食物食事観

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「食物食事観」教理を確認しておく。

 2006.1.23日 れんだいこ拝


食物食事観
 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。

 教祖は次のようにお話しなされている。
 概要「ある時、中田、山本、高井などお屋敷に勤める人々が近所の小川へ行って雑魚を取り、甘煮にして教祖に差し出したところ、教祖は一番大きそうなのをお取りになりながら次のように諭された。『みんなに、おいしいと云うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや。こうして一番大きなものに得心さしたなら、後はみな得心する道理やろ。みんなも食べる時には、おいしい、おいしいと云うてやっておくれ。皆なも、食べるときには、おいしいおいしいと云うてやってくれ。おいしいと云うて食べてもろうたら喜ばれた理で、今度は出世して生まれ変わるたびごとに、人間の方へ近うなって来るのやで』」。(「食べ物の召し上がり方」)
 「教祖にお尋ねしました。『近頃、大阪では牛の肉を食う人が出てきましたが、あれは、どないなものでございましょうか』と。教祖仰せには『他に食うものあらせんか』と」。(昭和六十年四月発行、高野友治著「教祖仰せには」(天理時報社)18~31p。註・増井りん先生のお話しとして承る)
肉まで食べなくとも
〈桝井伊三郎先生が〉
「人をたすけてる者が、肉まで食べなくともよい。鶏は、卵を人間に食べてもらっている。それを、その肉まで食べるのは、二重に働かすことで良くはない」と言われたことを覚えている。「『肉まで食べなくとも、他にいくらでも食べるものがあるやろう』と教祖様(おやさま)が仰った」と言って、生涯それを食わず〈に〉通し切られたほど、信仰に堅い人であった。〔「清水由松伝稿本」103頁〕

 「私は十三歳のときから教祖の飯炊き給仕に出ました。やす婆さんは、私が会った昭和11年に79歳であったから13歳というと明治2年ということになる。教祖は私の炊いた御飯を非常に喜ばれ、『お前の炊いたもの持ってきてくれると、胸が開くような気がする』と申されました。教祖の食事はお粥で、そのお粥もおかずも皆な米がなんぼ、ダシがなんぼ、水なんぼと決まっていました。それで手で米つかんだりしますと、お上がりになられません。お粥には大豆を少し入れることになっていました。その豆も欠けた豆を入れるとお上がりになりませんでした。その豆は与助さんの奥さんが持ってきて下され、お粥の中に入れて欠けないのだけ選(よ)り出しておられました。この与助の妻というのは、西田伊三郎の兄弟の堀内与助の妻かと思うが、また竜田の田中与平の妻トヨかとも思われる。田中与平の妻は”おぢば”では竜田の与助の妻といわれていたものか、お筆先の『三六二五のくれやい』(三号64)の註釈に『竜田の与助という人の妻”とよ”と、勘兵衛という人の母親”フサ”とがお参りに来る』ことをいわれたものとある、その与助の妻であるかもしれない。三六二五というのが明治七年三月二十五日のこと、乾”やす”の話もそのころの話しか。それから摘(つま)んで味をみたりしたものはお上がりになられませんでした。まつゑ奥さんは教祖によく御馳走して差し上げた。そのときでも味見をして差し上げたものはお上がりになりませんでした。それでも喜んでお受けになり、そのころ弁当持ちでお屋敷へ詰めて来られた豊田のサヨミ(仲田儀三郎)さんやチヨミ(辻忠作)さんに、お上がりといって下され、後でまつゑ様に結講やったと仰せになっておいでになりました。それでもあるとき、教祖は私に、『あんたは私の所で給仕して神様へのお供えの仕方を知っているやろうが、神様へ物を供えるときには、忙しいのにまぎれて粗相な上げようするのなら、せんほうがよい。かえって神様が困るで』と仰せになりました」。(「神様へのお供えの仕方」、平成十三年一月発行「御存命の頃」高野友治著(道友社刊)215~217ページより。※「御存命の頃」(高野友治著)、乾やす老婆のお話より)
 「海の水はどうして塩辛いものでしょうか」とお尋ねしたという話はきいた。(奥野道三郎氏から) そのお答えはきいていない。しかし昔の人の書きものに、「塩は月日両神の味わい」と書いてあるのを見た。(山中忠七氏宅の古文書)(「もろもろの質問 」、昭和五十四年十月発行「神の出現とその周辺(高野友治著作集 第六巻)」(道友社刊)75~77ページより)

 お指図には次のような御言葉がある。






(私論.私見)