天理教理、お諭しの構造考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.25日

【天理教理、お諭しの構造考】
 そろそろ天理教理、お諭しの構造を明らかにしておきたい。個々の教理の解明、それらの全体的な関連づけを経てのに天理教理、お諭しの構造解明に向かうべきではなかろうか。この問題意識をもって今後の一日一日を費やしたいと思う。案外と為されていないと思うからである。
 過ぐる「堪能の日々」において、みきは、家族の「談じ合い、心の練りあい」を殊のほか重視していた。この頃のみきの教義の骨格を整理してみたい。この教義からやがて「おつとめ」の作法が生み出されていくことになるが、これもまた順次次第に見ていくことになるであろう。

 付言すれば、小滝透氏は、著書「天理教QアンドA」の末尾で次のように述べ、絶賛を惜しんでいない。
 「まとめますと、天理教の教えは、その根源にある人間存在への肯定を基本にして、現代世界の最も解決すべき環境の問題、戦争の問題、労働の問題等に大きな貢献を為す可能性を秘めたものと考えられます。天理教は個人個人のたすけはもとより、思想やシステムとしての世界救済論をも併せ持っているのです」。

 植田義弘氏は、著書「理の研究」のはしがき文中で次のように述べている。
 概要「復元が叫ばれてから三十数年を経て、形の普請は立派に建ち並んでも、心のふしんの土台は据えられないままになっている。教理を研究しなくとも教祖にもたれて通っていれば間違いないと反問する人は、原典の神意は一切の立場や私心を捨て人間思案を忘れなければわかる筈はないこと、親の思いが分からないままに親にもたれ切っているのは幼児の姿に他ならないことを自分に問い直していただきたいのです」。

 れんだいこも実に実にと思う。

 とはいえ、お道教理の全体像を知ることは非常に困難で、以下に記すのはれんだいこ流に整理した仮の教理体系でしかない。それも刻々内容が改訂される。いわば覚え書き程度のものと心得ている。

 2003.8.24日再編集 れんだいこ拝
 教祖の諭し話は非常に有益であった。「今日はどのようなお話しを聞かせていただけるのだろうか」、「一刻も早く教祖にお目にかかりたい」と、知らずと足がお屋敷へ向かった、こうして連日連夜、教祖を囲む集いが持たれた。「今夜もまた、ええ話をしていただいた」とその余韻を噛み締めながら家路に向かった、と伝えられている。

 「正文遺韻抄」は、140、141Pで、教祖の次のように御言葉を伝えている。
 「一つには、四十代や五十代の女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことはできんが、もう八十過ぎた年よりなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年の寄るのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」。
 「八十過ぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよとおっしゃる」。

 本部の「稿本天理教教祖伝」が教祖の実像を描き出していない事情に鑑み、教祖の諭し話で補足していくことはかなり重要であると考える。そういう意味で、「天理教教祖逸話遍」(「おやさま逸話編(抜粋)」)(「天理教教祖逸話篇<目次 1-100>」)(「教祖逸話篇」)、「生きる言葉」(道友社、1995.10.1日初版)その他は貴重な資料の提供となっている。「天理と刻限」の「教祖直々の諭し」も大いに参考になる。こういう類の発掘と資料化、公開化、整備化が望まれている。

 しかし、流布されている教祖のお言葉は、無条件では受け入れがたい。お話を聞かされたその受け手の成人度により他意はなくても恣意的に歪み伝えられている可能性がある。そういう意味で、教祖の真意と実際のお言葉を引き出すことが必要になる。が、教祖の真実のお言葉に迫ることが難しい。且つ、まだまだ未公開のお言葉があり、今は小出しにされている段階のように思われる。一挙公開を望みたい。

 ここに書き付けるのは、現時点に於けるれんだいこフィルターにより透過された教祖像である。まず、教祖のお言葉と思われる者を取捨選択した。教祖のお言葉として疑念が残る文句は割愛した。れんだいこが伝えるに足ると思われるお言葉を選択した。教祖の似たようなお言葉を一括して、大過のない形で編集し直した。実際にそのように述べた訳ではないが、細切れの言葉をそのままに理解するよりも却って教祖のお言葉の真意に近いのではないかと思っている。参考にしていただければ幸いである。

 2003.8.29日、2006.7.1日再編集 れんだいこ拝

 小滝透氏に一連の中山みき研究がある。その観点をほぼ踏襲できるので以下紹介する(れんだいこ観点によりアレンジしている)。
 概要「日本の宗教史上においては、長くオリジナルな世界宗教の誕生を見なかった。また、そのような試みがなされたことは一度も無かった。だが、この傾向が一気に打ち破られる時が来た。幕末から維新期にかけての宗教激動期に、日本産の世界宗教が次々と産声を上げてきたからである。黒住教から始まった一連の新宗教群の勃興がそれに当たる。この時、日本の宗教地図は一変した。日本の精神古層に眠っていた地下水脈が息せき切って溢れ出し、至る所に湧出したのだ」(小滝透「いのち永遠に」)。

 小滝透氏は、「これから語る天理教もそうした新宗教群の一つである」として解説に踏み込み、同時期のそれらよりも抜きんでいる特質を次のように指摘している。
 「神は、元の神・実の神と自ら名乗り、人間の根源的存在理由(陽気暮らしをする者としての人間存在)を解き明かし、それを疎外する全ての要素を排除するよう、強く教祖に求めつづけた。それは、まず中山家の全財産を放擲し、施し与えよとの神言になって現われた。その行為は単なる慈善行為の枠を越え、封建体制の根幹たる家父長的家制度の在り方そのものの改変を指図していた。神は教祖の口を通じ、封建体制下にあった社会関係、人間関係の再構築を要求した。すなわち、縦の人間関係を横のたすけ合い関係へと改変するよう要求した。神の子たる人間の一列平等を指針させ、そうした社会が実現するよう要求した。それは、当時の時代背景を考えれば、恐ろしく突出した教えであった。ここまで徹底してその主張を説き続け、しかもそれを全財産の施しから始発させ度重なる国家の干渉弾圧に関わらずひたすらその道を広げ、実証せんとした宗教は、他に類例を殆ど見ない」。
 「この道中で、教祖みきは、病と貧に呻吟する数多くの人々を不思議な霊能力をもって救い続けた。助けられた者は、自身が助かれば良いと云うものではない理を教えられ、共に道人へと成人を促された。新世界の創造に向けての働き手として組織されていった。丁度この頃は幕末期であり、明治維新へ向かう世の流れと歩調の軌を一にしていた。この歩みの中で、天理教は、他の如何なる思想よりも先鋭なものになっていた。ある意味で、民衆的な回天運動であり、驚くべき普遍性と世界性を秘めたものになっていた。その天理教が、天皇制秩序の下に国民国家の確立を目指す明治維新政府と真正面から衝突していくことになる。世界宗教たる天理教が、その思想的根底において、天皇制的国民国家の枠組みには納まりきれないものがあったからである」。
 「教祖は実に、18回余りにも及ぶ官憲の拘引にいささかもひるむことなく、そのことごとくを『節から芽が出る』として跳ね返していった。教祖の80代のことであることを知れば、それはまさに驚くべきことであった。しかも、さらに驚くことは、教祖が、こうした拘引に悠然として対処していたことである。監獄に引かれる時でも、監獄内においても柔和にして且つ毅然として律していた。その都度の出迎えの波は、拘引の度ごとに増えていった。それが為官憲を刺激することになったが、全く顧慮することが無かった。この姿勢は最後の『ご足労』にまで続き、まさに信者の目標(めどう)となる『ひながた』を指し示しており、他に例の無い天理教の財産となっている」。
 「天理教は、先行する教えより遥かに現世的積極的な教えであった。天理教は、如来教のように現世の救いを放棄して来世の救いのみを願う思想は持たなかった。黒住教のように、封建体制に抵触する活動を差し控え、ただ内面の転換をもって救いとする思想は持たなかった。しかもその思想は現代においてもなお通用する驚くべき内容を含んでいたのだ。ここにいよいよ、幕末維新期最大の宗教セクト=天理教が登場してきたのである」(小滝透「おやさま」)。

 2006.1.23日 れんだいこ拝






(私論.私見)