その2 | お授け論、用木論 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「授け、用木論、救済観」教理を確認する。 2016.02.29日 れんだいこ拝 |
【お授け論】 | |||||||||
「授け」(さづけ)は、病む人に取り次いで身上回復のご守護を願うもので、お道の用木(ようぼく)一人一人の真実の心に授けられる「道の宝」と云われる。お道の教理を理解し、人としての生き方を「人を助けるのが真のまこと」として助け合いに転換させた者に取り次がれる。現在は、九度の別席順序を運んで、助け一条を誓って願い出ることにより教団本部より授けられる。 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
教祖は次のようにお諭しなされている。
次のような逸話が遺されている。
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お指図には次のような御言葉がある。
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天理教典第9章「ようぼく」は次のように説き明かしている。
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真言宗のさづけは、「結縁灌頂」(けつえんかんじょう)と云われる。入信儀式で、入信する人は曼荼羅を敷いた上に立ち、目隠しをして両手を胸の前で組み、蓮の花びら叉はしきみの葉を挟み投げる。これを投華得仏(とうげとくぶつ)と云う。投げられた花びらが落ちたところの仏と縁を結んだ事になる。次に、頭に水を少し注ぐ。阿弥陀様の心に成りきるという儀式で、これを灌頂(かんじょう)と云う。これらの儀式をさづけと云う。入門を果たすと、お経が与えられ、朝晩読経(どっきょう)に務める。お経を読んで体得する事をおつとめと云う。 教祖は、仏教式さづけとつとめの言葉を使って新しいさづけとつとめを切り開いた事になる。ここにお道のさづけとつとめの意義があり、仏教との繋がりも見て取れる。 |
【肥えの授け論】 | |||||
みかぐらうた一下り目一ッに「正月 こゑのさづけは やれめづらしい」とある。この「肥のさづけ」は教祖からお与え下されたお授けであるが現在はない。天理教の初期の信者には百姓、農家が多く、百姓をしながらお道に尽くしていた。そこで教祖は、「永の道中肥がえなくては通れようまい、路金として肥え授けよう」と仰せられ、「肥のさづけ」をお与えになられた。「肥のさづけ」は、糠三合、灰三合、土三合、合わせて九合のものを親神様にお供えし、お願いをして頂いたものを田に置くと、金肥一駄分、すなわち四十貫のご守護を頂くことができた。「おさづけ」は物(糠、灰、土)が効くのではなく、どこまでも「心の理」が効くとお教え下されている。 お筆先は次の通り。
お指図は次の通り。
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【用木論】 | ||||||||||||||||||||
親神は、類ない陽気普請に必要な人材を引き寄せる。道人は、助けて頂いた喜びを、今度は自ら外に向って人助けの行為となり、ここに、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これを「用木」(ようぼく)
と云う。「教祖の教えを人々に伝えて、陽気ぐらし世界の建設に向かって力を尽す道具衆」とも云われ、つとめに精励することから「つとめ人衆」とも云われる。最高儀式たる神楽つとめは、芯となるつとめ人衆によるつとめということにもなる。親神は、一列助けの切なる思惑から、多くの用木を引き寄せようと急き込まている。「用木」には、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によって等しく親神の「用木」たるに変りはない。
親神は、引き寄せられた「用木」を成人させる為、時に応じ事に当つて種々様々「手入れ」される。道人は、これをしっかり心に治めさえすれば、身上のさわり
も事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。 「用木」には、その成人ぶりを見て「授け」が与えられる。「さづけの理」は、「用木」たる銘々に授けられる天の与えである。この「さづけの理」の働きによって効能を見せて頂ける。 |
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御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
教祖は次のようにお諭しなされている。 お指図には次のような御言葉がある。 |
(私論.私見)