助け論その2 お助け論

 更新日/2021(平成31..5.1栄和改元/令和3)年12.3日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お助け論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【お助け論】
 お道教義では、自身が助(たす)かるだけでなく、更に「元の理」を修め、今度は逆に積極的に神の思惑を伝えていく「お助け人」になるよう要請されている。人を助ける心は「真の誠(しんのまこと)の理」と教えている。ただ一筋に、助けさせていただきたいという真実誠(まことしんじつ)の心に、親神様がお働きくださり、不思議な助けをお見せいただくと諭している。これを仮に「お助け論」と云う。

 お道教義では、お助けは協働で為していくことが望まれている。特徴的なことは、この「助け合い」を人間存在の根源的原理的なものとして位置づけていることである。その論拠が「元の理譚」に示されている。そこでは、「助け合い、護り合いの社会」こそが創造神である親神の思いであることが明らかにされている。但し、実際の人の世は、「いじめ合い、殺し合い」である。この状態の社会から「助け合い、護り合いの社会」へ向けての「助け合い」こそ人の道であると指針せしめている。


 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 この助け 今ばかりとは 思うなよ
 これ末代の こふきなるぞや
二号10
 真実に 人を助ける 心なら
 神の口説きハ 何もないぞや
三号32
 真実に 助け一条の 心なら
 何ゆハいでも しかとうけとる
三号38
 助けでも 拝み祈祷で 行くでなし
 伺いたてて 行くでなけれど
三号45
 このところ よろづの事を 説き聞かす
 神一条で 胸の内より
三号46
 分かるよう 胸の内より 思案せよ
 人助けたら 我が身助かる
三号47
 真実に 助け一条で あるからに
 何もこわみハ さらにないぞや
三号77 
 このつとめ 何の事やと 思うている
 世界をさめて 助けばかりを
四号93
 これからハ 痛み悩みも できものも
 息手踊りで 皆な助けるで
六号106
 この助け 今まで知らぬ 事なれど
 これから先ハ 験ししてみよ
六号107
 どのよふな 口説き話しを するのもな
 助けたいとの 一条ばかりで
七号26
 月日にハ 世界ぢうゝハ 皆な我が子
 助けたいとの 心ばかりで
八号4
 心さい 月日真実 受け取れば
 どんな助けも 皆な請合うで
八号45
 この先ハ なんほむつかし 病いでも
 息と手踊り 皆な助けるで
十二号50
 どのよふな むつかしくなる 病いでも
 これなをらんと ゆうでないぞや
十二号51
 今までは 世界中は 一列に
 銘々(めいめい)思案を してはいれども
十二号89
 情けない どのように 思案したとても
 人を助ける 心ないので
十二号90
 これからは 月日頼みや 一列は
 心しっかり 入れ替えてくれ
十二号91
 この心 どういう事で あるならば
 世界助ける 一条ばかりを
十二号92
 この先は 世界中は 一列に
 よろづ互いに 助けするなら
十二号93
 月日にも その心をば 受け取りて
 どんな助けも すると思えよ
十二号94
 この助け どういうことに 思うかな
 ほうそせんよに 確か請合う
十二号95
 叉助け 立毛一列 どこまでも
 いつも豊作 教えたいから
十二号96
 この道を 早くに仕込もと 思えども
 一列心 分かりないので
十二号97
 世界中 どこに隔ては ないほどに
 一列思案 してくれるよう
十二号98
 真実に 心に定め 皆なついて
 神の云うこと 背きなければ
十二号99
 それよりも 月日の心 しっかりと
 受け取り次第に 助け急き込む
十二号100
 この助け 一寸のことやと 思うなよ
 これは日本の 一の古記や
十二号101
 この道は どういうことに 思うかな
 よろづ互いに 助けばかりを
十三号37
 世界中 互いに助け するならば
 月日も心 皆な引き受ける
十三号38
 月日にも 心引き受け するからは
 どんなことでも 働きをする
十三号39
 働きも どういうことに 思うかな
 善と悪とを 見分けるばかりや
十三号40
 真実に 心に誠 あるならば
 どんな助けも 違うことなし
十三号71
 日々に 親の思案と ゆうものわ
 助けるもよふ ばかりをもてる
十四号35
 こらほどに 残念つもりて あるけれど
 心次第に 皆な助けるで
十五号16

 いかほどに 残念つもりて あるとても
 踏ん張りきりて 働きをする

十五号17
 助けでも 悪しき直す までやない
 珍し助け 思うているから
十七号52
 この助け どふゆう事に 思うかな
 病まず死なずに 弱りなきよに
十七号53

 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「それやったら一生世界へ働かんと神さんのお伴さしてもろうて、人助けに歩きなされ」(逸話篇24)
 「心配はいらんいらん。家に災難が出ているから早うお帰り。帰ったら、村の中戸毎に入り込んで、42人の人を助けるのやで。なむ天理王命と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻るのやで。人を助けたら我が身が助かるるのや」。(逸話篇42)
 教祖伝逸話篇「72、救かる身やもの」、「ご恩返しの方法」。
 「(中略)おぢばへ帰った(村上)幸三郎は、教祖に早速ご恩返しの方法をお伺いした。教祖は、『金や物やないで。助けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、助けてほしいと願う人を助けに行くことが、一番の御恩返しやから、しっかりお助けするように』、と仰せられた」。
 教祖伝逸話篇逸話篇「100」。
 「これはご供やから、これを供えたお水で人に飲ますのやで」。
 教祖伝逸話篇逸話篇「100、人を救けるのやで」。
 「教祖は、『心一条になったので助かったのや』、と仰せられ大層喜んでくださった。定吉は、このような嬉しいことはございません。このご恩は、どうして返させていただけましょうか、と伺うと、教祖は、『人を助けるのやで』、と仰せられた。それで、どうしたら人さんが助かりますか、とお尋ねすると、教祖は、『あんたの助かったことを、人さんに真剣に話させていただくのやで』 、と仰せられ‥」。
 「助けて欲しいと願う人を助けに行く事が、一番のご恩返しやから、しっかりお助けをするように。あんたの助かったことを、人さんに真剣に話させていただくのやで」。(逸話編)
 「やさしい心になりなされや。人を助けなされや。癖性分をとりなされや」。(逸話篇123)
 「一日でも、人一人なりとも助けねば、その日は越せぬ」。(逸話篇177)
 「よう帰ってきたなあ、あんた目が見えなんだら、この世暗がり同様や。神さんの仰る通りにさしてもろたら、きっと助けて下さるで」。
 「真実の心で日々通らしてもらえば、十分の理をいつの時でも見せて下さるで。人はいつの時でも真実でなけりゃいかんのやで」。
 「ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ、その心を供えるのや。親の言うなりするなりにしてもらう心、それを素直という。何でもつとめるという心、ひくいという。何でもハイと受ける心、やさしいという」。
 「人を助けさせてもらうということは恩返しになり、徳を積むことにもなる。前生からの悪い因縁も切って下さるのやから、どれだけ結構にさせて頂けることやわからんで。精出して助けさせてもらいなはれや」。
 「人にああさせよう、こうさせようと思う心使うて通っていたら、我が身が立たなくなるで。人にさせる道やない、自分からさせて頂く心にならにゃいかん。自分がつとめさせてもらうから人がついてくるのやで」。
 概要「つとめるというても人にするのやない、神様につとめさせてもらうのやで、神様にやで。人間はなあ・・・、人が、人をどうするという事はできないのやから、なんぼさせようと思うても、動かすことできん。だから自分からつとめさせてもろうて、その理を映してやるより他にないで。自分がつとめさせてもらうという理ほど結構なことはないで。人に言うよりまず自分からさせてもらいなはれや」。
 概要「日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで。この道は人にさせる道やないで。めい/\一人一人が自分からつとめさせてもらう道やから、人がどうのこうのと言うやないで」、「人間は自分がすると、人にもさせたくなるものやが、なんぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ」。
 概要「それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃいかん。時をはずしてなにをしても何もならん。種をまく時には種をまかにゃいかん、さむいあついと言うて、今いそがしいからと言うて時をはずしたら、いい芽は出てこないで。時をはずさぬよう、よく教えてやっておくれ」。
 概要「自分がつとめさせてもらう時でも、人にもさせようと思う心もったらいかんで。人にはかりものという事わからせてやったらつとめてもらえる。なんぼさせようと思うても、かりものという事わからねば何にもならん。めい/\が運ばせてもらい、つとめさせてもらっているうちに人はついてくるで」。
 「諸井政一集後篇、御講話傍聴録9」より。
 「助けてもらいたいという心があっても、人を助けたいという心がないから、助かることができん。なんぼ話し聞いても、都合のよいことは守る。心に合わん(都合の悪い)ことは、理は分かりながら、心で捻(ひね)り潰(つぶ)しているから助からん。知らん間は許してもおくけれど、知りながら守らにゃ、どうあっても許せんで」と仰る。
 「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社)251−252p「神のざんねん」)。
 お隠れの二、三年前に、まあ返す返すも仰ったな。「一トかたけ(一時)も食べるに食べられん。一日も暮しかねる、難渋助け一の模様」、という事を返す返すも仰った。「世界では、上の者は兄や姉とせんならん。こやけ(貧乏人)や○○○同様の者は、一ツチ(一番、最も)の裾、おとご(末子)と例えんならん。おとごの難渋を兄や姉が助けにゃ助かりやせん。この情け心ないのが神の残念。なんどき、どんな立腹があらわれるや知れん」、と仰る。「しんしょう(財産)持ちや、田地持ちが、小作人や、借家借りをいじめて、無理な年貢を払わしたり、家賃取ったり、ひどい/\事をしていたら、どんな神の残念が発するやら分からん。何でも、その日暮らしや、食うや食わずの者を、可哀想や、気の毒やと思うて助けてやったら親が何ぼ嬉しいことか。人間の親子から見ても同じことや」。「心を出直したら身上の出直し助けるで。心の立てを替えたら身上の立てが替わるで。夫一人立てるが女の清浄(しょうじょう)やで」、と常住お聞かせ下された。
 昭和48年8月号みちのとも「天理教人の自覚と誇り」の西垣春一(雨龍大教会長)「天への孝心の道」 より。
 「教祖の口伝として、『家、倉立派に建てつらね、あれでこそ何の心配もなかろうと外から見えても、胸三寸尋ねてみよ。不足のない者一人もない。なんぼ金満家の家でも、何とかかとか言うに言えん事がある。外から見えんものや。どんな家でもどんな人でも同じ事や。それに残念々々と言うて暮らすのは、これは天の残念である。そこで我が物ないようにして人たすけたら天は捨てとかん。人助けは天への孝心、天への孝心の道通ってくれ』、とお聞かせ頂いたことがあります」。
 「花疥癬のお助け」。
 「明治16年、今川聖次郎の長女ヤス9才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿をもつものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、こっちへおいで、と仰った。恐る恐る御前に進むと、もっとこっち、もっとこっち、と仰るのでとうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口でご自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、『なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと』、と三回お撫で下され、続いてまた三度また三度とお撫で下された。ヤスは子供心にももったいなくてもったいなくて胴身に沁みた。翌日起きてみたらこれは不思議、さしもの疥癬も後形もなく治ってしまっていた。ヤスは子供心にも本当に不思議な神様や、と思った。ヤスのこんな汚いものを、少しもおいといなさらない大きなお慈悲に対する感激は、成長するに従いますます強まり、用木としてご用を勤めさして頂く上に、いつも心に思い浮かべて何でも教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、勤めさして頂いたという」。
 「おやさまのおことば」(目次topへ)。
 「明治10年2月3日夕刻、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之介。御恩返しをさせて頂くには、日々どうゆう道を通らせて貰うたらよろしいでございましょうか、のお尋ねに、教祖の次のような御言葉があった。『日々に人を助けさせて頂くことやで。口で人を助けるというが、人を助けさせて頂くことはむつかしいことやで。はじめは人を助けさせて頂くのやと思うていても、日がたつにつれ守護が見えてくると、自分が助けてやるのだと言う心になってしまう。その心がいかんのや。自分が助けるのではない、神様が助けて下さるのやで。神様が助けて下さるというても、神様はなあ、助けさせて貰う者の心にお働き下さるのやで。助ける者は助けさせて貰う喜びを持つのや。これが恩返しになるのやで。人を助けさせて貰うことは神様への御礼にもなるで。お助けさせて頂くのに、常に神様のお供させて頂く心でなけりゃいかんで。自分が助けるのやないで。神様が助けて下さるのやから、その心忘れんようにしなはれや。人を助けさせて貰うには、我が身どうなってもという心にならにゃいかんで。我が身どうなってもという心が恩返しになるのやで。これは自分一人の道ではないで。末代までの道、末代に残す道をつけれくれ。人にお話をするにはなあ、我が身が心にしっかりと借り物ということを治めておかなけりゃいかんで。借り物ということよく教えてやってくれ、よくわからせてやるのやで。助けて貰う者が借り物ということ心に治まれば、どんな病いでも助けて貰うことできるのやで。心配いらん、案じ心持たぬよう。お助けをさせて頂くのに、助ける者が誠の心で借り物と言う理しっかり心に治めておれば後は神が働く程に、何も案じ心配いらんで。誠の心でお話させて貰うのやで。これが恩返しになる道や。楽しんでつとめさせて貰いなはれや。恩返しになる道、日々通らせて貰うてこそ結構にさせて貰うこと出来るのやで。勇んで通らにゃいかん。人を助けさせて頂くには、真実の心になって常に低いやさしい素直な心でお話をさせて貰うのやで。相手の心を助けさせて貰うのやで。借り物と言う理心に治まっただけ御守護頂けるのや。借り物という理しっかり心に治めにゃいかんで。人を助けさせて頂くというは、恩を返すことになるのやから、何時の日にもいつの時にもその心で通らにゃいかんで。親の声きかして貰うて、その通りつとめさせて頂く処に恩が返せていくのやで。親の声一つが頼りやで。その声そのまゝ受ける心に神様が働いて下さるのや。神様に働いて貰うには、借り物ということをよく心に治めて通らにゃ神様に働いて貰えんのや。人間心を捨てゝ通らして貰わにゃいかんで。親の声頼りないと思うていたら、神様はお働き下さらんで。神様がお働き下さらなかったら、日々は通れないのやで。案じ心を捨てゝ通りなはれや。親の声聞いて通っていたら、どんな中でも連れて通って下さるのや。怖い危ない道はないで、神様が連れて通って下さるのやからなあ。人間心を捨てゝ我が身どうなってもと言う心で日々通らして貰うことができるならどんな助けもして下さるで。それが真実のあらわれや、結構やろ。真実の心で日々通らして貰えば十分の理を何時のときでも見せて下さるで。人は何時のときでも真実でなけりゃいかんのやで。あゝもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろう、その心を供えるのや。親の言うなりするなりにして貰う心、それを素直という。何でもつとめるという心ひくいという、何でもハイと言う心やさしいという。大きい心というても人間思案はいかん。人間思案でなんぼ大きいと言うても大きいとはいえん。人間思案は小さいもの、あれやこれやと考えて人間心でなんぼ思案したとてせんないこと。あゝさせたら、こうさせたらと思う心がいかん。その心が人間思案やで。大きい心になったら人間思案は浮かばんもの、大きい心で助けさせて貰うのやで。借り物ということよくわからせてやるのやで。人にわからせる前に我が身が借り物ということわからねば、なんぼ話したとてわかってもらえん、こゝの処よう思案してくれ」。
 「さあ/\たすけ一条/\ 」。
 「父(上川孫兵衛)が初めておぢば参拝した時には、中山家の門前は大字で『参拝人お断り申上候(申し上げそうろう)』とベタッと扉に貼ってあった。それで晩に内緒で裏から入れて貰(もろ)うた。父が初めて教祖様(おやさま)にお目にかかった時、私(上川孫兵衛)は山城の者で、初めてお参りさせて頂きましたと申し上げると教祖様(おやさま)は、 『まあ山城から。それはご遠方からよくお帰りなはった』と仰せられた。そして、 『世の中の人達はな、お金を儲(もう) けるのには人の裏をかいてでも儲けたい、我さえよければよいという心(の者が多い)。(そういう者は)儲けたら、田買う、畑買う、山も家も買う。家の内が豊かになる。すると妻があるのに他に女が欲しいというほこりの心がわく。金銭や物のほこりは返せば済むが、女や男のほこりは、なすになされん、返すに返せんほこりや。そうした心のほこりを払う道やで』と仰せられた。

   私(上川米太郎)の父は、 教祖様(おやさま)は『世の中の人は』と仰せられるが、その『世の中の人』」は私の事でございます』と、心に八寸釘を打たれている気持ちであった。 そして教祖様(おやさま)は、『この道は人を助ける道や。人を助けて我が身助かる道やで。助ける理が助かる理やで。人を助けるにはな、暇を惜しんだり、小遣い銭を惜しんでいるようでは、人を助けることはでけんで。さあさぁ助け一条/\』と仰せられた。

   そこで父は悟らせて頂いた。 そうじゃ、そうじゃ。俺は暇がない、銭がないと言うて、自分の都合や勝手を言うていたら、人だすけというような仕事はできやせん。腹が減ったら飯も食わねばならぬ。道が遠ければ乗り物にも乗らねばならん。そこで暇と小遣い銭が要る。それを惜しいと言うたり、思うたりしているようでは人だすけはできないぞと仰せられているのである、と悟ったのである。

【註】上川孫兵衛先生は、河原町大教会直轄の斯道分教会初代会長様です。〔道友社発行「お道と私」上川米太郎〕より

【お指図の「お助け教理」】
 お指図には次のような御言葉がある。
 「助かりたいでは助からん。人助けたら自分が勇んで暮らせる」。
 「人を助けるのが真の誠」。
 「互いたすけ合いというは、これは諭す理。人を助ける心が真の誠」。

【おかきさげの「お助け教理」】
 「人を救ける心は真の誠一つの理で救ける理が救かるという」。(おかきさげ)

【「お助けは一に勢いや」について】
 昭和25年10月発行「道の八十年ー松村吉太郎自伝」(養徳社)261−262p「お助けは一に勢いや」。
 「『お助けは一に勢いや‥』と教祖様は仰有った。千代治さんがそれで御守護になった、と、よく母から聞いた話がある。明治十年頃であった。叔父(松村千代治)がにわか盲になった。杖にすがりながら、おぢばに帰って教祖様にお助けを願うと、『地金をとるのやで』、と一言いわれたきりで、すぐにつづいて、『あしきをはろうてたすけたまえ‥‥』と、それは大きな声で叔父の顔を下から上へ撫で上げられた。その、いきおい、のすさまじかったこと。後日、叔父は、下をむいている鼻が上むくかと思った、といっておったが、その瞬間に両眼が開いて御守護をいただいた。その時に教祖様は、『お助けは一に勢いや』、とおっしゃったそうである。

【「7人助け論」について】
 昭和56年3月号みちのとも「救けと親孝心一条の信仰」の堀越義男「人七人救けなんだら」より。
 「教祖ご存命時代の逸話に次のようなことがある。ある日の年の暮れ、一人の信者がお屋敷に詣り教祖にお目通りをし、今年は神様のご利益で家族の者も皆まめで通らせて頂き、また、百姓仕事の方も万事結構なご守護を頂いて誠に有難うございました、と心からお礼申し上げると、教祖は、『礼を言うてくれる心は、神は嬉しく受け取るで。なれど人七人救けなんだら神様のご恩は返せんよってに、しっかり人救けさせて貰いなはれや』、とお諭し下されたという。この教理は、上原佐助先生が、どなたか取次ぎの先生から伺い、東京真明組の信仰のバックボーンとして仕込まれたものであろう。人七人救けなんだら、神様のご恩は返せんという信仰が、東京真明組の信者の間に伝わっていた、とは、東大教会史にも松村吉太郎先生の“”道の八十年“”にも記載されている。(但し「道の八十年」には五人となっている)」。 

【「199、一つやで」】
 「兵神真明講周旋方の本田せいは、明治15年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で又お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、『おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは辛かろうな。けどこの世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様がきっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた前々生のことは何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして神様にお礼申していたらよいのやで』、とお言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて毎日おたすけに廻った。せいは、どんな寒中でも水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて神前に供え、これによって又ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治19年秋、49才の時、又々脹満が悪化して一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、起こせ、とか、寝させ、とか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉がおぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次で教祖にお目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、『寝させ起こせは聞き違いやで。講社から起こせということやで。死ぬのやない。早よう去んでしっかりとおつとめしなされ』、と仰せ下された。そこで端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても効しは見えない。そこで、更に三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは歯を食いしばってしまって、28日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、今度は死ぬ、と言って診に来てもくれない。然るに、その28日間、毎日々々小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、28日目の朝、妹の灘谷すゑが着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹がすっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、エッ、と驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、おばん聞こえるか、と言うと、せいは、勿体ない、勿体ない、と初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、ああ、おいしいよ。勿体ないよ、と言い、次で梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで物忘れして仕方がない。そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が代参でおぢばへ帰って、教祖に、このことを申し上げると、教祖は、『無理ない、無理ない。一つやで。これが生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで』、と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けんという程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから元通りにして頂いた。こうして、49才から79才まで30年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段とたすけ一条に丹精させて頂いたのである」。

 註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。

【増井りんのお助け】
 「おりん先生のおたすけ 喜多秀義氏談」(道友社新書26「先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん」206−210p)
 「大正八年、母が33歳で私が5歳頃のことだったと思います。姉4人、弟1人の6人の子供を残して母が急性の心臓病で息を引き取りました。当時、心臓まひといっていたようですが、ちょっとしたほんの何日間かの患いから、急に発作を起こしてそのまま出直してしまったのです。その時、岩井尊宗という丹波市の医者が、大きな時計を手に脈をとりながら、母の臨終を告げました。私たち6人の子供は、わっと泣いて母親にしがみついたのです。父をはじめ家の者はみな悲嘆にくれました。医者はすぐ亡がらの始末の準備をしに人力車で家に帰りました。ちょうどその頃、お隣に、古くから教祖の側にお仕えになっていた増井りん先生がお住まいになっておられました。おりん先生は母の出直を聞くとすぐに、今からお助けに行く、と仰られて、お運び下さいました。息を引き取ってから10分ぐらい後でしょうか、体はもうつめたくなっていたと思います。その母の心臓へ、先生がお授けをお取り次ぎ下されたところ、止まったはずの心臓が動き出したのです。医者が準備万端で戻ってきた時には、息を吹きかえし仮死状態まで戻っていたのです。医者が丹波市まで人力車で往復した30分ぐらいの間の不思議な出来事でした。医者も家族もみな驚きました。しかし、おりん先生にとっては当然のご守護であったに違いありません。ご存命の教祖の、何でも助けずにはおれんという親心と、何でも助かってもらいたいとのお助け人の真実、ご存命の教祖のお働きを絶対に信じておられたなればこその奇跡であったわけです。それから4、5日ぐらいたって意識を取り戻した母は、その後2年余り床に伏せておりました。ちょうどその頃、入り口から玄関までの間に濡れ蓆(ぬれむしろ)を敷いていたことをよく覚えています。心臓を患っている母が”コツン”という足音で発作を起こさないようにしていたんですね。そんな中、おりん先生は毎日お助けにお運び下さいまして、身上の良し悪しには少しも動ぜられず、いつも、結構でんな、と仰っしゃってお授けを取り次ぎ、またそそくさと帰っていかれました。しかし母にとっては、あまり長い患いであるし、子供の世話も見てやれない、また御用に忙しい夫の姿を見て、どれほどやるせない思いをしたことでしょう。こんなことなら、いっそ死んでしまった方が‥‥、と考えたに違いありません。そんなことからか、母はまた毎日発作で苦しむことになりました。これが並みの苦しさではなかったらしく、母の後述によると、雷が落ちて裂けた木のように、心臓を金属性の爪で掻きむしられるような苦しみだったと申します。そんな発作が何日か続いて、母も、いよいよ迎いとってもらうんだ、と思ったそうです。この時も、おりん先生は、いつもと変わりなく、結構でんな、と仰っしゃられ、お授けを取り次いで下さいました。そこで、母はとうとう苦しさにたまりかねて、何が結構でんね、こんなに苦しいのに、と不足心をぶっつけたそうです。そんな母に対し、先生はお顔の色も変えず、苦しいので結構でんね、とお諭し下されて、いつも通りお帰りになりました。そこで母は、苦しいので結構とはどういうことか、を懸命に考えたのです。そして、自分は夫や子供のことを心にかけていたつもりでも、実は自分のことばかり考えていたことに気づき、神様はこうしてでもおいて下さる。この苦しい中を喜んで通らねば、とはじめて悟ったそうです。それから母は、トントン拍子でご守護頂き、91歳までこの世に置いていただいたのです。出直した人の所にわざわざお助けに行かれ、またその後2年余りも毎日々々変わらぬ心で、結構でんな、とお運び下された増井りん先生の誠真実は、お助け人の鏡と申せましょう」。

【表統領の飯降政彦先生の「〈ありがたい〉から出発する」という題のお話】
 「親神様は様々なかたちで日々御守護をお見せ下さいます。そして多くの人々が大なり小なりこの御恩の恩恵に浴し、救けていただいているのです。けれども同じ御守護をいただいていてもその受け取り方は様々であります。御守護をお見せいただいても、それをさして感じない人もおられるでしょう。他方、それを心からありがたいと感じる人もおられるでしょう。そしてそれをありがたいと思う人の中にも、『ありがたい、良かった良かった』で終わっていく人と、ありがたいから、それに対してどうさせていただいたらよいかを考える人がいます。つまり、『ありがたい』で終わってしまう人と、『ありがたい』から出発する人がいるのであります。教祖御在世当時、人々が、『救けていただいたお礼をどうさせていただいたらよいでしょうか』と教祖にお尋ねされますと、教祖は、『人を救けに歩きなされ。救けていただいたその喜びで、救けて欲しいと願う人をお救けに行きなされ』と仰せになりました。私たちは皆、神様の御守護に恵まれ過ぎますと、そのご恩に対してついつい鈍感になってしまうものです。そして御守護いただいたあのときの感激も薄れ、逆に日々のありがたいはずのことが不足の種になってしまうこともあります。御守護を御守護としてありがたいと思えなくなれば、教会に参拝に行っても、身は神様に向かいつつ心は神様から遠ざかる。私たち人間の持つ弱さであります。『御守護をありがたいと感じ、御恩をありがたいと思うならば、少しでも人を救ける心を持ちなさい』という教祖のお教え下さった道に沿って歩むことこそが神様へのご恩報じの道につながっていくのではないでしょうか」。

 中山善衛(ぜんえ)三代真柱は次のように仰せになっている。
 「おたすけということは人をたすけることであります。人をたすけるということは、ただ病気を治すことじゃないんです。病気が治ったからというて、おたすけが済んだんじゃないんです。おさづけを取り次いでいただいて、もし病気がよくなったという結果を見たならば、私は取り次いだ人も取り次がれた人も、きっと、なるほど親神様の御守護だと心に感得かんとくするだろうと思います。かくなる上は、私もあの人と一緒ににをいがけ・おたすけをさせていただこう、そうして人をたすける心を持って思召おぼしめしこたえさせてもらおう。そういう心のところまで人を育てることが、私は本当のおたすけだと思うんです」(第35回新任教会長の集い)。




(私論.私見)