふきづとめをしてたすかるというは、陽気遊山を見ようとて人間を拵えたる世界なり。よって元(初まり)の姿を寄せて、(神も人も)共々に勇むるにつき、たすけるものは、ただ、人間はそれを知らずして、人はどうでも、我が身さえ良くば良きことと思う心は違うから、このたびたすけ教えるは、あしきを払いて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じこと故、人間の身の内は神のかしものである故に、人間心を勇めば神も勇んで守護すれば、身の内あしき事はつとめ一条で、よろづたすけするというは、願い人はもちろん、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を以て願うことなり」。
 「勤めの理」は次の通り。
 神様は霊妙不可思議なる恩徳にて陰より御苦労下さる故、世界万ずが成り立つ。生物一切が我の力で生まれ出て生きて居るのでない。神言に「胎内に宿し込むのも月日なり、生まれ出すのも月日世話とり」、とあるように神の力なり。この大恩を報ゆるには、互い助け合いに勤むるのが良い。苦労と云う理より尊いことはない。苦労の理より徳はできる。人間も御苦労様ということ程結構な尊重すべきことはない。

 御教祖の御苦労の恩徳によって御道が初まる。誠がなくては人と切れ、神に切れる理となる。心を誠に勤めて神に続がる。神は親心を以って人一列を隔てなく育てる。人に満足さすと云うのが親様の御道である。互い助け合い立て合いが人間の勤めである。人を助け、世の中に勤めし効能の理によって天理より我が身に徳を授け下さる。この世は万物皆な助け合い立て合いにて立つ世界故、互いに人に満足与えるという心は最も美しき心にて神の心なり。

 効能の有無、多少によりて神は徳を授け給う。例えば、他の人に損害迷惑をかけ、あるいは人を害して我に利益を得る、天理を害し社会に功なき働きをなして我が身に利益をなすとても、天の理より見れば埃りゆえ、働きが無駄事となり、且つ人を害せし罪は我に戻り、我が身の天徳を欠き、難儀不自由、病気災難の道を作る。故に人間は日々の心の理、勤め働く理により徳を積むものと日々に徳を落としつつあるものとある。人間は万物の霊長故、心の働きが身の働きより大きい。同じ身体を使うて働いても効能に差がある。過分のおごりを我が身につけ過ぎ天恩尽きれば身の徳が保てぬ。神は昔より色々と助ける道を拵えて恩の報じ道、報じ場を作りて心魂が畜性道に落ちぬよう導き下されている。

 神は人間を屋形として御心入り込んで世界の陽気を楽しみくださる思召し故に、人間が病、難儀不自由して苦悶する姿を悲しむ。八方の神様一つとなってこの世界が造られており、万物一切が互い助け合い立て合いの理によりて生命を保ち、生成化育している。これは世界も人間も同じである。宇宙全体は神の一体、人間はその一小分身であり、その個人が集まりていわゆる団体を形成し社会的共同生活をしている。互い助け合いもたれ合い支え合いは神の心、天地の理法にして即ち人間の勤めなり。もしこの助け合いの精神がないとすれば成人の未熟を示している。 神言『我が身立つよう、我が身一人先へ助かりたいと云う心の理は世界の理であるなれど、その場凌ぎのよき事ばかりするとなれば、天の理に叶わん。人を倒そうと云う心あれば我が身が倒れるが理、人を掛けようと云う心なれば我が身が掛かる。人に損を掛けたら我が身損せにゃならんのが理。人を助けたら我が身が助かる、人を立てたら我が身が立つ』と仰せ下さる。

 神様陰陽御夫婦の理は何事にも御添い下さる。月様には日様、水には温みが添いて流れ、火には水気が添いて光り、燃える目は月様なるが日様が添うて見える。物を云う聞く時は言葉はかしこねの命なれども、たいしょくてんの命が添うて切り下さらねば物云えぬ。つきよみの命働きの時は裏にくにさづちの命が回って御働き下さる。くもよみの命御守護の時は裏にをふとのべの命が回って御守護下さる。をふとのべの命御働きの時には裏にくもよみの命が回りて御働き下さる。男神は男に入り込み下され、女神は女に入り込み下され、世界も身の内も同一に守護下さる。 人間が寄りて社会という。男見れば男神、女見れば女神と思えと仰せられる。何でも人を神と思う、皆な社会の人はこれ神なり。この心にならねば真の敬神に成らぬ。神言『口と心と行いと三つ違わぬように日々守らねばならん。胸と口とが違うては神の心に叶わん』。誠となれば胸と口とが違いそうなことはない。口と心と違うと云うはいがみかがみがあるからである。真実に神の心に叶わねば如何程心尽くしたるとも、自分の心には真実と思うて尽くし運んで居りても、理の取り違い、通り間違いに行き着く。心だけの理、通りただけの理が現われるから通り違いはすまい、通り違いあってはならん。『汚ればかり如何程誰に相談しても叶わん、月日退く』、と仰せられてある也。


【神楽つとめ(かんろ台つとめ)】
 「元の理」による「元一日」に立ち帰り、親神の自由自在を引き出すためのお道最高の本づとめのことを云う。「おぢば」でかんろ台を囲んで行われるのを本式とする。かんろ台つとめとも云う。「おぢば」とは、現在天理教本部の神殿の中心地とされているが、「元の理」に拠れば、ここが人間宿しこみの場であり、人類創造の地点、従って全人類の故郷ということになる。この「おぢば」にかんろだいが据えられている。本づとめは、このかんろだいを中心にして行われるのでかんろだいづとめとも云われる。

 「かぐらづとめ」に直接参画する人達を「つとめ人衆」と云う。男神5人、女神5、計10名のつとめ人衆が、それぞれの役目を寓意させたかぐら面をかぶり、親神の十全の働きをそれぞれの手振りにあらわしてつとめる。つとめ人衆だけでなく、参拝するものすべてが心を一つにして、陽気ぐらし世界実現の上に親神のお力添えを願う、これが「かぐらづとめ」の目的と云える。ちなみに、最高聖儀に男性と女性が対等に参画する形態を取っているところが珍しい。

 概要「このつとめは、親神が人間創造の原初的な時に示された元始まりの神秘的な働きを、象徴的に具象化し、その神の働きを、再びこの世人間の再生の上に現わそうという意味を持っている。それは世界人類の救済(助け)を祈念し、且つもたらすためのつとめなので、たすけづとめとも云われている」(松本滋「人間の元なるもの」)。神人和楽のつとめであり「陽気づとめ」。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 「この先は 神楽づとめの 手をつけて 皆んな揃ふて つとめ待つなり」(1.10)
 「つとめでも どういうつとめ するならば かんろ台の つとめ一条」(10.21)
 「これをはな 心定めて 思案して 早く人衆の もよう急ぐで」(14.91)
 「早々と 心揃うて しっかりと つとめするなら 世界治まる」(14.92)

 教祖は次のようにお諭し為されている。

 お指図には次のような御言葉がある。

 神楽づとめについて、天理教教典16pは次のように記している。

 「このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気な世界に立て替つてくる」。

【お願いつとめ】
 「おつとめ」にはもう一つ「お願いつとめ」がある。「お願いつとめ」は、「心定め」と「お授け」と組み合わせられている。即ち、「心定め」→「お願いつとめ」→「お授け」という流れの中に位置づけられている。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。


 教祖は次のようにお諭し為されている。

 お指図には次のような御言葉がある。

【神の理を立てよ】
 明治13年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張り、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は刻限を以て次のように厳しくお急き込み下された。 
 人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ」。

 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。また、女鳴物は、三味線は飯降よしえ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖から長ダメ頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄のことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手に出来ないという上から、教祖にこの旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は次のように仰せられた。
 さあさあ、鳴物々々という。今のところは、一が、二になり、二が三になっても、神が許す。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け」。

 皆な、安心して勇んで勤めた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南に続く八畳の間であった。

【鳴り物】
 おつとめの九つの鳴り物をつとめるに当ってのお言葉。
 「皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで」。
 「どうでも、道具は揃えにゃあかんで。稽古できていなければ、道具の前に座って、心で弾(ひ)け。その心を受け取る」。

【手踊り】
 
 「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや」。

【待つ理】
 「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は何もするのやないで。この日は、結構や結構やと、親様の御恩を喜ばしていただいておれば良いのや」。





(私論.私見)