思案論その3 懺悔論、心の入れ替えによる澄みきり論、胸の掃除論

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.28日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「懺悔論、心の入れ替えによる澄みきり論、胸の掃除論」教理を確認する。

 2006.1.23日 れんだいこ拝


懺悔論

 世間一般では、「懺悔(ざんげ)」と言うが、お道では「さんげ」と読む。原典でも「さんげ」と使われている。

 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。

 お指図は次の通り。
 「さんげ/\、聞いてみちをまもるならさんげといふ」。(明治23.6.20日)
 「うれしいとおもえば一つさんげができねばならん」。(明治24.1.28日)
 「これまでのさんげはいふまでやあろうまい・・・・・・これから生涯さきの事情定めるのがさんげ、これ一つ第一に定めにやならん」。(明治25.2.8日)
 「さんげだけではうけとれん、それをはこんでこそさんげといふ」。(明治29.4.4日)

心の入れ替えによる心澄みきり論
 お道教義では、「心一つが我がの理」として人間に自由を与えたその理の使い方を間違うことによって、本来の陽気からいずみへと縛られている心のあり方の変革を指示され、「心を入れ替え」るよう諭されている。心次第に神のご守護が働くと仰せられている。  

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 真実が 神の心に 叶わねば
 いかほど心 つくしたるとも
十二号134
 今までは どんな心で いたるとも
 一夜のうちにも 心入れ替え
十七号14

 教祖のお諭しは次の通り。
 「心一条に成ったので、助かったのや」。
 「難儀しようと云うても、難儀するのやないほどに。銘々の心次第やで」。
 「心配要らんで。どんな病も皆守護いただけるのやで。欲を離れなさいよ」。
 「情けない、どのように思案したとても、人を助ける心ないので」。
 「人は皆な、すっきり助かる事ばかり願うが、真実助かる理が大事やで」。
 「人間の胸の内さい受取りたなら、いつまでなりと、踏ん張りきる」。
 明治18.12.26日、教祖が仲田儀三郎に下されたお言葉。
 「心の澄んだ人の云うことは聞こゆれども、心の澄まぬ人の云うことは聞こえぬ」。
 諸井政一著「正文遺韻抄」(道友社)249p「心さえ懺悔して立て替えれば」。
 「『世界悪気やから、我も悪い、これも悪いと云うて撥ねてしもうたら、残す人(にん)がない。そこで、心さえ懺悔して立て替えたら、どんな者でも皆な助ける。これまでの事は、大難小難として皆な許してやる』と聞かせらる」。
  昭和2年10.25日発行「洗心」第六号(天理教洗心会)”六号活話”の「三度目は許さぬ」より。
 「御教祖様御在世当時のことである。この男は因縁もんやよって、お前預かっといてやってんか、と行って、一人の男を森田さんが預かられた。その男を家に置いて或る日の事、布教に出た帰りがけ、癪で苦しんで路傍に倒れている一人の女をお助けして、森田さんは宅へ連れて帰って休まされた。翌朝になって見ると、その女の姿が見えないのに驚いた。森田氏が、預かった男の部屋へ行って見ると布団をかぶって寝ている。早う起きんか!。えらいすまんこって、目が見えめんね。貴様、昨夜あの女の人に手をかけたな。申し訳ございめえん!。馬鹿者が、又因縁を出しやがったな。怒ってはいながら、森田氏は諄々と教理を説いていられる内に、男も懺悔ができたものか、不思議に目が見え出した。折角御教祖から預かっていながら、監督しくじった森田氏は御地場へその男を帰された。しばらくはお地場にいたが、間もなくその男はお地場を出て雑魚売りをしていたが、三度び因縁をほり出して女に手をかけた。そして直ぐに彼は盲目と癪病が一緒に出た。お屋敷で一緒につとめたよしみで、高井老先生がお助けにも運ばれた。この男のことを御教祖は、『一度二度は許すが、三度目はどうしてもいかん。放っておけ』、と仰った」。
 お指図は次の通り。
 「さあさぁ放っておけ/\。誰彼(たれかれ)を仇(かたき)と言うのやない。大風/\、大風は何處(どこ)にあるとも知れんもの。大風というものは、どのようの(どのような)大きな物でも、倒(こ)ける潰(つぶ)れる。大風やで。風は神や。風が借り物無(の)うては、箱に物を入れて蓋(ふた)を閉め切りた如く、腐ろうより仕様のないもの。風がそよそよあるので、半日や一日は送れるで。人の言う事を腹を立てる處(ところ)では、腹の立てるのは 心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教えやで。今までの修理肥(しゅうりこえ)で作り上げた米が、百石貰(も)ろたら、百石だけある間は喰べて居らるゝ(食べていられる)。今度ない世界を始めたる親に凭(もた)れて居れば、生涯末代のさづけやで。これは米に〈たとえて〉諭(さと)して一寸(ちょっと)話しておく」。(明治20.3.22日刻限御話)
 「さあさぁ所々で一つ/\踏ん張る。誠の精神である。誠の道を通るには、心に一つの曇りありて、暇が要りて、どんならん。積み重ねるところ天然自然の道や。世間の事を聞き。強い者は弱い、弱い者は強いで。強い者(を)弱いと言うのは、可怪(おか)しいようなものや。それ 心の誠を(が)強いのやで。心定め。先も長くの道と思えば、とんと心を定めて、腹を立てては どんならん。往還(おうかん)の道と言うても、内の處(ところ)身の内障りある。ほんにこれは成程という事を思やん(思案)して」(明治20.12.4日)。

【胸の掃除論】

 お道教義では、「心の入れ替え」の具体的な方法として、「心を澄ます」のが肝要であるとし、それは日々の埃を払う掃除同様に「胸の掃除」として為すよう例えて諭されている。

  御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 水と神とは 同じ事
 心の汚れ 洗い切る
五下り目三ッ
 世界中 胸の内より この掃除
 神が箒(ほうき)や しかと見ていよ
三号52
 これからは 神が表へ 現れて
 山へかかりて 掃除するぞや
三号53
 ほこりさい すきやかはろた 事ならば
 あとハめづらし たすけするぞや       
三号98
 これを見よ 世界も内も 隔てない
 胸の内より 掃除するぞや
四号108
 これからハ どうぞ真実 胸の内
 早く澄まする 模様してくれ
五号74
 世界ぢう 多くの人で あるからに
 これ澄まするが むつかしい事
五号75
 いかほどに むつかし事と ゆうたとて
 我が心より 真実をみよ
五号76
 一列は 皆な銘々の 胸の内
 埃り一杯 積もりあるから
八号61
 この埃り すきやか掃除 せん事に
 月日いかほど 思うたるとて
八号62
 このさきは あっちこっちに 身にさわり
 月日出入り すると思えよ
八号81
 きたるなら 我が身さわりと ひきやはせ
 同じ事なら はやく掃除を
八号82
 今日からは 世界を月日 見定めて
 胸の掃除に 掛かることなり
十二号1
 この掃除 内も世界も 隔てない
 銘々の心 皆な表わすで
十二号2
 日々に 胸の掃除に 掛かりたら
 どんな者でも かなう者なし
十二号73
 この掃除 どういうことに 思うかな
 月日胎内 皆な入り込むで
十二号74
 銘々の 心身のうち どのような
 ことでもしかと 皆な表わすで
十二号171
 これみたら どんな者でも 真実に
 胸の掃除が ひとりでけるで 
十二号172
 心さえ 真実神が 受け取れば
 どんな埃りも 掃除するなり
十三号23
 心さい すきやかすんた 事ならば
 どんな事でも 楽しみばかり
十四号50
 この先は どんなものでも 真実に
 胸の掃除を 皆なしてかかる
十四号72
 この掃除 どうしてすると 思うかな
 どんな意見をするや 知れんで
十四号73
 どのような 事がありても 案じなよ
 何か万(よろず)は 親の意見や
十四号74
 口先で なんぼ真実 云うたとて
 聞き分けがない 親の残念
十四号75
 それ故に 親が胎内 入り込んで
 どんな事をば するや知れんで
十四号76
 どのような せつない事が 有りてもな
 病ではない 親の残念や
十四号77
 この道は 内も世界も 隔てない 
 世界中の 胸の掃除や
十五号47
 この道ハ どんなことやと 思うかな
 世界一列 胸の掃除や
十六号57
 それゆえに 世界中を どこまでも
 胸の掃除を したい故から
十七号50
 この掃除 どういうことに 思うている
 助けばかり 思うているから
十七号51
 この先ハ 世界中は どこまでも
 高山にても 谷底までも
十七号61
 これからは 世界一列 段々と
 胸の掃除を するとをもへよ
十七号62
 この掃除 何と思うぞ 皆なの者
 神の心を 誰も知るまい
十七号63
 月日には どんな残念が あるとても
 今までじいっと 見許していた
十七号64
 
 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「天理教教祖伝逸話篇」130
 「どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書けるほどの埃りが積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃りは、目につかんよってに放っておくやろ。その小さな埃りが沁み込んで、鏡にシミができるのやで」。





(私論.私見)