「天理教教理を学び神意を悟る」の「 」、「理の親と順序の理 ②」、「 」その他参照。

 「理の親」とは、その第一は教祖その人であり、そこから汲まれる「お道の手引き、教えの親」を云う。「理の親」は、「み教えの理の親」であり、「月日親神の篤(あつ)き思召(御心)」 と「天の理の教え」をもって人間を救済されんとする「たすけの親」でもある。

 かつて、中山善衛三代真柱様は、ある「かなめ会」(全直属教会長の集会・会合)の席で、「理の親という言葉は、教祖以外に使うべきではない」発言。「理の親は教祖だけ」という内容の講話を、巡教先、お出張り先の各所でされていた。昭和47年1月26日の少年会本部年頭幹部会におけるお話しで次のように述べられている。
 「親(理の親)という言葉で言い表されるお方は、親神様しかおられないということなのであります。 親(理の親)という言葉で意味するお方は、教祖以外にはおられないということなのであります。(中略) 私たちの親(理の親)は、親神様・教祖以外におられないのです。私たちがその〈親という〉言葉を用いましても、真の底から親(理の親)になってしまってはいけない」。(みちのとも 昭和47年3月号 所収)

  昭和27年、本部で開催された ある講習会で、とある巨大系統の会長様が「親と子」と題して、講師としてお話をされました。
 「『理の親子には どのような姿があるか。これを具体的に申しますならば「上級教会と部属教会」、「教会長と信徒」、「救けた人と救けられた人」ということになりましょう。‥これが「天理教の真髄」であります』」。

   講習会最終日、中山正善二代真柱様は 閉講の挨拶の中で、次のようにのべた。
 「『人とか自分ではなく、「自分がこの人を導いている」「この人を救けておる」というような見方であるのではなく、「たすけ一条の一つの心が、二つの面にあらわれる。同時に その事柄は一つに治まる」のであります。「たすけは、一条」であります。「自分が救ける立場であり、あの人は たすけをされる人」というような、二つの立場を考えるのでは理を戴けないのであります』」。