式上郡笠間村講元/加見兵四郎の「少々家業さして被下度(下されたく)御願い」 。
「さあさぁ尋ねる事上(事情)/\は、赤き道、白き道、黒き道に諭しおこう。これでわかろまい、赤き道は神の道一寸(ちょっと)分かりかけた事、白き道は世界並み、黒き道は我が身の思案。世界のものからつけた徳は世界からは落とさん、わが心で落とさぬよう。さあさぁいばらぐろう(茨畔)も、がけ(崖)道も、つるぎ(剣)の中もといふてあろ、どうせこうせは言わん、心と心で思案してみるがよい」(明治19.9.10日)。
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「何事も皆銘々の心次第と云うてあるで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事。誠の心一つや。誠が天の理や。天の理さえ叶えば、何処に居ても道がつくで。実誠なけねば、何処へ行ったとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しぃかり聞き分けねば分からん」。(20.7月) |
「さあさぁどういうところからどんな道がつくやら、遠く近くに隔(へだ)てない、何時(なんどき)どういう道がつくやら知れんで」(明治21.5.9日)。
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「 心迄に一寸噺しておくによって、よう思案。 赤キ道、黒キ道、白キ道、是でハわかろまい(これでは分かろまい)。赤き道とゆふは、わかりかけた心、赤キ道なり。黒キ道とゆふは、何事も我が思案の心、黒キ道なり。白キ道とゆふは、世界なみの心、これを白キ道とゆふなり」(明治20.11.2、旧9.17日)。 |
「この道は皆きょうだい(兄弟姉妹)やという理を聞かして置こ。なれど、隔てられるも隔てるも、皆な銘々の心通り。兄弟という理を聞き分け」。(明治21.6.15日) |
「人間の心一つも要らん。この屋敷においては五十年の間、天の理を以(もっ)て始め掛け。天然自然の道を知らんか。神一条の道、人間心勝手の道を、皆んな これまでの道を聞き分けてくれ」。(明治21.11.14日) |
「何名の中、だん/\の中、多くの中、皆一つの心揃えば、さあ西と言えば西、東と言えば東、南と言えば南、北と言えば一手十分に北と心定める。この理定まるは十分の道と言う」。(明治22.1.24日) |
「さあ親の道を通りながら親の道の理がわからん、古き道があるから新しき道がある、古き道は親、新しき道は子と云う。さあさあ段々新しい道を通ろうとするで古き道が忘れる、ようきゝわけ。古き道があるで新し道と云う。古き道は埋めてしまふ。人がさはり(障り)があればあれは埃やと云う。どうもなさけない、日々の理がつらい。古き道と云うは前々より固めたる、新しき道と云うは雨が降れば崩れると云う」。
(「古き道新しき道」、明治22.10.9日刻限) |
「10年あとの道は、どんな事を説いても、いか程説いても、そんな事はない、何を言うやらと言うていたのや。国々の者やない。そこからそこの者でも分からなんだ。なれど10年経ち、20年経ち、口に言われん、筆に書き尽くせん道を通りて来た。なれど千年も2千年も通りたのやない。わづか50年。50年の間の道を、まあ50年30年も通れと云えばいこまい。20年も10年も通れといふのやない、まあ10年の中の三つや、三日の間の道を通ればよいのや、わづか千日の道を通れといふのや。千日の道が難しいのや。ひながたの道より道がないで。何程急いたとて、急いだとていかせんで。ひながたの道より道ないで」(22.11.7日)。 |
「これから向う(向こう)は人間の理で通る。人間の心で通る、とても/\行かせん(行けはしない)で。一筋の糸が切れたら〈、〉暗がり同様の道である」(補、明治27.1.22日午後12.30 刻限御話)。 |
「一人ではいかん。一つ談じ合い話し合い、こうもせにゃならん、内も十分。……」(補、明治27.8.23日)。 |
「長くの道すがらなら、照る日もあれば曇る日もある。雨も降れば風も吹く。どんな日もある。これから聞き分けて心たっぷり大きく持って治めば治まる」(明治28.1.14日)。 |
「ろっくな道なれど、勝手の理よりだん/\高低の理を拵え、あちらへこちらへ擦れ、心の理は散乱。たった一つの理を、兄弟一つの理、後より出けた理もあろまい」(明治28.5.13)。 |
「皆千切れ/\である。千切れ/\になりてからは、容易な事では繋がれん。春風のようなそよ/\風の間は何も言う事は無い。神も勇んで守護する。なれど今の事情はどうであるか。黒ほこり、泥ぼこり立ち切ってある。黒ほこり泥ぼこりの中で、どうして守護出来るか。又、守護した処が世界へどう見えるか」(明治30.2.1)。 |
「三才童児という心を以て道治め」。(明治30.12.25日) |
「道は千筋の中に善い道ばかりならよい。なれど、踏み難くい道、跨(また)がった道、通り難くい道になったら、元の龍頭失うて了う。そこで刻限/\と言うて知らすなら、刻限用いる理もあれば、用いん理もある。用いたところが、未だ/\足らん。するのに用いんからすっきりないようなもの」。(明治31.5.9日) |
「さあさあ心得心得、勇み来れば勇む道がある。思案すれば思案する道がある。一時に治めようと思えば、治まる理がある」。(明治31.8.4日) |
「贅沢していては道つけられん。聞き分け。草鞋(わらじ)履いて段々運び、重く徳積んでこそ理が効く」。(明治31.11.4日) |
「この道何も紋型ない処から、天より天降りて始め掛けたる道。誰も分からんから、天より天降りて始めた道。誰が掛かりたかて、そら分からん」。(33.5.31日) |
「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道つき難くい」。(明治33.11.16日) |
「どんな悪人でも、道から治まったと言えば、世界の雛型という」。(明治34.3.11日)
(大意/どれほどの悪人でも、道を知り、気付き、懺悔し、心入れ替えれば、世界中の模範的な人間にも成りうる。故に、自分の基準で隔てたり、悪く言うたりしてはならない) |
「どんな事出けようが、どんな事になろうが、この道の元という理から聞き分けてみよ。皆惣々心に治め。理は末代という、末代理拵えるという」。(明治34.10.15日) |
「心合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん」。(明治35.9.6日) |
「皆々心々という、道という心。又何でなるやろうと思うたら、これ尽した理に曇りを掛けるようなもの」(明治35.9.18日) |
「反対するも可愛い我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも用いねば反対同様のもの。これまでほんの言葉言葉で指図してある。これはというようなものは、指図が指図やないと言う。世界の反対は言うまでやない。道の中の反対、道の中の反対は、肥をする処を流して了うようなもの」。(明治39.4.21日) |