その4 お道論、代々の理、末代の理

 更新日/2018(平成30).4.18日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お道論、末代の理」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【お道論】
 みき教理は「お道」と謂われるに道に例えての諭しが多い。植田義弘氏の「理の研究」には、過去に対して「これまでの道」、現在に対して「今の道」、未来に対して「これからの道」、「先の道」として区別されているとある。教祖のお通り下された道を「ひながたの道」と云う。他にも、「がけ道」、「細道」、「末の細道」、「細い道筋」、「難渋な道」、「誠真実難しい道」、「分からん道」、「大道(おおみち)」、「往還道(おうかんみち)」、「本道(ほんみち)」、「珍しき道」、「唐と日本を分ける道」、「頼もし道」等々と使い分けされている。
 お筆先に次のように記されている。
 このさきハ 道に例えて 話しする
 どこの事とも さらに云ハんで
一号46
 山坂や いばら苦労も がけ道も
 剣(つるぎ)の中も 通り抜けたら
一号47
 まだ見える 火の中もあり ふちなかも
 それを越したら 細い道あり
一号48
 出がけから いかな大道 通りても
 末の細道 見えてないから
三号34
 人間ハ あざないもので あるからに
 末の道筋 さらにわからん
三号35
 これからの 後なる話し やまやまの
 道を見ていよ 珍しき道
四号11
 段々に 何かの事も 見えてくる
 いかなる道も 皆な楽しめよ
四号22
 今迄と 道が変りて ある程に
 早くせき込み 大かんの道
四号70
 この道は 何時の事やと 思ている
 早く出てみよ もふ今の事
四号71
 段々と 筆に知らして ある程に
 早く心に 悟りとる様に
四号72
 これさいか 早く悟りが ついたなら
 身の内悩み すずやかになる
四号73
 つとめでも 始め手おどり 又かぐら
 ちょとの細道 つけてあれども
四号74
 段々と 草が茂りて 道知れず
 早く本道 つける模様を
四号75
 日々に 心勇んで せき込めよ
 早く本道 つけた事なら
四号76
 真実に この本道が ついたなら
 末は頼もし 陽気づくめや
四号77
 思案して 心定めて ついて来い
 末ハ頼もし 道があるぞや
五号24
 近道も 欲も高慢 ないよふに
 たゞ一筋の 本道にでよ
五号30
 この根えを 真実堀りた ことならば
 まこと頼もし 道になるのに
五号66
 この道ハ どふゆう事に 思うかな
 このよをさめる しんぢつの道
六号4
 月日にハ 段々見える 道筋に
 こわきあふなき 道があるので
七号7
 月日より その道早く 知らそふと
 思うて心配 しているとこそ
七号8
 人間のの 我が子思うも 同じ事
 恐き危なき 道を案じる
七号9
 それ知らず 皆な一列は 銘々に
 皆なうゝかりと 暮らしいるなり
七号10
 この世界 何かよろづを 一列に
 月日支配を すると思えよ
七号11
 この話し どういうことに 思うかな
 これから先の 道を見ていよ
七号12
 どのよふな 高い山でも 水(道?)がつく
 谷底やとて あふなけわない
七号13 
 月日より 恐き危なき 道筋を
 案じていれど 銘々知らずに
八号63
 この先の 道のようだい しいかりと
 聞き分けてくれ 月日たのみや
九号17
 この先の 道を楽しめ 一列は
 月日残念 晴らしたるなら
十二号72
 この道を 月日の心 日々に
 急き込んでいる 誰も知らずに
十二号81
 この道へ 早くついたる ことならば
 どんなものでも 皆な勇むで
十二号82
 月日にも 残念立腹 晴らしたら
 後は珍し 道をつけるで
十三号36

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 「思案して、心定めて、ついて来い、末は頼もし道があるぞや」。
 「この道は暗がりのつくしやで、年限立ったら見えて来る」。
 「根を掘りきれば頼もしい道、本道になって上下共に勇む。多くの人が集まってくる」。
 「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を長く思えば、急ぐこと要らん」(「急がずの理」)
 明治18年3月21日、辻忠作。(願いの筋なし)「ならん中、通りにくい中、その中を通るのが道や。運び難い中運び、果し難い中、果して行くところに道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあ、と云われるところまで道をつけるのや。その道は楽々にに歩ける道」。
  「ならん中通り難い中、その中を通るのが道や。はこび難い中はこび、果たし難い中果たしていくところに道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあ、といわれるところまで道をつけるのや。その道はらくらくに歩ける道」。
 「千里つづいた藪中を、針のとぐわで、道をひらくような心で通れ。この道は、山中のはえこもった所に、道をつける。ふみしめ、たたきしめて道をつけるから、道がひまどる。ごもく、掻きのけ、柴切りはらい、どんな大木でも、じゃまになるものは、切り払うてしまうで。なんぼ、ひまどっても、つけ切らにゃならん。じゃまになるものは、どんな大木でも、大石でも、取り払って、つけ通すという」。
 「今度こうして神が天降ったからには、どうでもこうでもこの道筋は立てて見せる。直して見せる。・・・必ず澄まして見せる。始末をつけてしまう。その代わり無理なことは決してせん。一国限り、一村限り一人限り、さとすだけさとして分かったら分かったよう、分からにゃ分からんようの始末をつけて見せる」。
 「この道は人間心で行ける道やない。天然、自然に成り立つ道や。慶応二、三年頃には、常住お話しになった。千里続いた藪中を、針のとぐわ(唐鍬。植林、根っこ切り、開墾の際に用いるクワ)で、道を開くような心で通れ。この道は、山中の生え籠(こも)った所に道をつける。踏みしめ、たたきしめして(叩き湿して)道をつけるから道がひまどる(暇取る。時間が長くかかる、手間取るの意)。ごもく(塵芥)かき除け、柴切り払い、どんな大木でも、邪魔になるものは切り払うてしまうで。なんぼ、ひまどっても付け切らにゃならん。邪魔になるものは、どんな大木でも、大石でも取り払って、付け通すという、神さんの思惑。まあ、なんでも、えらい天の思惑ですな」。
 (「千里続いた藪中を」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社)250p)
 「山中忠七様、或る時、御前に侍りてありける時、草々の話の序でに、『このお道も、上つ方へ神様入込んでお働き下されば、はやくご盛大に相成らんものを』と云いけるに、教祖様、仰せられるには、『上から道をつけては下の者が寄りつけるか。下から道をつければ下の者も上の者も皆な付きよいであろ』と。又、『高い所より下を流るゝ水を見よ。何ぼ下がっても、下っただけは吹き上げるやろ』と御聞かせ下されたりと。教祖様の御身、今は深き所におわしませども、御魂の理を承りおれば、この道は水のふき上げるが如く、やがて高きに及ぶこと必定ならんとの仰せかと、いと/\有り難くかしこみしとなん」。
 (逸話篇28「道は下から」、「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社)145-146pより)
 「時々、教祖は野良を散歩せられた。野良には村の若者たちが汗水流して働いていた。教祖は、『御苦労さま』と言いながら、田の畔(あぜ、ほとり)を壊しているのを見て、『今に道が大きくなるで。道を壊すやないで』と仰せられた。若者は、それが何であるか訝しそうな目つきをして見返していた」。
 (「今に道が大きくなるで」、大正十一年十月発行「教祖と其の教理」(天理教同志会編)192-193pより)。
 「神様は、『神の道ほど楽な道はないのであるけれども、皆なが難しゅうして通るのやで』と仰せられたことがる。道が難しいでなくして道を通る心が難しいのである。お道の勉強は、ただ日々に喜んで通ることを勉強するより外はない」。
 (昭和四十五年十月発行「増野鼓雪選集第一巻、講壇より」(道友社)58p、「神の道とは」)
 教祖口伝<◆明治18年3月21日、辻に対する教祖直々のお諭し>」。
 「ならん中通り難い中、その中を通るのが道や。運び難い中運び、果たし難い中果たしていくところに道がつく。あの中でもよう通る、ようつとめるなあ、といわれるところまで道をつけるのや。その道は楽々に歩ける道」。
 教祖逸話篇(十)一九八 どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もある

 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。
 辻忠作別席咄「正文遺韻」280頁。
 「千里つづいた藪中を、針のとぐわで、道をひらくような心で通れ。この道は、山中のはえこもった所に、道をつける。ふみしめ、たたきしめて道をつけるから、道がひまどる。ごもく、はきのけ、シバ切りはらい、どんな大木でも、じゃまになるものは、切り払うてしまうで。なんぼ、ひまどっても、つけ切らにゃならん。じゃまになるものは、どんな大木でも、大石でも、取り払って、つけ通すという」。
 「みちのとも」大正14年8.20日号、高井猶吉。
 「今度こうして神が天降ったからには、どうでもこうでもこの道筋は立てて見せる。直して見せる。・・・必ず澄まして見せる。始末をつけてしまう。その代わり無理なことは決してせん。一国限り、一村限り一人限り、さとすだけさとして分かったら分かったよう、分からにゃ分からんようの始末をつけて見せる」。
 「身体を苦しめて通るのやない」。
 「ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、『こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはないと。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心におたすけに廻った。しかし、道は容易にはつかない。心が倒れかかると、泉田は我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭いを使っては効能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して30日間程これを続けた。又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻らせて頂いた。こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は次のように仰せ下された。『熊吉さん、この道は身体を苦しめて通るのやないで』」。
 「末が楽しみ」。
 深谷源治郎が、なんでもどうでもこの結構な教えを広めさせて頂かねば、とますます勇んであちらこちらとにをいがけにお助けにと歩かせていただいた頃の話し。当時、源治郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、と言う中を心を倒しもせずに運ばしていただいていると、教祖は次のように仰せられた。『狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから積もって大きいなるのや。松の木でも、小さいときがあるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで』」。

 お指図教理は次の通り。

 式上郡笠間村講元/加見兵四郎の「少々家業さして被下度(下されたく)御願い」
   
   「さあさぁ尋ねる事上(事情)/\は、赤き道、白き道、黒き道に諭しおこう。これでわかろまい、赤き道は神の道一寸(ちょっと)分かりかけた事、白き道は世界並み、黒き道は我が身の思案。世界のものからつけた徳は世界からは落とさん、わが心で落とさぬよう。さあさぁいばらぐろう(茨畔)も、がけ(崖)道も、つるぎ(剣)の中もといふてあろ、どうせこうせは言わん、心と心で思案してみるがよい」(明治19.9.10日)。
 「何事も皆銘々の心次第と云うてあるで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事。誠の心一つや。誠が天の理や。天の理さえ叶えば、何処に居ても道がつくで。実誠なけねば、何処へ行ったとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しぃかり聞き分けねば分からん」。(20.7月)
 「さあさぁどういうところからどんな道がつくやら、遠く近くに隔(へだ)てない、何時(なんどき)どういう道がつくやら知れんで」(明治21.5.9日)。
 「 心迄に一寸噺しておくによって、よう思案。 赤キ道、黒キ道、白キ道、是でハわかろまい(これでは分かろまい)。赤き道とゆふは、わかりかけた心、赤キ道なり。黒キ道とゆふは、何事も我が思案の心、黒キ道なり。白キ道とゆふは、世界なみの心、これを白キ道とゆふなり」(明治20.11.2、旧9.17日)。
 「この道は皆きょうだい(兄弟姉妹)やという理を聞かして置こ。なれど、隔てられるも隔てるも、皆な銘々の心通り。兄弟という理を聞き分け」。(明治21.6.15日)
 「人間の心一つも要らん。この屋敷においては五十年の間、天の理を以(もっ)て始め掛け。天然自然の道を知らんか。神一条の道、人間心勝手の道を、皆んな これまでの道を聞き分けてくれ」。(明治21.11.14日)
 「何名の中、だん/\の中、多くの中、皆一つの心揃えば、さあ西と言えば西、東と言えば東、南と言えば南、北と言えば一手十分に北と心定める。この理定まるは十分の道と言う」。(明治22.1.24日)
 「さあ親の道を通りながら親の道の理がわからん、古き道があるから新しき道がある、古き道は親、新しき道は子と云う。さあさあ段々新しい道を通ろうとするで古き道が忘れる、ようきゝわけ。古き道があるで新し道と云う。古き道は埋めてしまふ。人がさはり(障り)があればあれは埃やと云う。どうもなさけない、日々の理がつらい。古き道と云うは前々より固めたる、新しき道と云うは雨が降れば崩れると云う」。
 (「古き道新しき道」、明治22.10.9日刻限)
 「10年あとの道は、どんな事を説いても、いか程説いても、そんな事はない、何を言うやらと言うていたのや。国々の者やない。そこからそこの者でも分からなんだ。なれど10年経ち、20年経ち、口に言われん、筆に書き尽くせん道を通りて来た。なれど千年も2千年も通りたのやない。わづか50年。50年の間の道を、まあ50年30年も通れと云えばいこまい。20年も10年も通れといふのやない、まあ10年の中の三つや、三日の間の道を通ればよいのや、わづか千日の道を通れといふのや。千日の道が難しいのや。ひながたの道より道がないで。何程急いたとて、急いだとていかせんで。ひながたの道より道ないで」(22.11.7日)。
 「これから向う(向こう)は人間の理で通る。人間の心で通る、とても/\行かせん(行けはしない)で。一筋の糸が切れたら〈、〉暗がり同様の道である」(補、明治27.1.22日午後12.30 刻限御話)。
 「一人ではいかん。一つ談じ合い話し合い、こうもせにゃならん、内も十分。……」(補、明治27.8.23日)。
 「長くの道すがらなら、照る日もあれば曇る日もある。雨も降れば風も吹く。どんな日もある。これから聞き分けて心たっぷり大きく持って治めば治まる」(明治28.1.14日)。
 「ろっくな道なれど、勝手の理よりだん/\高低の理を拵え、あちらへこちらへ擦れ、心の理は散乱。たった一つの理を、兄弟一つの理、後より出けた理もあろまい」(明治28.5.13)。
 「皆千切れ/\である。千切れ/\になりてからは、容易な事では繋がれん。春風のようなそよ/\風の間は何も言う事は無い。神も勇んで守護する。なれど今の事情はどうであるか。黒ほこり、泥ぼこり立ち切ってある。黒ほこり泥ぼこりの中で、どうして守護出来るか。又、守護した処が世界へどう見えるか」(明治30.2.1)。
 「三才童児という心を以て道治め」。(明治30.12.25日)
 「道は千筋の中に善い道ばかりならよい。なれど、踏み難くい道、跨(また)がった道、通り難くい道になったら、元の龍頭失うて了う。そこで刻限/\と言うて知らすなら、刻限用いる理もあれば、用いん理もある。用いたところが、未だ/\足らん。するのに用いんからすっきりないようなもの」。(明治31.5.9日)
 「さあさあ心得心得、勇み来れば勇む道がある。思案すれば思案する道がある。一時に治めようと思えば、治まる理がある」。(明治31.8.4日)
 「贅沢していては道つけられん。聞き分け。草鞋(わらじ)履いて段々運び、重く徳積んでこそ理が効く」。(明治31.11.4日)
 「この道何も紋型ない処から、天より天降りて始め掛けたる道。誰も分からんから、天より天降りて始めた道。誰が掛かりたかて、そら分からん」。(33.5.31日)
 「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道つき難くい」。(明治33.11.16日)
 「どんな悪人でも、道から治まったと言えば、世界の雛型という」。(明治34.3.11日)
 (大意/どれほどの悪人でも、道を知り、気付き、懺悔し、心入れ替えれば、世界中の模範的な人間にも成りうる。故に、自分の基準で隔てたり、悪く言うたりしてはならない)
 「どんな事出けようが、どんな事になろうが、この道の元という理から聞き分けてみよ。皆惣々心に治め。理は末代という、末代理拵えるという」。(明治34.10.15日)
 「心合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん」。(明治35.9.6日)
 「皆々心々という、道という心。又何でなるやろうと思うたら、これ尽した理に曇りを掛けるようなもの」(明治35.9.18日)
 「反対するも可愛い我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも用いねば反対同様のもの。これまでほんの言葉言葉で指図してある。これはというようなものは、指図が指図やないと言う。世界の反対は言うまでやない。道の中の反対、道の中の反対は、肥をする処を流して了うようなもの」。(明治39.4.21日)

【代々の理】
 親の代を初代(一代)とすれば、子の代は二代、孫の代は三代ということになる。お道の信仰はそういう代々で伝え繋がっている。 

 お筆先に次のように記されている。
 

 教祖は次のようにお諭しなされている。

 お指図教理は次の通り。
 一代は一代の苦労をみよ、なか/\の苦労であった。二代は二代の苦労をみよ。三代はもうなんにもむつかしい事はないやうになるで。なれど人間はどうもならん、そのばの楽しみをして、人間といふものはどうもならん」。(明治22.3.21
 二代の理、一つの理がありていきよいもの、親の理がありてこそ、この心をもって楽しめ」。(明治31.11.20
 「」。()

【末代の理】
 お筆先に次のように記されている。

 
教祖は次のようにお諭しなされている。
 「神様はなあ、『親に因縁つけて、子の出て来るのを神が待ち受けている』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって末代の理になるのやで」。(90「一代より二代」)
 「信心は末代にかけて続けるのやで。しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで」。

 お指図教理は次の通り。

 「何でも一つ、国に名を残した限り、末代の理。これは金銭では買わろうまい」。(明治26.11.10日)
 「難儀不自由してこそ理の種と言う」。(明治30年10月12日)
 「これまで尽した理運んだ理は、皆な受け取ってある。。。尽した理働いた理は、生涯末代の理である」。(明治37年3月3日)
 「尽した理は将来末代という理である。人間というは、一代と思うから頼りない。理は末代の理。これをよう聞き分けて、しっかり治めてくれ。尽した理は、将来末代の理に受け取りてある。理消えやせん程に。理は十分の理である。これを楽しんで、一代の理に悔しいと思うやない。これをよう聞き分け。人間というは、早い者も遅い者もある。どんな者もある。これを聞き分けて心に満足せい。たんのうが第一である。これを前生いんねんのさんげと云う」。(明治37.12.31日)

【三百年間続いたお金持ちの家/考】
 2008年3.21日、青華分教会長・杵村芳典「教祖の教えを常に確認しつつ歩む」。
 「これは教内のことではないんですが、大変感銘を受けたことがございますので紹介させていただきたいと思います。昨年の6月に大阪教区のある先生から、韓国へ行かないか、とお誘いを受け韓国へ行ってきたんですが、そのときの話です。現地では韓国内の教会長さんに教会や伝道庁を案内して貰ったんですが、日程の中で半日ほど時間が空きましたので、キョンジュ(慶州)という町に観光に連れて行っていただきました。キョンジュは日本で言えば奈良とか京都のような古都で、韓国らしい古い家並みがたくさんあり、韓国映画に出てくるような建物も見られたいへん良いところでした。観光地を二ヶ所ほど廻って、帰りしなに、もう一ヶ所連れて行きたいところがある、と道案内の韓国の教会長さんに連れて行っていただいたのが、韓国でいちばんのお金持ちと言われるチェ(崔)という家でした。1600年代から1900年代半ばくらいまで三百年余り、十二代に亘りお金持ちの家として続いたそうです。韓国には、お金持ちは三代も続かない、という諺があるらしいんですが、それを遙かに越える期間続いた。今はそこにチェ家の人は住んでおらず、大学の資料館として開放されているんですが、そこへ連れて行っていただきました。なぜチェ家がそれほど長い間続いたのかということを資料館の方に聞かせていただいたところ、チェ家には六つの家訓があり、その家訓を一代たりとも疎かにせず、全ての代に亘って守り通されたからだろうということでした。

 その家訓の第一は、「
教養はしっかり身に付けるが権力は放す」ということです。どの国でもお金持ちになると、支配階級と言いますか、権力を握る場合が多いんですが、チェ家はそれを望まず、支配階級の中でもいちばん低い階級(シンザ)にあえて留まったそうです。またその一方で最高水準の教育を受けられた。日本で言えば国家試験のようなものがあって、教育者の資格を取得できるような勉強をしっかりしたということです。

 二番目の家訓は「
一年に一万石以上の年貢は集めない」ということです。これは、凶作の年に一万石も集めればたちまち民衆は飢えに苦しむので、凶作の年には小作料は最低にして、逆に豊作の年は一万石とし、余った分は全部小作人や貧しい人たちに返していく。そういう家訓を守ったそうです。

 三番目は「
旅人を篤くもてなす」ということです。チェ家はお金持ちですから、貧しい人が「一晩泊めて欲しい」とたくさん訪ねてくる。そういう人を、誰が訪ねてこようと一人一人に食膳を出し、帰るときには干肉など一日分の食べ物や小遣いを与えて帰したそうです。旅人をもてなすこの費用が年間の収穫量の三分の一にもなったと言います。

 四番目は「
凶作の年に田んぼを買い取らない」ということ。凶作のときには生活が苦しいから少しでも田んぼを売って生活を楽にしようとする農民がいますが、そういう、人の難儀に便乗して財産を増やさない。少しでも相手の立場に立って、小作人が困らないように保護していった。

 五番目が「
人々を飢えさせない」こと。凶作の年はチェ家の周囲百里四方の人々が一人残らず飢えに苦しむことがないように、良く気を配って、チェ家の家の前に高さ一メートル程の壺を置き、お米を詰め、一日一人一回だけ、両手で掬えるだけのお米を持ち帰ることができるようにしていた。

 そして家訓の六番目が、「チェ家に嫁いでこられたお嫁さんには小作人が着るような木綿の服を三年間着せて、少しでも人の難儀の心が分かるようにした」ということです。

 これらの家訓には、人を愛する心(慈愛の心)とか、困っている人には進んで救いの手をさしのべるという考え方があり、これらは儒教の思想からきているものだと思いますが、この話を通訳の方を通じて聞かせていただき、教祖のひながたは絶対に間違いがない、人々の救かっていくいちばんの元はそこにあるということを改めて証明してくれたような気がいたしました。人々は快く暮らすための知恵を一六〇〇年頃から持っており、教えこそ違いますが、天の理に叶う生き方がチェ家の繁栄をもたらしたのではないかと思いました。韓国も政府の弾圧や改革など、時代が大きく揺れ動いたときがあったわけですが、そういうときでも逆にチェ家の方が民衆に救けられたほどで、両者には信頼関係のようなものがあったのではないかと想像されます。こういう家訓を代々守ったことでチェ家が十二代も続いたのではないかということでした」。




(私論.私見)