| 助け論その2 | お助け論 |

更新日/2021(平成31..5.1栄和改元/令和3)年12.3日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「お助け論」教理を確認する。 2016.02.29日 れんだいこ拝 |
| 【お助け論】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| お道教義では、自身が助(たす)かるだけでなく、更に「元の理」を修め、今度は逆に積極的に神の思惑を伝えていく「お助け人」になるよう要請されている。人を助ける心は「真の誠(しんのまこと)の理」と教えている。ただ一筋に、助けさせていただきたいという真実誠(まことしんじつ)の心に、親神様がお働きくださり、不思議な助けをお見せいただくと諭している。これを仮に「お助け論」と云う。 お道教義では、お助けは協働で為していくことが望まれている。特徴的なことは、この「助け合い」を人間存在の根源的原理的なものとして位置づけていることである。その論拠が「元の理譚」に示されている。そこでは、「助け合い、護り合いの社会」こそが創造神である親神の思いであることが明らかにされている。但し、実際の人の世は、「いじめ合い、殺し合い」である。この状態の社会から「助け合い、護り合いの社会」へ向けての「助け合い」こそ人の道であると指針せしめている。 |
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御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
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教祖は次のようにお諭しなされている。
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「諸井政一集後篇、御講話傍聴録9」より。
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「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社)251−252p「神のざんねん」)。
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昭和48年8月号みちのとも「天理教人の自覚と誇り」の西垣春一(雨龍大教会長)「天への孝心の道」 より。
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「花疥癬のお助け」。
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「おやさまのおことば」(目次topへ)。
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「さあ/\たすけ一条/\ 」。
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| 【お指図の「お助け教理」】 | |||
お指図には次のような御言葉がある。
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| 【おかきさげの「お助け教理」】 |
| 「人を救ける心は真の誠一つの理で救ける理が救かるという」。(おかきさげ) |
| 【「お助けは一に勢いや」について】 | |
昭和25年10月発行「道の八十年ー松村吉太郎自伝」(養徳社)261−262p「お助けは一に勢いや」。
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| 【「7人助け論」について】 | |
昭和56年3月号みちのとも「救けと親孝心一条の信仰」の堀越義男「人七人救けなんだら」より。
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| 【「199、一つやで」】 |
| 「兵神真明講周旋方の本田せいは、明治15年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で又お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、『おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは辛かろうな。けどこの世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様がきっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた前々生のことは何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして神様にお礼申していたらよいのやで』、とお言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて毎日おたすけに廻った。せいは、どんな寒中でも水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて神前に供え、これによって又ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治19年秋、49才の時、又々脹満が悪化して一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、起こせ、とか、寝させ、とか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉がおぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次で教祖にお目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、『寝させ起こせは聞き違いやで。講社から起こせということやで。死ぬのやない。早よう去んでしっかりとおつとめしなされ』、と仰せ下された。そこで端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても効しは見えない。そこで、更に三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは歯を食いしばってしまって、28日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、今度は死ぬ、と言って診に来てもくれない。然るに、その28日間、毎日々々小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、28日目の朝、妹の灘谷すゑが着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹がすっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、エッ、と驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、おばん聞こえるか、と言うと、せいは、勿体ない、勿体ない、と初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、ああ、おいしいよ。勿体ないよ、と言い、次で梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が、赤ん坊と同じで、すっかり出流れで物忘れして仕方がない。そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が代参でおぢばへ帰って、教祖に、このことを申し上げると、教祖は、『無理ない、無理ない。一つやで。これが生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで』、と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けんという程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから元通りにして頂いた。こうして、49才から79才まで30年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段とたすけ一条に丹精させて頂いたのである」。 註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。 |
| 【増井りんのお助け】 | |
「おりん先生のおたすけ 喜多秀義氏談」(道友社新書26「先人の遺した教話(五)誠真実の道・増井りん」206−210p)
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| 【表統領の飯降政彦先生の「〈ありがたい〉から出発する」という題のお話】 | |
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中山善衛(ぜんえ)三代真柱は「第35回新任教会長の集い」で次のように仰せになっている。
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(私論.私見)